2017年06月17日

叙事詩について、考えている。

ドラマは叙情詩であって、叙事詩ではない。



叙事詩の英訳をウェブで探す。

すると、ラプソティーだと知る。



ラプソティーとは、狂詩曲である。

ふむ。

叙事詩とは、狂った詩であったか。

叙事詩と叙情詩の関係がここでわかる。



この場合の詩とは、テキストというほどの意味なのかもしれない。

なぜなら、古代において、すべてのテキストは韻文だったのだから、詩以外のテキストは存在しなかった・・・。
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2017年06月07日

何故、アリストテレスのテキストが少ししか遺っていないのか。

映画「薔薇の名前」を観た。原作者はウンベルト・エーコである。
物語は、ショーン・コネリー演じる修道士の主人公が、修道院で起きた殺人事件の解明に乗り出すこと。
ネタバレとなるが、存在してはならない、異端・神秘主義のテキストに関連して、その存在を知った翻訳者が殺されたのである。

主人公は、聖書だけでなく、アリストテレスの言葉も引用する。そのようにして思うのは、プラトンのテキストが殆ど遺っているのに、アリストテレスのテキストが殆ど遺っていないのは、プラトンのイデア論は「別の次元の存在」を主張しているのに、アリストテレスは、すべてはこの現実に内包していると、別次元の存在を認めなかったからではないか。続きを読む
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2017年05月18日

現在は、ポストモダンの時代である。

だが、そのことを、多くの人たちが気づかない。知らされていない。

その理由は、〈文化相対主義〉に向けて、現在の世界(資本主義)を再編成できないからである。



モダンとは、近代であり、進化論。
だが、進化論は、西欧列強が、世界征服のための理論兵器であり、その虚構性は、ベルリンの壁の崩壊・ソビエト連邦の解体によって、証明された。

しかし、新しい時代の名称が、「モダンの後の時代」という意味をほとんど持たない名称なため、世の中のほとんどの人は「モダンな時代が終わったこと」を実感しない。

モダンの特徴は以下。

・神に変わって、人間の思索(コギト・考える人)が、この世界の「存在」を規定する。

・人類は進化する。

上記により、自然破壊・環境破壊、帝国主義・植民地支配、資本主義経済などが行われてきた。



進化論の対立概念は、〈文化相対主義〉である。
人間の幸福の形は多様であり、文化も多様。したがって、他国の文化を侵害することに妥当性はない。
しかし、現在でも、資本主義による世界侵略は続いている。

ブータン王国のような、経済的な繁栄に背を向けた「もう一つの幸福な暮らし」が紹介されるケースは、ほとんど存在しない。




つまり、ポストモダンとは、現行社会の否定であり、それを声高に論じることは、あってはならない。

マスコミに登場するのは、株式トレーダーやファイナンシャルプランナーなど、現行資本主義を擁護する人ばかり。

ポストモダンを提唱するのは、美学芸術学を専門とする青山昌文教授(放送大学)ぐらいのものだ・・・。
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2017年04月04日

もうひとつは、〈タイム感〉である。

ミーメーシスという言葉・概念があれば、簡単に説明できる。

同様に言うと、〈タイム感〉。

こちらは、〈タイム感〉を持っていない音楽家が殆どなので、〈タイム感〉が広まらない。

〈タイム感〉という言葉があれば、ダメなジャズミュージシャンを見分けるのが極めて簡単だ。

東京ジャズの出演者を見てみればよい。〈タイム感〉のある人しかステージリーダーとして呼ばれていない。
〈タイム感〉が暗黙知になっているから、一般の人には、分かりにくいかもしれないが、〈タイム感〉という感覚を知ってしまえば、〈タイム感〉のある人しか呼ばれない。それが東京ジャズである。



たしかエリック宮代氏は、呼ばれていなかったような気がする。
もし、彼がバンドリーダーとして呼ばれていたのなら、今回の私の説は間違っている。



昔、娘をジャズのワークショップに車で送っていく時、歩道に〈パイオツカイデー〉な女の子が歩いており、歩きが4ビートに対して、胸が8ビートで揺れていると指摘して、呆れられたことがある。

そして、二子玉川の駅のプラットフォームをエリック宮代氏が歩いているというので、娘に、「歩いている時に、グルーブしていたか?」と尋ねたら、「いいえ…」と答えられた。

何故、そんなことを娘に尋ねたかといえば、渡辺貞夫氏のバンドの〈ロイク〉なパーカッショニストたちは、歩きながら、グルーヴしていたという噂を知っていたからである。

※ ロイクとは、黒いのバンド言葉である。反対語は、ロイシ。



ま、そんな感じ。
昭和から平成になり、20年以上も経つというのに、芸術も学問も過去を脱ぎ去ることができない。
…と、呆れている。

その理由は明確である。
昭和の泰斗たちが、自己批判をせぬままに、他界していくから。


ウェブでエッチ動画がふんだんに観れる今、大島渚氏は何をやっていたのか…。と、馬鹿らしく思う。

そして、倉本聰氏。



彼は、時代を描くなどと言っているが、ドラマにとって、時代はノイズである。
芸術家は、時代ではなく、普遍を描くのを理想とするはずであるが…。






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2017年04月03日

ミーメーシス(模倣)について…。

すでに、書いていたかとも思うが、改めてまとめておく。

放送大学芸術学の青山昌文教授によると、芸術作品は、「何ものにもとらわれない芸術家の個性の表現」であり、その「オリジナリティー」こそが尊ばれるという〈近代主観主義〉の時代はすでに終わっている。

つまり、理想主義的な絵画教室の先生が、「自由に描きなさい」などと生徒に言ったり、シャガールの絵を素晴らしい。なんて言うのは馬鹿げている。ってこと。



ミーメーシス理論とは、「芸術作品とは、過去の作品のインパクトを強化した再現・模倣すること」である。

そのことを知っていれば、こどもの落書きと、ピカソの作品が似ていても、まったく問題はない。
つまりは、こどもは、過去の芸術作品を知らないのだから、ミーメーシスしていない。つまりは、芸術ではない。との結論に、容易に至るのである。




しかし、いまだに教育界の人たちは、「我思う、ゆえに我あり」という近代的自我を妄信しているから、たちが悪い。

ドイツ観念論、または、実存主義が、ニーチェによって「神が死んだ」と暴露されてしまった時、神の代わりに人間の思索・思惟を持ってきたことを理解しない。
つまりは、ロダンの「考える人」は、考える人の彫塑ではなく、「新しい神」の像なのである。
しかし、そうしたドイツ観念論、または、実存主義は、サルトルが死んだ頃に、「思索を突き詰めていっても、人間の存在を証明することはできぬ」ということが分かってしまった。それが、フランス現代思想である。


そのことを認めない人たちが、いまだにアカデミズムには多いため、ミーメーシスという語は、一般的に知られていないのである。
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2017年01月19日

プロレタリア芸術を知らない人たちへ。



ベルリンの壁崩壊、ソ連の解体によって、いつの間にか無くなってしまったプロレタリア芸術。

共産主義を理想とする洗脳を通じて日本の国体を混乱・崩壊させようとした陰謀を、インテリたちが見破ることができず、芸術が洗脳ツールとして利用されたことは痛恨事であった。

学校の先生たちやマスコミ関係者などには、いまだに、その事実を認識できない人たちがいるものだから困ってしまう。


貧富の差を強調し、階級闘争を発生させ、内政を混乱させ、侵略する。それが、プロレタリア芸術の本懐である。

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2016年09月25日

起承転結は、古い。

平成になっているのに、昭和の理論が正されないことが疑問である。

シナリオ構成論では、起承転結が基本とされる。
だが、それは、座席にくくりつけられた映画館の観客に向けての論理であって、
「早送り再生」と「チャンネル変更」のボタンがついているリモコンを持っているカウチ視聴者に、「起承転結論」は無為である。

何故なら、シナリオライターが、「起承転結論」でシナリオを構成したと豪語しても、「起」がつまらなければ、「早回し・チャンネル変更」されてしまうから…。
本では、「最後まで読まないで、批判・評論してはならない」との規範・エチケットがあるが、平成のコンテンツの鑑賞環境を考えれば、「リモコンを持った視聴者」は多数派であり、規範・エチケットも変更されるべきに違いない。

つまり、志賀直哉の小説のように、たった一つの副詞「未だ」の存在に気付かなければ、正確な読解ができないような小説は、糞なのだ。(大阪大学の現代文の入学試験問題)



私は、そのようにして、お笑い芸人の芥川賞受賞作を最後まで、読み切れなかった自分を合理化している。
腐ったリンゴを最後まで食べる必要はない。

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2016年08月05日

日本のドラマが面白くない理由。

が分かった。('◇')ゞ

シナリオ学校が、間違っているから。

シナリオ教本が、間違っているから。

…だった。





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2016年07月09日

シナリオ作法の極意。

いままで、さまざまなシナリオ作法の本を読んできたが、「わかったような・わからないような感じ」がしていて、それがモヤモヤとただよっていた。

最近、娘の影響もあって、ドラマやシナリオについて真剣に考えているのだが、その結論は、いままでの「シナリオ作法の本」は、シナリオの教科書であって、大学受験シリーズの「傾向と対策」のような本ではないということだ。

さらに悪態をつくと、シナリオを書くための「長期的な修行」と「短期的な修行」が混在していて、その場に応じた「優先順位」がわからないことである。



たとえば、黒澤明監督のシナリオ制作グループがやったという登場人物の「履歴書づくり」は、設定を増やすことであって、それを元に作品をつくったら、ドラマの構造は弱くなる。

キャラクターは主役との対比で、脇の人物たちのキャラクターを決定すべきである。キャラクターを絶対的に設定する「履歴書」という作業は効果的ではない。逆にいえば、ドラマの中で、キャラクターは固まっていくのであって、あらかじめキャラクターが強固に存在し、その上でドラマをつくっていくのは効率的ではない。

「コミュニケーションは相手が決める」という俗諺があるが、実際の人間関係は相対的に動いており、絶対的なものではない。ならば、「この人は、こういう人」と決め手から、ドラマづくりに入るのは、回り道である。

そもそも、設定の多いドラマは、魅力的ではない。暗喩としての設定は必要かもしれないが、暗喩ばかり追ったストーリーは、「ニュアンスを追った歌唱」のようなもので、本質的な魅力に乏しい。

つまり、

人物設定→ドラマ
ではなく、
ドラマ→人物設定

なのだ。
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2016年05月15日

アリストテレス的、プラトン的とは…。

先日は、アポロン的とディオニュソス的について裁断的に提示した。

アポロン的とは、この世界の「本質・存在」を表現すること。
具体的には、「無常」を表現する日本の芸術。バッハ、ワーグナー、シェーンベルグ

ディオニュソス的とは、鑑賞者の感情をゆさぶることを、芸術の目的とすること。
具体的には、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウス…。

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2016年05月08日

アポロン的・ディオニソス的。

青山昌文教授の大学院の教科書「美学・芸術学研究」を読んでいる。

音楽の話題では、中世の音楽観として、以下をあげている。

1、宇宙の音楽
2、魂の音楽
3、器官の音楽

このうち、音を伴っているのは、3だけ。
つまり、1と2は、バイブレーションというようなものか。

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2016年05月06日

「現代(ポストモダン)」の美学・芸術学。

青山昌文先生の美学・芸術学の教科書を読んでいる。



近代は、封建主義の後の時代であり、現代もモダニズムが続いていると考えているかもしれない。

しかし、社会主義体制が崩壊し、「進化論な歴史観」の妥当性のなさを誰もが確信し、「産業革命・市場経済」が自然破壊を繰り返し、全世界の人たちが「絶望的な現代」を痛感しているなら、現代は、モダニズムの時代ではない。

つまり、平成の今は、ポストモダンなのだ。




モダニズムは、宗教の時代を終わらせ、主観主義の時代が始まる。

ならば、平成の今は、「主観主義の時代」が終わったことになる。

つまりは、ドイツ観念論・実存主義が提唱した「認識の先に、実在がある」のは虚構だということが確実となり、「実在は、認識に優先する」というギリシア以来の当然の世界観がよみがえったことになる。



なんて、実感がありますか?
皆様。
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2016年04月07日

スターウォーズにおける、「フォース」の価値。

映画について、ドラマについて、どれほどの人が理解しているのだろうか。

専門家はマニアックな理論に陥って、一般鑑賞者とは乖離。専門家たちは持論を、大衆の意見と対照することはない。

さて、この記事のタイトル「フォース」である。
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2016年04月05日

映画「ジュピター」に想う。

映画「マトリックス」の後の作品ということで、期待していたが、なんとなく見逃してしまい、先日、CATVで観た。

存在論的な高まりを期待したが、ありがちなSF未来活劇。ヒロインの出自や、地球の来歴について、言葉で語られるばかりで、あまり深く触れられてはいない。



映画「マトリックス」にしても、アクションや特殊効果が売りであって、作品の背後にひろがっている構造でブレークした作品ではないだろう。

ちなみにマトリックスとは、この世界(次元)は、図表的な存在(相対的)であり、唯一無二の絶対的なものではない。具体的には、「テレビゲームにプログラム」が存在するように、「(現世に対応する)プログラム次元(異次元・アルタードステーツ)」が存在する。

*

マグリッドに、「これはパイプではない」という絵画があるが、「描かれたパイプ」はパイプではないのは道理。「パイプの絵」を「パイプ」と見間違ってはいけないように、この世界も…。


ということか。続きを読む
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2016年03月31日

町山氏 vs. 菊池成孔

一昨年の秋の出来事だったと記憶するが、ジャズドラマーの育成に関する映画「セッション」に関する論争があった。

町山氏は「セッション」を評価し、菊池氏は「セッション」をケナし、かつての映画のヒーローを演じた老優が、ブロードウェイ演劇に挑戦する映画「バードマン」を推した。
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2016年03月15日

シナリオとは…。

若い頃、溝口健二監督が新藤家兼人氏に、「これはシナリオではありません。ストーリーです」と言ったというエピソードを痛烈に憶えている。

その理由は、「シナリオとストーリーの違い」が分からなかったからである。




勉強をしていなければ、「シナリオは、演劇台本・放送台本」。「ストーリーは、小説・読み物・あらすじ」と考えてしまうだろう。



最近読んだ本によれば、厳密にいうと、「時系列に書かれたのがストーリー」。「語り口の順に書かれたのがプロット」。…と。

その延長線上で考えると、私の考えでは、

・「出来事」を淡々と記述したのが、ストーリー。(叙事的)

・「出来事」の背後にある、人間の「超目標・自律・自律」そして、関係人物たちの対立を描いたのが、シナリオ。


となる。



たとえば、

「昨日、うんこをもらした」は、ストーリーであり、「昨日、うんこをもらしたところを、友人Aに見つかってしまい、はずかしかった」はシナリオである。
(^▽^;)
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2016年02月26日

シナリオづくりで、履歴書を作る。

と、作品に深みが出ると、倉本聰氏がインタビュー番組で語っていたが、そうだろうか…。
この手法は、黒澤明監督も行っていた、極めて一般的なものである。

ただし、我が師・首藤剛志は、「設定は最低限にすべし」と語っており、それを思えば、履歴書は設定を増やすことでしかない。つか、師も、履歴書を引き出しに忍ばせていたが...。



心理学が進化し、普及した今なら、履歴書ではなく、行動原理を定義することが重要である。



「前略、おふくろ様」の頃は、倉本氏を尊敬していたが、「北の国から」あたりからは、「?」という感じ。

思うに、作家のステータスが上がり、「自分のやりたい放題」が可能になると、「観客の満足」ではなく、「自己の達成感」を主眼にした創作になるのだろう…。
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2016年01月26日

青山昌文先生の芸術論。

放送大学の芸術論の講義の究極の要約。その内容に、私も、深く納得する。



芸術は、芸術家の自己表現が目的ではない。
芸術が目指すものは、この世界の「本質(存在)」の表現である。


さらに、芸術は「芸術そのもの」が目的ではなく、何らかの目的である。
それは、「政治的」であったり、「宗教的」であったり、「社会的」であったり、する。



さらに、青山先生が強調するのは、18世紀以降の芸術論は、「近代主観主義」であって、通史的な妥当性を持たない。ということ。

授業の後半は、フランス啓蒙時代の批評家・ディドロについて多くの時間を割き、最後は、ロシアの演劇学者スタニスラフスキーとディドロの理論が同じであると説いた。

この説は、ご丁寧にも、日本の代表的な演出家・蜷川幸雄氏のインタビューで援用もしている。

*

それは、「俳優が、役になりきる」のは、演技の理想ではなく、「俳優は、演技を冷静にコントロールする」のがベストであって、「演技している時も、客観的に演技を見つめる別の視点を持っていること」が求められる。



青山先生は、ドイツ観念主義の欠陥を指摘する。つまり、「我思う、故に我在り」だが、「我が居なくなっても、存在はなくならない」ということ。

単純化すれば、哲学は「認識と存在」の学問。「存在の理由」を追及するのが目的である。
つまりHow to live in this world.ではなく、What is this world.を解説したい。



青山先生は、「スタニスラフスキーの演劇理論」が、「日本では誤訳されている」と、不満を露にする。
スタニスラフスキーは、「演技する自分を忘れて演技すること(没入)」は演技の理想ではなく、「演技においても、演技する自分を失わないこと」が最上の演技であるとした。

結局のところ、「近代主観主義」の日本の翻訳者が、「没入の演技」が最上であると、誤訳したのであろう。
しかし、そんなプロレタリア芸術の時代も終了した。

*

アクターズ・スチューディオは、「近代主観主義」に侵されていて、同様。「役になりきる」などというのは、「コギト(近代主観主義)」主義による、妄想・空想である。

マリリン・モンローは、そのために精神を病み、自殺したのではないか。
「役になりきる」といっても、歩いたり・飯を食ったりに、「個性になりきる」必要はない。



フランス現代思想でいえば、進化論以降のアカデミズムは、「西洋文明礼賛の物語」に過ぎず、一般的(通史的)な妥当性を持たない。

そこには、「進化論(近代主観主義)vs.文化相対主義」という対立構造がある。

*

それらの底には、陰謀論。イルミナティーの存在があるのだが、青山先生には、そこまでを論じる自由はないようだ。
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2015年12月24日

「荒木飛呂彦の漫画術」に…。

前の記事では貶していたが、悪い本ではない。

「はじめに」の章でトリュフォー著「映画術(ヒッチコックインタビュー)」を誉めている。
私は映画学校の卒業生であり、トリュフォーのファンであり、ヒッチコックも尊敬していたので、新刊時に購入したが、今は手元にない。
学生時代から今でも手元にあるのは、ロベール・ブレッソンの「シネマトグラフ覚書」。つまり、アフォリズム的な充実を、同著は持っていなかったことになる。
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2015年12月18日

黒澤明批判…。

娘に映画の古典を観ることを薦めている。

大衆娯楽としての映画は勿論、作家性の強い作品も同様におさえておかなければならない。

つまりは、洋画においては、
・ロベール・ブレッソン
・イングマール・ベルイマン
・フェデリコ・フェリーニ
・ブライアン・デ・パルマ
・デヴィッド・クローネンバーグ
…etc.

といったところか。
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