2017年10月25日

公開から一年経って映画「君の名は。」を評価・吟味する。

メディアゴン、没原稿、その4。

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昨年最大のヒット映画「君の名は。」に対する評価は真っ二つに分かれていた。

「実景をトレースしたアニメーションが素晴らしい」というのが絶賛派の主たる理由。
だが、本来吟味されるべきは、〈美術〉ではなく物語。主人公に〈感情移入〉できるかどうかが、映画の品質を決定する。


黒沢明監督が晩年に創作した大作時代劇は「衣装が素晴らしい」と評価された。
そのことは、それらの作品が「七人の侍」など黒沢作品の代表作には及ばないことの表現でもある。
でなければ、主演の仲代建矢は、三船敏郎と同様な国際俳優になっているはず。
上質な映画は主演俳優を輝かせるが、「影武者」「乱」は必ずしもそうではなかった。



観客が、主人公に〈感情移入〉できるかどうかが、映画の最大のチェックポイントである。

料理であれば、〈感情移入〉は味やダシに当たる。
食レポで、「歯ごたえがいいですね」「好きな人には堪らないですね」などと発言されたら、「不味い」の婉曲表現である。
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2017年10月18日

菊池成孔・町山智浩両氏の論争でヒットした映画「セッション」。

没原稿、その3

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春先の公開作「LA.LA.LAND」が有料放送でオンエアされるタイミングもあるだろう。劇場公開から数年経ち、同じ監督の映画「セッション」はCATVで盛んに放映されている。

だが公開当時、ジャズミュージシャンの菊池成孔氏とアメリカ在住の映画レポーター・町山智浩氏の論争があったことは、忘れ去れているに違いない。
論争の詳細はウェブで調べれば分かることだが、ジャズミュージシャンの菊池氏は「この作品はダメ」といい、アメリカ映画を紹介してきた町山氏は「このような低予算作品を公開前に貶すとは・・・」というもの。かなり感情的だった印象がある。
論争は、菊池氏と町山氏の〈主観〉と〈主観〉のぶつかり合いであって、作品の吟味が行われていたかは疑わしい。

そこで改めて作品の評価・吟味を行いたい。
といっても、新たに私の〈主観〉を足しても、混乱が深まるだけなので、〈形式批評〉を行いたい。〈形式批評〉とは、評価基準をもとに作品を評価・吟味することである。
今回は〈評価基準〉として、「17世紀フランス古典主義演劇理論」を用いる。


【17世紀フランス古典主義演劇理論】

1、自然(この世界の本質)のミーメーシス(模倣・再現)。
2、過去の傑作のさらにインパクトを強化したミーメーシス。
3、本当らしさ。
4、適合性(内的適合性・外的適合性)
5、驚異的であること。
6、筋・時間・場所に関する単一統一性。


上記は、放送大学の青山昌文教授(美学・芸術学)の講義をまとめたもの。私はモリエールの時代の演劇に詳しくはない。当時の演劇理論を現代の映画・ドラマの評価に流用すると極めて有用だと感じただけ。私は利用者であって、研究者ではない。
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2017年10月09日

ジョン・ケージの「4分33秒」は間違っている。

西洋音楽の本質は、観客の生理の中でのタイム感とハーモニー感の残像を如何に刺激していくか。だと結論した。

それからいうと、クラッシックの楽曲名に、調性がついていたり、テンポがそのままタイトルになっているのは、音楽を聴く前に、それを知っていることが、鑑賞の生理の起点になっていること。の証明だろう。

つまり、ラルゴという曲名は、ゆったりした曲だな。
と、プログラムを見た時に、感覚する。

イ短調と、へ長調では、楽曲が帰って行く場所が異なるし、旋律も異なる。
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2017年10月05日

茶の湯とは何か。映画「利休にたずねよ」を観た。

利休の美学が描かれているのかと思って観たが、その期待は裏切られた。

なんと、「半島讃美」映画。

びっくり(・。・)




私の生涯のテーマは、「美」であり「芸術」である。

私の現時点での結論は以下である。

【西洋の芸術: 「肉体の美」を中心にした展開。】


※ 彼らは美人を観て、「美とは何か」を思索した。

・・ミケランジェロにおける男性の肉体表現。
・・リューベンスなどにおける女性(ヌード)の肉体表現。

※ 彼らの「美意識」では、「美の絶対」or「主観による美」かが問題になる。

※ 肉体が芸術の起点にあるため、芸術は性欲と密接につながっている。エロスの表現は芸術において頻繁に行われる。


【日本の芸術: 「もののあわれ」。一瞬にして消え去るものが「美」である。(はかなさ)】

※ 日本人は自然を観て、「美とは何か」を思索した。

・・季節を愛でる美意識。
・・「豪華絢爛」「侘び寂び」というふたつの美意識。

※ 日本人の「美意識」では、「主観性(個による感覚差)」はあまり問題にならない。それは、「誰もが老い、死んでいくから」であろう。

※ 日本の芸術は西洋とは異なり、性欲から遠いところにある。自然や風景を描くことが多く、〈儚さ〉はタナトス(死)を暗示している。続きを読む
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2017年09月24日

イーブン、シャッフル、レイドバック…。

ぱんだウインドオーケストラの皆さんへ。

スティッキーな執念ではなく、ホスピタリティーとやさしさで、この記事を書いていることを理解してほしい。

つーことで、より深い理解のために、このビデオを観てほしい。



ジャズギタリストの宇田大志 さんがアップしたYouTubeである。続きを読む
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2017年09月03日

映画・ドラマの吟味術。

同サイトから、ここに来る人がいるのかは分からないが、私は、形式批評(評価基準を明確にした批評)を目指しているので、映画・ドラマの品質の吟味方法について、以下に概説する。
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2017年08月28日

ディドロの芸術論。

私は、放送大学の青山昌文教授(美学・芸術学)のファンである。

青山教授が敬愛するディドロは、フランス啓蒙時代の哲学者・美学者である。
ディドロは「関係性の美学」を提唱し、「私が存在しようが、しまいが、ルーブル宮殿の美しさは変わらない」と、ドイツ観念論的な「主観主義の美学」を否定した。


クリティカルリーディングを専らとする私だが、青山教授のファンなので、その話を信じてしまった。

しかし、そう単純ではない・・・。
こんなことを考えた。



アルプスの少女ハイジが、ルーブル宮殿を観たらどうだろう。果たして「美しい」と言うだろうか。

原作のハイジは分からないが、宮崎アニメの主人公なら、「こんな建物より、アルムの山々のほうが素晴らしい」と言うに違いない。
そもそもバロック様式は「ゆがんだ真珠」という意味であり、過度の装飾を意味する。

フロイト的な「個人」主義な心理学ではなく、ユング的な「集団」主義的な心理学でなければ、「私が存在しようがしまいが、ルーブル宮殿の美しさは変わらない」とはならない。




そんな反論を青山教授にぶつけてみたいが、無名な私では無理。残念である。
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2017年08月13日

狂詩曲とは叙事詩であった。

叙事詩と叙情詩の違いについて、深く考えている。

ドラマは叙情詩であり、歴史は叙事詩である。

小説では「心の声」を作品の中に存在できるが、ドラマでは「ナレーション」は〈説明〉であり、タブー。つまり、向田邦子作品は、文学とドラマの折衷物であり、ドラマのタブーを犯している。
倉本聰氏の作品も、主人公の心の声を多用しているから同様である。
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2017年07月22日

日本のジャズ終了のお知らせ。

JUJU嬢が、ブルーノートの音楽祭に初めて出演することになったのだとか。

有名ジャズシンガーの彼女が出演していなかったのは驚きだが、逆にいえば、彼女が出演することによって、日本のジャズは完全に終了したことになる。

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2017年06月17日

叙事詩について、考えている。

ドラマは叙情詩であって、叙事詩ではない。



叙事詩の英訳をウェブで探す。

すると、ラプソティーだと知る。



ラプソティーとは、狂詩曲である。

ふむ。

叙事詩とは、狂った詩であったか。

叙事詩と叙情詩の関係がここでわかる。



この場合の詩とは、テキストというほどの意味なのかもしれない。

なぜなら、古代において、すべてのテキストは韻文だったのだから、詩以外のテキストは存在しなかった・・・。
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2017年06月07日

何故、アリストテレスのテキストが少ししか遺っていないのか。

映画「薔薇の名前」を観た。原作者はウンベルト・エーコである。
物語は、ショーン・コネリー演じる修道士の主人公が、修道院で起きた殺人事件の解明に乗り出すこと。
ネタバレとなるが、存在してはならない、異端・神秘主義のテキストに関連して、その存在を知った翻訳者が殺されたのである。

主人公は、聖書だけでなく、アリストテレスの言葉も引用する。そのようにして思うのは、プラトンのテキストが殆ど遺っているのに、アリストテレスのテキストが殆ど遺っていないのは、プラトンのイデア論は「別の次元の存在」を主張しているのに、アリストテレスは、すべてはこの現実に内包していると、別次元の存在を認めなかったからではないか。続きを読む
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2017年05月18日

現在は、ポストモダンの時代である。

だが、そのことを、多くの人たちが気づかない。知らされていない。

その理由は、〈文化相対主義〉に向けて、現在の世界(資本主義)を再編成できないからである。



モダンとは、近代であり、進化論。
だが、進化論は、西欧列強が、世界征服のための理論兵器であり、その虚構性は、ベルリンの壁の崩壊・ソビエト連邦の解体によって、証明された。

しかし、新しい時代の名称が、「モダンの後の時代」という意味をほとんど持たない名称なため、世の中のほとんどの人は「モダンな時代が終わったこと」を実感しない。

モダンの特徴は以下。

・神に変わって、人間の思索(コギト・考える人)が、この世界の「存在」を規定する。

・人類は進化する。

上記により、自然破壊・環境破壊、帝国主義・植民地支配、資本主義経済などが行われてきた。



進化論の対立概念は、〈文化相対主義〉である。
人間の幸福の形は多様であり、文化も多様。したがって、他国の文化を侵害することに妥当性はない。
しかし、現在でも、資本主義による世界侵略は続いている。

ブータン王国のような、経済的な繁栄に背を向けた「もう一つの幸福な暮らし」が紹介されるケースは、ほとんど存在しない。




つまり、ポストモダンとは、現行社会の否定であり、それを声高に論じることは、あってはならない。

マスコミに登場するのは、株式トレーダーやファイナンシャルプランナーなど、現行資本主義を擁護する人ばかり。

ポストモダンを提唱するのは、美学芸術学を専門とする青山昌文教授(放送大学)ぐらいのものだ・・・。
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2017年04月04日

もうひとつは、〈タイム感〉である。

ミーメーシスという言葉・概念があれば、簡単に説明できる。

同様に言うと、〈タイム感〉。

こちらは、〈タイム感〉を持っていない音楽家が殆どなので、〈タイム感〉が広まらない。

〈タイム感〉という言葉があれば、ダメなジャズミュージシャンを見分けるのが極めて簡単だ。

東京ジャズの出演者を見てみればよい。〈タイム感〉のある人しかステージリーダーとして呼ばれていない。
〈タイム感〉が暗黙知になっているから、一般の人には、分かりにくいかもしれないが、〈タイム感〉という感覚を知ってしまえば、〈タイム感〉のある人しか呼ばれない。それが東京ジャズである。



たしかエリック宮代氏は、呼ばれていなかったような気がする。
もし、彼がバンドリーダーとして呼ばれていたのなら、今回の私の説は間違っている。



昔、娘をジャズのワークショップに車で送っていく時、歩道に〈パイオツカイデー〉な女の子が歩いており、歩きが4ビートに対して、胸が8ビートで揺れていると指摘して、呆れられたことがある。

そして、二子玉川の駅のプラットフォームをエリック宮代氏が歩いているというので、娘に、「歩いている時に、グルーブしていたか?」と尋ねたら、「いいえ…」と答えられた。

何故、そんなことを娘に尋ねたかといえば、渡辺貞夫氏のバンドの〈ロイク〉なパーカッショニストたちは、歩きながら、グルーヴしていたという噂を知っていたからである。

※ ロイクとは、黒いのバンド言葉である。反対語は、ロイシ。



ま、そんな感じ。
昭和から平成になり、20年以上も経つというのに、芸術も学問も過去を脱ぎ去ることができない。
…と、呆れている。

その理由は明確である。
昭和の泰斗たちが、自己批判をせぬままに、他界していくから。


ウェブでエッチ動画がふんだんに観れる今、大島渚氏は何をやっていたのか…。と、馬鹿らしく思う。

そして、倉本聰氏。



彼は、時代を描くなどと言っているが、ドラマにとって、時代はノイズである。
芸術家は、時代ではなく、普遍を描くのを理想とするはずであるが…。






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2017年04月03日

ミーメーシス(模倣)について…。

すでに、書いていたかとも思うが、改めてまとめておく。

放送大学芸術学の青山昌文教授によると、芸術作品は、「何ものにもとらわれない芸術家の個性の表現」であり、その「オリジナリティー」こそが尊ばれるという〈近代主観主義〉の時代はすでに終わっている。

つまり、理想主義的な絵画教室の先生が、「自由に描きなさい」などと生徒に言ったり、シャガールの絵を素晴らしい。なんて言うのは馬鹿げている。ってこと。



ミーメーシス理論とは、「芸術作品とは、過去の作品のインパクトを強化した再現・模倣すること」である。

そのことを知っていれば、こどもの落書きと、ピカソの作品が似ていても、まったく問題はない。
つまりは、こどもは、過去の芸術作品を知らないのだから、ミーメーシスしていない。つまりは、芸術ではない。との結論に、容易に至るのである。




しかし、いまだに教育界の人たちは、「我思う、ゆえに我あり」という近代的自我を妄信しているから、たちが悪い。

ドイツ観念論、または、実存主義が、ニーチェによって「神が死んだ」と暴露されてしまった時、神の代わりに人間の思索・思惟を持ってきたことを理解しない。
つまりは、ロダンの「考える人」は、考える人の彫塑ではなく、「新しい神」の像なのである。
しかし、そうしたドイツ観念論、または、実存主義は、サルトルが死んだ頃に、「思索を突き詰めていっても、人間の存在を証明することはできぬ」ということが分かってしまった。それが、フランス現代思想である。


そのことを認めない人たちが、いまだにアカデミズムには多いため、ミーメーシスという語は、一般的に知られていないのである。
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2017年01月19日

プロレタリア芸術を知らない人たちへ。



ベルリンの壁崩壊、ソ連の解体によって、いつの間にか無くなってしまったプロレタリア芸術。

共産主義を理想とする洗脳を通じて日本の国体を混乱・崩壊させようとした陰謀を、インテリたちが見破ることができず、芸術が洗脳ツールとして利用されたことは痛恨事であった。

学校の先生たちやマスコミ関係者などには、いまだに、その事実を認識できない人たちがいるものだから困ってしまう。


貧富の差を強調し、階級闘争を発生させ、内政を混乱させ、侵略する。それが、プロレタリア芸術の本懐である。

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2016年09月25日

起承転結は、古い。

平成になっているのに、昭和の理論が正されないことが疑問である。

シナリオ構成論では、起承転結が基本とされる。
だが、それは、座席にくくりつけられた映画館の観客に向けての論理であって、
「早送り再生」と「チャンネル変更」のボタンがついているリモコンを持っているカウチ視聴者に、「起承転結論」は無為である。

何故なら、シナリオライターが、「起承転結論」でシナリオを構成したと豪語しても、「起」がつまらなければ、「早回し・チャンネル変更」されてしまうから…。
本では、「最後まで読まないで、批判・評論してはならない」との規範・エチケットがあるが、平成のコンテンツの鑑賞環境を考えれば、「リモコンを持った視聴者」は多数派であり、規範・エチケットも変更されるべきに違いない。

つまり、志賀直哉の小説のように、たった一つの副詞「未だ」の存在に気付かなければ、正確な読解ができないような小説は、糞なのだ。(大阪大学の現代文の入学試験問題)



私は、そのようにして、お笑い芸人の芥川賞受賞作を最後まで、読み切れなかった自分を合理化している。
腐ったリンゴを最後まで食べる必要はない。

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2016年08月05日

日本のドラマが面白くない理由。

が分かった。('◇')ゞ

シナリオ学校が、間違っているから。

シナリオ教本が、間違っているから。

…だった。





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2016年07月09日

シナリオ作法の極意。

いままで、さまざまなシナリオ作法の本を読んできたが、「わかったような・わからないような感じ」がしていて、それがモヤモヤとただよっていた。

最近、娘の影響もあって、ドラマやシナリオについて真剣に考えているのだが、その結論は、いままでの「シナリオ作法の本」は、シナリオの教科書であって、大学受験シリーズの「傾向と対策」のような本ではないということだ。

さらに悪態をつくと、シナリオを書くための「長期的な修行」と「短期的な修行」が混在していて、その場に応じた「優先順位」がわからないことである。



たとえば、黒澤明監督のシナリオ制作グループがやったという登場人物の「履歴書づくり」は、設定を増やすことであって、それを元に作品をつくったら、ドラマの構造は弱くなる。

キャラクターは主役との対比で、脇の人物たちのキャラクターを決定すべきである。キャラクターを絶対的に設定する「履歴書」という作業は効果的ではない。逆にいえば、ドラマの中で、キャラクターは固まっていくのであって、あらかじめキャラクターが強固に存在し、その上でドラマをつくっていくのは効率的ではない。

「コミュニケーションは相手が決める」という俗諺があるが、実際の人間関係は相対的に動いており、絶対的なものではない。ならば、「この人は、こういう人」と決め手から、ドラマづくりに入るのは、回り道である。

そもそも、設定の多いドラマは、魅力的ではない。暗喩としての設定は必要かもしれないが、暗喩ばかり追ったストーリーは、「ニュアンスを追った歌唱」のようなもので、本質的な魅力に乏しい。

つまり、

人物設定→ドラマ
ではなく、
ドラマ→人物設定

なのだ。
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2016年05月15日

アリストテレス的、プラトン的とは…。

先日は、アポロン的とディオニュソス的について裁断的に提示した。

アポロン的とは、この世界の「本質・存在」を表現すること。
具体的には、「無常」を表現する日本の芸術。バッハ、ワーグナー、シェーンベルグ

ディオニュソス的とは、鑑賞者の感情をゆさぶることを、芸術の目的とすること。
具体的には、チャイコフスキー、ヨハン・シュトラウス…。

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2016年05月08日

アポロン的・ディオニソス的。

青山昌文教授の大学院の教科書「美学・芸術学研究」を読んでいる。

音楽の話題では、中世の音楽観として、以下をあげている。

1、宇宙の音楽
2、魂の音楽
3、器官の音楽

このうち、音を伴っているのは、3だけ。
つまり、1と2は、バイブレーションというようなものか。

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