2016年03月13日

新宿ピットイン、50周年記念コンサートをテレビで見る。

こんなサイトがあった…。

さて、2日間にわたる半世紀の歴史を物語るイベントは、成功裏に幕を閉じた。世界でも希有な経歴の老舗ライブハウスの節目を飾るにふさわしい内容であったことに異論を挟む余地はないだろうが、あえて言おう。このイベントに、過去を振り返るために立ち止まるイメージのある“節目”という言葉は似合わない――。

 ジャズは、特定の世代や特定の時代に封じ込められるものではなく、自由に世代や時代を往き来することができる、いや、その特権を最大限に活かさなければならない“宿命”を負った音楽なのだ。

 その“宿命”に呼応する者の“たまり場”として、新宿PIT INNがこれからも機能し続けるという“未来の展望”を暗示したのがこのイベントの本意だったと、ボクは解釈している。

http://arban-mag.com/report_detail/21

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posted by スポンタ at 17:33| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月12日

演技と朗読の違い…。

こんな2ちゃんねるの記事があった。

長谷川アナがテレビで熱弁!「吹き替えをタレントがやるのはやめてくれ!」「声優さんの実力はアナウンサーでも敵わないレベル」 [無断転載禁止]c2ch.net

http://potato.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1457596508/-100



長谷川アナが、「実力」について指摘しているが、どういうことか、形式批評しなければならない。

基本的にいうと、

・朗読は、セリフと気持ちが同時進行してよい。

・演技は、セリフと気持ちが同時進行してはならない。


これは、私のオリジナル理論だが、これを知っていれば、実力の違いはよく分かる。

*

つまり、人間の神経系は、

・脳 → 口

または、

・口 → 脳

に情報・信号が伝達されるので、同時に進行することはありえない。


セリフに気持ちを込めるような演技は、アンリアル。ありえないということ。

昨日は、うたたねをしながら、TBSドラマの演技を音だけで聴いていたが、綾瀬はるか、三浦春馬、など、まったくダメ…。
(^▽^;)

もっと気がついたのは、ほとんどが主演の綾瀬はるかのセリフの抑揚の影響を受けてしまっていること。

ま、そんな感じ。

演技では、セリフと気持ちと動作はシンクロしてはならない。

ということである。
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2016年03月11日

巨人軍はみんなで、野球賭博をやっていた。

娘が小学1年生の時の担任の先生が、「お子さんがみんなと言ったら、それは3〜4人です」と、入学式直後の教室でオッシャラレタ。

大人は「みんな」というと、最低でもクラスの過半数だと思うが、実際は…。


クラッシック音楽でいえば、3声でも、シンフォニアだったか…。



その意味では、巨人軍の3選手が野球賭博をやっていたのだから、「みんな…」。

選手会の会長など、一切、会見に関わっていないのは、今回の高木選手が可哀想すぎる。


ま、以下のようなこともあったのかもしれない。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takashikiso/20160310-00055249/
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2016年03月08日

福原愛さんの凄さ。

愛さんの凄さは、いままでも書いている。

それは、オリンピックの時に、手に書いている文言が、選手村から試合会場に向かうバスの時間だったこと。
このリアリズムは凄いと思った。



さて、今回。

試合が終わった中学生・伊藤選手に近寄った愛さんが言ったのは、
「怖かったよね」ということ。


愛さんは、試合をしている伊藤選手の気持ちが手に取るように分かったというが、まさにその通りだと思う。

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司馬遼太郎は、昭和の御用作家である。

戦前の御用作家としては、小説「徳川家康」の山岡荘八が有名だが、司馬遼太郎を、御用作家と見る向きは平成の今もないだろう。

山岡は、「民衆の戦意高揚な精神」に影響する小説を書いたのである。
一方、司馬遼太郎は…。

司馬氏が御用たる理由は、「外国勢力の影響」の結果である歴史的な事実を、「外国勢力とは無縁の出来事」として、描いたことである。



あまり知られていないことだが、自由の反対は、不自由ではない。
自由の反対は、旧体制(アンシャンレジーム)。なぜなら、自由という概念は、フランス革命で叫ばれたから。

同様に、平等の反対は、不平等ではなく、身分相応。



さて、司馬氏の特集をNHKでやっているが、最初の回は、「国盗り物語」だった。
番組では、司馬氏が、信長・秀吉・家康の代表的な武将をとりあげ、それぞれ「壊すタイプ」・「作るタイプ」・「つづけるタイプ」と形容したと紹介した。

しかし、戦国時代の要因は、封建制度の崩壊であって、その裏には、貨幣経済の浸透があり、そこには、外国勢力・イエスズ会の影響は必至であろう。

お賽銭は信長が始めたというし、卸や問屋の制度も、信長が…。
つまり、そういう社会制度的な、または、貨幣経済に関連した外国勢力の侵攻を表現せず、武人の「個性」にのみ関心を持った。
それが、私が司馬氏を御用作家と見る理由である。


同様に、明治政府が英国の傀儡政権であるのに、それを幕末の志士たちの「個性」によって表現した。
龍馬の姉への手紙を思えば、何故、龍馬に、そのような通信費用があったのか、疑問を持つのが当然だが、司馬氏は…。

また、日本海海戦は、英国海軍からやってきた観戦将校のお手柄なのに、日本の軍人の「個性」を小説にした…。

そのような司馬氏が紡ぐ「この国のかたち」…。
結局のところ、それも、自虐史観であって、「外国勢力の介在」を一切表現しない。



日本の本質は、
「縄文的な自給自足社会が、弥生的な寄生社会と遭遇し、妥協しつつも、縄文的なルーツを根絶やしにせずに、現代に至る」
である。

それは、縄文的な文化の「弥生的な文化」に対する敗北の歴史である。

しかし、たびたびの敗北にも関わらず、私たちには縄文の精神が生きている。


それが、日本である。



教科書は正史であって、稗史ではない。
平成の私たちは、稗史を紡がなければならぬ…。

それが、ニューヒストリシズムである。

稗史を書こう。
そう思っている。


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2016年02月25日

キムタク・広瀬すず…。

どんなに演技がよくても、スタッフを軽蔑していることや、仲間を裏切ったことを知ってしまったので、観る気にならない。



マイルス・デイビスは、「どんなに嫌な奴でも、自分に音楽的な刺激を与えてくれる奴なら、セッションする」と発言しているが、素人はなかなかそうはいかないのである。
posted by スポンタ at 10:24| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

昨日、娘と倉本總のインタビュー(録画)を見た。

倉本氏は、「アメリカの演出家が来て、日本には俳優のスタジオがないと指摘した。プロボクサーは、毎日ジムに行くのに、俳優はいかない。私はライター だが、一週間、何も書かないでいると、一週間後、筆がなまっていて、なかなか上手くいかない。私はその状況を変えたいと思って、富良野塾をつくっ た」と。

で、私は「これ間違っているよ」。
だが、娘は答えられない。



私は、歌舞伎の歌右衛門の言葉を引用した。
「役者は、やればやるほど、落ちるんです」。
つまり、演技をすればするほど、新鮮さがなくなって落ちていく。


日本には、「白樺派」という芸術の伝統があって、つくりものを嫌う。

つまり、何度もやっても、同じパフォーマンスを求められる「落語」のような芸能と、映像演技のような「人工的なもの」を嫌う芸能がある。

結局のところ、彼は、左翼系出版人の息子であり、最晩年な今も、「(時代遅れの)反戦」な作品をつくっている。



結局のところ、彼は、ただの一人も有名俳優・有名脚本家をつくっていない。それが結論である。

娘の倉本氏の印象は、富良野のお金持ち。残念ながら、そういうこと。
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2016年02月19日

小沢征爾氏、グラミー賞。

小沢征爾氏が、オペラのCDでグラミー賞だという。
私が幼い頃、私の父親は、「小沢征爾は、浪花節だ」と悪口を言っていた。だが、私には意味が分からなかった。

父はその他、「森繁久弥やフランキー堺の演技が臭い」、「○○は、自己顕示欲の固まりだ」とか、テレビを見ながら、出演者の悪口を繰り返した。
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posted by スポンタ at 14:31| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月11日

NHKの社会悪。

録画しておいた「岩井俊二のMOVIEラボ・シーズン2」を観た。

http://www4.nhk.or.jp/movielab/27/



どうなんだろうか?

この番組を観る人たちは、「映画・映像作品の作り方」を有名映像監督から、学びたいと思っているのではないか。
とすれば、スタジオに集っている「学生素人」の作品を講評するだけの番組に満足するのだろうか…。


この番組を観る人の殆どは、「(口に出すかどうか、そのために行動しているかはともかくも、心の中では)プロをめざしていて、そのためのスキル・ノウハウを知りたいと思っているに違いない。しかし、そういうニーズに、この番組は、まったくと言ってよいほど、答えない。

この回では、8本の素人映像作品が紹介され、岩井氏によって講評された。しかし、「何がダメか」を指摘しない講評では、素人視聴者は、何がなんだか分からない。

たとえば、この映像。アイデアも、シナリオもよく出来ている。

http://www.nhk.or.jp/program/movielab/movie05.html

しかし、演技がダメ。つまり、「借金の返済を求める人物」の凄みの演技と、「借金を返せない人物」の困り果てた演技が出来ていない。その状況で、「彼氏の味方をする彼女」の度胸と、その裏にある「たくらみ」の対比が演技演出でできていない。
最低なのは、「自撮り棒」で「借金取り」を殴り倒すショットが、「引きのワンショット」なので、分かりにくい・迫力がない。

そして、痛感するのは、「映像の文法の基本」が分かっていないこと。




「映像の文法の根本原理」は、ただ一つ。

 同サイズ・同ポジションは直結してはならない。

井上和男監督(通称・蛮さん、小津監督の弟子)が教えてくれました。先生は、例外として映画「座頭市」の主人公の居合い切りで、アンリアルに物がカットされるシーンを指摘しました。



井上和男監督作品(サムネイルは、井上監督。)

したがって、以下のようになる。

 編集点の接着力は、前後の画面の差異の大きさに従う。 


カットの差異は、被写体の種類(人物・物体・風景・見た目・主観移動など)の他、以下の3種類がある。

1.サイズ

2.ポジション

3.アングル


サイズとは、ロング・フル・バスト・アップなどのこと。

ポジションとは、正対・プロフィール(横顔)・シルエット(後ろ姿)。

アングルとは、俯瞰(上から)・アオリ(下から)。

その他、フィックス(固定)・移動・クレーンなどもある。

また、カットの長さにも、多様なバラエティーが期待できる。



したがって、編集技術においては、「変化に富む」ことが、プロの仕事としては、日常的な仕事。
そのためには、「被写体とカメラの関係」を常に意識する。
つまり、「寄る」のか「引く」のか。「あいまいな距離」は、ボクシング同様に勝利しない。

しかし、素人の映像作品の多くは、中途半端のヒキメのフルサイズ。中途半端な7:3のポジション。何も考えていないアイレベル(眼の高さ)のカメラが頻出する。



はっきり言ってしまえば、上記を知れば、NHKの番組を観る必要がないばかりか、映像の専門学校で学ぶ必要も無い。
否、業界に入りたいという意志を示すためにだけ、映像の学校に行けばよい。
posted by スポンタ at 07:45| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月04日

J-POPが日本の音楽界にしたこと。

亀田音楽専門学校。

亀田ベーシストのNHKの番組での言説を鵜呑みにする人が、全国に広がると思うので、指摘したい。



J-POPという概念の登場によって、何が起きたか? といえば、「西洋音楽」と「日本の擬似西洋音楽」が切り分けられた。ということである。

Popular Musicを略して、Popだが、そこには、POP。つまり、ハジケルという含意がある。そういうものを目指さなくてもいい。そういう意味がJ-POPにはある。




ローリング・ストーンズのミック・ジャガー氏は、「ロックは若さや勢いでできるんだけど、ロールはダメなんだよね」と発言している。

このロールとは、「グルーヴ」であり、そのためには、「堅調なタイム感」が必要である。
つまり、タイム感があり、それとアイソレーション(孤立して、独立して)音出しのタイミングずらす、グルーヴできることが、「ロール」の条件である。


亀田氏のベースプレイは、「音数を増やすこと」でテクニックを装うが、タイム感がなく、音出しに、タイムとのアイソレーションを感じさせない。だが、それは「日本風のポップスだら、それでいいんだよ」というのが、J-POPの真相である。

名ドラマー・スティーブ・ガッドは、太鼓一発でも、グルーヴを感じさせる。



音楽の醍醐味は、演奏者同士のコール&レスポンス(呼応・対話)である。
しかし、タイム感を持たない演奏者間では、コール&レスポンスは成立しない。


タイム感という感覚を持つと、タイム感のない演奏。たとえば、小澤征爾氏や佐渡裕氏が指揮する演奏を「聴くに耐えない演奏」と感じるようになる。その視点では、関西学生吹奏楽会の名指導者・丸ちゃん先生の素晴らしさが理解できる。

私は、高校時代。「何故、吹奏楽は二流の音楽なのか?」と疑問に思っていたが、その実相は、「吹奏楽者たちがやる、ポピュラー音楽は、アンサンブル的なため、コール&レスポンスを発生しないから」と、30年後に理解するようになる。

その感覚によって、初めて、「何故、グレングールドや、リヒテルが評価されるのか…」が理解できた。



テレビを観ていると、「グルーヴできない人達」が悲鳴のように、自己の理論を開陳しているような印象がある。

その一方で、「グルーヴできる人達」は、孤高を誇り、自らの能力を誇らない。


そんな状況を、一般の視聴者は、まったく知ることができないのが、悲しい2016年のテレビである。
(^▽^;)



日本のジャズ界も同様であり、現在のジャズ界の重鎮である瀬川昌久氏が、グルーヴを理解しないのが、もっともダメなこと。

先日、娘が、駅で、エリック宮代氏を見かけたが、歩いてる時、グルーヴしていなかったとか…。ま、そんな感じ。
(^▽^;)
posted by スポンタ at 08:15| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月30日

ベッキー、SMAP、メディアビオトープ

水越伸氏の放送大学の講義を観ているが、メディアを生態系で論じるメディアビオトープという手法に興味を持った。というか、彼の問題意識。つか、学問のすすめ方は、きわめて真っ当である。

先日も、ひさしぶりにコメントがあり、「本気でアメリカの洗脳説を信じている人がいる事に驚きました」とあったので、ニューヒストリシズムや、インターテクチュアリティーという新しい学問について知るべきと返答した。

ロラン・バルトは、「あらゆるテキストは、永遠に今ここで書かれる」と作者の死を宣言したが、インターテクチュアリティーとは、あらゆるテキストは、対照されることによって意味が決定するのであり、対照されるテキストが変化すれば、意味は千変万化する。つまりは、永遠に今ここ(読解される瞬間)で書かれる。となる。


インターテクチュアリティーとは、歴史もテキストに過ぎず、絶対的な存在ではないということ。
つまり、アメリカの占領下をひきづった戦後の日本が編んだ「教科書歴史」を絶対視する根拠は、どこにもない。ということだ。
外国人に尋ねれば、「日本のジャーナリズム・報道は歪曲している」。にも関わらず、日本人が、「それをまったく問題視しないこと」に、日本人の知性に疑問を持つという。


そのことが、3.11の原発事故のメルトダウン報道で明らかになったし、古くは、「記者クラブの閉鎖性」という問題がある。



さて、水越論に戻るが、メディアビオトープ的に勘案すれば、「ベッキーの記者会見」と「スマスマのSMAPの事情説明」の情報発信は、稚拙過ぎる。

ベッキーは、すべてのCMを無くし、数億円ではきかない収入を失う。
そして、SMAPの件では、会見を陰で操っていたであろうメリー氏批判は、鎮まるのではなく、逆に高まり、木村氏への逆風はいままで以上に強くなっている。

一流広告代理店の系列会社には、「火消し」を業務とする広報会社がある。ベッキーも、SMAPも10億円ではきかないビッグビジネスに直結した記者会見・事情説明だったのだから、「もっと上手くできた…」はず。
とすれば、その稚拙さを容認した人達が、情報メディアに存在した。と見るのが、メディアビオトープ的に解釈ではないだろうか…。


*

素人でも、ベッキーは「(CMスポンサーのことしか考えず、さらに、自分の擁護の発言に終始した。)会見をするのが、早すぎた」だし、SMAPは、「木村氏を持ち上げれば、反発を食らうことなど、(メリー氏以外ならば)誰にでも想像できたはずなのに…」。



私は、大衆陽動・世相操作は、「幕末の、ええじゃないかのお札が降った」に始まっていると感じている。
浦賀に黒船がやってきたのも、つまりは、木造船を黒く塗った船で、鉄で作られた船が、日本人を驚かせたのも、大衆陽動・世相操作の一貫であって、そこには、「戦略をつくらせた人たち」と「戦略をつくった人たち」と「戦略」と「資金」があった。そう、イメージできる。



今回の二件の出来事は、どうなのか。

メディアビオトープ、インターテクスチャリティー、ニューヒストリシズムを援用して考察して欲しい。

まちがっても、オーラルヒストリーを援用してはならぬ。人間は嘘をつくものだから…。
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2016年01月29日

亀田音楽専門学校に騙されてはいけない。

J-POPについて、いろいろと論じていたようだが、笑止である。

最終回では、あたかも、J-POPがグルーヴしているかのような盛り上がりをゲストとしていたが、あのようなものは、グルーヴではない。刻んでいくことによって、グルーヴのようなものが立ち上がっただけであって、本来は、4拍であっても、グルーヴできる。



J-POPの本質とは何か。
というと、非グルーヴ系の音楽であり、非ハーモニー系の音楽ということだ。

グルーヴというのは、アンサンブル系の音楽ではなく、ビート系の音楽である。
つまり、タイム感の共有をもとに、各プレーヤーが、いかに自由に演奏するかが、魅力となる。

ハーモニー系というのは、ハーモニーの共有を元に、各プレーヤーが、いかに自由に演奏するかが、魅力となる。
つまり、ハーモニーの共有を前提に、シャウトや、コール&レスポンスが行われるということ。

*

残念ながら、J-POPには、「合わせる(アンサンブル)」という感覚しかなく、「シンクロ(同期させる)」という感覚がない。

結果、メロディーは単調になり、コール&レスポンスはなくなる。
ロックでは、ヴォーカルのメロディーに対して、ギターのリフが印象的だが、J-POPでは、グルーヴがいないため、演劇における「割りゼリフ」と同じになり、結果、リフというロックの伝統は、J-POPにおいて消滅する。



番組最後の亀田氏のコメントを聴くと、音楽は、すべての人が同じ感覚で聴いているという誤解がある。
それは、レヴィ・ストロースの文化人類学的にいえば、まったくの間違いである。

半島のある国では、海外で批難されるようなことがあったら、日本人の振りをするという。そんな本来は恥ずべき行動がドラマでも描かれる。そんな民族意識が現在何をしていて、戦時中にどういう行動をしたか、想像してみるまでもないだろう。そんな民族と、日本民族が異なるように、音楽についても、各民族によって異なるのである。

タイム感とハーモニー感について、欧米の一流ミュージシャンと、J-POPが異なる、または、レベルが違うことに言及しなければ、安易なJ-POP礼賛、保守主義となってしまう。

なんて思うんですが、亀田さんの関係者の皆さん。反論してくれませんか?
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2016年01月23日

SMAPは、森君ロスではないか…。

中居氏と木村氏の対立につき、ブレーク直後にSMAPを脱退した森君のことが心理的に深く影響しているのではないか…。と、ふと思った。

今とは異なる20年前。
硬派の男子(中学生・高校生)が、レオタードを着用してのダンスレッスンは、違和感があったに違いない。
さらにいえば、「女の子」にキャーキャー言われることも、そういう立場に立つことを望んでいる自分に対しても、自己嫌悪があっただろう。

彼等の出自を深くは知らないが、「家庭の経済的苦境を挽回しよう」という意図が、彼等が背負ってしまった可能性が高いに違く、彼等が身動きを取れなくしていたのでは…。



そんな頃、グループで人気を一、二を争うを森君が、オートレーサーになると…。

視聴者が参加番組で、調子にのった視聴者に豪快に廻し蹴りを決める森君は、彼等の精神的支柱だったに違いない。

そして、彼は、「男の子」の憧れ、バイクの仕事で、お金を稼ぐ…。



やんちゃ系のSMAPメンバーが、森君の生き方に憧れ、自分に「劣等感コンプレックス」を持ったことは、予想できる。

つまり、どんなに「人気」が出て、「お金」が手に入ろうとも、「森君には勝てない自分」を払拭できない。
…のかも。




私には、今回の、木村氏、中居氏の異なる行動が、それぞれの「森君ロス」を克服するための行動ではなかったか。と、確信するのである。
posted by スポンタ at 18:52| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月17日

格安スキーツアーバス転落事故に思う。

かつて格安スキーツアーを経験したことがあり、今回の犠牲者と同年代の娘を持つ私としては、けっして対岸の火事・他人事ではないと、切実な思いでいる。

一昨年、娘をロンドン旅行に送り出した時、「安全はお金で買う」と、ワンランク上のホテルを薦めたが、バス旅行も同様ではないか…。と自戒する。

もうひとつ、考えるのは、どう考えても、「安すぎる」商品を購入することは、消費者として褒められた行為ではないこと。



なんて思いながら、1/3の値段の中国製のにんにくを前に、とまどう私である…。
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2016年01月15日

野坂昭如、大島渚、田原総一朗の昭和…。

BSの番組で、大島渚のドキュメンタリーをやっていた。盟友・野坂昭如も、昨年、鬼籍に旅立っている。

コメントしていた田原総一朗氏は、「反権力・反国家・反体制」を誇り、反戦と民主主義を主張し、二人の先輩の不在を惜しんだ。

しかし、平成の私たちは、戦後も遠くなり、戦争反対を叫ぶことが、必ずしも戦争抑止になるとは限らないことに、気づいていい。




わが父は、戦後、アメリカ製のヒューマニズム(生命第一主義)のドラマを私が観ていると、そんなものを観て…。と、ばかりに冷たい視線を送ってきたが、そういうことである。

山本夏彦は、「平和の時の平和論」と表現したが、パリのテロリズムへの批判が、中東への空爆の擁護世論を形成することに、一役買っていることは、間違いない。



戦争で死ぬ人が出る。
そのことに、いかに対応するか…。
そこにこそ、人間の知性が現れる。

反戦などという単純な論理で終われる程、世の中は単純にできてはいない。




朝まで生テレビの延長線上でいえば、西部邁も、ポストモダンな今、旧制高校的な知を誇り終了している。
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2016年01月14日

ベッキーの不倫報道に思う…。

問題は、彼女が、人間が生きているのだから、当然、持っているであろう、「闇」・「毒」などと無縁のキャラクターづくりをしてきたことだと思う。

そういうリアリティーのない表面的なキャラクターづくりに、現実が悲鳴をあげたのであって、

男が不実であるとしても、問題は、彼女にある。

弱みを見せずに、がっぽり稼いで生きていくなんて、どこかズルイ。…なんて。



というか、友達がいなかったのか、友達をないがしろにしたのか、彼女の人生経験のなさが露呈したのではないか…。

さらにいえば、今こそ、リアルを取り戻すチャンスだったのに、彼女は逃してしまった。
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2016年01月10日

4Dxでスターウォーズを観る。

4Dxとは、立体映像、椅子が動く、ハイブする、耳元で風が吹く、ミスト、前から風が吹く、ドライアイスの煙が上がる、足元でなにやら…。
な、感じである。

http://www.4dx.korona.co.jp/

安全ベルトをしないだけあって、スターツアーズなどよりも、迫力は弱い。
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2016年01月01日

パリのテロの教訓。

先日、テレビで、イスラム国に関連したパリの劇場テロの再現番組を観た。

番組で印象的だったのは、人質が劇場に出かけていることを知っている「人質の家族・知人」が、人質に電話することによって、人質の生命を窮地に陥らせていること。

犯人たちにホールドアップされている状況で、携帯が鳴れば目立ち、犯人に目を付けられる。そのことで、人質がまっさきに犠牲になる可能性は否定できない。



人質になることなど、人生でほとんどありえない。

しかし、「相手の重要な場面」を、自分がかけた携帯電話のコールで、チケを威力を散漫にさせてしまうことは、ありがちなこと…。

親として、自重したい。
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2015年12月29日

職能の「モジュール化」していない日本を理解しないと…。

TBSラジオに、厚切りジェイソン氏が出演していて、日本人は、「会社のブランド」で就職先を決定すると、批判していた。

しかし、この問題の原因は、「職能のモジュール化が行われていない労働界の現状」であって、日本人の浅薄さが理由ではない。


職能のモジュール化とは、職能が自立的に機能すること。モジュールとは、たとえてみれば、レゴのパーツのようなもの。職能がパーツとして確立していれば、労働者は流動的に別の会社に転職することができる。

現在、職能が自立的に機能しているのは、医師・弁護士・看護婦など少数であり、一般的に、ある会社で総務をやっていたからといって、別の会社でそのキャリアが認められることはない。
否、医者や弁護士でも、人脈がなければ、就職は難しいだろう。
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2015年12月25日

東大理Vママに、妥当性はあるか?

息子を全員東大理三に入れた母親に、フィフィが反論をしたのだとか。

曰く、大学受験は、偏差値至上主義だが、社会は、偏差値至上主義ではないから…。
とか。

http://news.livedoor.com/article/detail/10993790/
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