2007年06月28日

サイバージャーナリズム論。「それから」のマスメディア。7/15にソフトバンク新書より発売。

この本の表紙の見本が私のところに送られてきている。

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腹帯には、「マスコミが衰退した理由。ネット社会が不安な理由」とある。

これこそが、本著が提出する問題点である。



本のタイトルは、「サイバージャーナリズム論」だ。

これは、「新聞のなくなる日」で知られる毎日新聞OBの歌川氏が、東京財団でジャーナリズムの研究会で行なっていた研究対象から当然のように紡ぎだされたものだろう。
共同執筆者にも、新聞社・通信社・フリーランス・市民という立場の差はあっても、ジャーナリストだ。

だが、本著の内容は、どうなのか…。
といえば、従来のジャーナリズムの狭隘な概念に縛られた言論とは一線を隔している。

本著によって、「マスコミとネットが融合するための堰が切られた」と言ってもあながち過言ではないのかもしれぬ…。と、スポンタは考えている。

本著の大まかな流れを次に記す。

勿論、これは、スポンタの印象批評でしかない…。


歌川氏は、ビジネスモデルとしての新聞メディアを語り、リファレンスとして米国のそれと、ネット上のニューメディアを語る。

湯川氏は、「ネットは新聞を殺すのか」を書いた2003年からの4年で、自身の言論がいかに変化したか。そして、時代の変化の中で何が変わらなかったか。変えなかったかを、文章で体現している。
彼の興味の対象は、ブログから、ソーシャルメディアに移っている。

※ブログで湯川氏と知り合い、いまもブログで言論しつづけるスポンタとしては、頭の痛い話である。実装力を身につけなければ、スポンタは旧人類でしかない…。

森氏は、彼の存在そのものが新しいジャーナリズムである。彼の言論には、旧来のジャーナリストにありがちな思想的な視点は感じられない。彼は、社会学的な手法でネットを中心とするニューメディアに切り込んでいく。

佐々木氏については、私が述べることもない。彼は、毎日新聞の先輩の歌川氏に触発され、マスメディアの王様であるテレビについて詳細な考察をあげている。

そして、スポンタ中村のネット市民参加型ジャーナリズムの嘆きにも近い文章があり、森氏とスポンタの言論バトルと続く…。

最後は、グーテンベルグ以来のメディアの歴史と、インターネットの登場した2007年を総括して、歌川氏がしめくくっている。




確かに共同執筆者である5人は、ジャーナリズム・ジャーナリストという言葉に魅かれた人達だろう。だが、それぞれの言論は強烈に異なっており、立場の違いはあまりに明確である。

通常であれば、このような組み合わせの執筆陣であれば、議論はかみ合わず、平行線を辿るのみ…。

けれども、この本が奇跡的に成し遂げていることは、それぞれの言論の間に対照関係があること。対話が成立していることである。

その奇跡を成立させたのは、コミュニケーションの中核を成した湯川氏の「ジャーナリズムには、継続した対話が重要である」という一貫した態度と、主宰者である歌川氏の「新しいもの・自分の意見と異なるものを貪欲に吸収しよう」という誠意ではないか。

と、不遜にも私は考える…。

たしかに、この本のタイトルは「サイバージャーナリズム論」である。

だが、この本が提起するものは、対話である。
世代(ジェネレーション)・立場(ステークホルダー)を越えた対話がいかにしてなされたか。

それをこそ、読者の皆さんは受け取って欲しい。



あらためて指摘するまでもないが、対話を成立させる条件は3つある。
それは、

1. 情報共有。

2. ステークホルダー(立場・自己利益)を越えること。

3. ルサンチマン(過去の怨念)を越えること。


確かに、今回、険しい議論があったことも事実である。

だが、結果として、誰一人として情報共有を拒むでなく、自らの立場に拘るでなく、過去の怨念に捉われるではなかった…。

読者のみなさんには、そのことを愛でて欲しい…。



セカンドライフが登場したが、そこを仕切るのは広告代理店。既存のメディアとネットが対立していた時代は、すでに過去のことなのである。

編集氏がつけた「マスコミが衰退した理由・ネット社会が不安な理由」という腹帯は、対立構造が終焉したことを如実に表している。

そして、あえて指摘するなら、マスメディアとネットの対立・戦争など、もとからなかったのである。
あったのは、マスメディア上の個とネット上の個の摩擦・軋轢である…。

かつて、JANJANの市民記者交流会で、2ちゃんねるの西村氏は私に言った。

「対話は、戦いじゃないよ」

私のその言葉を今一度噛み締めてみる…。

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アルゴリズムについて論じてすでに50回。そして、ステークホルダーを論じて続けてすでに1年以上が経っている…。

私は、この本が売れることにステークホルダーを持つ。この本の有用性を語ることが私のステークホルダーである。そのことをいかに捨象して論じるかが、わたしの務めである。

不備があれば指摘して欲しいスポンタである。

2007年06月27日

アルゴの時代50:「サイバージャーナリズム論」(ソフトバンク新書)7/15発売。献本いまだできず。

新しい本の情報リリースである。
だが、最近のネットでは、恒例となっている献本はしていない。

つーか、まだ、まだまだ、初校が戻ったとこだもんね…。(^^;)

てことですが、本の表紙が送られてきた。

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本のタイトルは、「サイバージャーナリズム論」であり、発売日は、7月15日とのことである。
ソフトバンククリエイティブ出版では、一万部を越える部数を刷られるということだから、全国の書店に並ぶのだし、このブログを読まれていて興味を持たれた方は、是非とも購入して欲しい。



この本は画期的な書物である。

なぜなら、いままで、「既存メディア者(既存メディア者 vs ネット者)」@既存メディアという本はあったかもしれぬ。

だが、この本は、「既存メディア者 vs ネット者」@既存メディアになっている。

ここが凄い。

*

湯川鶴章氏が、「ネットは新聞を殺すのか」が上梓されたのは、2003年9月である。
それはおそらくジャーナリズムがネットに語った初めての出来事だったかもしれぬ。

当時、湯川氏のブログに集まったネット者たちは、湯川氏のことを自分達の代弁者と捉えていたと思う。
だが、彼は日本の代表的な通信社の社員である。ネットやITに詳しいけれども、それは研究対象にすぎず、ネットでしか言論発表の機会を持たぬネット者との乖離は深かった。私は、彼のブログのコメント欄に徘徊し、その誤解を埋めようと努力したが、それが功を奏したかどうかは定かではない。

共著者の人である佐々木俊尚氏は、「グーグルGoogle」というベストセラーを出した。
その素晴らしさは、新聞人として育んだ卓越したスキルで、インターネットの象徴ともいえるグーグルを丸裸にしたことである。
だが、彼とて毎日新聞OB。彼の言論が、ネット寄りに重心を移動しているにしても、すでに体得してしまった職業規範との決別はなかなか難しい。

*

だが、今回の書物は違う。
この本は、あくまでも「既存メディア者 vs ネット者」なのだ。

本著・第九章では、歌川氏が司会となって、森健氏と私の討論がある。

歌川氏は、「それでは、知的バトルを始めましょう」と、和やかに討論の口火を切る。

だが、そこから始まる討論が知的な討論なのか、ネットvsリアルという、お互いの利害を確認しあうだけで、平行線の議論が提示されるだけなのか…。

それは、ぜひとも、本を読まれた読者の主観において、判断して欲しい。
ジャーナリズムに詳しくない人でも、リアルとネットの対立の根っこは何なのか。

そのことを知る・感じることは有益である。と、執筆者の末席にいる私は確信する。

この討論の場の緊迫感・臨場感は絶大である。

是非とも、書店にて、この本を手にとって欲しい…。
そして、そのまま会計コーナーに進み、購入して欲しい。

*

たしかに私が出版の場に進出することが、「ミイラ取りがミイラになる」と危惧するネット者も少なからず存在するだろう。

だが、それはあまり気にしなくていい。

私が既存メディアの色に染まってしまったら、このブログで強烈に糾弾されるし、当然のように炎上もする。

だが、いかなる場合も私は、ブログでの対話を諦めないし、ブログでの対話を継続する。
対話が不可能であっても、少なくとも、メタ対話は続けていくのだ…。



本のタイトルは、サイバージャーナリズム論である。

サイバージャーナリズムとは、言い得て妙な表現である。

サイバーとは、リアル社会の側から見たネットというニュアンスがある。リアルな場にいる人は、サイバーテロなどと言うが、サイバーとはネットを使った犯罪を示すものであり、ネットの中で完結しない犯罪である。

一方のネットとは、広義・狭義もあるのだろうが、単純にネットといえば、ネットというコップの中だけの出来事ということになる。

世の中には、「炎上しました」と不満を言う人、恐怖を感じる人たちが続出している。
だが、炎上のほとんどは、コップの嵐でしかない。

私も2ちゃんねるのバッシング時から、さまざまな罵倒・中傷を受け、炎上も経験しているし、人の喧嘩にしゃしゃり出たり、さまざまなことをしてきた。

確かに、私はトリルさんと一緒に警察に行ったり、刑事が私の家に尋ねてきたことはあった。
だが、私が武術家・甲野善紀氏の講習会に参加し、柔道で身体を鍛えてきたにも関わらず、挑まれたことも、殴られたこともない。

ネットはjustネットであり、コップの中の嵐なのである。
だから、2ちゃんねるの西村博之氏の言うとおり、ハンドルできぬ人は関わらなければいい。

*

だが、サイバーという概念は違う。

ネットに関わろうが、関わるまいが、実害は受ける。
サイバーテロによってシステムがダウンして、システムに依存するサービスを受けられぬ。

そういう状況をサイバーという言葉は暗示している。

そして、それこそが、2007年の今である。

07sponta

義家氏に関連して、第三者評価機関というやり方が、日本の精神風土に似合わないことを論じるつもりでいた。

だが、「サイバージャーナリズム論」(ソフトバンク新書)7/15発売決定で、書けなくなってしまった。

50回を期に、今後は、アルゴの時代というタイトルは適宜、使用することにする。

今回のエントリーも、出版・討論・ネットという3つのアルゴリズムについて述べていることを読み取っていただければ幸いである。

2007年06月20日

アルゴの時代46: 初稿ゲラ届く。編集者に感動・感嘆…。

すでに発表していることだが、私が参加した歌川令三氏が主宰した東京財団の「それから」研究会の報告書が本になる。


執筆陣は、
・「新聞のなくなる日」(草思社)の歌川令三先生。

・時事通信編集委員で『ネットは新聞を殺すのか?』(NTT出版)の湯川鶴章氏。

・『グーグル・アマゾン化する社会』(光文社新書)の森健氏。

・毎日新聞OBで、『グーグルGoogle』などのヒット本を連発する佐々木俊尚氏。

・そして、対談に登場する公文俊平氏(元グローコム所長)など、錚々たるメンバー…。


不肖・スポンタ中村も、その末席を汚させていただいている。
本のタイトルも未定なので、ここでは何も発表できぬが、7月出版をめざしている。

そして、昨日、初稿ゲラが届いた。



いやぁ…。

なんとも、嬉しいの一言である。

何が、嬉しいかといえば、私の拙い国語力を編集者に校正していただいたこと。

それは文法的な誤りばかりではなく、文脈的な不明解さや、おぼろげな対立点を明確な対立点にしたり、隠れていたテーマを明確化したりと、多岐に及んでいる。

*

このブログの読者の方の多くはご存知ないかもしれぬが、私がライブドアPJに参加していたとき、一番最初にバッシングを受けたのは、「国語力」である。

批判者曰く、私の言論は意味不明であり、明らかなミスタッチのようなものも痛烈に批判された。

私は、「誤読を指摘されるものは、誤読されぬ」という確信を持っており、記事の内容を吟味せずして、文章を断罪する人達の思惑を理解できずにいた。

そして、知人である市民記者のブログのコメント欄に、私は、「日本語なんてクソ食らえ」という挑発的な文言を書き込んだ。

そのコメントは様々に引用され、2ちゃんねるをはじめとするバッシングが一気にに燃えさかったのである。



できあがった初稿ゲラを読みながら、
なんと、編集者というものは、素晴らしいものなのだろう。と、感激、感嘆している私がいる。

妻は、その原稿を読みながら、「何であなたはこういう風に書けないの」と、なじる。
私は、その非難の声にも、「そう。そうなんだよなぁ」と、ニコニコ・ニヤニヤしている。

編集者は、私のゴツゴツ・棘棘した文章を、角を取るでもなく、当意即妙なやり方でブラッシュアップしてくれた。
私は、そのスキルと努力・情熱に心から感謝する。

よく、作者のあとがきに編集者への感謝の弁があるが、それが単なる社交辞令でないことが、いま、実感として分かった。
私の国語力の拙さと、編集者の実力。

このようにして知らされると、私の中には反発する気持ちはまったくなく、感謝の気持ちで一杯になる…。

あと、一月もすれば、書店に並ぶ。
そのときに、原稿をお読みいただいて、私の文体との違いを確認して欲しい…。

そして、私はといえば、活字になった私の原稿をお手本にして、拙い国語力を自分なりに向上させていく。そのような努力を惜しまぬことを誓わなければならぬ…。



はっきり言って、私の原稿生活に、このような至福の時はなかった。

映像業界の場合、プロデューサーやディレクターに原稿を出しても、その殆どはダメ出しをされ、修正を求められるだけ。
修正作業は、それが自信作であればあるほど、自分の無能さを痛感させられることであり、屈辱以外の何物でもない。

だが、その修正の原因は双方の主観の相違であることが殆どであって、どちらが正しい・間違っているというケースは少ない。結局のところ、権力を握っている人間が文句を言うばかりで、一切の実作業をしないというのが通例である。

そして、自分で書くようなプロデューサーやディレクターの場合は、ライターが書いた原稿は跡形もないほどに容赦なく修正されてしまうのである。

*

だが、編集者の作業は違う。
編集者は、執筆者の原稿を深く理解し、それを読者の理解・感動につなげるように文章を整えていく。
私は、そのような編集者の存在に深く感動するのである。



かねがね指摘しているように、アメリカの俗諺に、「コミュニケーションは相手が決める」というのがある。

私は、編集者によって整えられた原稿を読みながら、私の拙い原稿がこのように深く読み込まれたことに感謝と感動を禁じえない。私が書いた文言とささいな乖離があったとしても、コミュニケーションは相手が決めるのである。
私の原稿の最初の読者である編集者が解釈したことこそ、「私の述べたこと」であり、私が何を書いたかということは重要ではないのである。

そのことは、書籍になる私の原稿が編集者との共同作業によるものであるということを指摘しているとともに、作者と編集者の役割分担ということも明確にさせてくれる。

そして、思う。

国語力が、発信者としての必要不可欠なスキルではない。(勿論、開き直るつもりはないが…。)

執筆者と編集者が協力することによって、破綻のない文章を綴ることが可能であり、ネット上に国語力に瑕のあるものが存在したとしても、それを理由に批判することに合理性はないのである。



ほとんうのことをいえば、私は、2ちゃんねるにおけるような悪意のダンディズムで国語力批判をかわすのがベストだと思っている。


だが、このような素晴らしい編集者のスキルに出会うと、編集者のスキルに依存しながら、あるべき言論世界をつくっていくことも可能なのではないか。と、夢想することもできる。
そのほうが巷間の理解を得やすい…。

ただ、私の原稿を編集してくれたような優秀な才能が、どれほど存在するのか。

出版界に明るくない私には知るべくもないが、それがネックなのかもしれない。


07sponta

アルゴリズムに即して言うならば、発信者と編集者のカップリングにより、有効な言論行為で可能になるということ。

クラスター化することで個が発信しやすくなるというフェイズと同等に、言論介助人としての編集者の存在も重要なのである。
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