2016年12月31日

私の2016年。

今年は、娘が大学4年で、就職活動と卒論。
父親の私としては、最後のご奉公とばかりに、アドバイスとバックアップにつめた。



娘は娘の人生であり、父親の価値観を押しつけてはならぬと思ってはいたが、何を語るかについては、自分の知っている分野しかないから、結果として、娘には、私の価値観が植え付けられてしまったのかもしれない。

娘は、「家族は洗脳装置である」と達観しているし、私も、「クリティカルシンキング(批判的に考えよ)」と言い続けている。

まぁ、それでよい。というか、それしかない。



私は若い頃、いろいろな野望があったが、「撃つべき弾」がなかった。
娘には、「撃つべき弾」が用意できた。

というか、娘の経験とヒラメキを、私がまとめることで、世の中にインパクトを与えることができるような「弾」が生まれた。つまりは、父と娘の共同作業の結果である。



内容は、娘が世の中に出すことだから、ここには書かないが、日本には、当事者の都合によって、隠されていること、一般化されていないことが多々ある。

はてさて、どうなりますか・・・。
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2016年12月27日

さらに中園ミホさんは間違っている。

彼女は、誇らしげに、ある女優に、「あなたの代わりは他にもいるけど、私の代わりはどこにもいないの」と言われて、台本直しをさせられたことを語っている。
そして、大石静氏にしても、同様であると付け加えた。
しかし、これが三谷幸喜だったらどうだろう。

「俳優にはつながりがある」にしても、その俳優が死んでしまったら、つながりは無視して、制作が進められるに決まっている。

事実、おかくらの主人は替わりながらも、「渡鬼」は続いてきた。藤岡琢也、宇津井健、両氏のご冥福をお祈りする。



結局のところ、そのような現状に甘んじてきたシナリオライターたちのふるまいによって、作品におけるシナリオの重要性が低下したのである。


女優が、作品全体を見渡して、本直しをするのだろうか。もし、それが出来るのなら、彼女は女優はやめてプロデューサーになればよい。

中園氏のシナリオが屑なのなら、直しに応じるのも仕方のないこと…。私は、その作品を観ていないので、それは分からない。
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2016年12月26日

中園ミホさんは、間違っている。

「サワコの朝」を観ていたら、シナリオライターの中園ミホさんが、「最近は、恋愛ドラマはヒットしない。だから、逃げ恥のヒットは大歓迎である」と言う発言していた。

だが、逃げ恥が恋愛ドラマのヒット作だとしたら、今後、恋愛ドラマの制作は難しくなるに違いない。

逃げ恥は、ドラマではなく、バラエティーである。
なぜなら、視聴者は、感情移入ではなく、外部性をもって作品を鑑賞したに違いないから・・・。




主人公のおかしなカップルは、リスペクトできないから、感情移入できない。それでも、作品がヒットしたなら、この作品はドラマではなく、バラエティーなのだ。

バラエティーなら、感情移入は必要ないから、主人公たちの行動に違和感があっても、許容できる。

ドラマ=感情移入(内部性)
バラエティー=外部性的な鑑賞

ドラマ=筋の統一感
バラエティー=多様性


このパラダイムからいえば、「君の名は。」「シンゴジラ」がドラマではなく、バラエティーなことが理解できると思う。

ここで重要なことは、バラエティーなら、一度観れば満足する。二度観たいとは思わないこと。

バラエティー=ネタ消費・情報消費。
ドラマ=演技鑑賞

ドラマがあれば、再放送でも何度も観たい。ドラマ的な要素がなければ、結末を知ってしまうと、観たいとは思わない。

テレビ朝日の「土曜ワイド劇場」の犯人探しでどんでん返しが連続するような作品は何度も観たいとは思わない。

一方、オーソン・ウェルズの「市民ケーン」のように、バラのつぼみの正体が、幼児期に使っていた橇のマークだと知っていても、観客の多くは、何度も観たいと思う。



たとえば、ジャズ。
言うまでもなく、ジャズで一番重要なことは「スウィングしているかどうか」である。
なのに、スウィングしていないジャズミュージシャンがヒットしてしまうと、大衆のほとんどは本物のジャズを知らないことになる。
それが日本のジャズ界の惨状を生んでいる。

J○○Uさんは、グルーヴしていないし、ジャズヴォーカルに求められる声の倍音構成も薄い。
彼女が有名人ジャズヴォーカリストになってしまうと、世の中の人のほとんどは、ジャズと歌謡曲の違いがわからなくなる。

そして、知名度の低いけれど、グルーヴしていて、声の倍音構成も豊かな優秀なジャズヴォーカリストのことを、大衆は「だめなアーティスト」と誤解する。
結果、大衆は、ジャズはおもしろくないと思ってしまう。

「君の名は。」も同じこと。
いままでの作品の設定をつぎはぎにして、統一感・整合性の欠いた作品が大ヒットしてしまえば、鑑賞経験が少なく、自らの価値観を持っていない大衆は、「すばらしい作品である」と勘違いする。
その結果起きるのは、映画はつまらないものである。と思いは始めること。

私の分類では、この作品は、ドラマではなく、青春あるあるバラエティーである。したがって、ドラマの分類で、低評価を下すことは無為である。
バラエティーとしてみればよいのであって、映画本来の魅力は別のところにある。

小説でも同じこと。
火花は、芸人小説というジャンルの作品であって、それ以上でも、それ以下でもない。
実は、吉本芸人の又吉氏は、そのことが分かっていて、「僕の作品を読んでおもしろくないと思っても、すべての小説がおもしろくないって思わないでください。いろいろな作家の作品を読んでください」との発言を残している。

たしかに、又吉氏の小説は、面白くなかった・読むのが苦痛だったが、彼は悪い奴じゃない。愛すべき奴であり、物事が分かっている・・・。



「逃げ恥」は、ドラマではない。バラエティーである。

TBSドラマ「逃げるは恥だが、役に立つ」がヒットした。私は、第一回、第二回、第三回あたりまで観たが、辛くて観ることができなくなった。

リストラされた主人公が、見ず知らずの一人暮らしの男性の「住み込みの家政婦」になるだろうか・・・。未婚女性が男性と暮らすことは、まぎれもなく同棲であって、好きでもない相手と暮らす女性をリスペクトできない。
雇用主と家政婦が、食卓をともすることにも違和感がある。

そのような設定のヘンテコリンな女性と、ガッキーの魅力的な容姿はあまりに隔たりがある。

シナリオライター氏は、昔だったら、ガメツイ女と思われたが・・・。と、発言しているようだが、ガメツイという形容以前に、おかしな女性である。
それを補っているのは、ただひとつ。
ガッキーの魅力である。



しかし、「逃げ恥」がヒットした。
とすれば、「逃げ恥」はドラマではなく、バラエティーである。
さらにいえば、作品の中にパロディーがあるので、パロディー・バラエティーということになるだろう。

バラエティーなら、「感情移入」とは関係のない、というか阻害する「(家政婦として)生活ちょっと情報」が挿入されているも許される。

名作ドラマ「冬のソナタ」に、そのような「生活ちょっと情報」が入っていたらどうかと考えてみれば、「逃げ恥」がドラマでないことが理解できるだろう。生活ちょっと情報は、ドラマの進行を停滞させる以外の何ものでもない。

テレビ番組のパロディーシーンがあることも、「ドラマの虚構性を強調している」のであって、「虚構をリアルに感じさせる」というドラマの本質に逆らっている。
つまりは、バラエティー番組であって、ドラマではない。



結局のところ、「逃げ恥」は、主演のガッキーが数字を持っていた。それにつきるだろう。

台本には無理が多く、「家事のちょっと情報」や「パロディー・シーン」で、表面をつないでいる。

ドラマ枠でオンエアされているからといって、この作品はドラマではない。高視聴率の番組だから、再放送もされるに違いないが、これがドラマだと思ってしまうなら、日本のドラマ界の混迷は、より一層深くなるに違いない。



というか、もしこの作品が映画化されたなら、映画館でバラエティー番組を観るという実験が試みられるということになる。
posted by スポンタ at 11:21| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

「俺物語」・実写版「ルパン三世」…。

今の日本のマスメディアには「ごり推し」、ウェブには「ステルスマーケティング」に満ちている。
そんな世の中だから、ほんとうに素晴らしいものは、どこかに行ってしまった…。



最近、CATVで、日本映画を二本観た。



「俺物語」のレビューを引用する。

★アラサーになったからか 感動せず。
★途中までは面白くてハッピーなのに途中からは普通の片思い青春の恋愛でグダグダ。
★他のレビューの高さに驚き。

レビューの高さをみてDVDを借りましたが感想は「ハッピーエンドまで長いありきたりな恋愛映画」でした。
もっとテンポよくマンガの調子で面白くてハッピーなエピソードが織り込まれていたら面白かったはずなのに つまんない映画になっちゃいました。

原作、キャスティングがいいのに 本当にもったいない。
半分くらいまではワクワクして早く付き合っちゃえー♪って感じで面白くてよかったです。
連続ドラマの一話なら納得の内容ですがわざわざ映画館に行くレベルではない。


http://eiga.com/movie/82239/review/



キャスティングも、たぶん原作も良かったのに、なんで、こんな映画になってしまったのか。残念でならない。
予告編だけだと、シラノドベルジュラックのような話なのかと思ったら、大違いだった…。

日本テレビが作った映画だというのに、日本のテレビ局の実力も地に落ちたということか。



こちらはTBSが作った「ルパン三世」実写版。

こちらも低評価である。以下に引用。

「人気アニメがどう実写化されるか期待して観に行ったのですが、下手にほめても観ればわかるので正直に書きました。10点以下は1年に1本あるくらい。昨年だと、実写版の『ガッチャマン』に4点をつけました」なぜそこまで低評価だったのか。「アクションはハリウッド映画の劣化コピー。会話中や歩行シーンでは洋物AVみたいに音楽が鳴りやむことがない。そんなチープな演出では、峰不二子に扮した黒木さんがポルノ女優に見えてきてしまうんです」(前田氏)


http://www.asagei.com/excerpt/26342



一番の問題は、アクションシーンにおいて、敵の弾は当たらないが、ルパンたちの弾は当たって、危機的な状況を切り抜けるという感じ。
それが、この作品の「チープ感」の本質だと思う。
キャラクターに寄せようとした俳優陣が失敗しているなんてことは、誰がやっても大体同じようなものなのだから…。



問題は、地上波テレビ局にも、広告代理店にも、シナリオを吟味できるプロデューサーが存在しないことである。

素人にも分かる欠点が、プロたちに分からないとは…。
posted by スポンタ at 09:27| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月12日

インディゴの恋人

昨日、地方ドラマ賞をとったという1時間単発ドラマを観た。

http://www.nhk.or.jp/okayama/indigo/story/

前半は、すべて説明セリフ。したがって、ラジオドラマであっても、一向に差し支えないドラマである。

さらにいえば、設定だけで、物語が盛り上がっていく。
人が死ねばかなしい。別れがあれば寂しい。結婚式があれば嬉しい。
そんなドラマである。

何故、賞を取ったのか。私には、理由が分からなかった。




私は、かつての東芝日曜劇場を思い出した。

地方の小都市で、男と女が出会うが、結局、何事もなく、エンドマーク。
男も、女も、自分の言いたい事を言うでもなく、決定的な対立がある訳でもなく…。

作品の盛り上がりは、女性主人公が捨ててきた娘が中学3年生になって、尋ねてくる。
そんなところ。

自分が捨てた娘に対して、ハグする女性主人公。それが、私には理解できない。
本来であれば、自分にはハグする資格などないと、固辞するはず…。



大原美術館の収蔵作品の目玉が、エルグレコの受胎告知だとしても、マニエリスムの作家であり…。エルグレコの表現主義と、女性主人公の芸術は、どうかかわっていくのか。そのあたりもよく分からない。
同様に、男性主人公がラジオのスイッチを切るのが、山下洋輔というのも理解に苦しむ。山下氏の音楽はコンテンポラリー的であり、所謂ジャズピアノではないのだし…。



映画学校にいた時、撮影所がなくなり、撮影所の伝統が消えてしまうと、映画出身の先生たちが嘆いていたのを覚えている。
あれから、30年以上が経っているが、日本にドラマの伝統が消えてしまったのを実感する。
だが、それは先生方が心配した技術の分野ではなく、プロデュースやシナリオの分野であった。


結局のところ、先生方が、プロデュースやシナリオの分野で、揺るぎない伝統を確立できなかったために、現在の日本ドラマの低迷がある。



若い人たちが、賞をとったことを良いことに、この作品を秀作だと勘違いして、真似しないことを願うばかりである。

そして、日曜日の9時からTBSでやっていたことを理由に、東芝日曜劇場を秀作だと勘違いさせられていた自分に、腹が立つ。

当時、ドラマが分かっているような人たちは、「東芝日曜劇場ねぇ…」と、口を濁すばかり。その本質を指摘しなかった。

たしかに、そのようなドラマはあっても悪くはない。だが、それがドラマの王道などと思われてしまったら…。

アンチドラマである。

posted by スポンタ at 18:49| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月11日

日本だけに四季がある。

そう、習った記憶がある。しかし、そんなことはない。ヨーロッパにも、アメリカにも、アフリカにも、四季がある。
私は外国に長期滞在したことはないが、映画を観ても四季があるのが日本だけでないことは明らかである。

ならば、それを誰かが明確に否定しなければならない。



指摘すべきなのは、俳句は季語が条件であり、日本では、季節が芸術に深く関わってることである。

日本の芸術が表現する目標は、「無常」である。

青山教授いわく、ギリシア以来の芸術が表現を目指すのは、「世界の本質」である。アリストテレスのミーメーシス芸術論では、芸術は自然の模倣であり、過去の芸術作品の模倣であるとする。



さらに詳しく言うと、自然は完璧ではなく、それを補完するのが芸術であると…。現実では、ハンサムボーイのキムタクがでべそだったりする。自然は完璧ではない。



世界の本質を「無常」と読みとった日本文化。
一方の西洋は、「存在」と「認識」に分断され、混乱している。

父を殺し、母と交わるような人間の愚かさを、神話で描かざるをえなかった文化は邪悪である。

一方の日本の神話は…。
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2016年12月10日

音楽に国境はない。

平成になっているが、昭和の俗諺が否定されていないのは、困ってしまう。

表題は、「言語は異言語を話す人には理解できないが、音楽は異言語を話す人にも理解できる」という意味だろう。
だが、それは間違いである。

同じ音を聴いても、聴く人が所属する文化により、感じ取る意味は異なる。たとえば、中国人が鳩を見て「おいしそう」と思うが、日本人はそう思わない。日本人がタコやイカが動いているのを見て、「おいしそう」と思うのに、西洋人がグロテスクと思うのの違いがある。



昭和の間違った俗諺を、平成の叡智は否定していかなければならない。



結局のところ、音楽の絶対性を主張したドイツ観念論の人たちの影響が大きいのだろう。

放送大学の青山昌文教授によれば、革命で自由を実現したフランスに対して、専制君主制のドイツでは、自由を実現することが出来ず、理想を自己の内面に求めた。
芸術作品と自己が向き合うとき、芸術の中に社会が入り混じっていると、ドイツの現実を思い出してしまう。
そこで、芸術作品に社会が介入することを否定した…。

そんなドイツの事情を、日本人は知らないまま、素直に信じ込んだのである。
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2016年12月09日

「君の名は。」と平原彩香さん。

「君の名は。」が空前のヒットで、宮崎駿氏の「千と千尋…」に迫る勢いなのだという。
しかし、監督の新海氏が、宮崎駿氏に比肩するのかといえば、そうではないだろう。

というのも、2ちゃんねるのスレッドを見ていたら、新海演出の特徴は、
・実景をトレースしていること。
・髪型を変えると、キャラクターの違いが分からない。
・主人公以外は、3次元CGなので、違和感がある。

などだという。
私の分析は、出資会社などの意見を素直に取り入れたため、設定が満載になり、構成に矛盾が起きている。



結局のところ、新海演出は誰でもできる。
…そんな感じ。

何故なら、実景をトレース。そこにこそ、この作品の最大の魅力があるから。

大洗の街に、戦車が大集合するガルパンのような系列の聖地巡礼の発生をねらった作品なのである。



一方の平原彩香さん。
デビューしたのはJupiter。ヒットの手柄は、ホルストにある。

デビュー作がブレークしたために、彼女は、ろくなレッスンもしないまま、商品になってしまったのが不幸の始まり。
スターになった彼女のダメさを指摘する人はいないし、教える人もいない。彼女のお父さんがグルーヴしているのに、彼女はグルーヴできない。
彼女の家は、音楽を教えないのが伝統だというが、それが良いことなのか。体操やフィギュアスケートを思えば、教師や先輩が教えることによって、技術が進化していったのであり…。

サウンドオブミュージックの吹き替えのパフォーマンスを聴けば、ジュリー・アンドリュースとの違いは明確。つか、比べるのが非情。
メイ・ジェイさんのように、松たか子さんと比べられなかったのが、せめてもの慰め。

彼女の歌は、ひとつの景色の時はよいが、複数の景色を表現しなければならない時に、欠点が明確になる…。



実写トレースアニメは、これから続出するに違いない。
その時、新海監督は、どのようなオリジナリティーを発揮するのだろうか。

そして、平原さん…。
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2016年12月05日

バスルーム 裸の二日間

という映画をCATVで観た。

しかし、内容は、エロな映画ではなく、良質な室内劇だった。

男女の問題。
世代間の問題。
ファシズムと大衆。
芸術の問題。

それらが、鍵が壊れて、バスルームに閉じ込められた女学生と老教授の間で繰り広げられる。



セックスの話は表層であって、監督は、それを描こうとしていない。
描こうとしたのは、老人のセックスではなく、老人の愚かさとはかなさである。

こういう映画が、エロ映画というくくりで分類・宣伝されることは、なんとも残念である。

http://yume551.com/foreignfilm/3385.html



エロでも、サスペンスでもない。

ベルイマンや、ウッディ―・アレンと比すべき作品なのに、そんな感想ばかり…。
嘆かわしい。

http://video.akahoshitakuya.com/v/B008Z4XHVC


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2016年12月04日

言葉の重要性。

車の左側の下部を傷つけた、初心者マークの娘の発言。
私は、「わたし、大回りしてしまうんで…」。

この発言で、私は理解した。
「もっと大回り」していれば、前輪と後輪の間に傷がつくことはなかった。

こういう言葉が実は、誤解の起点だったりする。



たとえば、音楽で、「ほかの人の音を聴いて」。
愚直に、ほかの人の音を聴くと、聴いた分だけ、遅れるのである。

野球で、「よくボールを見て」。
だが、ボールを見たら、ボールは打てない。
打つためには、ボールの軌道を予測しなければ…。



生真面目な人ほど、墓穴を掘る。

そんなことがあってはならぬはずなんだが…。
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