2017年07月17日

小栗旬氏にメールを送ろうと思うが・・・。

小栗旬氏にメールを打とうと思っている。
とはいえ、これでは少し長いので、少し短くして・・・・。

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2017年07月15日

日本人は集団主義的ではない。

放送大学の認知心理学を見ている。先日は、社会心理学がテーマだった。



ことあるごとに講師が言うのは、「人間は、直感に左右される」ということ。講師が引き合いに出すのは、直感が正しければ「天動説」である。だが、真実は「地動説」であると・・・。

学者でなければ、一般大衆にとって〈真実〉などどうでもよい。




認知心理学の授業では、「日本人は集団主義的であり、アメリカは個人主義的である」との説は、根拠がないと指摘する。

日本には、「出る杭は打たれる」ということわざがあるが、アメリカにも「延びた木には風当たりが強い」というのがある。恣意的にコトワザを選び出すのは、科学的ではないということだ。

危機的状況になれば、人間は「個」よりも「集団」を尊重する。
たとえば、911の事件の直後、アメリカの大衆は「集団主義的」だったという研究がある。

「個人主義or集団主義」の心理学のテストで、日本人とアメリカ人の差はほとんどない。



私的に演繹するなら、日本人は平時から「危機的状況に対応できるような意志決定システムを採用している」となる。

逆に言えば、アメリカは普段は「個人主義」で暮らしているが、危機的状況になると、「個人主義の欠陥に気づいて、モードチェンジする」ということ。アメリカはダブルスタンダード。

日本人は、モダニズムによる「個人主義」の洗脳と決別している。
ただ、それだけのこと。




講師も暗に指摘していたが、「日本人は集団主義的」とラベリングすることで、日本人を「自分たちとは違う人たち」と大衆に刷り込むことが、戦後の世論誘導としても必要だった。
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2017年07月12日

アインシュタインの相対性理論とは何か。

アインシュタインが主人公のドラマでのセリフ。(「ジーニアス」第9回20分頃)

焼けた石炭の上に立っていれば一秒でも永遠のように感じられるが、美しい女性とベッドにいれば1時間も一瞬のように過ぎる。
それが相対性理論。



セリフは、クロノス時間とカイロス時間のことを言っているのであって、クロノス時間同士の話ではないのだが・・・。
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2017年07月11日

韓国ドラマ「馬医」のすばらしさ。

少し前に、テレビ東京で朝やっていたが、いまでもCATVでやっているので、興味を持った方は観るとよい。

いままで韓国ドラマを観てきたが、ベスト3に入ると思う。
他の作品は、「冬のソナタ」。もうひとつは「スターの恋人」。

「冬のソナタ」のすごいところは、一大決心をして別れるのに、翌日にはまた逢っていること。
何かが起きると、すぐに全員集合すること。
一言でいうと、「ドラマを逃げていない」。そこが凄い。

もうひとつの「スターの恋人」は知らない人も多いかもしれないが、主演はチェ・ジウ。人気映画俳優と、彼女の本のゴーストライターをした新人小説家であり大学講師の「結婚するまで」のドラマである。
このドラマの凄いところは、ヒロインが「主体的」なところ。
秀逸なのは、大学講師は別れを決意して、地面に線を引き、「この線からこちら側に入ってくるな」と彼女に言う。幼い頃、母親から同じことをされて、彼は捨てられたのである。
しかし、ヒロインの彼女は、躊躇などまったくしないで、線を跨いでしまう。自分の気持ちのままに生きることに誠実なのだ。

どちらもチェ・ジウが演じたヒロインだが、一方は「初恋が忘れられない女性」、もう片方は「自分の思いのままに生きる女性」。
どちらが魅力的かは明確である。



「馬医」を論じるにあたり、他の2作品を取り上げたのは、相対批評をするためである。

「冬のソナタ」はドラマを逃げないこと。「スターの恋人」はヒロインの主体性のすばらしさ。それに尽きる。

では、「馬医」のすばらしさは何か。
それは、「病の発覚〜治療〜治癒」というドラマの進行感と、ヒーロー&ヒロインのドラマが密接に関わっていくところである。
今年のはじめにやっていたキムタク主演のドラマ「A LIFE」も、医療とドラマが関連していたが、「馬医」のように主人公の出世物語ではなかった。キムタクの心の中は病院長の娘との果たされなかった恋愛がある。ノスタルジーは、ドラマの雰囲気は醸し出すが、爽快感にはつながらない。

「馬医」は、「正義の側」と「悪意の側」の〈対立〉も明確だし、悪意の側の「やるせない都合」も納得できる。

夫を中東紛争の取材で失ったテレビタレントが大統領にのし上がっていく「ミセス・プレジデント」も「悪意の側」の「やるせない都合」に説得力があった。だが、「立候補〜選挙戦〜当選」というプロセスは、テンポ感としては医療ドラマに劣る。

「冬のソナタ」では、主人公たちの仕事は副筋に過ぎないし、「スターの恋人」の芸能界や出版界の出来事に爽快感はない。しかし、「馬医」の「治癒」のシーンには爽快感がある。



我が校長・今村昌平は、「人間を描くには3代まで遡らなければいけない」と言っていたが、「冬のソナタ」「スターの恋人」は家柄まで表現されていないから2代の物語である。だが、「馬医」は両班の家柄まで描かれるから3代である。

人間が何故、そのように考え、そのように行動するかは、育った環境が大きく影響する。ならば、3代を描くことがどうしても必要になる。

自分を考えてみても、両親を理解することが、自分を理解することにつながる。両親を理解するためには、祖父母を理解しなければならない。



映画批評・ドラマ批評が、卑下されるのは、主観批評・印象批評なことである。

そこで私は、形式批評により客観的であろうとするし、相対評価により、作品の価値を客観的に提示したい。



テレビのことなんか書いて・・・。と侮ってもらっては、ちと辛い。
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2017年07月10日

船越英一郎氏の受難。

細君の映像を観ていると、生き霊が飛んできそうなので、彼女の名前を書かない。

それにしても思うのは、マザーテレサの言葉。

愛の反対は憎しみではなく、無関心である。



とすれば、戦争の反対は平和だとしても、好戦主義の反対が反戦運動や平和運動ではないと思えてくる。

毎年夏になると、そんなことを思っている。
「戦争を語り継がなければならない」と言う昭和な人が多い。
果たしてそうなのか。

思い出すという行為を通じて、再度、戦争状態に引き戻そうとしている
のではないかと感じてならない。
たとえば、人口的に不可能な○○大虐殺や、大使館前に少女像を立てるようなトピックスについてである。



それにしても、離婚訴訟での勝利は「離婚しないこと」であって、訴訟になっていることこそ「離婚のはじまり」である。

「これから戦います」などというのは、論理矛盾なはずなのだが、そのような論理は感情に勝てないのである。
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2017年07月08日

中嶋しゅうさん、逝く。

一般的な知名度がそれほど高くない彼の死が夕方のフジテレビのニュースで生前の映像つきで紹介されるとは思いもしなかった。

一般的には、彼は、「美味でごじゃりまする」で知られる鷲尾真知子さんの夫君ということだろう。

だが、彼は、私にとって別格の俳優である。続きを読む
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2017年06月30日

フレームとコンテンツ

スティーブ・ライヒのコンサートをFMでやっていたのを聴いてびっくりした。

ライヒは、ミニマル・ミュージックの作曲家なのだが、演奏が非常にエモーショナルだったから。

※ ミニマルミュージックとは、単純な音列を繰り返す、変化がミニマル(最小限)な音楽のこと。


曲が無機的だと、演奏が有機的になるということ。

それが、作品が発表されてから、かなりの時がたって熟成した。



エモーショナルな演奏で知られるグレン・グールドが、ロマン派の曲を絶対にやらなかったことは示唆的である。

曲がエモーショナルで、演奏がエモーショナルでは、過剰になるということである。

とはいえ、世の中には、エモーショナルな曲を、エモーショナルに演奏する人ばかり。・・・なのだぁ。
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2017年06月29日

藤井聡太四段の棋風。

中学3年生の特徴は、人工知能ソフトを参考にしているところだという。

私は駒の動き方を知っているだけであり、戦法も多くを知らない。

したがって、印象を語るでしかないが、人工知能と人間の違いは「人工知能には感情がないこと」である。

相手の王将を先に取った方が勝ちのゲームである。
したがって、意味もなく、自陣を固めるという発想は最初から存在しない。

「へぼ将棋、王より飛車を可愛がり」という俗諺があるが、そのようなことは、人工知能ではありえない。



人工知能の特徴は、データマイニングの特徴と同じである。

とするなら以下のようなコンセプトか・・・。

・多様性
・独立性
・分散化
・拡張性

・複数の集約技法

・断片化

・メタ論




人間は、関連づけて覚えるという習性がある。
散文的な人生に意味を見いだすというようなことである。

藤井少年はそうではない。
五目チャーハンがなく、ワンタンメンを食べることになっても、そこから物語を読みとることはなかったに違いない


それこそが、ニューエイジである。
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2017年06月28日

小林真央さんの早世につき・・・。

いままでも、癌により早世した人たちがいたが、彼女の場合は、最後まで誇り高く、気高かった。

その理由は、エリザベス・キューブラロスの「死の段階受容説」における最終段階に、長きの闘病生活において、彼女が達していたこと。
もうひとつは、メディアというものを深く理解していたことだと思う。

最後になったブログのコメントは完璧だし、最後に「愛している」と発言したことも奇跡である。

本当にすばらしいというか、感動とともに尊敬する。



さて、海老蔵氏が「来世も、来来世も一緒に居よう」と彼女に言った言葉の意味を理解しているだろうか。

近松の心中ものは、当時の仏教の死生観を反映している。

親子は「一世の契り」、「夫婦は二世の契り」。

心中は、「今生はだめだったが、せめて来世では一緒にいよう」ということである。

今生と来世のご縁が、夫婦。

それを越えるということで、来来世も一緒に居ようと言ったのである。




それにしても、歌舞伎の定式幕の前でのインタビュー。
かっこよかった。

午前の部と午後の部の間で、ロビイが使えなかったのだろうが、かえって、それがよかったと思う。



芸能人の不幸。
貧乏人の火事よりも、金持ちの火事の方がおもしろい。
野次馬をしてきた私は反省している。

今回、ブログの果たす社会的な役割が示されたと思う。無名のブロガーとして、拍手を送りたい。


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2017年06月21日

途中からではあるが「小さな巨人」を観ていた。

この番組の魅力というか、面白さは「異常に過剰な演技」である。それは、父が歌舞伎役者である香川照之によって、最高潮になる。
大衆演劇の梅沢富美雄の方が演技を抑えているのは、苦笑ものである。


演劇評論家は歌舞伎の特徴をバロック的であると形容したが、バロックの意味は「ゆがんだ真珠」であり、過剰な装飾を意味した。
それがモダニズムのル・コルビジェに至って、機能主義になり、装飾はそぎ落とされた。

それが現代である。続きを読む
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2017年06月08日

記憶のプロセス。

放送大学の「認知心理学」を観ているが、だったら、最初から言ってよ。って、感じ。
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2017年06月03日

倉本聰氏のような専門家が、素人が言うようなことを…。

テレビ朝日の「やすらぎの里」を観ている。
そして、日本映画専門チャンネルで、「前略、おふくろ様」を観ている。

私が映像の世界に進むにおいて、「前略、おふくろ様」は大きな影響を果たしているから、自分の人生を振り返る意味でも、同作品を見直している。

結局のところ、40年近く前も、そして今も、私は無名のままであり、倉本氏は栄光のままである。

唯一変わっているのは、私がドラマの世界に対して、素人ではなくなったということである。勿論、それは鑑識眼においてのみであり、社会通念的には、私は素人・一般でしかない。
(-_-;)続きを読む
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2017年05月20日

ナショナルジオグラフィック制作のドラマが面白い。

「ジーニアス」という、アインシュタインの生涯を扱ったドラマである。

http://natgeotv.jp/tv/lineup/prgmtop/index/prgm_cd/2188



テレビドラマシリーズだが、製作総指揮がオスカー監督のロン・ハワード、主演もオスカー俳優と一級の作品である。

というか、硬派なドキュメンタリー番組ばかりをオンエアしているチャンネルならではの、骨太な感じが好ましい。

つまりは、人間関係の対立が、「感情」を主軸に語られるのではなく、お互いの「哲学や価値観の違い」をもとに、表現されていること。




ドキュメンタリーの専門チャンネルが、かなりの予算を使って、フィクションを作成したところが、面白い。

フィクションとノンフィクションの境界の曖昧さを実感する。

おもしろければ、なんでもありなのだ。

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2017年05月14日

問題は、政治的発言ではなく、プロ市民。

ガレッジセールが、干されているのだという。
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2017年05月03日

浅丘ルリ子さんのセリフ

美容整形について記事を書いたら、5月2日の放送で「安らぎの里」で、
私は、整形なんてやっていません。という浅丘ルリ子さんのセリフがあったので、苦笑した。

しわ伸ばしのために、顔面の皮をひっぱったりしたことが、ああいう変形をしたことの原因であることは、明確であろう。



ドラマは虚構だとしても、そのようなセリフを、よりにもよって、本人に言わせる。
シナリオライターは、サディストである。



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2017年05月02日

誰にでも分かる整形手術をしたかどうか。

「安らぎの里」を観ている。倉本聰氏のシナリオである。

この作品から理解できるのは、昭和のシナリオライターの代表ともいえる向田邦子氏と同様に、主人公の心の声をともに、ドラマを構成する手法は、〈私小説〉的であって、〈演劇的〉ではない。アンチドラマであるということ。

つまり、シナリオライター希望者や、映画監督志望者が、向田邦子や倉本聰の脚本を手本にしたら、「とんでもないことになる」。




さて、加賀まりこ、八千草薫、浅丘ルリ子の3人が出演しているのだがら、彼女たちから理解できることは、浅丘ルリ子だけが、美容整形手術を行ったことである。

美容整形手術を行ったことがある顔面は、歳を経ると、よく分かる。
マダム・デビィ、弘田三枝子、森進一、みんな同じような顔に変形してくる。
最近では、木村拓哉の細君も、その類であることが理解できる。



交通事故で顔面を損傷し美容整形を行ったのなら理解できるが、彼女たちの風貌は…。
まさに、事故である。

けっして美形とはいえない、ママドルの女子プロレスラーがいるが、彼女はどうなっていくのか…。
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2017年04月27日

私が、ブログを書く理由。

私のブログを1日数百人の人が見ている。ただし、読んでいるかどうかは分からない。
この数が少ないのか、多いのかは分からない。
長期間、更新しないでいると、続けてくれと、嬉しいコメントを頂戴するので、なんとか続けている。
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2017年04月11日

〈量〉よりも、〈質〉。そして、客観的な〈質〉。


ディープラーニングに興味があって、数学が苦手という人は、「機械学習入門」という本を読むといい。

https://www.amazon.co.jp/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E5%AD%A6%E7%BF%92%E5%85%A5%E9%96%80-%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%84%E3%83%9E%E3%83%B3%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%8B%E3%82%89%E6%B7%B1%E5%B1%A4%E5%AD%A6%E7%BF%92%E3%81%BE%E3%81%A7-%E5%A4%A7%E9%96%A2%E7%9C%9F%E4%B9%8B/dp/4274219984

この本はどんな本かといえば、以下

「私が世界で一番美しい」と思っているお妃さまがいる。
だが、真実の鏡は、「あなたが世界で一番美しい」ではないとして、「世界で一番美しい人の割り出し方」を、人工知能的に開発する。
その物語の中で、人工知能やディープラーニングに関する基礎的な考えや用語が解説される。
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2017年04月06日

厚顔無恥な倉本聰氏。「やすらぎの里」批判。

自らを投影したシナリオライターの主人公を石坂浩二氏が演じている。

びっくりするのは、今のテレビをダメにしたのは、テレビ局員たちであって、シナリオライターの自分はそうではないと、作中で表現しているからである。

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2017年04月01日

純粋・倉本聰批判。

昭和のドラマツルギーが崩壊している。
倉本聰という名前はビッグネームだが、それは、「前略、おふくろ様」や「二丁目三番地」の頃の話であって、私は北海道に移ってからの彼をまったくもって評価しない。

娘の大学の研究は、「客観的で、妥当性のある評価」の実現だったが、その結論は、次のようになる。

1. 個人の主観は、〈主観的〉であり、集団の大多数にとって、〈妥当性〉があるとは限らない。

2. 「人間は神ではない」ので、〈集合知〉によって、「客観的で、妥当性のある評価」を実現しようとしても、SNSは広告代理店や組織団体による発信が大部分であり、〈妥当性〉は感じられない。
というか、大衆の大部分は、パッシブ(受動的)な個である。

3. そこで、アクティブ(主体的)な個。つまり、「人間(自分)の中の内なる神(内観)」によって、「客観的で、妥当性がある評価」を下そうと考えた。
しかし、それでは、〈主観的〉であるとの批判を免れない。そこで、評価基準に基づいた〈形式批評〉によって、「客観的で、妥当性のある評価」を実現しようと考えた。
つまり、〈評価結果〉は、個の主観によって生まれたものに過ぎぬとしても、〈評価基準〉には、「妥当性を期待できる」し、その重要度によって、〈客観性〉の度合いも吟味できる。


その先には、データーマイニングの手法として、〈細分化〉がある。
〈細分化〉によると、次のようになる。


例文:
有名シナリオライターの倉本聰氏の、一流テレビ局が制作する新作ドラマは、素晴らしい品質を備えている。

上記は、以下のような固有名詞、形容詞がリンクした形である。

有名シナリオライター=倉本聰=一流テレビ局=テレビ朝日=新作ドラマ=素晴らしい品質

このリンクを外すことが、〈細分化〉である。

有名シナリオライターだからといって、素晴らしい作品とは限らないし、
倉本聰氏の作品だからといって、素晴らしいとは限らない。
これは当然のことだ。

名プロデューサーの秋元康氏が、トップアイドルだと、前田敦子氏をたたえたとしても、トップアイドルの評価基準に照らし合わせて、「客観的で、妥当性のある吟味」をしなければならない。
美貌、歌唱力、ダンス力、演技力のどれをとっても、前田嬢をトップと評価できる要素は見当たらない。





データマイニングの〈断片化〉の手法は、歴史の分野でも、この手法が注目されている。

たとえば、信長公記という歴史的な信憑性が高い文献であっても、記述のすべてが事実に基づいているとは限らない。
つまり、中世の京都の深夜に、数千人の武士が行軍すれば、甲冑の擦れる音は、闇夜にとどろくに違いない。ならば、本能寺の信長が、寝込みを襲われることなどありえない。
歴史とは文献学だったが、文献をすべて信じてしまうのではなく、文献以外の研究も交えて、総合的に歴史を検証しようというムーブメントが起きているのだ。

いままでは、「細分化」という分析の手法だったが、構成要素と全体の関係をバラバラにして分析する〈断片化〉という手法が新しい。




倉本氏は、番組宣伝の出演で巻物を出し、年度別に何が起きたか、何か流行ったかなどの年表があり、それを登場人物の人生と重ね合わせて、ドラマに活かすという手法を行っていることを誇らしげに語っていた。

しかし、そのようなドラマではない要素が、観客の感動を呼ぶのだろうか。
倉本氏が脚本を書いた神楽坂を舞台にしたドラマでは、初回冒頭の10分以上が神楽坂を紹介するだけで、ドラマ的な要素が一切感じられなかった。

今回は、その「懐かし昭和版」ということだろうか…。



彼は、シナリオ作成にあたって「履歴書」を書くと、自らの手法を紹介していたが、それは、作家が創作をするための地盤としては必要不可欠かもしれないが、それを実作に使うなら、「設定」でしかなく「ドラマ」は発生しない。

「履歴書を書く」とは、黒澤明監督たちの手法として有名だが、それは、準備体操やキャッチボールのようなものであって、それをそのまま、脚本にしたら、「設定だけのドラマ」になってしまうのである。




今回の倉本聰氏の作品は、宮崎駿氏の「風立ちぬ」のようなものだろう。
「風立ちぬ」の後半で、昔、学生たちの間で歌うことが流行った曲で盛り上がる。だが、その時代を知らない世代にはまったく意味がない。ならば、作家の自己満足である。

ドラマは叙事詩的であってはならない。抒情詩的でなければ…。そのことをシナリオ界の重鎮が語らないのなら、日本のシナリオ界の低迷は今後もつづくに違いない。





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