2016年02月11日

NHKの社会悪。

録画しておいた「岩井俊二のMOVIEラボ・シーズン2」を観た。

http://www4.nhk.or.jp/movielab/27/



どうなんだろうか?

この番組を観る人たちは、「映画・映像作品の作り方」を有名映像監督から、学びたいと思っているのではないか。
とすれば、スタジオに集っている「学生素人」の作品を講評するだけの番組に満足するのだろうか…。


この番組を観る人の殆どは、「(口に出すかどうか、そのために行動しているかはともかくも、心の中では)プロをめざしていて、そのためのスキル・ノウハウを知りたいと思っているに違いない。しかし、そういうニーズに、この番組は、まったくと言ってよいほど、答えない。

この回では、8本の素人映像作品が紹介され、岩井氏によって講評された。しかし、「何がダメか」を指摘しない講評では、素人視聴者は、何がなんだか分からない。

たとえば、この映像。アイデアも、シナリオもよく出来ている。

http://www.nhk.or.jp/program/movielab/movie05.html

しかし、演技がダメ。つまり、「借金の返済を求める人物」の凄みの演技と、「借金を返せない人物」の困り果てた演技が出来ていない。その状況で、「彼氏の味方をする彼女」の度胸と、その裏にある「たくらみ」の対比が演技演出でできていない。
最低なのは、「自撮り棒」で「借金取り」を殴り倒すショットが、「引きのワンショット」なので、分かりにくい・迫力がない。

そして、痛感するのは、「映像の文法の基本」が分かっていないこと。




「映像の文法の根本原理」は、ただ一つ。

 同サイズ・同ポジションは直結してはならない。

井上和男監督(通称・蛮さん、小津監督の弟子)が教えてくれました。先生は、例外として映画「座頭市」の主人公の居合い切りで、アンリアルに物がカットされるシーンを指摘しました。



井上和男監督作品(サムネイルは、井上監督。)

したがって、以下のようになる。

 編集点の接着力は、前後の画面の差異の大きさに従う。 


カットの差異は、被写体の種類(人物・物体・風景・見た目・主観移動など)の他、以下の3種類がある。

1.サイズ

2.ポジション

3.アングル


サイズとは、ロング・フル・バスト・アップなどのこと。

ポジションとは、正対・プロフィール(横顔)・シルエット(後ろ姿)。

アングルとは、俯瞰(上から)・アオリ(下から)。

その他、フィックス(固定)・移動・クレーンなどもある。

また、カットの長さにも、多様なバラエティーが期待できる。



したがって、編集技術においては、「変化に富む」ことが、プロの仕事としては、日常的な仕事。
そのためには、「被写体とカメラの関係」を常に意識する。
つまり、「寄る」のか「引く」のか。「あいまいな距離」は、ボクシング同様に勝利しない。

しかし、素人の映像作品の多くは、中途半端のヒキメのフルサイズ。中途半端な7:3のポジション。何も考えていないアイレベル(眼の高さ)のカメラが頻出する。



はっきり言ってしまえば、上記を知れば、NHKの番組を観る必要がないばかりか、映像の専門学校で学ぶ必要も無い。
否、業界に入りたいという意志を示すためにだけ、映像の学校に行けばよい。
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2016年02月04日

J-POPが日本の音楽界にしたこと。

亀田音楽専門学校。

亀田ベーシストのNHKの番組での言説を鵜呑みにする人が、全国に広がると思うので、指摘したい。



J-POPという概念の登場によって、何が起きたか? といえば、「西洋音楽」と「日本の擬似西洋音楽」が切り分けられた。ということである。

Popular Musicを略して、Popだが、そこには、POP。つまり、ハジケルという含意がある。そういうものを目指さなくてもいい。そういう意味がJ-POPにはある。




ローリング・ストーンズのミック・ジャガー氏は、「ロックは若さや勢いでできるんだけど、ロールはダメなんだよね」と発言している。

このロールとは、「グルーヴ」であり、そのためには、「堅調なタイム感」が必要である。
つまり、タイム感があり、それとアイソレーション(孤立して、独立して)音出しのタイミングずらす、グルーヴできることが、「ロール」の条件である。


亀田氏のベースプレイは、「音数を増やすこと」でテクニックを装うが、タイム感がなく、音出しに、タイムとのアイソレーションを感じさせない。だが、それは「日本風のポップスだら、それでいいんだよ」というのが、J-POPの真相である。

名ドラマー・スティーブ・ガッドは、太鼓一発でも、グルーヴを感じさせる。



音楽の醍醐味は、演奏者同士のコール&レスポンス(呼応・対話)である。
しかし、タイム感を持たない演奏者間では、コール&レスポンスは成立しない。


タイム感という感覚を持つと、タイム感のない演奏。たとえば、小澤征爾氏や佐渡裕氏が指揮する演奏を「聴くに耐えない演奏」と感じるようになる。その視点では、関西学生吹奏楽会の名指導者・丸ちゃん先生の素晴らしさが理解できる。

私は、高校時代。「何故、吹奏楽は二流の音楽なのか?」と疑問に思っていたが、その実相は、「吹奏楽者たちがやる、ポピュラー音楽は、アンサンブル的なため、コール&レスポンスを発生しないから」と、30年後に理解するようになる。

その感覚によって、初めて、「何故、グレングールドや、リヒテルが評価されるのか…」が理解できた。



テレビを観ていると、「グルーヴできない人達」が悲鳴のように、自己の理論を開陳しているような印象がある。

その一方で、「グルーヴできる人達」は、孤高を誇り、自らの能力を誇らない。


そんな状況を、一般の視聴者は、まったく知ることができないのが、悲しい2016年のテレビである。
(^▽^;)



日本のジャズ界も同様であり、現在のジャズ界の重鎮である瀬川昌久氏が、グルーヴを理解しないのが、もっともダメなこと。

先日、娘が、駅で、エリック宮代氏を見かけたが、歩いてる時、グルーヴしていなかったとか…。ま、そんな感じ。
(^▽^;)
posted by スポンタ at 08:15| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月30日

ベッキー、SMAP、メディアビオトープ

水越伸氏の放送大学の講義を観ているが、メディアを生態系で論じるメディアビオトープという手法に興味を持った。というか、彼の問題意識。つか、学問のすすめ方は、きわめて真っ当である。

先日も、ひさしぶりにコメントがあり、「本気でアメリカの洗脳説を信じている人がいる事に驚きました」とあったので、ニューヒストリシズムや、インターテクチュアリティーという新しい学問について知るべきと返答した。

ロラン・バルトは、「あらゆるテキストは、永遠に今ここで書かれる」と作者の死を宣言したが、インターテクチュアリティーとは、あらゆるテキストは、対照されることによって意味が決定するのであり、対照されるテキストが変化すれば、意味は千変万化する。つまりは、永遠に今ここ(読解される瞬間)で書かれる。となる。


インターテクチュアリティーとは、歴史もテキストに過ぎず、絶対的な存在ではないということ。
つまり、アメリカの占領下をひきづった戦後の日本が編んだ「教科書歴史」を絶対視する根拠は、どこにもない。ということだ。
外国人に尋ねれば、「日本のジャーナリズム・報道は歪曲している」。にも関わらず、日本人が、「それをまったく問題視しないこと」に、日本人の知性に疑問を持つという。


そのことが、3.11の原発事故のメルトダウン報道で明らかになったし、古くは、「記者クラブの閉鎖性」という問題がある。



さて、水越論に戻るが、メディアビオトープ的に勘案すれば、「ベッキーの記者会見」と「スマスマのSMAPの事情説明」の情報発信は、稚拙過ぎる。

ベッキーは、すべてのCMを無くし、数億円ではきかない収入を失う。
そして、SMAPの件では、会見を陰で操っていたであろうメリー氏批判は、鎮まるのではなく、逆に高まり、木村氏への逆風はいままで以上に強くなっている。

一流広告代理店の系列会社には、「火消し」を業務とする広報会社がある。ベッキーも、SMAPも10億円ではきかないビッグビジネスに直結した記者会見・事情説明だったのだから、「もっと上手くできた…」はず。
とすれば、その稚拙さを容認した人達が、情報メディアに存在した。と見るのが、メディアビオトープ的に解釈ではないだろうか…。


*

素人でも、ベッキーは「(CMスポンサーのことしか考えず、さらに、自分の擁護の発言に終始した。)会見をするのが、早すぎた」だし、SMAPは、「木村氏を持ち上げれば、反発を食らうことなど、(メリー氏以外ならば)誰にでも想像できたはずなのに…」。



私は、大衆陽動・世相操作は、「幕末の、ええじゃないかのお札が降った」に始まっていると感じている。
浦賀に黒船がやってきたのも、つまりは、木造船を黒く塗った船で、鉄で作られた船が、日本人を驚かせたのも、大衆陽動・世相操作の一貫であって、そこには、「戦略をつくらせた人たち」と「戦略をつくった人たち」と「戦略」と「資金」があった。そう、イメージできる。



今回の二件の出来事は、どうなのか。

メディアビオトープ、インターテクスチャリティー、ニューヒストリシズムを援用して考察して欲しい。

まちがっても、オーラルヒストリーを援用してはならぬ。人間は嘘をつくものだから…。
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2016年01月29日

亀田音楽専門学校に騙されてはいけない。

J-POPについて、いろいろと論じていたようだが、笑止である。

最終回では、あたかも、J-POPがグルーヴしているかのような盛り上がりをゲストとしていたが、あのようなものは、グルーヴではない。刻んでいくことによって、グルーヴのようなものが立ち上がっただけであって、本来は、4拍であっても、グルーヴできる。



J-POPの本質とは何か。
というと、非グルーヴ系の音楽であり、非ハーモニー系の音楽ということだ。

グルーヴというのは、アンサンブル系の音楽ではなく、ビート系の音楽である。
つまり、タイム感の共有をもとに、各プレーヤーが、いかに自由に演奏するかが、魅力となる。

ハーモニー系というのは、ハーモニーの共有を元に、各プレーヤーが、いかに自由に演奏するかが、魅力となる。
つまり、ハーモニーの共有を前提に、シャウトや、コール&レスポンスが行われるということ。

*

残念ながら、J-POPには、「合わせる(アンサンブル)」という感覚しかなく、「シンクロ(同期させる)」という感覚がない。

結果、メロディーは単調になり、コール&レスポンスはなくなる。
ロックでは、ヴォーカルのメロディーに対して、ギターのリフが印象的だが、J-POPでは、グルーヴがいないため、演劇における「割りゼリフ」と同じになり、結果、リフというロックの伝統は、J-POPにおいて消滅する。



番組最後の亀田氏のコメントを聴くと、音楽は、すべての人が同じ感覚で聴いているという誤解がある。
それは、レヴィ・ストロースの文化人類学的にいえば、まったくの間違いである。

半島のある国では、海外で批難されるようなことがあったら、日本人の振りをするという。そんな本来は恥ずべき行動がドラマでも描かれる。そんな民族意識が現在何をしていて、戦時中にどういう行動をしたか、想像してみるまでもないだろう。そんな民族と、日本民族が異なるように、音楽についても、各民族によって異なるのである。

タイム感とハーモニー感について、欧米の一流ミュージシャンと、J-POPが異なる、または、レベルが違うことに言及しなければ、安易なJ-POP礼賛、保守主義となってしまう。

なんて思うんですが、亀田さんの関係者の皆さん。反論してくれませんか?
posted by スポンタ at 07:09| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月23日

SMAPは、森君ロスではないか…。

中居氏と木村氏の対立につき、ブレーク直後にSMAPを脱退した森君のことが心理的に深く影響しているのではないか…。と、ふと思った。

今とは異なる20年前。
硬派の男子(中学生・高校生)が、レオタードを着用してのダンスレッスンは、違和感があったに違いない。
さらにいえば、「女の子」にキャーキャー言われることも、そういう立場に立つことを望んでいる自分に対しても、自己嫌悪があっただろう。

彼等の出自を深くは知らないが、「家庭の経済的苦境を挽回しよう」という意図が、彼等が背負ってしまった可能性が高いに違く、彼等が身動きを取れなくしていたのでは…。



そんな頃、グループで人気を一、二を争うを森君が、オートレーサーになると…。

視聴者が参加番組で、調子にのった視聴者に豪快に廻し蹴りを決める森君は、彼等の精神的支柱だったに違いない。

そして、彼は、「男の子」の憧れ、バイクの仕事で、お金を稼ぐ…。



やんちゃ系のSMAPメンバーが、森君の生き方に憧れ、自分に「劣等感コンプレックス」を持ったことは、予想できる。

つまり、どんなに「人気」が出て、「お金」が手に入ろうとも、「森君には勝てない自分」を払拭できない。
…のかも。




私には、今回の、木村氏、中居氏の異なる行動が、それぞれの「森君ロス」を克服するための行動ではなかったか。と、確信するのである。
posted by スポンタ at 18:52| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月17日

格安スキーツアーバス転落事故に思う。

かつて格安スキーツアーを経験したことがあり、今回の犠牲者と同年代の娘を持つ私としては、けっして対岸の火事・他人事ではないと、切実な思いでいる。

一昨年、娘をロンドン旅行に送り出した時、「安全はお金で買う」と、ワンランク上のホテルを薦めたが、バス旅行も同様ではないか…。と自戒する。

もうひとつ、考えるのは、どう考えても、「安すぎる」商品を購入することは、消費者として褒められた行為ではないこと。



なんて思いながら、1/3の値段の中国製のにんにくを前に、とまどう私である…。
posted by スポンタ at 14:53| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月15日

野坂昭如、大島渚、田原総一朗の昭和…。

BSの番組で、大島渚のドキュメンタリーをやっていた。盟友・野坂昭如も、昨年、鬼籍に旅立っている。

コメントしていた田原総一朗氏は、「反権力・反国家・反体制」を誇り、反戦と民主主義を主張し、二人の先輩の不在を惜しんだ。

しかし、平成の私たちは、戦後も遠くなり、戦争反対を叫ぶことが、必ずしも戦争抑止になるとは限らないことに、気づいていい。




わが父は、戦後、アメリカ製のヒューマニズム(生命第一主義)のドラマを私が観ていると、そんなものを観て…。と、ばかりに冷たい視線を送ってきたが、そういうことである。

山本夏彦は、「平和の時の平和論」と表現したが、パリのテロリズムへの批判が、中東への空爆の擁護世論を形成することに、一役買っていることは、間違いない。



戦争で死ぬ人が出る。
そのことに、いかに対応するか…。
そこにこそ、人間の知性が現れる。

反戦などという単純な論理で終われる程、世の中は単純にできてはいない。




朝まで生テレビの延長線上でいえば、西部邁も、ポストモダンな今、旧制高校的な知を誇り終了している。
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2016年01月14日

ベッキーの不倫報道に思う…。

問題は、彼女が、人間が生きているのだから、当然、持っているであろう、「闇」・「毒」などと無縁のキャラクターづくりをしてきたことだと思う。

そういうリアリティーのない表面的なキャラクターづくりに、現実が悲鳴をあげたのであって、

男が不実であるとしても、問題は、彼女にある。

弱みを見せずに、がっぽり稼いで生きていくなんて、どこかズルイ。…なんて。



というか、友達がいなかったのか、友達をないがしろにしたのか、彼女の人生経験のなさが露呈したのではないか…。

さらにいえば、今こそ、リアルを取り戻すチャンスだったのに、彼女は逃してしまった。
posted by スポンタ at 17:54| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月10日

4Dxでスターウォーズを観る。

4Dxとは、立体映像、椅子が動く、ハイブする、耳元で風が吹く、ミスト、前から風が吹く、ドライアイスの煙が上がる、足元でなにやら…。
な、感じである。

http://www.4dx.korona.co.jp/

安全ベルトをしないだけあって、スターツアーズなどよりも、迫力は弱い。
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posted by スポンタ at 13:45| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月01日

パリのテロの教訓。

先日、テレビで、イスラム国に関連したパリの劇場テロの再現番組を観た。

番組で印象的だったのは、人質が劇場に出かけていることを知っている「人質の家族・知人」が、人質に電話することによって、人質の生命を窮地に陥らせていること。

犯人たちにホールドアップされている状況で、携帯が鳴れば目立ち、犯人に目を付けられる。そのことで、人質がまっさきに犠牲になる可能性は否定できない。



人質になることなど、人生でほとんどありえない。

しかし、「相手の重要な場面」を、自分がかけた携帯電話のコールで、チケを威力を散漫にさせてしまうことは、ありがちなこと…。

親として、自重したい。
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2015年12月29日

職能の「モジュール化」していない日本を理解しないと…。

TBSラジオに、厚切りジェイソン氏が出演していて、日本人は、「会社のブランド」で就職先を決定すると、批判していた。

しかし、この問題の原因は、「職能のモジュール化が行われていない労働界の現状」であって、日本人の浅薄さが理由ではない。


職能のモジュール化とは、職能が自立的に機能すること。モジュールとは、たとえてみれば、レゴのパーツのようなもの。職能がパーツとして確立していれば、労働者は流動的に別の会社に転職することができる。

現在、職能が自立的に機能しているのは、医師・弁護士・看護婦など少数であり、一般的に、ある会社で総務をやっていたからといって、別の会社でそのキャリアが認められることはない。
否、医者や弁護士でも、人脈がなければ、就職は難しいだろう。
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2015年12月25日

東大理Vママに、妥当性はあるか?

息子を全員東大理三に入れた母親に、フィフィが反論をしたのだとか。

曰く、大学受験は、偏差値至上主義だが、社会は、偏差値至上主義ではないから…。
とか。

http://news.livedoor.com/article/detail/10993790/
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2015年12月22日

「モダニズムと非モダニズム」の混在の2015年。

先日も、野坂昭如氏が亡くなり、「反戦」の表現者が旅立ったことになる。しかし、「戦争の悲惨さ」を伝えることは、「戦争の重要さ」を伝えることのひとつであって…。運転免許の練習では、見ている方向に(無意識に)進行してしまうことを指摘するが、運転に限るまい。

最近では、レイシズムに関連する報道が多い。
とはいえ、大陸や半島の国家たちは、日本民族に対するレイシズムな発言をまったく恥じない。しかし、それを日本のマスコミが批判する論調が皆無なことを考えると、「レイシズムとは何か」、その本質を深く考える必要がありそうだ。

陰謀論・悪魔教的に考えると、戦死者は「生贄」であって…。などというトンデモ論もある。

最近、BSでは、ナチズム批判のテレビ番組が多いが、その背後に何が動いているのか。どちらにしても、「ナチズム関連の映像番組」は、プロバガンダ番組であることを、私たちは考慮しなければならないだろう。メディアリテラシーである。続きを読む
posted by スポンタ at 14:50| 東京 ☀| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月14日

現代の価値観で、判断してはいけない。

ラジオを聴いていたら、近所の人が出かけるのを「どちらまで?」と尋ねて、「ちょっとそこまで」と答えるのを、「昔の人は、近所の人を詮索していた」と、批判的な口調で話題にしていた。

本当に、おバカだと思う。



手紙が高価だった時代や、電話がなかった時代、アポイントを取ってから、知人・隣人を訪ねることは事実上不可能だった。

したがって、人は、「突然、訪問する」。その時、留守だったりすると、隣の人や、近所の人に、「すぐ帰るのだろうか?」と尋ねるのは必然であり、お隣さんは、聞かれた時のために、「どちらまで?」と尋ねておくことが必要だったのである。

ただ、それだけ。

昔も、今も、「他者を詮索する」ようなことは憚れていたいたに違いない。だから、「ちょっとそこまで…」と、行き先をあいまいにして、「じきに戻る」ことを表現したのである。



その意味では、最近のLINEにおける「既読無視」なども、未来において、平成の風俗として、誤解されるようになるのかもしれない…。
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2015年12月10日

メディア論と芸術論。

CATVのチューナーに、録画機能があるので、番組予約が簡単になったので、放送大学の講義を観ている。

私の興味は、芸術やテレビだから、芸術学、メディア学、心理学あたりをさまよっている。
(^▽^;)

先日、青山講師の美学の授業で、芸術の分類をやっており(ヘーゲルの芸術分類批判から始まった)、彼の芸術の分類を披露していたが、基本的なところを押えていないと感じる。
つまり、芸術を分類する場合、まず、一番最初にやらなければならないのは、「芸術と非芸術を切り分けること」である。
何故なら、巷間、気にされるのは、「学者が芸術をどう捉えるか」ではなく、「作品が芸術的であるか」だから。

映画が第七芸術であると、先の世紀で定義されることで、映画関係者が安堵したエピソードを青山氏が知らぬわけはないのに…。続きを読む
posted by スポンタ at 07:23| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月03日

お天気お姉さんが泣くのはダメだと思う。

スタッフが中継画像を間違えたのだが、それが、お天気キャスターの彼女のせいになり、泣いたと、NHKは経緯を説明したとか。

民間放送なら、「間違いを笑いに変える」ことも出来たし、と残念がるキャスター氏もいる。

しかし、私は、根本的にこの女性はダメだと思う。

というのは、スタッフはキャストを守るために仕事をし、キャストもスタッフを守るために仕事をしているから。

「自分のこと」しか見えない彼女の行動原理に、一切の妥当性はない。



「番組の内情を明かすこと」で臨場感を見せることもあるのだし…。

大学をふたつも卒業して、演劇の舞台にも立ったという彼女は、何をしてきたのか。対人関係から学ぶ必要がある。というか、すべては、手遅れである。
posted by スポンタ at 09:02| 東京 ☁| Comment(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月30日

タルコフスキーは観なくて良い。

世の中には、「難解」であることを売り物に、有名になっている作品が少なからず存在する。
ロシアの映画監督・タルコフスキーの作品もその一つだと思うが、先日、CSで「ノスタルジア」をやっていたので、久しぶりに観たが、「観る必要なし」と断ずる。

演出家のピーター・ブルックは、著作「何もない空間」で、「空の舞台を、俳優が歩くだけで、演劇は成立する」と説いている。
これは、形式主義的(フォルマリズム)な立場であり、ロマン主義の否定だが、「形式主義を成立するための工夫が必要なこと」に気づかなければならない。

その意味で、タルコフスキーの作品は、「(劇的)ドラマの不在」という意味では、オリジナリティーを発揮しているが、「映像そのもの」で果たして作品として成立しているのか…。といえば、私は納得しない。

つまりは、映像作家は、「ドラマの不在」をドラマチックに語る努力をしていない。

*

対照的にいうと、「コックと泥棒、その妻と愛人」の監督・ピーター・グリーナウェイは、「秩序だった無秩序」と言う形で、「無秩序」を表現している。
芸術とは、演出とは、そういうものであろう…。



ウェブの解説を読んでいたら、ロベール・ブレッソンが「授賞」を条件に、カンヌ映画祭に出品することを聞いて、タルコフスキーも同様な「申し出」をして、カンヌの運営者たちを悩ませたのだとか…。

ロベール・ブレッソン監督のスタイルはオリジナルであり、素人俳優を使うという技法を、黒澤明は「影武者」で模倣した。しかし、ブレッソンのような演出力はないから、作品は失敗に終わる。

ブレッソン監督の言葉、「演技とは巧妙な嘘である。ならば、私は下手な真実を選ぶ」は、演劇というメディアの本質を捉えている。



タルコフスキーは、ソ連のヒエラルキーで演出する権利を得たエリートでしかなく、その権限を神秘化するために「難解な作品を作った」に過ぎない。

好事家・マニアがタルコフスキーを愛でるのはいい。しかし、それだけのことと、私は断定する。

「自分が分からないこと」を過大評価してしまう。人間の悪い癖である。

タルコフスキーは見なくていい。
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2015年11月17日

パリの惨劇に思う。

13日の金曜日の惨劇に関連して、中東・イスラム情勢に関する解説がテレビでなされている。

曰く、フランスの旧統治地域がシリアであるとの分析があり、フランスとイギリスが強引に決めた国境線が、事件の遠因であると…。



私たちは、西欧の国家観で世界を観ているが、遊牧の民たちに、国境という問題意識は希薄だった。そのことは、デビィットリーン監督の名作「アラビアのロレンス」でも描かれている。

勿論、遊牧民は近代において定住化し…。

どちらにしても、西欧がおこした中東の矛盾が、西欧で暴発しているのだろう。



勿論、日本が西欧化しているなら、対岸の火事ではない。

さらに言えば、どちらか一方に「祈りをささげる」なら、その対立の構造の中に実を置くことになる。

自然災害の被災者に黙祷をささげるのとは、意味が異なる。
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2015年11月14日

広瀬すずさんの心理。

フジテレビの料理対談番組の中で、「何故、録音マンをやるのかが分からない」と言い、ひんしゅくを買った。

かわいいとみんなからもてはやされ、勘違いした女の子の発言として、ウェブでは、「広瀬くず」なるニックネームもついている。

何故、そんな誤解・勘違いが生まれたのか。考えてみる。
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2015年11月12日

エリック・サティーの音楽。



NHKの番組でサティーの特集をしていて、菊池成孔氏が出演していた。
曰く、19世紀のロマン派の音楽は、情念が強すぎて辛い…。とか。

ふむ。そんな感じ方もあるか…。というか、そのような場合、古典派、新古典派を嗜好するものだが、屈折した彼は、そうではない。

菊池氏は、(言われ続けてきたことだが)「サティーの音楽は、環境音楽の先駆けである…」と。

ま、そこまでは私も知っていたのだが、環境音楽は、BGMなのだから、喧噪の中で聞くべき、と。
実際、酒場のピアニストだったサティーは、喧噪の中で、自身の作品を弾いた…。

環境音楽を、環境音楽として聴くのは間違いで、環境の中で聴くべきとは、気がつかなかった。
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