2013年04月21日

市民参加型ジャーナリズム追想。

2005年当時の私に見えていなかったのは、マスコミが左翼者によって動いており、市民運動も左翼者のたまり場になっているということだった。マスコミ者が高給なのは、言論誘導機関として役割を担っているからであって、高給でマスコミ者たちは骨抜きにされていた。

そして、市民参加型ジャーナリズムの活動のほとんどが終わったときに、「ルサンチマン(怨念)」という言葉に突き当たる。

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posted by スポンタ at 20:08| 東京 ☀| Comment(0) | 「サイバージャーナリズム論」(ソフトバンク新書) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月03日

鳥越俊太郎の凄さ。「私は聞いたことを書いただけで、それが真実だと思ったことは一度もない」。

鳥越俊太郎氏が、市民記者の心情を一番分かっていると書いた。それが抽象的だったか。と思ったので、その根拠を書いた。

私は、昨年、日本新聞労働組合連合のシンポジウムでパネラーをつとめたが、このようなショッキングなセリフを言うことができる記者が会場にいたかどうか。度重なる癌の手術で死と直面したことと、新聞界からアウトサイダーになっている立場がこのようなセリフを彼に許したのかもしれぬ。続きを読む

2007年10月19日

初音ミク現象に思う。ブロードキャストとジャーナリズムは相容れない。

さて、いま早朝5時だが、私はパジャマを着てパソコンに向かっている。どうも、「初音ミク」現象というのが、起きているようだ。

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0710/15/news008.html

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0710/18/news040.html

簡単にいえば、TBSで「初音ミク」という音声合成ソフトの特集で、おたく批判をした。
その後、それがネット言論で批判された。
すると、グーグルとヤフーで「初音ミク」で画像検索をしても、ヒットしなくなるという現象が起きた。

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2007年09月27日

サイバージャーナリズム論のそれから:問題はコミュニケーション論とコミュニティー論の混同である。



本著の問題は、ビジネスとしての言論活動と民主主義的所作である言論活動を一緒くたに論じていることである。

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2007年09月26日

サイバージャーナリズム論のそれから:正義のありかによってコミュニティーは細分化していく。



さて、「ネットの情報は信頼できぬ」との言説がもっぱらである。ネット者の私にしてみれば、それはネットに限らぬことである。と、マスコミ関係者に申し上げたい。続きを読む

2007年09月25日

サイバージャーナリズム論のそれから:メディア論に過ぎぬとの批判。

本著がメディア論に過ぎぬ。との批判を頂戴している。ジャーナリズムの定義が曖昧である。との指摘もある。

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2007年09月24日

「サイバージャーナリズム論」のそれから〜。

出版から2ヶ月が過ぎ、おおかたの書評は出揃っているし、販売の行方もなかば決していると思うので、私の感想を綴ることにする。

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2007年09月23日

純粋コメント者・トリル氏の「サイバージャーナリズム論」の感想。


浜田マキ子氏とメイルのやりとりをしている。直近の彼女のメイルには次のようにあった。
「言葉にするではなく行動で示せ」「男子三日会わざれば恰目してみるべし」。

ブログに書くことが心情の吐露にすぎず、行動として成立していない。過去の自分を誇るでなく、いまを生きろ。厳しい言葉である。



「サイバージャーナリズム論」が出版されて2ヶ月が経った。そろそろ、この本と私の距離・乖離を紹介していい頃かもしれぬ。
まず、私の原稿に対する純粋コメント者・トリル氏の感想を紹介することにしよう。

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2007年07月19日

CJ論05:「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか?」(扶桑社新書14)vs「サイバージャーナリズム論」(ソフトバンク新書):梅田望夫vs西村博之vsスポンタ中村。


7/15に「サイバージャーナリズム論・『それから』のマスメディア」がソフトバンク新書から発売された。

同著の腹帯には、次のようにある。「マスコミが衰退した理由。ネット社会が不安な理由」。

この理由は何かといえば、同著のコミュニケーターとしてハブ的な役割を果した湯川氏が重要性を指摘してやまない「対話」である。


マスコミは視聴者・読者との対話を拒絶する。一方、ネットは、好きなもの同志のコミュニケーションと、嫌いなもの同志の対立しか行なわない。

*

一方、「2ちゃんねるは何故潰れないのか?」という本の腹帯は、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」である。


同著の対談者である佐々木俊尚氏は、西村氏の物言いを「実も蓋もない」と形容し、梅田望月夫氏の論を「あまりに牧歌的」と評する。
倫敦橋氏の総括を引用するならば、「現実的な西村氏・理想論の梅田氏」となる。

だが、「理想と現実」という二つのパラメーター(尺度)だけで、その乖離が成立していると、私は思えない。



問題は、個かコミュニティーか…。

その問題を勘案しなければ、正確な分析はできぬ。というのが、私の見解である。




先のエントリーでも指摘しているが、「自由という概念は、個にとっては絶対善であるが、集団・コミュニティーにとっては、矛盾を孕んでしまう」。

母性的な思想では、戦争も死刑も絶対悪として批判できる。
だが、父性的な考えでは、戦争も死刑も必要悪ととして、是認せざるをえない。


西村氏の物言いの底に、冷徹なリアリズムがあるとしても、それは、現実が変わらないことを前提としてのリアリズムに過ぎぬ。

だが、社会全体が変化している・変化することをイメージできれば、彼のリアリズムも単なる諦観のひとつに過ぎぬと思えてくる。

つまり、いまを生きる西村氏の言論は個の論理としては正しいが、その思想をコミュニティー全体に広げることに妥当性はない。ならば、彼の言論は魅力的ではあるものの、明日につながっていかぬ。刹那的なものでしかない。



たとえば、西村氏が、「裁判所に通うも、賠償に応じない」のは、司法制度の不備・不毛からいって当然の行動かもしれぬ。

とはいえ、当事者としてそのような不備・不毛を感じたならば、自らの利害のために行動するだけでなく、後続者たちのために、それらの問題を解決すべく代案を提出するべきではないか。

つまり、西村氏は、日本人としての1/1億3000万の責任を、当事者としてまっとうしていないと感じるのです。

では、私はそのような司法の不備・不毛に何を思うかといえば、「対話」を継続することで、解決を模索すること。
ネルソン・マンデラ氏が行なっている、真実和解委員会の存在を広く知らしめることなのです。



西村氏の言論は、「個的・現実的」であり、

一方の梅田氏の言論は、「個的&集団的・理想的」である。

*

私は、すでに梅田氏が提出する言論たちをエバンジェリック(業界御用達)的であると指摘しているし、一切のローカライズ(日本導入のための微調整)を施さない乱暴なアメリカニズムの輸入と断じている。

パリのファッションショーで発表されたドレスが載っているファッション雑誌は東京でも売れる。
だが、そのドレスを東京で売っても、サイズは合わないのだから、売れないのは当然である。

同じようなことを、梅田氏はしていると私には思えてならない。

そして、昨今の「はてなスター」に関連する、コアユーザーたちのはてな不評を見ると、そのような軋みは広がっていると感じている。



そんなことを偉そうに言っているスポンタ中村は、どうかといえば、次のようになる。

理想は理想。

現実は現実。

個の論理は個の論理。

集団の論理は集団の論理。


今日は、今日だけど、明日があることを忘れてはならぬ。

明日のために、今日を台無しにしてはならぬ。

そんなことだろうか。



勿論、2ちゃんねるの西村氏・「ウェブ進化論」の梅田望夫氏の知名度に、スポンタ中村が及ぶはずもない。

とはいえ、佐々木俊尚氏の存在が、我ら三人を結び付けてくれるのではないか。と、期待している。

湯川さんも指摘しているように、リアルな場では、私は柔和な人物に豹変するのだという。

今後のコミュニケーションに期待するのみである。

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2007年07月18日

CJ論04:毎日新聞OB歌川令三先生との出会い。ジャーナリストの反権力精神は、いつの時代にも妥当なのか。

私が「それから」研究会に参加したのは、2006年の夏である。
時事通信社の湯川鶴章氏が、「おもしろい人がいるから…」と、私を歌川先生に紹介してくれたのが、きっかけである。

当時は、まさにオーマイニュース日本版のスタート前夜だった。
オーマイニュースの成功の条件を、オーマイニュース日本版の開店準備ブログに書き込むとともに、編集長の鳥越俊太郎氏とわずかなメイルのやりとりをする。丁度、そんな時期だった。

時は多少前後するかもしれぬが、共著者の佐々木俊尚氏は、オーマイニュースの論調について、左より過ぎぬのではないかと、指摘していたと思う。

*

当時の私は自らを、「書かざる市民記者」として自らを誇っていた。
そんな私が、ネット市民新聞・市民参加型ジャーナリズムをどのように考えていたかといえば、次のようになる。

・彼らがもっとも気にしているのは、既存マスコミであり、そのスタンスは、明らかな敵視であり、ときとしてそれは、屈折した愛情。受け生けられぬものの嫉妬とも思えた。

・市民参加型ジャーナリズムの運営者たちは、市民たちの声をすくい上げることに注力していない。

・彼らは既存マスコミでの修行でえたスキル(国語力)を誇示し、市民記者たちの文章を鑑別する。

・彼らが文章力で、市民記者を援助することはあっても、プロと市民が協力して新しい言論をつくろうという気持ちはまったくない。


そして、ライブドアPJ、JANJAN、オーマイニュースに共通する、既存マスコミ出身の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちの思想と行動の根っ子に、次のようなものがあると確信していた。

・ジャーナリストは、反権力たるべし。


ライブドアPJの研修に参加してときに、初めて知った聞きなれぬ言葉は、次のよう。

・ジャーナリストとしての矜持。

・社会の木鐸。

・ウォッチドッグ


矜持とはキョウジと読み、誇りのこと。木鐸とは、社会に警鐘を鳴らす人のこと。ウォッチドッグとは番犬のこと。

さまざまな問題をはらみつつも、民主主義国家である日本において、市民であることが被差別階層であることとは限らない。そして、ウォッチドッグ・番犬などいうが、誰のための番犬なのか。その明確な答えはない。
誇りやプライドをわざわざキョウジなどという難しい言葉を使わなければならぬ韜晦(隠すこと)の念が、私には理解できぬ。
きっと、誇りやプライドという用語にある、ある種「胸を張っている」ニュアンスを払拭したかったのだろう…。

*

当時の私を捉えていたのは、「自由という言葉の不毛」だった。

個にとって、自由という語は価値があるが、コミュニティーにとって自由という概念は不毛である。

つまり、個にとって自由であることは絶対だが、コミュニティーにおいては、自由という概念は、不自由という概念を許容しない。つまり、権利と義務などという概念を援用せずとも、絶対的な自由は存在しない。
自由でいたくない人の自由を、自由という概念は許さないのである。

ならば、コミュニティーにおいて自由を喧伝することに意味はない。そして、それに代わる概念を提出するならば、「多様性の許容」となる。

そのように論理を紡いでくると、自由vs束縛、権力者vs被差別者というような硬直した西洋的二元論が無価値になってくる。

そして、その延長線上に、既存メディアのジャーナリストたちが語ってやまぬ「反権力」の自負もあるのだろう…。



その頃出版された「ブログはジャーナリズムを変える」という本で、湯川鶴章氏は、私の言論に言及してくれている。

いままでは野党的ジャーナリズムの時代だったが、これからは与党的ジャーナリズムの時代である。


かつて週刊文春の編集長だった花田氏は、「昨今、頭の言い人は右翼的言論の保持者である」と言い放つが、私の文言も似たようなものだろう。

いまや、ベルリンの壁が崩壊して以降、右か左かの重要度はなくなっている。結果、自らの求心力を失った左翼者たちが、上か下かをテーマにすることにより復権を目指している。それが「格差社会」というテーマである。格差社会を論じることと、右(新自由主義)であるか左(社会民主主義)であるかは、関係がない。そのことを理解しなければならぬのだ。



民主主義の世の中に、自らをコミュニティーの外において、コミュニティーを批判する。そのようなことの妥当性は失われている。

私が、反権力という矜持をジャーナリストたちが持つことを疑問視する理由はそこにある。

情報格差が大きい専制国家ならまだしも、21世紀である。

すべからく2元的な言論は、単一アルゴリズムの専横に導くものであり、世の中を歪にしていくに違いないのである。

そして、とりあえず、歌川氏を前に講演したのは、以下に連なる言論たちである。

ネットシンポ01

中曽根首相のブレインの役割も果した歌川先生が、盲目的な反権力思想と無縁であることは、いうまでもない。


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追記:
倫敦橋さんのブログで、梅田さんと西村さんの対比があったので、次のように書いた。

民主主義というのは、民意が第一の権力のはず。

三権も、民意が形成されるまでの時間を埋めるだけのものであって、民意が形成されれば、三権も屈服するのは、本村最高裁判断だけではないはず。

インターネット言論を第五権力の誕生といいますが、第0の権力なんですよ。


第四権力を誇るマスコミが、「第五権力として頭角を現すインターネット」を自己権益を疎外すると警戒・敵視することなど、およそ見当違いのことなのです。

2007年07月17日

CJ論03:ふたつの「サイバージャーナリズム論」。2003年と2007年の乖離というよりも、既存のビジネスモデルの価値観でインターネットを語ることに価値はない。

CJ論01で指摘しているように、情報発信者(ステークホルダ)の論理でインターネットを語ることに妥当性はない。

エバンジェリック(IT業界御用達)な言論がIT界を席巻しているが、それらは、広告費を引き出したり、ベンチャーキャピタルを誘導することには寄与するが、その実効性は定かではない。




最近のエントリーでは、2007年のインターネットが「キャズム」にあると指摘している。

エバンジェリストたちは、イノベーターに続く人達。アーリーアドプターを導くに過ぎない。
一方、ジャーナリストは、アーリーマジョリティーを導く人達であり、その社会的影響力は莫大である。

そして、あえて指摘するまでもないだろうが、インターネットはイノベーションの時代が終焉。
技術がネットの形を決定する時代は終わり、消費者動向がネットの形を決定する時代がすでに始まっている。


*

つまり、ブラウン管にイの字が映ったといって驚いている時代は終わり、力道山の街頭テレビの時代(メディア提供型情報)も終わり、クレージーキャッツの時代(ディア作成情報)も終わり、「スター誕生」「君こそスターだ」の時代(ユーザーのメディア者化情報)も終わり欽ちゃんの「どんと行ってみよう」(ユーザー参加型情報)や、の時代も終わったのである。

このテレビの時代の比喩が何を表現しているかといえば、いままで、視聴者は、せいぜいのところ、番組制作部にしか関与してこなかった。

だが、これからは視聴者(ユーザー)が、インターネットというツールを使って、番組編成部(番組表という、番組の重要度のメタタグをつくってきた部署。)にまで、関与してくるということ。


さすがに視聴者がテレビ局の経営にまで関与することはない。
だが、株主や広告主の圧力を通じて、それらがまったくないということではない。

*

今、インターネットで起きていることは、IT関連ビジネスのコモディティー(普及商品・定番商品)化。

その状況の中で、IT関連企業はマージン低減という悩みを抱え、すでに投資された経費を回収できないでいるとともに、一方では、過去の利益構造の栄光にすがりつく…。

自らを変えられぬ者・過去を捨てきれぬ者の多くは、時代の表舞台からの退場を余儀なくされる。


そのような状況と無縁なのは、マーケットとは無縁であるアカデミズムであり、地上波という寡占企業たちだけ。

2003年のサイバージャーナリズム論が、2007年において陳腐化して見えるのは、そのような言論者たちの背景があるためであって、4年の時の流れを反映してのことではない。

2007年本、アカデミズムにステークホルダーを持つ発信者は少ない。そして、数十ページに過ぎぬとしても、ネットユーザーに過ぎぬ私が発言権を得たということが、時の流れなのかもしれぬ。



「サイバージャーナリズム論」という同名の著作である。

2003年の東京電機大学出版局がつけた副題は、「インターネットによって変容する報道」である。

一方、2007年の東京財団の研究会とソフトバンク新書がつけた副題は、「それからのマスメディア」である。

その違いは何かといえば、2003年本が、発信者たちの言論に終始したことにある。
確かに、2003年本にも、ネットユーザーに関する記述はある。だが、その形容は、クレーマーであったり、便所の落書き者でしかない。


2007年本がどうかといえば、少なくとも、受信者たちの言論が視野に入っている。
とりあげられるネットユーザーも、CBSのキャスターを降板させたブロガーたちが紹介されている。勿論、私を除けば、ネットユーザーの言論を否定的に見る論者が多いことも事実だが、その文脈は画期的に変化していると感じてならぬ…。

2003年本の最終ページには、次のようにある。

インターネットの普及によって普通の市民がジャーナリズムの担い手として「ウォッチドッグ」の役割を果せるようになるだろう。

一方の2007年本で私は、「ウォッチドック(社会の木鐸)」など、自警団のボスや他人の生活に介入したがる世話好きな長屋の大家さんに過ぎない。と、指摘する。

歌川先生は、自章の最終部において、「仲介者」という言葉を選んだ。

ジャーナリストとは介入者ではなく、仲介者。つまり、コメンターではなく、コミュニケーターであるということを指摘したかったのかもしれぬ…。

仲介者の中身については、ぜひとも2007年本を手にとって読んでもらいたいものである。

2007年07月16日

CJ論02:ふたつの「サイバージャーナリズム論」。2003年と2007年の乖離というよりも、インターネットの特性を見誤っては、何も始まらぬ。

東京財団のジャーナリズムの「それから」研究会では、ネットに関わるジャーナリズムの現状と将来について、意見を交わすことが主眼になった。

だが、その実際は何かといえば、「インターネットとは何か?」という根本的な問題であった。

2003年の「サイバージャーナリズム論」には、2.2. インターネットの特性という章を設けている。

そこで、指摘される項目は以下。

1.双方向性

2.リアルタイム性

3.一覧性

4.到達力(リーチ)

5.情報伝達量

6.オンデマンド性、あるいは保存性

7.検索性

8.扱える表現様式(マルチメディア性)

10.コスト


とある。

このような項目を見ただけで、内容を想起しないキャプションづくりは、極めてインターネット的ではないので悲しくなってしまう。

内容をイメージさせぬキャプションは、発信者の意地悪でしかない。

*

※例:×2007年の教育の問題(抽象的)→×ゆとり教育の弊害(現状提示のみ)→ゆとり教育をやめよ。(現実の否定のみ)→個の多様性をいかした教育をめざせ。(代案提示&アウフヘーベン)

*

それは、さておき、これらの殆どが、実は、テレビやラジオでもすでに、達成されていることを理解せねばならぬ。

視聴者参加番組は双方向性だし、生番組はリアルタイム性。新聞各社の記事を紹介する朝の報道系ワイドショーは一覧性。テレビの到達力はネットをはるかに凌ぐ…。
以下、さまざまな分析があるが、巷間流通しているものと同じであり、ここであらためて紹介するまでもないだろう。



一方の私が指摘するインターネットの特徴は、4つ。

1.インターネットは無限の地平。

…中心も偏狭もない。よってガバナンスも固定パイを奪い合う椅子取りゲームも無価値。
あるのは、ディファクトオブスタンダードであるかどうか。すべては、この指止まれ方式によって優劣が決する。


2.永遠のベータ版性

…すべての発信はベータ版(未完成版)のリリースでしかない。


3.ログが残ること。

…そして、あろうことか、未完成版と改訂版が並存する。…重要なことは、紙かディスプレイの違いではない。


4.マルチタグが情報にまとわりつく。

…これにより情報発信者がコンテンツに君臨する時代は終焉を迎える。


この4つの特徴によって、起こることは、既存のエスタブリッシュの権威が失墜することである。

既存のエスタブリッシュの失墜は、新たなるエスタブリッシュの誕生、ネットユーザーの時代の到来を意味すると感じる人たちもいるだろう。

だが、それは早とちりである。


フラットなアルゴリズムが専横している現在のインターネットの構造では、ネットユーザーが主役になることはない。



それが、ネットの不安の源泉であり、2007年以降解決しなければならない問題。

2007年本の腹帯にある「ネット社会が不安な理由」のすべては、フラットなネットの現状に起因するものである。

アルゴリズムについては、50以上のエントリーをすでに上げているので参照していただければ幸いである。

50エントリーの長部であるが、図説満載なので、楽しんでもらえると思う。


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2007年07月15日

CJ論01:ふたつの「サイバージャーナリズム論」。2003年と2007年の乖離というよりも、ネットユーザー不在の論理に価値はない。

2007年7月15日「サイバージャーナリズム論・それからのマスメディア」(ソフトバンク新書)から発売された。

この本は、2007年のインターネットとマスコミの現状を理解するために、極めて示唆的である。

*

本著作の主宰である歌川令三氏は、あとがきに次のような文章を綴っている。

「本書が、巨大マスコミの知的刺激剤になり、メディア進化にささやかな一石を投ずる役割を演じるのではないか」

歌川氏は、第一線として活躍してきたマスコミ人として、後輩たちに、メッセージを送っている。

無名氏としてインターネットに15年ほど付き合ってきた私は、すべてのネット者に、「インターネットがどうなってしまったのか」について、語ったつもりである。

本著がテーマにしているものは、ジャーナリズム・ジャーナリストである。
だが、これをコミュニケーション・個と読み替えていただければ、見えてくるものは、まさに2007年の日本である。

ぜひとも、書店で手にとって、できれば購入してもらいたい。と願っている。

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「サイバージャーナリズム論」とググれば、東京大機大学出版の「インターネットで変容する報道」という副題がなされたにたどりつくに違いない。

エピソードとして触れられるのは以下…。
時の流れを感じさせる。

・1997年に判決の出た、ニフティーサーブの現代思想フォーラム。
・東芝のクレーマー事件。同、DHC
・2ちゃんねるで起こった動物病院に対する風評問題がエピソードとして触れられている。
・2002年に放送されたNHK番組「奇跡の詩人」の問題。
・ディープリンク
・アイコラ
・映像の引用について、TBSと山口組の裁判。

たしかに当時のことが書かれている。だが、私には、その本が、2003年のムーブメントを著していたとは思えない。

*

同著は、「ジャーナリズムの定義を拡大するとジャーナリズムの本質が見えなくなる」とし、その定義を「時事問題の報道・解説・批評活動」と定義してスタートしている。

だが、そこにおいて決定的な不備がある。と、私には思えてならない。
それは何かといえば、報道・発信する側のステークホルダー(立場・利害)にまみれた、ジャーナリズム論しか展開されていないことである。

同著の目次を見ると、次のようだ。

1.ジャーナリズムとは何か

2.メディアとしてのインターネット

3.インターネットにおけるビジネス・モデル

4.誤報と情報の信頼性の問題

5.匿名性の問題

6.サイバージャーナリズムと著作権

7.人権侵害と営業妨害

8.メディア規制とインターネット

9.サイバージャーナリズムの未来


章の構成から考えるに、6.7.8章で提示されるインターネット言論の諸問題の提示が、この本の目的であろう。

だが、その視点が、インターネット的ではないことに気がつかなければならない。否、おおよそ21世紀の日本に合致する言論ではない。

あらためて指摘するまでもないが、21世紀の日本の産業で、消費者・ユーザーを無視して経営がなりたつものは存在しない。

にもかかわらず、2003年の同著では、言論者・アカデミズム・エスタブリッシュの側から、インターネットというサービスが語られている。

このような製造者たちの論理に価値はない。

*

製造者の論理の専横は、企業を繁栄に導かない。

アサヒビールをビール売上げトップに押し上げた樋口廣太郎氏の経営手法を思い出してみれば分かる。

樋口氏が社長に就任したとき、ビールの味は製造部門のトップが決めていた。そして、製造部門は、ビールの味は素人には分からぬと傲慢になっていた。

樋口氏がまず取り組んだのは、製造と営業の垣根を取り払うことであり、消費者の嗜好を製造に活かすことであった。

アサヒスーパードライはそのようにして生まれた…。
それは、1987年。
まさにインターネット登場の前夜に、日本の産業構造を変えるようなエピソードが誕生していたのである。




突き詰めて言えば、インターネットはサービスである。

インターネットユーザーは、お客さまである。


ならば、業界関係者たちの理論・理屈で、現在・を語ることは、製造者の都合・言い訳でしかなく、不毛である。

*

この本においても、匿名発信は否定的に捉えられている。だが、お客様(被サービス者)に匿名が求められることが非合理であることは明らかだ。

※ 昨今、「爆発するソーシャルメディア」で言及されるようなCGM(消費者参加型メディア)といえども、参加者たちが運営者にとって、客でないと断言できるようなケースは存在しない。

勿論、製造者であることと、顧客であることは、特権としては等価。その立場も大きく変貌していることは認めるとしても…。

*

同著の執筆者たちの多くはアカデミズムという、マーケットと不連続であり、寡占状態にあるサービス者の代表(エスタブリッシュ)に過ぎない。

そのような立場でしかない彼らが、ユーザーが発言することを、被サービス者(顧客)のサービス者への仲間入りと誤認し、それが新しい競合相手として敵愾心を燃やしている…。


だが、そのようにインターネットを捉えるのは、事実誤認である。

被サービス者が、メディアから報酬を得ようとも、それはサービス券を貰っているに過ぎない。どんなに対価が得られようと、直接経営に参画できなければ、お客様としての立場は変わらないのである。

ネットユーザーは、発言しようと発信しようと、ユーザーのままなのだ。ユーザーが匿名で何を言おうと、サービス者たちに反抗する権利・合理性・妥当性はない。

*

サービス者と被サービス者の存在割合は、1%対99%。もしくは、もっとサービス者の存在割合は低い。

ならば、どう考えてもサービス者の論理が、インターネットの今後を導いていくとは思えぬ。

時事通信社の湯川鶴章氏は、「メディアとはコミュニティーである」と指摘する。


コミュニティーが成立条件は対話である。
サービス者が被サービス者との対話を拒むのならば、それはコミュニティーではなく、レクチャー(講義)の場である。

同著の執筆者たちは、アカデミズムの人達たち。
私が、2003年の「サイバージャーナリズム論」本から感じる、取り付くしまのなさの源泉は、そのあたりにあるのかもしれない。



インターネットをサービスとらえたとき、インターネットの本質が見えてくるのではないか…。

サービス業たるインターネットには、さまざまなフェイズがあっていい。


*

入会資格の厳しい会員制の倶楽部もあっていいし、道端の叩き売りのような商売もあっていい。

ウェイターがかしづいてくれる高級フレンチがあってもいいし、食べるのが遅いとどやされる大衆食堂も否定されるではない。

かつての六本木食堂のように、戸棚から料理をとってレジにすすむようなキャフェテリア方式の飯屋もあっていい。そして、私のように、100円バーガーを買ってきて、スーパーで買ったスライスチーズをはさんでチーズバーガーにすることだって許される。

それがインターネットの世界である。

*

インターネットが入会基準の高く、行動基準も厳格な会員制倶楽部にしたい輩が多いようである。

だが、ウッディー・アレンの映画には、次のようなセリフがあったのを憶えている。

「私に入会を許すような入会基準を持った倶楽部になんか、入りたくはない」。

自己嫌悪癖の強い埼玉県人である私も同感である。

*

最後に、もうひとつ付け加えるならば、「差分のない個同士のコミュニケーションに価値はない」。

自分そっくりの他者と話をして和んでいる…。

それが個の人生としては安逸なのかもしれぬが、それでは社会は動いていかぬし、新しい時代などやってこないのだ。





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2007年07月14日

サイバージャーナリズム論00:東京財団「それから」研究会…。私と湯川鶴章氏の出会い。

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「サイバージャーナリズム論」が明日。7/15に発売される。




一昨日、我家に見本が3冊届き、仏壇に供えた。写真でしか知ることのない岳父は、築地小劇場に関わり、慶応の経済を出て、実業の日本社に勤める出版人だったという。
彼の末娘である妻は、今回の本がお盆に発売されることに、父との因縁を感じているという。



さて、今回の本は、東京財団の「それから」研究会によって、出された報告書を出版したものである。

本書は、2007年1月の時点での結論を表したものだ。
だが、この成果物が成立する過程に何があったのか…。そのことを少し紹介したい。



2005年、ライブドアPJに挫折した私は、時事通信社の湯川鶴章と知り合った。
直接的な動機は、ライブドアPJの運営体制に反旗を翻した私に、彼が興味を持ったことだったと思う。

思うに、「市民参加型ジャーナリズム」という語句は、湯川氏が使うが故に一般的になったと思われる。草の根ジャーナリズム、ネット市民記者新聞など、さまざまな用語があるが、湯川氏が「市民参加型ジャーナリズム」という単語を使ったことで、市民参加型ジャーナリズムという新しいジャンルが形成されたといってもいい。

2005年の春から夏にかけて、ライブドアPJは、市民参加型ジャーナリズムのもっともトピックな話題だったと思う。
それは日本中を巻きこんだホリエモン現象と深く関連しており、メディア買収を企むホリエモンの策謀とともに、新たなムーブメントが誕生しつつあることを、多くの人に感じさせていた。

だが、その熱狂は続くことはなく、半年を待たずして、文芸春秋で立花隆氏による痛烈な批判がでるとともに、私も、その不毛な構造について明らかにしつつあった…。湯川氏もライブドアPJの誕生前から一定の情報を得ていたが、知人が運営に加わる話も頓挫し、ライブドアPJに対する否定的な将来を確信していたに違いない。

だが、当時の私も、現在の私もライブドアPJについて、感謝とともに、一定の評価をしている。それは、日本の市民参加型ジャーナリズムにおいて、唯一、「オーソライズ」力を保持していた。

少なくとも、ホリエモン騒動の短い時期、そういうパワーをあのメディアは持っていた…。


*

初対面の私と湯川氏が何を話したか。何を紹介するのが、一番ふさわしいのかといえば、まさに今回の書物のテーマでもある、「ジャーナリズムとは何か」「表現者とは何か」だったのだと思う。

あのとき、私は、「市民参加型ジャーナリズムは、ジャーナリズムやジャーナリストという言葉に魅かれた人達が集まっているに過ぎぬ」と湯川氏に放言したに違いない。

そして、市民参加型ジャーナリズムの根本的な問題について、指摘した。

「被写体との一定の距離を必要とするジャーナリズムは、他人の悲しみさえも自分の悲しみとする庶民の感覚とは相容れない」

湯川氏は、私がライブドアPJで市民記者活動をしたり、ブログを続けることが、自己実現の所作に過ぎぬと批判した。
私は、その批判を完全に否定・払拭することはできなかった。
だが、表現というものが、発信におけるリビドーだけを求めるならば、それは自己実現でしかないが、それが社会的な影響力を行使するならば、自己実現という枠に収まるような行為ではない。と、反論した。

当時、ライブドアPJの主宰者は、「土日に記者をやるような市民に、既存メディアに対抗できるような記事が書けるはずもない」と自嘲し、既存メディアからの批判を逃げていた。
また、マズローの説を引用し、市民記者気質というものを衣食足りたものの遊戯と決め付けていた。

そんな馬鹿なことはない。カラオケボックスのCMではないが、人間とは、「泣きたいときほど、歌いたい」のである。
たしかに、ライブドアPJの研修に集まった人の中には、衣食足りた人達も混じっていただろう。だが、「泣きたいときほど、歌いたい」。そういう内面を抱えた人達がその大部分を占めていたことは確かである。

*

私は、「表現者であることが私の人生のテーマである」「自らを語るのが表現者であり、他者を語るジャーナリストに私は魅力を感じない」と言った。

そして、餓死寸前の少女をハゲタカが狙っている写真を撮ったピュリッツアー賞カメラマンが批判されたことを話題にし、ジャーナリズムの桎梏について、湯川氏に詰問する。

すると、彼は明解に、「私はジャーナリストである前に市民でありたい」と語ったのである。



あのとき、私と湯川氏は、市民参加型ジャーナリズムについて対話したのだが、対話が行き着いた先は、お互いが、「市民」であること。「市民」であろうとすること。についての議論だったのではないか。

誠実な「市民」であること。それは、ポリス(属するコミュニティー)に対して何を成すか・義務と権利を負うか。ということになる。


「サイバージャーナリズム論」は、そのような発信する個(日本人)と、それを取り巻くコミュニティー(日本社会)について書かれている。

この本をIT関連書物やメディア本として読むも大いに結構である。だが、そこから立ち現れてくる2007年は、もうひとつ別のものである。

何故なら、ITとメディアは我々の社会そのものなのだから…。

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タグ:湯川鶴章

2007年07月13日

「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」ひろゆき本vs「サイバージャーナリズム論」それから本。

昨日は浜松町のお客さんのところで打ち合わせをして、帰りに、浜松町の駅ビルにはいっている本屋を覗いた。

きっと、この本屋のこの場所に「サイバージャーナリズム論」が並ぶのだ。などと空想をはたらかしている。

それは、キネマ旬報社の「日本映画監督名鑑」を見ながら、私がこの本に掲載されるならば、あいうえお順だから、この監督とこの監督の間などという、若い頃の私と同じ習性…。

その後の私は、映画からテレビ、プロモーションへと仕事が映っていき、映画監督として監督名鑑に載る可能性はなくなった。もっとも、デカタンな私は、結婚とともに苗字を変えており、今後、監督名鑑に載ることができたとしても、その場所は、あの頃考えていた場所とは違うものになる。



さて、書棚で見つけたのは、2ちゃんねるの西村博之氏の、「何故、2ちゃんねるは潰れないのか?」(扶桑社新書)である。

アマゾンには腹帯がないが、実物には、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」とあった。

私は、この意見に反対である。

このコピイは、きっと編集者がつけたものだろう。たしかに、そのように2007年を捉えることもできる。

だが、2007年は、「ウェブ進化論」の梅田望夫氏ではないが、「本当の大変革はこれからやってくる」が、実相である。

そして、その立場から、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」の事実誤認を修正するならば、
「ネット者は、もうこれ以上社会を変えない」になる。





いま2007年がどのようなフェイズ(様相)にあるかといえば、キャズムということだろう。

キャズム

一般的にテクノロジーのライフサイクルはベル型の標準偏差のグラフによって示され、その各段階でターゲットとすべき顧客として、イノベーター、アーリー・アドプター、アーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティ、ラガードといった顧客セグメントが行なわれます。通常、この顧客セグメントによって、異なるマーケティング施策を行いながら、徐々に新しいテクノロジーの顧客層を広げていくことが推奨されます。しかし、米のマーケティング・コンサルタントであるジェフリー・ムーア氏が、同名の著書によって、明らかにしたのは、イノベーターとアーリー・アドプターで構成される初期市場と、アーリー・マジョリティやレイト・マジョリティによって構成されるメジャー市場のあいだには、容易には越えがたい「キャズム(深いミゾ)」あるということでした。顧客セグメントの違いによって生み出される、このキャズムを超えなくては、新しい商品はメジャー市場でブレイクすることなく、規模の小さな初期市場のなかでやがては消えていく運命となります。同著が、10年間にわたって米国ハイテク業界のバイブルとされたように、特にテクノロジーの進歩の激しい業界においては、強く意識することが重要なマーケティング理論です。

ミツエリンクス提供


キャズムを、お風呂が沸いてもいないのに、冷たいうちに入る人は限られているということになる。と、形容する人がいる。

アルファブロガーやITエバンジェリスト(業界関係者)は、イノベーターであり、その後を、オタクチックな、アーリーアドプターが追っていた。それが今までのフェイズだろう。
だが、その流れは、イノベーションが成熟化すると、あらたなムーブメントは起き難くなり停滞する。
アルファブロガーたちが、「ブログが終わった」と語り、ブログの更新をやめるというのも、このフェイズの特徴である。
そして、アルファブロガーに追随してきた、アーリーアドプターたちも、新しさを感じなくなり、停滞・低迷する。

このあたりは、R-30さんが詳しく語ってくれるかもしれぬ…。

ひろゆき本が指摘する、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」とは、まさにこの状況を形容している。

ひろゆき氏は尊敬に値するリアリストである。そのリアリズムは、インターネットの理想を感じさせるが、その根本は、西村博之氏という個人にとってのリアリズムでしかない。

それは、私が知遇を得ているシステム者たちの気質においても同様なものを感じる。
つまり、彼がリアリズムを基点にした理想を語るとしても、それは、どこまで言っても個の視点から発せられたものでしかない。

*

たとえ話をすればこう…。

個としては、「戦争絶対反対」「死刑絶対廃止」。そこに何の問題もない。

だが、国際社会をみれば、「戦争を想定しないで国家が存続できる世の中でない」のは明らかだ。
同様に、大量殺人事件が断続的に発生する社会において、「一切の死刑を廃止する」ことが絶対律であるはずもない。
殺人が法律で禁止されている。なのに、殺人をする人がいる。という悲しい現実に、どのように対応するか。

そのような問題は、社会・国家が悩み続けるべき問題であって、個が世の中の複雑な状況を勘案せず、「軍備なし」「死刑なし」などという結論を出すことは浅薄な態度なのだ。

世に、母性を喧伝する言論者は多いが、その殆どは個のステークホルダーを主張するに過ぎぬ。個体としての妥当性はあるが、集団の論理としては、著しく不毛な言論を提示しているのだ。

とはいえ、「戦争肯定」「死刑肯定」などはもっての他であることは言うまでもないが…。

*

たとえ話はイメージとして捉えて欲しいのだが、個にとってのリアリズムと、社会・集団・国家としてのリアリズムとはまったく違うものである。

そして、ひろゆき氏は、彼というネット者・イノベーターとしてのインターネットを語るのみであり、それ以上でも、それ以下でもない。

だから、その言論から、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」というコピイを引き出しても、自然なことであるのだが、それが今を捉えているのかといえば、そうではない。

インターネットは、いまキャズムにある。そして、梅田氏がこれから大変革がはじまるというのは、これからメジャー市場になるということである。



「サイバージャーナリズム論」の見本が送られてきた。

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執筆者は、歌川令三、湯川鶴章、佐々木俊尚、森健、そして、私の5氏である。
高名な学者である公文俊平氏が、対談での参加なため執筆者として加えられていないことからすれば、無名な私が執筆者として名を連ねていることは、感謝しても、感謝し足りない栄誉である。

今回は、6氏がサイバージャーナリズムを語っている。だが、その執筆者たちがネット者なのかといえば、ネット者であるといえるのは、スポンタだけだろう。

佐々木俊尚氏はネットでの言論活動もなすが、主な活躍の舞台は出版界だ。

湯川氏・歌川氏・森氏・公文氏も、研究・取材の対象がインターネットだが、ブログを運営していたり、2ちゃんねるに書き込むようなネットの住人ではない。

つまり、「サイバージャーナリズム論」の著者たちは既存メディアに属しており、ネット者である西村博之氏やスポンタ中村とはまったく違う地平に存在している。



西村氏が、「ネットで傷つく人は、ネットにこなくていいです」と指摘するように、ネット者の間では、インターネットはコップの中でしかない。コップの中の嵐に過ぎぬことを大騒ぎすべきでない。というのが、その言論理由だろうし、多額の訴訟案件を抱える西村氏のステークホルダー(立場・利害)から生まれた言説。

では、2007年に何が起きているか…。

是非とも「サイバージャーナリズム論」を読んで欲しい。

既存メディアの住人たちが、インターネットを敵視したり、インターネットの普及を前に、自分達が属しているメディアの終末を悲観し絶望するような時代が明確に終わったことを、この本で知ることができる。



「ネットは新聞を殺す」と爆弾発言をした湯川氏が、ネットが新聞を殺すのではなく、リファレンスとしての重要性はさらに強まっている。と指摘する。
「新聞のなくなる日」と、新聞の終末を予言した歌川氏が、新聞はなくなりはしないが、いまのビジネスモデルは変化をせざるをえない。と語っている。

既存のメディア人たちの思いは、社会全体の思いに近いとすれば、これからの数年こそ、「インターネットによって、社会が変わる」時代ではないか。

それはマーケットの用語でいえば、イノベーター、アーリーアダプター・キャズムの時代が終わり、メジャー市場であるアーリー・マジョリティやレイト・マジョリティの時代がやってくることを示している。


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浅田彰の「構造と力」を図書館で借りてきて読んでいる。
あれから四半世紀経っている。あのとき、分からなかったことが、今読めばすこしは歯が立つのかな…。と、思ってもみたが、やはりダメだった。

結局のところ、私はアカデミズムの人でもないし、イノベーターでも、アーリーアダプターでもない。せいぜいはアーリーマジョリティーの住人なのだろう。

とはいえ、四半世紀前の浅田氏も、「サイバージャーナリズム論」の歌川先生も、パノプティコンに言及する。

この25年間、時代はそれほど進んでいないのかもしれぬ。

だが、ブログの普及によって、その概念は、2005年から2007年の3年間で、大きく変わってきた。

何が大きく変わったのか。それを今後とも、明らかにしていくことにする…。

追記:

娘が中学校の先生から、IT技術が進めば、頭にチップを埋め込むだけで、記憶できる時代になる。と、聞かされてきた。
当該教員は、それが恐ろしい時代というニュアンスで語ったという。

だが、それは悪い話ではない。

いままで、試験は記憶力を争うものであった。だが、人間が機械的に記憶ができるようになれば、個の価値が記憶力に依存しなくなる。そして、人間がチップを組み込むことにより、機械的に演算処理を早めることができるようになれば、頭の回転が速いことが、個の特性として誇ることも無価値になる。

つまり、たくさん知っていること。頭の回転が速いこと。それらが無価値になる。

人間の価値の源泉とは何なのか…。

そういう時代こそ、個性の時代であり、人間が人生を謳歌する時代になるはずである。

2007年07月11日

アマゾンで先行予約開始。

サイバージャーナリズム論が、7/15にソフトバンククリエイティブ出版から、ソフトバンク新書として発売されます。

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…んでもって、アマゾンにも登録されている。

なんとも、素直に嬉しい。



いままで、テレビ番組のスタッフロールに名前が載ったことは多々あったし、それなりの露出もあった。新聞や本に名前を引用されたことも少なからずある。

だが、今回の出来事は、情報加工者としての私ではなく、情報発信者の私としての署名。

ここにおいて、根本的に異なる。

勿論、今回においても、研究会におけるさまざまな指導や、編集者の介在がある。だが、提示した言論の核は、私のものであり、私以外に
、それを紡ぐことはできぬ…。などと、一人ごちてもみたい。

ぜひとも、購入して、読んでもらいたい。

執筆者の末席を満たすに過ぎぬ私の印税は微々たるもの。できれば、ここからのリンクでアマゾンで購入していただけると嬉しい。


否、そうではない。
2007年のインターネットとジャーナリズム。否、日本のメディアを知るためにぜひとも読んで欲しい。

2007年の言論の主流である歌川令三、湯川鶴章、森健、そして、佐々木俊尚氏の言論を網羅的に知ることができる。

そして、異端である私を対比できる。
こんな本はめったにない。

*

それぞれの世代と立場と言論はめいっぱいに広がって、大きな帆を掲げている。
その大きな帆に風を吹き込むのは、ほかでもない読者の方々である。

帆が高く掲げられるだけで船が進むのではない。
風を孕むことによって、船が前進するのである。

発売まで一週間を切った。

スポンタ中村は風が来ることを信じている…。

その風が、日本の航路を変える。
そのことを考えたら、アマゾンで買うことなどどうでもいい。
本屋で見つけたら、購入して欲しい。

そして、本屋になかったら、アマゾンで買って欲しい。

増刷されて100万部にでもなれば、世の中が変わっていく。
そう、信じている。

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2007年07月05日

新聞労連の機関紙から…。5/25のパネルディスカッションを振り返る。

日本新聞労働組合連合から封筒が送られてきた。


中には、新聞労連の機関紙の2007.07.07号が入っていて、第三面には、「第50回新研中央集会開催」との大見出しがあり、私が参加した「ネットは新聞に何を突きつけているか」というシンポジウムが紹介されていた。


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このシンポジウムの基調講演は、「新聞がなくなる日」の歌川令三氏、「ブログがジャーナリズムを変える」の湯川氏。
歌川氏は、米国は広告依存のためネットへ以降がスムーズに進んだが、日本の新聞社の経営は販売に依存するため、既存のビジネスモデルからなかなか抜けきれぬと指摘した。
湯川氏は、裏取りをしない報道をした大停電時の新潟日報を例にとり、いままでの新聞人の規範が揺れ動いていることを指摘。新しいジャーナリストとしての規範が求められていることを示唆した。

そして、パネルディスカッション。

私なりに、ざっくりとまとめれば、

「新しい時代の市井人たちの情報ハブになるために、新聞人たちは一番有利な立場にいる」。(具体例:新潟地震のたむぎ山新聞…etc.)

そのために必要な条件は、「対話を拒まないこと」、「対話を継続すること」。(具体例:アフリカの叡智・真実和解委員会。ネット炎上対策)
そして、過去の自らの言論に縛られないこと。


ではないか。

その具体策としては、

湯川氏は、ソーシャルメディアをイメージし、
森氏は、検索エンジンにイメージされるようなソーシャルネットワークを提出する。

要するに、湯川氏はメディア型なツールをイメージし、森氏は非メディア型なツールをイメージする。

では、私はといえば…。



メディア、P2P、平成目安箱を論じてきた私である。
当然のように、非メディア型ツール・P2Pを提唱すると思うのかもしれぬ。

だが、私は、伝達システムのタイプ・スタイルにボトルネックはないと感じている。


問題は、構成員(情報発信者・情報伝達者・情報評価者...etc.)の文化であり、過去に縛られず、対話を拒絶せず、対話を継続する努力を忘れぬことである。

箱の運び方や、箱の形ではなく、箱の中身が重要であり、箱の中身によっては、野積みのトラックで運ぶもいいが、物によっては、クール宅急便が必要だったり、警備員をつけて運ばなければならなかったりする。
運ばずに、相手がやってくる非配達型のデリバリーもあるだろう。



インターネットにおける情報伝達も同様であり、メディア型・P2P型という二種択一というのではない。相互補完的なものが現実的であるに違いない。



さて、新聞の私の写真を見て、私の娘は泣いたという。
妻曰く、「私と一緒に写真に映るときのパパと違う」…と。

実は、この写真は、記念のために運営の方から頂戴していた写真と同じものである。

私はブログに写真を掲載しようとして、所望したのだが、この苦虫を噛み潰したような表情の写真を見て、非掲載を決断した。

もう一枚あるが、それも、私のデブさを物語っている…。(^^;)
と、ブログへの掲載を諦めた。

*

私の表情に比して、パネリスト諸氏の写真は、歌川先生は朗らかであり、湯川氏は爽やかであり、森氏は、誠実な印象を与える。
そして、ただ一人。私は「不満・フマン…」って、表情をしている。
ほっぺも膨らんでるし、歯でも痛いのかぁ…。(^^;)

写真の印象から発生する感情は、「何を深刻ぶって…」であり、それは、「偉そうに、何様のつもり」につながっていくに違いない。

思うに、その表情は、マスコミで自らの不快を表現することの多い姜尚中氏や、井筒和幸氏のものに近いのかもしれぬ。
そして、その共通部分が、私の娘を泣かせるに至ったのかもしれぬ。

とはいえ、私は、この表情の写真を選んだ新聞人の意図を理解する。
当該新聞人は、パネルディスカッションの中から位置関係・対照関係を感じ、この写真を選んだのだろう。

とはいえ、理想をいえば、パネルディスカッションでの対照的な言論の立場を越え、コンセンサスの中で、微笑み会う。それが理想…。
そして、それが、ディスカッションの中ではできなかったし、そのことは紙面を読んでもそのとおりなのだろう。

そして、そのような明確な合意を得たとしたら、そこにあるのは、似通ったキャラクターの集合でしかなく、キャラクターも立たず、インパクトも低くなる…。

結果、コンセンサスのぎりぎり手前で、言論を提示するのが、最良のやり方なのかも知れぬ。

そのような思考において、メディア者たちがそれを望むのなら、私もその分脈で生きる覚悟を決めなければならぬのだ。

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娘は泣き、妻は、こんな怖い表情をした人と四六時中暮らしている私の気持ちを分かって。と、文句を言う。

私はといえば、シケ(時代劇のヒーローに特有のほつれ髪)の効果をひしひしと感じている。

先週、よみうりランドの丘の湯の床屋で散髪したから、ディップで固めても、もうシケはできない。

その代わり、髪に隠れた顔面が顕になっている。

…あと3キロ痩せなければならぬ。

2007年06月30日

アルゴの時代51:民主主義&インターネットは、個が時代の傍観者でいることを許さない。

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「サイバージャーナリズム論」の最終校正を行なった。
あとは、すべて編集部にお任せとなる…。

本著について、読者の感想がある程度出切るまで(少なくとも出版後、数ヶ月)は、メタ感想しかスポンタはしないつもりである。
だから、数回にわたって本著を紹介してきたが、その内容については一切言論していない。

私のブログの紹介記事を読んで、この本を読んだつもりになることはできぬのだ。だから、7月15日には、書店に行って、735円を支出して、購入して欲しい。

とはいえ、全体の構成を紹介することにする。


タイトル:サイバージャーナリズム論

サブタイトル:「それから」のマスメディア

*

第一章:新聞ビジネス崩壊の予兆 歌川令三

第二章:「プロの記事」はブログより価値があるか? 湯川鶴章

第三章:テレビ局をめぐる大いなる幻想 佐々木俊尚

第四章:グーグルにあらずんば情報にあらず 森健

第五章:ウェブがもたらす「偏向」と「格差」 森健

第六章:メディアとはコミュニティーである 湯川鶴章

第七章:誰もがジャーナリストになれる?

第八章:「ネット」はいいこと尽くめではない 歌川令三

第九章:「知」の共同体とジャーナリズムの「それから」



現在のマスメディア&ネットが抱える問題がここに網羅されているといっていい。

このブログの閲覧者にとっても、そして、私にとっても、スポンタの言論を相対化・対照化するには、格好の書物である。

私は、この原稿たちを、東京財団の研究報告書の段階、そして、ソフトバンククリエイティブが起こしてくれた初稿ゲラによって、数度読んでいる。

読む度に、私は、自分の中のネット者としてのステークホルダー(立場・自己利益)・ルサンチマン(感情・怨念)が、ムズムズ・むらむらしてくるのを感じる…。

きっと、この本を読んだ読者も、心の中にあるステークホルダー・ルサンチマンが、呼び起こされ、感情がざわめくだろう。

私には、それがテレビ朝日の「朝まで生テレビ」の討論を見終えたときに視聴者が感じるものと似たような性質のものではないかと考えている。




それは、登場する人達の言論が対立・摩擦するからではない。

本著作が、「読者たちが傍観者でいることを許さぬ」。

そういう厳しいメッセージを突きつけているからである。


読者が、既存メディアの文脈にいるのか。それとも、既存メディアを批判する文脈にいるのか。
ネット者なのか。ネット批判者なのか。

それぞれがあっていいし、それを確認できることが、本著の魅力でもある。



かねてより私は、さまざまな問題を抱えながらも日本は民主主義で営まれている。
ならば、すべての個は日本社会の原因のひとつでもあり、すべての日本人は、自分を日本社会の外において批判することはできぬ。
と指摘している。

同様に、発信する機会が得られているインターネットの時代、全ての個はメディア言論と無関係ではいられぬのである。

何か事件・問題がおきたとき、その問題を指摘しなかった自分にも少なからず(1/1億3千万)の責任がある。

そして、仮に発言をしていたたとしても、それが社会的な影響力を行使できていないのだから、そういう社会的な影響力を獲得していない自己を反省すべきなのだ。



私は、そのことを、2005年のライブドア・パブリックジャーナリズム参加時に気づいた。

インターネットの時代。すべての個は時代の傍観者でいることは許されぬ。


自らの発信力のなさを嘆くことは許されぬ。
反省あるのみ…。

*

今回の書物において、私は、ライブドアPJで市民参加型ジャーナリズムを実践したという文脈で紹介されている。だが、ライブドアPJの一瞬の輝きは失われ、同巧の市民参加型ジャーナリズムと合体していると聞く。

だが、間違ってはいけない。

それをして、市民参加型ジャーナリズムに成功の道はないなどと断じてもらっては困る。

市民参加型ジャーナリズムはブログと同じではないのだ。

市民参加型ジャーナリズムとは、メディアの力で個の発信を「オーソライズ」するシステムなのだ。

その唯一の例が、あの数ヶ月に満たないライブドアPJが輝いた時期(2005.3月〜5月)である…。

ホリエモンがニッポン放送株大量取得が国民的な関心事となったときに、ライブドアPJは絶大なオーソライズ力を得ていた。
ライブドアPJは世間から注目され、文芸春秋の記事からすれば、日本の代表的な言論人である立花隆氏も、私の文章を読んだに違いない。

市民参加型ジャーナリズムが成立するということは、そうした個の言論でしかないものを、広く伝播させることである。

今も存在する市民参加型ジャーナリズムたちが、自らのオーソライズ力を高める努力をせず、個の意見の発信のみに専心していることは、このメディアの特質・本質を理解していないことだと思われて仕方がない。

※ 私がライブドアPJで経験したことは、幻想の市民参加型ジャーナリズムに詳しい。

*

絶大なる知名度を持つ、鳥越俊太郎氏がオーマイニュース日本版の編集長を退任された今、一切のオーソライズのための努力はなされていない。

思えば、滝川クリステル氏が虎ノ門のオフィスに訪れたにも関わらず、何らテレビで報道された記憶はない。
あのとき、オーマイニュースはすでに終わっていたのかもしれぬ。

あのとき、ハーフ(ダブル)としては凡庸な風貌でしかないクリステル嬢の前に、オーマイニュースの編集者たちは、一般ピープルと化していた。同業者としてのマナーも対抗心もなかったのでは、このような行く末も当然のことだろう…。

鳥越俊太郎氏とのメイルのやりとりは数回で終わってしまった。

彼も、編集長を降りられたことだし、彼と腹を割って対談することも面白いのかもしれぬ。

メディア関係諸氏に、企画として提案したい…。

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宮台真司氏と浅田彰氏を挙げながら、対話を阻むものの存在について言及するつもりだった。

対話を触発しない宮台氏と、インテグレーター&オーガナイザーに流れた浅田氏…。

宮台氏の講義を読んでみると分かりやすい。

Wikipediaよれば、

「噂の真相誌上で、田中康夫らと対談する中で、自身を「あらゆる物を引っ掻き回して、逃げてしまった人」と批判した宮台真司を、「80年代に目立とうとして、目立てなかった人だからいいんじゃない」と、軽くあしらったことがある。

というエピソードがあったという。

グランドセオリーもまた、「純粋律を操ること」でもある。
それが対話を触発しない…。

※ 社会システム理論とか、あるいは社会学的機能主義ないし機能主義的社会理論と言われるようなものは「グランド・セオリー」と言われます。

などと、不遜な私は考えてしまう。

近いうちに論じることにしよう…。

2007年06月29日

アルゴの時代51:サイバージャーナリズム論にみる「対話」。

7/15に、ソフトバンク新書から、「サイバージャーナリズム論。「それから」のマスメディアという本が出版される。

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執筆者は、歌川令三氏(「新聞のなくなる日」)、湯川鶴章氏(「爆発するソーシャルメディア)、佐々木俊尚氏(「グーグルGoogle」)、森健氏(「グーグル・アマゾン化する社会」)、そして、私である。

私は、この本の素晴らしさを「対話」だと思っている。

そして、前回のエントリーで、対話を成立させるものとして、3つあることを指摘している。


1. 情報共有。(そして、情報の重要度の共有)

2. ステークホルダー(立場・利害)を越える。

3. ルサンチマン(怨念・感情)を越える。


「対話に勝ち負けはない」と、2ちゃんねるの西村博之氏は言う。

その含意を私なりに考えると、「対話の結果、どちらかの言論に集束すること」ではなく、「対話の結果、双方の言論が止揚(アウフヘーベン)され、対話による気づきの中から、新しい言論が生まれる」。
そういうケミストリーな出来事を理想とすることではないか。



考えてみれば、対話の3条件とは、対話に参加する個が、自らに問いかけるものであって、対話者が相手に突きつけるものではない。

何故なら、ステークホルダーを越えているか。ルサンチマンに捉われていないかというのは、個の内面の問題だからだ。

その不毛を理解せず、対話者が相手を指弾すれば、対話は理想の対話とは大きく異なってしまう。
つまり、個の主張を対峙させるだけの平行線な議論となる。



たとえば、東国原宮崎県知事がいる。

彼が何をしているかといえば、宮崎県民というステークホルダーの奴隷となることである。

彼が、宮崎産地鶏や太陽のマンゴのプロモーションをしている場合はいい。
だが、彼が、「ふるさと納税」に関して、語る言論はステークホルダーの奴隷という立場から発せられたものであって、何の説得力を持たない。

たしかに、石原東京都知事は、東京都民というステークホルダーにいる。
だが、彼が猪瀬氏の副知事就任について、投げかけた言葉は、「お国のためにがんばってください」である。

つまり、国とたたかうための戦力として、猪瀬氏を副知事に起用したが、その究極の目標は日本という国のためなのである。

否、そうではない。
猪瀬氏が戦う国とは、霞ヶ関であり、永田町である。
そして、石原氏がお国という言葉で形容したのは、日本というコミュニティーなのだ。



私は、「ふるさと納税」などという小手先の所作が、日本の将来にとってよいことだとは思わない。

平等というフラットな規範が加速させた一極集中・中央集権を是正するためには、もっと根本的な対策が必要であり、「ふるさと納税」は、その問題を先送りすることための施策でしかない。

お金の流れを中央から地方に動かす前に、人の流れを一極から分散させていくことを真剣に考えなければならぬ。
否、お金が東京に集まることを是認する「ふるさと納税」は、東京への一極集中を加速させる可能性もあり、それは、より一層、地方の衰退を加速させる要因ともなりかねない。

*

私がかねがね主張していることは、2007年の私たちは、江戸時代の叡智に学ぶべきである。
ということだ。

江戸時代は、士農工商という身分制度があったが、それぞれの階層が、身分相応の暮らしを満喫していた。
勿論、飢饉は断続的にあったし、経済的にも困窮したことも事実だろう。
だが、江戸時代から良い所取りの引用は可能である。

江戸時代の日本は、ゆるやかな連邦制であった。という分析がある。

優れた人材は、ペーパーテストではなく、藩校でもまれた総合評価で決定する。
藩校で評価された人材は、長崎や江戸・上方に出て、日本を牽引する傑物になっていく。

戦前の高等学校制度は、その制度を踏襲している部分もあったのではないか。

銀座育ちの吉行淳之介は、静岡高校を卒業する。

淳之介の両親の郷里は岡山県だが、第二の故郷は静岡である。同居人・宮城まり子氏が、ねむの木学園を静岡で運営していることは、淳之介のそんな思いが影響しているに違いない。

私の父親が戦後に卒業した大学は地方大学のひとつでしかないが、その前身の第四高等学校は、日本を牽引する才能を育んだ…。

そのように、日本を牽引していく才能たちが、青春の一時期、地方に散らばり第二の故郷を作る。

そのようにして、一極集中・中央集権的な社会の文脈が崩れていく。それをこそ、模索すべきなのだ。

*

では、何故、淳之介が静岡高校に進んだのかといえば、健康に瑕のある彼が温暖な気候を求めたのかもしれぬが、素直に考えれば、東京にある第一高等学校に進めぬと判断したから。というのが、自然な考えだろう。

このような必然を誘発する制度をつくることが、政治に求められているのだと、私は思う。
つまり、いま起きていることを埋め合わせるための制度をつくるのではなく、あるべき明日のための制度を模索すべきなのだ。

ま、簡単にいえば、インセンティブ(外部的動機付け)。つーことになるのかなぁ…。



脱線してしまった。

話を戻そう。

対話の3条件を克服するために、何が一番有効であるかといえば、匿名であることである。


匿名であれば、情報共有をしない個は、対談の資格なしとして対話のコミュニティーを追放される。

匿名であれば、個のステークホルダー(立場・利害)への拘泥は徹底的に批判される。

匿名であれば、個のルサンチマン(感情・怨念)は発信者の評価を著しく低下させる。


匿名の欠点は何かといえば、個の継続した文脈を得られぬことである。だが、それは、情報共有によって、補完できる。

もうひとつの欠点は、無責任な発言かもしれぬ。だが、これはフィルタリングシステムを充実させることによって、忌避できる。否、無責任な発言は、そこに低評価という重要度のタグがつくので、事実上問題はない。

*

KKKのような装束(鉄人28号のPX団な感じ)で会議をするのは異様である。

だが、KKKの装束をしなければ本音の議論ができぬこともまた、事実である。

私が現実的だと思うのは、会議はKKKで行い、そのオーソライズは、記名・実名で行なうというものだ。


そこに何の破綻もないと、私は考えている。

疑問・反論がある方は、是非ともコメントして欲しい。

*

従軍慰安婦問題が異様なのは、戦後60年という時の流れを無視して、米国議会が決議したことである。

もちろん、その是非について、私は池田先生に同意する。だから、徹底的に言論したい部分もある。

だが、その案件の重要度に関してみれば、極めて低い評価であり、それに関連して言論することによって、高い重要度を感じているという印象をつけたくはない。
気分は安倍首相と同じ。なのだ。



「サイバージャーナリズム論」に戻って考えてみよう。


歌川先生は、新聞社の経営を批判する文脈がある。だが、世の中の見方はイデオロギー的である。
スポンタも、新聞社を批判する文脈がある。だが、イデオロギー的な言論に価値を見出さない。

森健氏は、イデオロギー的な言論よりも、社会学的な手法を使う。だが、ジャーナリズムは職業と言い切る。
スポンタも、社会学的な手法を好む。だが、ジャーナリズムは職業ではなく、民主主義にとって重要な要素と位置づける。

湯川氏は、「爆発するソーシャルメディア」と説き、ジャーナリズムには対話が重要と指摘する。
スポンタは、ソーシャルメディアの時代は来ないと考えるが、ジャーナリズムには対話が重要という彼の言葉に共感する。

佐々木氏は、グーグルに興味を持ち、オーマイニュース日本版の問題を指摘する。私も、グーグルにアルゴリズムという概念を教えられ、オーマイニュース日本版の誕生にあたっては、鳥越氏とメイル交換をした。
だが、M氏ことのは問題では、対極にいる…。


そのような共通項と対立項を併せ持つ個が、一つの本の中で蠢(うごめ)いている。

こんな本はめったにない。

凡庸な対談本では、コラボレーションという名のもとに、異分野の対談者が寄り集まって、予定調和な言論を紡ぎ出す。対談相手の言論と自分の言論の間に共通項を見つけることに終始し、それが見つかったといって自己の言論の普遍性を引き出して満足するだけである。

否、殆どの場合、対話者のどちらかの圧倒的な勝利で対談が終わる。
武術家・甲野善紀氏の対談本はだいたいそんな感じだ。

だが、仏教者・玄侑宗久氏の場合はそうではない。彼と対談者たちが操るのは個の文脈ではなく、千年を越える歴史で鍛えられた仏教という文脈である。その絶対的な文脈の中で、対談者という個の存在はあまりに小さい。



「サイバージャーナリズム論」がどのような対話をしているのか、7/15になったら、それを確かめるために735円の出費をして欲しい。

対話は、我々執筆者の間で起こるのではなく、読者の思考の中で起こる。

いまから7/15が待ちどおしスポンタである。

07sponta

言論するということは、それ自体、当該案件の重要度を共有するということになる。

私が一貫して、M氏というイニシアルでしか表現しない理由もそこにある。私は、M氏に拘っているのではない。いかなるバイラル汚染からネットを守らなければならぬ。

それがパソコン通信を経験した世代の責任であると信じている。



追記:

このエントリーは、池田先生が、著作権者の代表として活動する三田誠広を読んで、シンポジウムをするとの、メイルが届いたことから、あげている。
中上健次は死んでしまったから、もう三田氏を殴るような傑物はいないのかもしれぬ…。

あの時代が懐かしい。
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