そして、市民参加型ジャーナリズムの活動のほとんどが終わったときに、「ルサンチマン(怨念)」という言葉に突き当たる。
続きを読む
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 |
10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
31 |
同著の腹帯には、次のようにある。「マスコミが衰退した理由。ネット社会が不安な理由」。
この理由は何かといえば、同著のコミュニケーターとしてハブ的な役割を果した湯川氏が重要性を指摘してやまない「対話」である。
一方、「2ちゃんねるは何故潰れないのか?」という本の腹帯は、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」である。
問題は、個かコミュニティーか…。
その問題を勘案しなければ、正確な分析はできぬ。というのが、私の見解である。
母性的な思想では、戦争も死刑も絶対悪として批判できる。
だが、父性的な考えでは、戦争も死刑も必要悪ととして、是認せざるをえない。
理想は理想。
現実は現実。
個の論理は個の論理。
集団の論理は集団の論理。
・彼らがもっとも気にしているのは、既存マスコミであり、そのスタンスは、明らかな敵視であり、ときとしてそれは、屈折した愛情。受け生けられぬものの嫉妬とも思えた。
・市民参加型ジャーナリズムの運営者たちは、市民たちの声をすくい上げることに注力していない。
・彼らは既存マスコミでの修行でえたスキル(国語力)を誇示し、市民記者たちの文章を鑑別する。
・彼らが文章力で、市民記者を援助することはあっても、プロと市民が協力して新しい言論をつくろうという気持ちはまったくない。
・ジャーナリストは、反権力たるべし。
・ジャーナリストとしての矜持。
・社会の木鐸。
・ウォッチドッグ
いままでは野党的ジャーナリズムの時代だったが、これからは与党的ジャーナリズムの時代である。
民主主義というのは、民意が第一の権力のはず。
三権も、民意が形成されるまでの時間を埋めるだけのものであって、民意が形成されれば、三権も屈服するのは、本村最高裁判断だけではないはず。
インターネット言論を第五権力の誕生といいますが、第0の権力なんですよ。
エバンジェリック(IT業界御用達)な言論がIT界を席巻しているが、それらは、広告費を引き出したり、ベンチャーキャピタルを誘導することには寄与するが、その実効性は定かではない。
そして、あえて指摘するまでもないだろうが、インターネットはイノベーションの時代が終焉。
技術がネットの形を決定する時代は終わり、消費者動向がネットの形を決定する時代がすでに始まっている。
だが、これからは視聴者(ユーザー)が、インターネットというツールを使って、番組編成部(番組表という、番組の重要度のメタタグをつくってきた部署。)にまで、関与してくるということ。
今、インターネットで起きていることは、IT関連ビジネスのコモディティー(普及商品・定番商品)化。
その状況の中で、IT関連企業はマージン低減という悩みを抱え、すでに投資された経費を回収できないでいるとともに、一方では、過去の利益構造の栄光にすがりつく…。
自らを変えられぬ者・過去を捨てきれぬ者の多くは、時代の表舞台からの退場を余儀なくされる。
その違いは何かといえば、2003年本が、発信者たちの言論に終始したことにある。
確かに、2003年本にも、ネットユーザーに関する記述はある。だが、その形容は、クレーマーであったり、便所の落書き者でしかない。
インターネットの普及によって普通の市民がジャーナリズムの担い手として「ウォッチドッグ」の役割を果せるようになるだろう。
1.双方向性
2.リアルタイム性
3.一覧性
4.到達力(リーチ)
5.情報伝達量
6.オンデマンド性、あるいは保存性
7.検索性
8.扱える表現様式(マルチメディア性)
10.コスト
1.インターネットは無限の地平。
…中心も偏狭もない。よってガバナンスも固定パイを奪い合う椅子取りゲームも無価値。
あるのは、ディファクトオブスタンダードであるかどうか。すべては、この指止まれ方式によって優劣が決する。
2.永遠のベータ版性
…すべての発信はベータ版(未完成版)のリリースでしかない。
3.ログが残ること。
…そして、あろうことか、未完成版と改訂版が並存する。…重要なことは、紙かディスプレイの違いではない。
4.マルチタグが情報にまとわりつく。
…これにより情報発信者がコンテンツに君臨する時代は終焉を迎える。
フラットなアルゴリズムが専横している現在のインターネットの構造では、ネットユーザーが主役になることはない。
1.ジャーナリズムとは何か
2.メディアとしてのインターネット
3.インターネットにおけるビジネス・モデル
4.誤報と情報の信頼性の問題
5.匿名性の問題
6.サイバージャーナリズムと著作権
7.人権侵害と営業妨害
8.メディア規制とインターネット
9.サイバージャーナリズムの未来
突き詰めて言えば、インターネットはサービスである。
インターネットユーザーは、お客さまである。
同著の執筆者たちの多くはアカデミズムという、マーケットと不連続であり、寡占状態にあるサービス者の代表(エスタブリッシュ)に過ぎない。
そのような立場でしかない彼らが、ユーザーが発言することを、被サービス者(顧客)のサービス者への仲間入りと誤認し、それが新しい競合相手として敵愾心を燃やしている…。
時事通信社の湯川鶴章氏は、「メディアとはコミュニティーである」と指摘する。
インターネットをサービスとらえたとき、インターネットの本質が見えてくるのではないか…。
サービス業たるインターネットには、さまざまなフェイズがあっていい。
だが、当時の私も、現在の私もライブドアPJについて、感謝とともに、一定の評価をしている。それは、日本の市民参加型ジャーナリズムにおいて、唯一、「オーソライズ」力を保持していた。
少なくとも、ホリエモン騒動の短い時期、そういうパワーをあのメディアは持っていた…。
だが、2007年は、「ウェブ進化論」の梅田望夫氏ではないが、「本当の大変革はこれからやってくる」が、実相である。
そして、その立場から、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」の事実誤認を修正するならば、
「ネット者は、もうこれ以上社会を変えない」になる。
キャズム
一般的にテクノロジーのライフサイクルはベル型の標準偏差のグラフによって示され、その各段階でターゲットとすべき顧客として、イノベーター、アーリー・アドプター、アーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティ、ラガードといった顧客セグメントが行なわれます。通常、この顧客セグメントによって、異なるマーケティング施策を行いながら、徐々に新しいテクノロジーの顧客層を広げていくことが推奨されます。しかし、米のマーケティング・コンサルタントであるジェフリー・ムーア氏が、同名の著書によって、明らかにしたのは、イノベーターとアーリー・アドプターで構成される初期市場と、アーリー・マジョリティやレイト・マジョリティによって構成されるメジャー市場のあいだには、容易には越えがたい「キャズム(深いミゾ)」あるということでした。顧客セグメントの違いによって生み出される、このキャズムを超えなくては、新しい商品はメジャー市場でブレイクすることなく、規模の小さな初期市場のなかでやがては消えていく運命となります。同著が、10年間にわたって米国ハイテク業界のバイブルとされたように、特にテクノロジーの進歩の激しい業界においては、強く意識することが重要なマーケティング理論です。
ミツエリンクス提供
「新しい時代の市井人たちの情報ハブになるために、新聞人たちは一番有利な立場にいる」。(具体例:新潟地震のたむぎ山新聞…etc.)
そのために必要な条件は、「対話を拒まないこと」、「対話を継続すること」。(具体例:アフリカの叡智・真実和解委員会。ネット炎上対策)
そして、過去の自らの言論に縛られないこと。
問題は、構成員(情報発信者・情報伝達者・情報評価者...etc.)の文化であり、過去に縛られず、対話を拒絶せず、対話を継続する努力を忘れぬことである。
箱の運び方や、箱の形ではなく、箱の中身が重要であり、箱の中身によっては、野積みのトラックで運ぶもいいが、物によっては、クール宅急便が必要だったり、警備員をつけて運ばなければならなかったりする。
運ばずに、相手がやってくる非配達型のデリバリーもあるだろう。
タイトル:サイバージャーナリズム論
サブタイトル:「それから」のマスメディア
*
第一章:新聞ビジネス崩壊の予兆 歌川令三
第二章:「プロの記事」はブログより価値があるか? 湯川鶴章
第三章:テレビ局をめぐる大いなる幻想 佐々木俊尚
第四章:グーグルにあらずんば情報にあらず 森健
第五章:ウェブがもたらす「偏向」と「格差」 森健
第六章:メディアとはコミュニティーである 湯川鶴章
第七章:誰もがジャーナリストになれる?
第八章:「ネット」はいいこと尽くめではない 歌川令三
第九章:「知」の共同体とジャーナリズムの「それから」
それは、登場する人達の言論が対立・摩擦するからではない。
本著作が、「読者たちが傍観者でいることを許さぬ」。
そういう厳しいメッセージを突きつけているからである。
インターネットの時代。すべての個は時代の傍観者でいることは許されぬ。
1. 情報共有。(そして、情報の重要度の共有)
2. ステークホルダー(立場・利害)を越える。
3. ルサンチマン(怨念・感情)を越える。
匿名であれば、情報共有をしない個は、対談の資格なしとして対話のコミュニティーを追放される。
匿名であれば、個のステークホルダー(立場・利害)への拘泥は徹底的に批判される。
匿名であれば、個のルサンチマン(感情・怨念)は発信者の評価を著しく低下させる。
KKKのような装束(鉄人28号のPX団な感じ)で会議をするのは異様である。
だが、KKKの装束をしなければ本音の議論ができぬこともまた、事実である。
私が現実的だと思うのは、会議はKKKで行い、そのオーソライズは、記名・実名で行なうというものだ。
歌川先生は、新聞社の経営を批判する文脈がある。だが、世の中の見方はイデオロギー的である。
スポンタも、新聞社を批判する文脈がある。だが、イデオロギー的な言論に価値を見出さない。
森健氏は、イデオロギー的な言論よりも、社会学的な手法を使う。だが、ジャーナリズムは職業と言い切る。
スポンタも、社会学的な手法を好む。だが、ジャーナリズムは職業ではなく、民主主義にとって重要な要素と位置づける。
湯川氏は、「爆発するソーシャルメディア」と説き、ジャーナリズムには対話が重要と指摘する。
スポンタは、ソーシャルメディアの時代は来ないと考えるが、ジャーナリズムには対話が重要という彼の言葉に共感する。
佐々木氏は、グーグルに興味を持ち、オーマイニュース日本版の問題を指摘する。私も、グーグルにアルゴリズムという概念を教えられ、オーマイニュース日本版の誕生にあたっては、鳥越氏とメイル交換をした。
だが、M氏ことのは問題では、対極にいる…。