2017年07月19日

「演出家・蜷川幸雄氏の”イケメン俳優論”について」について。

小栗旬氏の周辺に関して、蜷川氏の情報に辿り着いた。以下に引用する。

朝日新聞デジタルに掲載された蜷川幸雄氏のエッセイ『演出家の独り言・イケメン俳優人気への憂い』が各所で大きな話題を呼んでいます。内容は表題そのまま、昨今演劇界にも大量に進出してきた”イケメン俳優”と彼らの人気への憂いを語ったものなのですが、このエッセイを読んだ観劇女子やイケメン俳優推しの女性達からは辛辣なご意見も噴出している模様。

曰く「チェーホフや三島を読んでいない事がそんなに悪いのか」 「真面目に稽古をする事こそ大事」 「サイボーグなんて超失礼」などなど。

うーん、気持ちは分かる、分かります。私だって自分が応援している俳優さんを”サイボーグ”や”マネキン”という単語で一括りにされたら悲しいし腹立たしい。相手が「世界のニナガワ」であることを忘れて斜め上から灰皿ブーメランを飛ばしてしまいそうです。

https://allabout.co.jp/gm/gc/448795/all/



蜷川氏の言うことに、私は100%同意する。
しかし、「チェーホフや三島を読め」というのは違うと思う。

したがって、以下のように、解説してあげるべき。

つまり、チェーホフや三島を読んだところで、イケメンたちは、「何も分からないだろう・・・」ということだ。

田中角栄氏は、「将来分かることなら、今のうちに教えておけ」と子供たちの反発も恐れずに教育したという。

それをして思えば、



「チェーホフ劇のような、緻密で濃密な人間心理を勉強せよ」。つまりは、最近の商業作品のほとんどのキャラクターは一面的であり、深みがない。そのような役ばかりをやっていては、演技が薄っぺらになってしまうぞ。
と、解説しなければならない。

何も、チェーホフに限らず北欧室内劇的な作品。たとえば、ウッディ―・アレンでも、イングマール・ベルイマンでも良い。


三島に関していえば、「私たちは日本語で表現している。さらに、戯曲の背後にあるのは日本文化の伝統である。つまり、セリフの裏には、日本語の伝統があり、日本の文化がある。それを意識しながら演技しなければならない」。
つまりは、洋物ばかりやっていると、言語の深さを踏まえた演技ができない。そもそも、日本は、「文化的な等質性が高い(ハイコンテキスト)」であって、アメリカの「文化的な等質性が低い(ローコンテキスト)。他民族の文化の寄せ集まりとは異なる」ことを認識しつつ、演技すべきである。

何も、三島に限らず、向田邦子のシナリオや、宇野千代の小説「おはん」を読んでもいい。




三島を読め。チェーホフを読めでは、自らの叡知を誇るだけであって、実利はない。
というか、若い人たちが、チェーホフや三島を読みこなすことができなければ、効果がない、意味がない。

要は、現場の要請に従うだけでは、薄っぺらな演技になってしまう。
演技とは、もっと多様な意味を含んでいるものである。


てことなんだけどな。



記事は、次のように締めくくられている。

確かに三島由紀夫やチェーホフを読まなくても舞台には立てるし、キラキラした世界を女子に魅せる事も出来ます。外見が美しいというのはある種の正義。でも”イケメン俳優”というざっくりした枠から抜き出て、舞台の中央に1人で立てる俳優になるには自分だけの武器を身に着けなければいけない。その1つが「教養」ではないのか。


なんとも、訳が分からない「まとめ」。

蜷川さんは、もっと具体的に危機感を感じていたのだと思う。

 つまりは、「ダメな演出家の、ダメな指示にしたがっているだけじゃダメだよ」
「オーケストラの団員は普段も個人練習をしている。リハーサルは指揮者の意図をくみ取る場所であって、個人練習の場じゃない。では、俳優はどうかな。セリフを覚えれば稽古は終了という訳じゃないよ」・・・と。


イケメン俳優たちが、チェーホフや三島を読めば「良し」。

読まないにしても、自分の演技に何が足りないかを知ることができる。それでいい。

まず、何がダメか。何が足りないかを知っていれば、少なくとも「人気に慢心すること」はない。


追記:

まとめで「舞台の中央に1人で立てる俳優」と言っているが、これが実は難しくて、「芯」になるということ。つまり、あまりいろいろなことが分かってしまうと、「芯」がぶれる。

一筋縄ではいかない世界なのだ。













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2017年07月18日

小栗旬君にこんなメールを送った。

はじめまして。
世田谷区在住のブロガー、スポンタ中村です。

小栗さんが、ダウンタウンさんの番組で、「テレビが危ない」との危機感を持たれていることを知りました。

松本人志さんは「制約が多いから、今のテレビは面白くない」と発言されていましたが、私は「人によって、面白さの基準が違うこと」が原因と考えています。

すでに、映画・ドラマの「客観的で、妥当性のある評価ツール」を完成しているとともに、演技の巧拙についての「評価指標」を研究しています。

興味がありましたら、拙ブログをご覧になるとともに、情報交換などできれば幸いです。

http://sponta.seesaa.net/article/451815574.html#more

ご無礼なメールで、失礼いたしました。

ご活躍をお祈り申し上げます。


ダメモトなんだから、リターンは期待していない。
身だしなみとして、「私の思い」を捨象して事務的なメールにした。


小栗君は、ポッと出ではなく、業界二世。今は有名人だが、過去は苦労人だった。
つまりは、酒場で仲間と愚痴を言っているだけの漢ではないと私は思っている。

数年後にでも、コミュニケーションがとれればいいいなぁ・・・。などと夢想する。


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2017年07月17日

小栗旬氏にメールを送ろうと思うが・・・。

小栗旬氏にメールを打とうと思っている。
とはいえ、これでは少し長いので、少し短くして・・・・。

続きを読む
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2017年07月16日

人間は〈真実〉の奴隷である。

そう思って生きてきたが、どうやら、そうでもないらしい・・・。
私のような無名な輩が〈真実〉を言っても、無視されるだけである。



中村うさぎ氏が「有名人の言葉だからって、さも価値があるように思うのは嫌だ」と言っていたのを覚えている。

私もそう思う。

impossible を、I'm possible と読み替えるなんて、オードリー・ヘップバーンに限らず誰でも思うことである。

若いという字は苦しい字に似てるわ。明日という日は明るい日と書くのね。

そんな感じ・・・。



フランスの哲学者・アランは、「悲観主義は感情のものであり、楽観主義は意志のものである」と言ったが、これは至言。別格だと思う。



TBSのドラマ「小公女セーラ」には、次のような主人公のセリフがある。

「どんなに私を叩いても傷つくのは私ではありません。間違っている校長先生。あなたです」

しかし、現実ではそんなことは起きない。

自分が間違っていることに気づいて、ニヤリとしてゴマカす。

・・・せいぜいが、そんなところ。
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2017年07月15日

日本人は集団主義的ではない。

放送大学の認知心理学を見ている。先日は、社会心理学がテーマだった。



ことあるごとに講師が言うのは、「人間は、直感に左右される」ということ。講師が引き合いに出すのは、直感が正しければ「天動説」である。だが、真実は「地動説」であると・・・。

学者でなければ、一般大衆にとって〈真実〉などどうでもよい。




認知心理学の授業では、「日本人は集団主義的であり、アメリカは個人主義的である」との説は、根拠がないと指摘する。

日本には、「出る杭は打たれる」ということわざがあるが、アメリカにも「延びた木には風当たりが強い」というのがある。恣意的にコトワザを選び出すのは、科学的ではないということだ。

危機的状況になれば、人間は「個」よりも「集団」を尊重する。
たとえば、911の事件の直後、アメリカの大衆は「集団主義的」だったという研究がある。

「個人主義or集団主義」の心理学のテストで、日本人とアメリカ人の差はほとんどない。



私的に演繹するなら、日本人は平時から「危機的状況に対応できるような意志決定システムを採用している」となる。

逆に言えば、アメリカは普段は「個人主義」で暮らしているが、危機的状況になると、「個人主義の欠陥に気づいて、モードチェンジする」ということ。アメリカはダブルスタンダード。

日本人は、モダニズムによる「個人主義」の洗脳と決別している。
ただ、それだけのこと。




講師も暗に指摘していたが、「日本人は集団主義的」とラベリングすることで、日本人を「自分たちとは違う人たち」と大衆に刷り込むことが、戦後の世論誘導としても必要だった。
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2017年07月12日

アインシュタインの相対性理論とは何か。

アインシュタインが主人公のドラマでのセリフ。(「ジーニアス」第9回20分頃)

焼けた石炭の上に立っていれば一秒でも永遠のように感じられるが、美しい女性とベッドにいれば1時間も一瞬のように過ぎる。
それが相対性理論。



セリフは、クロノス時間とカイロス時間のことを言っているのであって、クロノス時間同士の話ではないのだが・・・。
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2017年07月11日

韓国ドラマ「馬医」のすばらしさ。

少し前に、テレビ東京で朝やっていたが、いまでもCATVでやっているので、興味を持った方は観るとよい。

いままで韓国ドラマを観てきたが、ベスト3に入ると思う。
他の作品は、「冬のソナタ」。もうひとつは「スターの恋人」。

「冬のソナタ」のすごいところは、一大決心をして別れるのに、翌日にはまた逢っていること。
何かが起きると、すぐに全員集合すること。
一言でいうと、「ドラマを逃げていない」。そこが凄い。

もうひとつの「スターの恋人」は知らない人も多いかもしれないが、主演はチェ・ジウ。人気映画俳優と、彼女の本のゴーストライターをした新人小説家であり大学講師の「結婚するまで」のドラマである。
このドラマの凄いところは、ヒロインが「主体的」なところ。
秀逸なのは、大学講師は別れを決意して、地面に線を引き、「この線からこちら側に入ってくるな」と彼女に言う。幼い頃、母親から同じことをされて、彼は捨てられたのである。
しかし、ヒロインの彼女は、躊躇などまったくしないで、線を跨いでしまう。自分の気持ちのままに生きることに誠実なのだ。

どちらもチェ・ジウが演じたヒロインだが、一方は「初恋が忘れられない女性」、もう片方は「自分の思いのままに生きる女性」。
どちらが魅力的かは明確である。



「馬医」を論じるにあたり、他の2作品を取り上げたのは、相対批評をするためである。

「冬のソナタ」はドラマを逃げないこと。「スターの恋人」はヒロインの主体性のすばらしさ。それに尽きる。

では、「馬医」のすばらしさは何か。
それは、「病の発覚〜治療〜治癒」というドラマの進行感と、ヒーロー&ヒロインのドラマが密接に関わっていくところである。
今年のはじめにやっていたキムタク主演のドラマ「A LIFE」も、医療とドラマが関連していたが、「馬医」のように主人公の出世物語ではなかった。キムタクの心の中は病院長の娘との果たされなかった恋愛がある。ノスタルジーは、ドラマの雰囲気は醸し出すが、爽快感にはつながらない。

「馬医」は、「正義の側」と「悪意の側」の〈対立〉も明確だし、悪意の側の「やるせない都合」も納得できる。

夫を中東紛争の取材で失ったテレビタレントが大統領にのし上がっていく「ミセス・プレジデント」も「悪意の側」の「やるせない都合」に説得力があった。だが、「立候補〜選挙戦〜当選」というプロセスは、テンポ感としては医療ドラマに劣る。

「冬のソナタ」では、主人公たちの仕事は副筋に過ぎないし、「スターの恋人」の芸能界や出版界の出来事に爽快感はない。しかし、「馬医」の「治癒」のシーンには爽快感がある。



我が校長・今村昌平は、「人間を描くには3代まで遡らなければいけない」と言っていたが、「冬のソナタ」「スターの恋人」は家柄まで表現されていないから2代の物語である。だが、「馬医」は両班の家柄まで描かれるから3代である。

人間が何故、そのように考え、そのように行動するかは、育った環境が大きく影響する。ならば、3代を描くことがどうしても必要になる。

自分を考えてみても、両親を理解することが、自分を理解することにつながる。両親を理解するためには、祖父母を理解しなければならない。



映画批評・ドラマ批評が、卑下されるのは、主観批評・印象批評なことである。

そこで私は、形式批評により客観的であろうとするし、相対評価により、作品の価値を客観的に提示したい。



テレビのことなんか書いて・・・。と侮ってもらっては、ちと辛い。
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2017年07月10日

船越英一郎氏の受難。

細君の映像を観ていると、生き霊が飛んできそうなので、彼女の名前を書かない。

それにしても思うのは、マザーテレサの言葉。

愛の反対は憎しみではなく、無関心である。



とすれば、戦争の反対は平和だとしても、好戦主義の反対が反戦運動や平和運動ではないと思えてくる。

毎年夏になると、そんなことを思っている。
「戦争を語り継がなければならない」と言う昭和な人が多い。
果たしてそうなのか。

思い出すという行為を通じて、再度、戦争状態に引き戻そうとしている
のではないかと感じてならない。
たとえば、人口的に不可能な○○大虐殺や、大使館前に少女像を立てるようなトピックスについてである。



それにしても、離婚訴訟での勝利は「離婚しないこと」であって、訴訟になっていることこそ「離婚のはじまり」である。

「これから戦います」などというのは、論理矛盾なはずなのだが、そのような論理は感情に勝てないのである。
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2017年07月09日

「ジョン・レノンはメシア(救世主)だったのか」を書き終えて・・・。

懸賞小説に応募したが、何も起きそうもない雰囲気である。

作品の構図は以下。

主人公の私、ささやかな現実の亀裂から思索は広がり、ウェブ、書籍、チャネラーなどから新たなる情報を得て、思索は発展する。
そして、現実がまったく違うものに見える。
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2017年07月08日

中嶋しゅうさん、逝く。

一般的な知名度がそれほど高くない彼の死が夕方のフジテレビのニュースで生前の映像つきで紹介されるとは思いもしなかった。

一般的には、彼は、「美味でごじゃりまする」で知られる鷲尾真知子さんの夫君ということだろう。

だが、彼は、私にとって別格の俳優である。続きを読む
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