2007年06月25日

アルゴの時代49:縄文的消費者の時代。そして、ミートホープ。


ミートホープの社長が、「消費者も悪い」と、発言したらしい。
当該社長の薄笑いを不謹慎だと指摘してきたテレビの報道バラエティーは、この発言を強烈に批判している。

加害者となった人間に言われる筋合いはない。
勿論、悪事に手を染めた人間に言う権利はない。

だが、しかし…。
である。

「安ければ売れる」というのは事実である。

ならば、この問題は、牛肉偽装の問題である。

そのすべての責任は偽装行為を行なった販売会社にある。



ことが牛肉だから話が複雑になっているだけである。

かに肉のコピー商品である、かに蒲鉾。
コンピーフのコピー商品の、ニューコンビーフ。

そのようなコピイ商品を下請け会社が作っていたのに、販社がコピイ商品ではなく、本物として売っていたことが、この事件の本質なのだ。

*

きっと、有名企業である販売会社は、下請けの独断で悪事が行なわれたと釈明するだろう。
だが、コピイ商品をつくらざるを得ない価格でなければ、商売を成立させぬと要求したのは、他ならぬ販売会社である。

昔、関西で安い天丼があった。
実は、天ぷらの中身は海老ではなく、ザリガニだったのだが、そのことを指摘された店主(関西のおばちゃん)は、こんだけ安いんだから、「海老なんか使える訳がないだろう」と、開き直るでもなく、平然と言い放ったという。
「どんだけ〜〜」で、済む笑い話だ。


販売会社であるマスコミに対してスポンサー担当能力がある会社も、下請けの事情をまったく知らなかったという言い訳は成立しない。
もし、ミートホープが破格値の価格を設定できているのかを知らなかったとするなら、販売会社失格。売値の数字ばかりで、品質の内容を見ないのではプロではない。

*

エステの専門家に過ぎぬ女性社長であっても、温泉施設の現場のトップになったのならば、温泉施設に関わる危険について勉強すべきであったし、知らなかったではすまされぬ。
勿論、彼女が形だけの経営者だったとの分析もある。だが、そうだとしても、かりそめにも現場のトップだったのだから、やるべきことはあったし、できたことはあったはずである。



さて、当該社長の言うとおり、消費者は悪いかもしれぬ。

だが、その理由は、与えられるべき情報が与えられてこなかったからである。


消費者は、かに肉とかに蒲鉾を使い分けている。
青春時代、私は、餃子の王将でかに玉に堂々と、かに蒲鉾が使われていたのを憶えている。
それでも私は文句を言わなかった。つまり、価格と品質を秤にかけて納得していた。

今回も、牛肉コロッケのコピイ商品と表示すればよかった。それだけの話かもしれぬ。



今の時代は何かといえば、「詳しくはネットでね」の時代だということだ。

つまり、情報発信に関わる費用は限りなくゼロに近づいている。

ならば、経費がないという理由で、情報発信・情報公開をしないことに妥当性がなくなるということだ。


*

あらためて指摘するまでもないが、健全なマーケットが成立する条件は、上場企業が経営の透明性を持つことである。

それは株式市場だけでなく、流通というマーケットでも同様のことだといえるだろう。

いま、マーケットに亀裂が走っているとするならば、それは情報公開の透明性が確保されなかったからこそ、そのような事例が発生したのである。

マスコミが暗示するような、モラルに反する異分子によって、市場が汚されたのではけっしてないことを認識しなければならない。




コムスン、渋谷の温泉、ミートホープに限らず、この10年にさまざまな問題が続発している。
では、この10年に何が起きたのだろうか…。

私のその理由を政府が進めた規制緩和にあると考えている。

だが、誤解してはいけない。
消費者は愚かなのだから、規制緩和をしてはいけないと言っているのではない。

乏しい情報環境のもとでは、消費者は価格のみで商品を判断せざるをえない。と指摘しているのである。

そして、きっと、健全に経営されている会社が企業存続の苦境に陥っているならば、私たち消費者はその会社の商品を喜んで買うのである。

その典型的な例が、銚子電鉄の濡れ煎餅であり、企業買収で企業存続の危機に陥ったサッポロビールのビールが突然売れ出したことである。



規制緩和をすれば、自由市場の見えざる手によって、あるべき価格・品質に落ち着くと、盲目的に考えていた政府がいけないのである。

規制緩和で自由市場が成立するのではない。

健全な市場が営まれるためには、いくつかの条件がある。


企業が少しでも自らの瑕に関わる情報を公開すれば、マスコミから袋叩きに会う状況は変わっていない。

結果、消費者にとって選択の自由度はまったく広がっていかぬ。

そして、当該社長が文句を言うような消費者たちを生む。
その理由は、情報公開の達成度が低く、限られた情報では、価格差のみにおいて選択する他ない環境が提示されているからだ。

*

政府による規制は、他律的生産者を生み出した。

他律的な生産者は、消費者と対峙していない。その不備を感じた政府は規制緩和に乗り出した。
勿論、規制緩和が始まった理由は、アメリカからの外圧である。だが、内的要因も少なからずあったのである。

そして、規制緩和が始まり10年。さまざまな問題が発生している。
これらは、自立的な消費者の前提となる情報公開・情報流通がないのならば、当然の結果である。


*

さまざまな問題の続出をもって、私たちの社会は、政府が規制していた時代へと時計の針を逆にまわすようなことをしてはいけない。

あるべきは、情報公開を徹底することにより、縄文的(自律的)な消費者の醸成・育成・熟成を目指さなければならぬのである。



縄文的消費者とは、マタギ(伝統的狩人)の文化である。

ひとつの山がある。
そこに住んでいる猪の数は、ほぼ一定である。なぜなら、その山で猪を養える食料の数が一定だからである。

仮にひとつの山に猪が100頭いたとしよう。全部を狩りつくしてしまえば、翌年からは猪の肉を食べることはできぬ。では、一年に何頭まで狩れば、猪を永年食べ続けることができるのだろうか。

マタギは、「もったいない」精神で、一年に食べる猪の頭数を決めているのではない。論理的な帰結で狩る数を決めてきた…。

かつて、狩り過ぎて、絶滅させたこともあったに違いない。1000年を越えるような長い時の流れの中で、試行錯誤を繰り返すマタギの伝統・伝承の中で、一年に狩ることのできる頭数が定まってきたに違いない。

それがマタギの文化。

そういう狩猟民族の知恵は、まさに縄文的である。

思えば、地球とて、有限財産であり、その使用においては、全てを食べつくすまで消費をやめない弥生的なな所作では行き詰ってしまう。

縄文的であることが、21世紀の日本と世界にとって重要な視点であると思えている。

それは、「もったいない」などという倫理的な精神よりも、論理的であり、説得力を持つのである。

07sponta
posted by スポンタ at 09:46| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月24日

アルゴの時代48:多様なアルゴリズムを並存させていた江戸時代。そして、ミートホープ。

現代日本社会の問題の殆どは、「フラット化」した社会の弊害であると指摘している。
フラットとは、そもそも平等という概念であり、それは、終戦後、アメリカから移植されたものである。

だから、平等(フラット)の概念は、日本にやってきてから50余年しか経っていない。

平等の前に日本に伝統的に存在していたのは、「分相応」の概念である。
分相応という概念は、はからずも多様なアルゴリズムを並存させたシステムであった。

江戸時代であれば、武士の規範、商人の規範、農民の規範、アウトローの規範がそれぞれにあり、それぞれの規範が相互的に抑制しながら、日本というコミュニティーを多様な社会として成立させていた。

もちろん、それぞれの規範が個を苦しめていたことは否めない。だが、規範なくして個は生きていけぬものであることも確か。
市民というひとつの規範で営まれているかに見える現代社会が極めて表面的な議論しか提出しない現状を見ると、江戸時代的な社会というのも、悪いものではないと思えてくる。

思えば、江戸の街にはゴミひとつ落ちていなかったというし、当時やってきた外国人は、日本の庶民たちが幸福そうに暮らしていたことに驚嘆している。

江戸時代は士農工商の身分制度の厳しかった時代と批判する人が多いが、GHP(国民総幸福)的なことを考えれば、21世紀の日本よりも上等ではないか。というのが私の推理である。

そして、何よりも、21世紀の日本人はノマド(遊牧民)。特定の立場・職業に固着しつづけるようなシステムは希薄である。

さらに、インターネットにおいては、個はリアル属性に縛られることなく発言できるし、複数のステークホルダー(利害関係人)として存在できる。



1945年にアメリカから移植された平等という概念はすでに陳腐化している。

平等とはフラットになること。
だが、多様性を持つ個がフラットを目指すならば、そこに矛盾が生まれてくることは確かである。

多様な職業の創出により、ノマド性は強まっている。
そのような社会状況においてフラットを声高に論じることは、停滞した社会を目指すことである。


平等の理想のもとに、自由に振舞えない個。
それは、封建社会において、自由に振舞えない個。と等価である。




江戸時代がアンハッピーだったという唯物史観がある限り、平等の理想のもとに個を制限していく21世紀の日本社会の低迷は終わりを告げることはできぬだろう。

分相応の理想のもと、個は個として生きていく。

それが、破綻のない社会運営だと思う。

山本夏彦氏によれば、与謝野晶子は、反戦歌として「君死にたもうことなかれ」をつくったのではないという。晶子の実家は商家であり、商人規範では、戦争に命を賭けることに価値を持たぬとし、その思いを歌にしただけである。

明治の人達は、江戸の文化を引き継いで生きていたに違いない。
ならば、商人が武士を批判することなど、とうていありえないのだ。

武士は武家の規範で行動し、商人は商家の規範で行動する。
そのような多様なアルゴリズムの並存によって、社会が有機的に営まれていく。



だが、21世紀の日本はどうか。

大企業の経営は、利益徹底追求で動いていく。
その生産現場は、経営的な規範に引きづられて、生産者の職業規範を守れなくなってしまった。

関西テレビの「あるある…」も、「ミートホープ」も、「渋谷の温泉」も、現場の職業規範が経営的アルゴリズムに敗北した結果である。

そして、あるあるも、ミートホープも、渋谷の温泉も、利益徹底追求型の経営が短期的な企業存続しか達成しないことを示してくれた。

これらの事象から、日本社会は何を学び、何をすすめていけばいいかといえば、それぞれの利益追求型経営が極めて短期的なメリットしかないことを示すとともに、情報伝達の速度を上げることによって、その短期性をもっと短くすることである。



「あるある」も「ミートホープ」も「渋谷の温泉」も数ある構造的腐敗の一つである。

そして、それは、有名企業、元受け、下請けという構造の中で発生している。

有名企業の社員は高給取りで、下請けの従業員は給料も低く、立場も安定しない。
そのような環境・待遇の中で何が起きるか…。

事件の背景だけを見ていれば、日本社会といえども、倫理観の欠如した生産物を多出させる中国の奴隷的な生産体制と大差ないのである。

*

ドラマ「ADブギ」で描かれたように、テレビ番組のアシスタントディレクターは、現場の奴隷と言われてふさわしい。
あるあるで問題になった関西テレビは、奴隷を雇う貴族であり、下請けプロダクションは、奴隷商人たちである。

関西テレビは放送法により寡占状態で守られているから例外なのかもしれぬが、ミートホープ・ユニマットなどは、壊滅的な打撃を受け、株価か低迷し、存続の危機に追い込まれるに違いない。それを見ている世の中の経営者たちも新たな視点で経営にあたるだろう。

ならば、マスコミ・マスコミコメンテーターが、それらの表層に社会的な批判を集めるために尽力することは、センセーショナリズムにすぎず、価値はない。

あるある、ミートホープ、渋谷の温泉、ペッパーランチ。
それら連続する事件に共通点があることを指摘しないマスコミの浅薄さを思う。



たしかに、流通機構の進化によって、生産者と消費者の間は近くなった。
だが、生産における、経営と生産の現場の距離は遠くなっている。

販社でしかない冷凍食料品メーカーや、消費者をカタるルートセールス販売業者。そこにこそ、問題の核心がある。

もし、ミートホープ社が顧客とダイレクトにつながっていたら、今回のような事件は起きなかっただろう。


当該社長の脳裏には、冷凍食品メーカーや消費者をカタるルートセールス販売業者たちのバイヤーの、法外な値切りの声しか聞こえてこなかったに違いない。

非常識な価格要求の前に、いつしか当該社長は消費者の生活をイメージすることができなくなる。
そして、憑かれたように悪事に手を染めたに違いない…。


この流通構造を改善することができなければ、事件は続発するし、当該社長のような虐げられた存在は、これからも悪事に走らざるを得ないのだ。



私は夢想する。


今回の事件の背景を消費者が知り、ミートホープ社の辛さを共有する。そして、消費者は、大量宣伝をする有名会社から購入するのを止め、ミートホープ社からダイレクトに冷凍コロッケを買うようになる。


この日本で、そのようなことをイメージする人は皆無かもしれぬ。

だが、それこそ、私が指摘しつづけている「縄文的な消費者」の姿である。

そして、今回の案件を、アフリカの叡智である真実和解委員会にかければ、そのような結論が出る。

私は、そのように確信している。

07sponta

たしかに、ミートホープは悪事であった。

だが、批判からは何も生まれない。

起きていることの本質は、銚子電鉄の濡れ煎餅と大差ないのである。

牛肉偽装と濡れ煎餅。それは表層の違いでしかない。

経営の苦境は同じなのだ。
posted by スポンタ at 07:05| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(6) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月23日

アルゴの時代47:短小貧乳コミュニティーは、新しいSNSコミュニティーの形を提案する。



先のエントリーで、はてなによる私のおとなりブログのラインアップについて言及した。

アズワーズ広告は、すでに短小貧乳ではなく、
以下のようになっていた。

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あなたのペニスはなぜ小さいのか その原因と解消法がこれでわかります
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つまり、短小貧乳おデブコミュニティー…etc.

ま、それはいいとして、お隣りとは、どういう条件で決められるのだろうか。
おとなり度のパーセンテージもあるようだが、はてなに聞いて調べるでもなく、考えてみる。



コメント欄やTBなどでリンクが貼られる場合。それが複雑に絡み合っている場合。
そして、キーワードやタグに共通項目がある場合などだろう。

ただし、キーワードやタグに共通項目があるという場合は問題だ。
何故なら、私の知るところでは、現在のIT技術において文脈解析は達成されていない。

*

たとえば、私は最近、新聞界の大立者のナベツネ氏についてブログで言及した。

私は、彼を自律した個であると評価している。

問題は、彼を取り巻く単一アルゴリズムの専横であって、いいたいことを言うナベツネは悪くない。単一のアルゴリズムの欠点を個が補う。そのような、個の発言に自己規制を強いる伝統は、日本の悪しき伝統のひとつである。

だが、大方のナベツネ評は、専横者であり、圧政者である。

同じ、ナベツネというタグ、キーワードを有していても、私と世間相場は正反対。これをしてご近所と呼ぶのは、どうか…。

どんだけぇ〜〜。である。



とはいえ、当事者の私としては反論があるが、端から見ていれば、一蓮托生に見えてしまうのかもしれぬ…。

倫敦橋さん、黒崎さん、けろやんさんがベスト3にいらっしゃる。

彼らと興味の対象は一致しているかもしれぬが、言論の乖離はかなりある。…などと感じている。
そして、48位にランクされている茂木健一郎氏と私の言論には一切の共通点はない。

それって、どんだけぇ〜〜。

(^o^)

*

さて、何故、このようなことを書くのかといえば、たびたび紹介しているアメリカの俗諺「コミュニケーションは相手が決める」というのがあるが、実は、コミュニケーションだけでなく、「コミュニティーも第三者が決める」のではないか。という視点である。

「コミュニケーションにおいて、他者の理解を強制する発信者が傲慢である」のと同様に、「コミュニティーにおいて、自分の属するコミュニティーを自身において決定すること」は、不遜なことなのかもしれぬ。


世の中を見渡せば、学校の受験制度や企業・組織の人事制度、政治での選挙制度など、コミュニティーへの参加の自由が無制限にあるケースは思いのほか少ない。

インターネットが歪な姿を呈しているのも、実は、コミュニティーに参加する自由が、無制限にあるかのような幻想をユーザーたちが抱いていることに原因があるのかもしれない…。



そして、もうひとつの視点。

つまり、非メディア型のコミュニティーが、「はてな」によって成立していること。

グーグルによって、非メディア型のマスコミュニケーションが成立したように、ここでは、非メディア型のコミュニティーが成立したのだ。


コミュニケーションとコミュニティーは、同時に語られなければならぬ概念である。

何度も指摘するが、コミュケーションとは、コンテンツを伝達するだけではない。

メタタグとして、コンテンツの重要度の伝達。感情情報の伝達。同一コミュニティーの構成員かどうかの確認など、が副次的にやり取りされているのである。

07sponta

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2007年06月22日

アルゴの時代46:献本で目論まれるコミュニティー幻想。

「それから」研究会の初稿ゲラが届き、論がすすまなくなってしまったが、話を戻すことにしよう。

とはいえ、初稿ゲラから私が読み取ったものは、「国語力・文章力とコンテンツ力を混同してはならぬ」ということ。そして、「発信者は対立をさけてはならぬ」こと。
否、2ちゃんねるの西村氏に、「対話に勝ち負けはない」と面と向かって言われた私である。

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対立という状態を、対照という状態に変えなければならぬ。
発信している当事者同士は、他者を対照することにより、自らの言論をよりフォーカスしていく。それにより、言論の対称関係が生まれ、それが読者にとって有用となる。

もし、言論の場で勝ち負け・優劣を争うようなことがあっても、それは、読者・鑑賞者の頭の中で起きることであって、発信者同志はけっして戦ってはならぬ。

そして、戦いを避けるために、対立する発信者同志が互いを対照することをやめれば、それこそ、読者の利益に反する行為となる。



たとえば、ネットで私が仰ぎ見る人達の間では献本が流行っている。

正式発売の前に献本がなされ、いち早く書評をネットに載せることが、彼らのエスタブリッシュメントを彩っている。

だが、献本された本に対して批判的な文脈で文章をしたためることはできない。
なぜなら、それは言論行為ではなく、営業妨害行為だからである。

そして、献本されるということは、出版社に連なる人達が、自分の味方になって欲しいと願っていることの現出である。送られてきた献本を封も開けずに送り返すことができなければ、その意図を汲み取ったということになる…。

今回、湯川氏は、M氏ことのは擁護4人組の一人である歌田明弘氏からの献本を受けた。と、自らのブログで明らかにされている。
そして、歌田氏の肩書きがジャーナリストではなく、コラムニストであったことを指摘されている。

*

一年前だろうか。

グリップブログの泉氏の活動から沸き起こったネット市民記者新聞のオウム真理教による汚染問題。
湯川氏は泉氏にインタビューをすることにより、少なからず巻き込まれた。
一方の歌田氏は、オウム者であるM氏の擁護論陣を張った。
擁護する人達は、「言論の自由。犯行と教義は別。教義はけっこうまとも」などと主張した。

彼は、週刊アスキーのコラムにも、M氏擁護論を書いた。
結果、紙面・ブログ・ネットを含めて大騒ぎになり、その中に「あなたは、ジャーナリストなの?」という批判もあったのを憶えている。

私は、言論の自由があるにしても、それは、自らの立場を明らかにしたうえでのものでなければならぬ。数十名の命を奪った集団に属していた人が、匿名ならまだしも、自らの立場を明かして発言をするならば、彼がまず語らなければならないのは、被害者への謝罪と自らの反省であるべき。謝罪と反省の言論を発表しないまま、IT関連の言論を発信することは、許されてはならぬ。と、考えている。
また、「教義はまとも」などと言説することも、私はには理解できない。
オウム真理教が社会悪なのは、大量殺人を行なったからである。その教義ではない。

そのような指摘の対話の中で、私は歌田氏のブログに書き込んだが、ある時点から一切の対話が消滅した。

私は、そのエピソードを「名指しで無視された」と形容している。

*

今回の出版者も、ジャーナリストであり、湯川氏もジャーナリストである。私も市民ジャーナリストと紹介されることもある。

ジャーナリストという言葉は、なんとも魅力的なのか…。

私がありたいと思っているのは、表現者であること。欲しい肩書きは、言論人であり、映画人である。

だが、言論人・映画人、ともにすでに死語である。...ORZ

*

さて、湯川氏は、献本された本を自分のデスクに積み上げておくと、興味をもった社内の人達が持っていく…。と、自らの状況を語っている。
彼の会社は日本マスコミのハブ機能を有しており、その社内で献本が多くの人達に読まれるならば、プレス効果として極めて有用だといえる。

だが、その行為は、献本されることによって、著者の側に巻き込まれたくない。という彼の微妙な思いも表現してもいる。

その一方で、ネットでは、献本の書評を連発する有名ブロガー氏は、アフィリエイトにて月に10万円以上を稼ぐという。
処世としては、うらやましくもあり、そのように努力しなければならぬのだが、彼の評価は、言論人ではなく、プロモーターに過ぎぬ。ということで、巷間の評価は定着してしまった。

ま、彼はエンジニア。
ジャーナリストではないのだから、目くじらを立てる必要もない…。



私もネット言論で何がしかの対価を求めねばと思うのだが、なかなか二の足を踏んでいるのは、そのあたりの事情がある。

ならば、アズワーズ広告ぐらいは…。

などと思うのだが、私のはてなのお隣さんブログのページを覗いてみると…。

メスを使わないペニス増大www.standup.2-d.jp/
あなたのペニスはなぜ小さいのか その原因と解消法がこれでわかります
豊胸画像のことならwww.ex-ellweb.com
豊胸手術をお考えならまずはここから 豊胸などの美容整形の情報満載


などという広告が選択されている。

私は、自分の急所についてブログで言及したことはないし、貧乳で悩んだこともない。

困ったものだ…。

07sponta

ところで、私のお隣さんたちのベスト50.妥当性あると思いますか?

ま、隣に住んでいても会ったこともない人が多いのが都会ってもんですから、当然のことですか…。
(^^;)

我らは面識がないが、短小・貧乳グループとでもいうコミュニティーに属しているのかもしれぬ…。

自らのコンプレックスと戦っていけという、グーグルからのアドバイス・応援歌として、アズワーズを受け取っておこう。(^^;)



posted by スポンタ at 07:49| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(2) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月21日

アルゴの時代45:ステークホルダー論。

アルゴの時代42で、IT関連著名人を斬りまくった。

詳しくは、エントリーを見ていただければ分かるが、私が言及したのは、


・梅田望夫氏

・池田信夫氏

・湯川鶴章氏

・佐々木俊尚氏


の諸氏である。



そして、今回7月に出版される本の共著はといえば、


・佐々木俊尚氏

・湯川鶴章氏

・歌川令三氏

・森健氏

・公文俊平氏


の方々である。

共著として名前を連ねさせていただいている諸氏の殆どについて、私が否定的な文脈をかつて語っていたことを憶えている人も多いかもしれぬ。

だが、ここにこそ、この本の素晴らしさがあるし、そのような過去を持つ私が、いかに、かつて否定的に語った人達と対峙するかというところに、言論の自由の場の確立ための重要なヒントが隠されている。



私は、湯川氏の引き立てで、歌川先生の知遇を得、今回の出版のメンバーに加わることができた。

だが、だからと言って、湯川氏・歌川氏の言論たちと言論を等しくする必要はない。

お互いの言論の共通点と乖離点を共有するとともに、お互いの言論の乖離を愛でる。そして、その言論の乖離の原因を分析する。

そこにこそ、多様な言論が世の中に現出するための基本的な条件が存在する。

そして、そのために、私が2年程前から指摘しつづけている「ステークホルダー(自己都合)論」がある。



具体的にいえば、次のようになる。

時事通信社の湯川氏と私は、「これからのジャーナリズムには、対話が重要である」という視点で共通点を持ち、共感している。

とはいえ、ウェブ2.0をとりまく様々な指摘については、言論を異にする。

湯川氏は「爆発するソーシャルメディア」という本を上梓され、CGMの普及を予測される。だが、私は、特権者が創造しルールを規定するようなメディアは、ウェブ2.0的ではないし、そのようなものは爆発的な広がりを見せることはない。と、考える。

たとえ話になって恐縮だが、こどものうちは「人生ゲーム」で遊んでいるが、こどもはいつしか大人になり、リアルな人生ゲームに挑んでいくに違いないのだ。

*

湯川氏は時事通信社の社員であり、彼の言説が日本を支える一流企業たちという広告主たちを満足させなければならぬ。

そもそも、IT関連記者というのは、少なからずエバンジェリック(業界御用達)的にならざるを得ない。
新製品が市場に出たならば、その長所を語ることが職業モラルであり、はなから「こんな商品が売れるはずもない」などと批判することは、他人の商売を妨害する行為でしかない。

私は、そのような湯川氏のステークホルダーを理解するし、その職業的な制約の中で、「対話が重要である」と彼が言い続けることが、彼の良心の現出だと感じている。

だから、私は彼のステークホルダーな場に足を運ぼうとは思わない。

最近、彼は、時事通信社で佐々木氏を招いてセミナーをやるということを知った。一瞬、私は、佐々木氏とお会いしたことがないので、参加してみようかな…。と、思った。

だが、スポンタとはスポンティニアス。「思ったことを言う人」の意味である。ならば、エバンジェリックな文脈のセミナーで場違いな言論を提出しかねない。

…ならば、行くことはできぬ。



たとえば、歌川令三先生。

先生とは、「既存のジャーナリズムは衰退の一途を辿っている」という認識が一致している。
衰退の原因を新聞の現場から経営の現場まで知っている先生の知識・経験は素晴らしく、外から見ているだけ、「消費者は王様」などと嘯いている私が持っている情報量などと、先生が持っている膨大な現場情報は比するまでもなく、その説得力は絶大である。

だが、世代的な特性なのか、先生が提出するイデオロギッシュな思考方法に、私は違和感を持つ…。

*

森健氏。

彼と私は、イデオロギーな視点ではなく、社会学的手法で世の中を見ると言う点で共通点が多い。
私は彼の「グーグル・アマゾン化する社会」を読み、膝を打つことばかり、彼は、私の尊敬と瞠目の対象。ある意味、同志といえるかもしれない。

だが、文筆で糊口を潤している職業ライターと、対価を求めずに市民記者という立場の乖離は深い。

*

佐々木俊尚氏とも同じようなものだ。

彼とあったことはないが、彼がオウム指名手配の高橋克也、私が平田悟と揶揄されたことがあるのだから、少なからず縁がある。

そして、グーグルという研究領野を共有するという同根を持っている。

事実、私は佐々木氏の著作から多くのことを学び、アルゴリズムの重要性について認識するに至った。

氏と私の間の言論の乖離は、グーグルの繁栄を語る彼と、グーグルの終末を語る私。その一点でしかないのかもしれぬ。

*

公文俊平氏に関して、私は彼の智民主義を批判してきた。

だが、彼が日本一のエリート大学を卒業され、現在においても大学教授の座にいるのであれば、そのステークホルダーを理解する。

アカデミズムにとって、無知は対極にある悪であり、その文脈の中で、智民主義という思想が紡がれるのは極めて自然なことなのである。



すべての人がステークホルダーを纏っている。

私もまた、消費者というステークホルダーから逃れることはできぬ。
だから、もし私が口角泡を飛ばして、消費者擁護の言論を吐き出していたら、「スポンタめ。ステークホルダーの奴隷になりさがりやがって」と、批判してくれて、いっこうにかまわないのでする。

すべからく、「個とはステークホルダーから逃れられぬ」。

そのことを理解すればいいのであって、対話を拒否したり、断絶するなどということがあってはならぬのである。




すでに、私がお会いできた人達には、その縁をありがたく思うとともに、私のとげとげしい言論に対して、寛大に対応されていることに多いに感謝する。

そして、本が出版されれば、あたらなる潮流が生まれることも期待している。

そのような時において、私は、さらに私をとりまいてくれている全ての言論たちに感謝するに違いない。


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2007年06月18日

アルゴの時代44:アルゴリズムでは達成できぬもの。自律的な個。自立した個…。

スポンタ中村は、「インターネットがリアルな社会に突きつけているもの」について論じている。

いま、2007年において、インターネットの特徴を何を持って大いに感じるかといえばグーグルである。

ビジネスフェイズでは、セカンドライフが注目されているようだが、あれは、かつてのインターネットバーチャルモールでしかない。

今後、セカンドライフが普及していくならば、それは、グーグルアースや金融システムなどリアルな場からバーチャル化を進めているグーグルと拮抗することになり、最終的には、バーチャルでしかないセカンドライフの劣勢・破綻で終わることは明らかである。


他所様のビジネスに水を差すつもりはないが、セカンドライフは所詮SNSでしかない。
SNSは拡大することによって無力化するならば、これとてウェブ2.0的ではない。上原仁氏の言うところの「外部性」を備えていないのだ。



さて、グーグルから何を学ぶかといえば、アルゴリズムである。

すでに指摘しているように、グーグルの欠点は、特定のアルゴリズムをクローズドにしながら運営されていることにある。

世の中にSEO業者が存在しているのも、アルゴリズムが特定であることの証明である。

そして、グーグル八分が批判されることは、グーグルのアルゴリズムが、必ずしも妥当性を獲得していないことの証明でもある。つまり、グーグル八分にされる側がやったことは反グーグル的ではあるにしても、反社会的とまではいえぬのである。

そのように論理をすすめてきた私は、多様なアルゴリズムが並存するコミュニティーが理想であると確信している。

そして、現実を憂いている…。


現代日本のさまざまな社会的な問題は、単一なヒエラルキカルなアルゴリズムの専横か、フラットなアルゴリズムの弊害によって発生しているのだ。


…だが。

しかし、である。



多様なアルゴリズムが並存することによって「のみ」、理想的な社会・コミュニティーが出現するのではない。

多様なアルゴリズムが存在することは、勿論だが、そのようなアルゴリズムのもとになる自律的な個がなければ、いかなるアルゴリズムも機能しない。



池田信夫先生は、コメント欄における交流において「ノイズ」が存在すると言って、憚らない。

だが、言論のどれをノイズとするかは、個の主観的な判断でしかない。

蕪や大根の葉っぱは私の大好物だが、それらをゴミとして捨てる人もいるだろう。
我家では、納豆で黄身だけを使った残りの白味は、泡立ててオーブンで焼くことにしているが、それも不要物として流しに捨ててしまう人もいるだろう。

ノイズにしても、自らのチューナーが周波数を合わせることができぬだけで、それをノイズとして決め付けてしまうことは浅薄ではないか。

私にふりかえってみれば、コメント欄で、「ばか」とか、「何様のつもり」などというコメントがあると、自分の言論のどの部分が、「ばか」と書きこみたい欲望に読者を駆り立てたか。「何様のつもり」と感じさせた私の言論のありかはどこなのかと、反省したりもする…。

だが、だが、である…。

自立した個が、盾となって、上部アルゴリズムに載せるべきでないことはあるのである。

*

大昔のことであるが、地上波テレビ局の番組で、盛り場でのロケ。撮影場所の2階に住むヤクザからのクレームを受けた。

そのとき、助監督だった私は、その場に土下座して、ヤクザ氏からのクレームをテレビ局まで上がることを阻止した。
あのとき、オシッコをちびりそうになったのか、もともとオシッコがしたかったのか定かではないが、かなりびびったのを憶えている。

後日、私が参加しないロケにて、同じようなクレームを受け、クレーマーが放送局までやってきて、大騒動になったことがあるが、そのときの担当者と比べられて、私は褒められもした…。




子供に過保護すぎる親や、無理な要求をする親などが多発しており、文部科学省では、クレームトラブルに関する対応マニュアルを定めたという。

だが、一般常識からみて、あまりに乖離している者たちの所作を、クレームとしてコミュニティーの情報伝達テーブルにあげる必要があるのだろうか…。

私は、理不尽な要求を拒絶できない個の脆弱さをそこに見て取る。

現場は何が起こるか分からない。その現場、現場で個が自律的に対応する。

そういう自律的な個が拒絶すべきレベルのことは確実に存在するのである。



分かりにくいかもしれぬので、説明の仕方を変えてみる。


コミュニケーションとは、コンテンツ・文体・文脈・意味・を伝達するしあうことである。

ただし、そのメタタグとして、次のものがある。

1. 感情情報を伝達すること。

2. お互いの上下関係(ヒエラルキー的な)を確認しあうこと。

3. 同一コミュニティーにお互いが存在し合うことを確認すること。


お分かりいただけるだろうか。

コンテンツとしての価値がなく、メタタグをやりとりするだけのものは、メタ・コミュニケーションであり、アルゴリズムの上で流通させることは不毛である。



非常識な親たちが放つ言論・コンテンツは、その多くが感情情報であり、ヒエラルキカルな確認であり、同一コミュニティーにいることを強制するものである。

ならば、対応マニュアルで組織的に対応すべきではなく、それぞれの構成員が断固として対応すべきなのだ。

文部科学省は、そのような自律的な教員になるための教育・自信・権限を植えつければいいのである。

07sponta
posted by スポンタ at 20:14| 東京 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月17日

アルゴの時代43:インターネットがリアルな社会に突きつけていること。


私の文脈で、梅田望夫氏、佐々木俊尚氏、湯川鶴章氏、池田信夫氏を斬らせていただいた。

何故、そのようなことを言論したかといえば、「インターネットがわたしたちの社会に突きつけているものは、あなた方が指摘しているようなことではない」という痛切な思いがあるからだ。


たしかに、いままでの10年間において、インターネットは、ニュービジネスや通信産業・科学技術の文脈にあったし、その文脈の上でエバンジェリック(業界御用達)な言論を操ることに妥当性があった。だが、これからは違う。

インターネットは、社会の情報の有様を変えるだけでなく、組織の有様も変えていく。そのことを見誤ってはならぬ。


そのことを誰も語らぬ・語れぬ既存メディアを、私は悲しく思っているし、どなたか、私に発言権を頂戴できぬものかと、切に願っている。



finalventさんは、「スポンタさんは幸せなんですよ」と、私のコメントに返礼をしてくれた。

だが、そのコメントで私が想起したのは、杉田久女の次の句である。

谺して山ほととぎすほしいまゝ

私は中央から見放され、苦汁のまま一生を終えた久女に思いを寄せることを潔しとしない。

師である高浜虚子から破門されることで、俳人としての生命を絶たれた久女。彼女の悲劇は、メディアが貧しかったためである。

多様なアルゴリズムが並存していれば、久女の才能は巷間認められたであろうし、この「山ほととぎす」の句も、もっと世の中に広まっていたに違いない。

ただし、もし、久女がもっと認められていたら、この句は清涼感を伝えるのみで、この句の持っている悲しみや絶望は感じられなかったかもしれぬ。

ブログとは、誰もいない山奥で、ホトトギスが泣き叫ぶことなのだろうか…。



「文句があるなら、偉くなれ」。

これは、「踊る大走査線」で、いかり屋長介氏が演じた現場叩き上げの刑事のセリフである。

だが、偉くならないと文句が言えないような組織は、警察といえでも立ち行かぬ…。そのようなことが昂じて、いつか社会的に糾弾される。

*

かつて、4月1日の新聞には、サントリーが新社会人に向けた広告を出していた。筆者は、山口瞳氏だったと記憶しているが定かではない。私の記憶に残る文面は次のようだった…。

「君たちは会社に文句はあるだろう。だが、それを今口にするのは愚かな行為であり、そんなことをしても何にもならない。いま君が会社について思っていることを、20年後、30年後の君が出世するまで、心の中に持ち続けていて、君が出世したときに、その文句を胸に会社をよき方向に動かしていけばいい…。

「踊る大走査線」もサントリーの新社会人に向けた広告も、同じことを言っていたのだと思う。

*

だが、そのような時代は終わっている。

経営を握るのは、経営者でも、監督官庁でもない。

消費者である。

経営者も、監督官庁も、消費者の動向を見誤れば、とたんに行き詰る。

今回の社会保険庁の破綻も、お役所であっても、ユーザーを無視すれば破綻することを証明している。

官僚的だった雪印の破綻。創業家が牛耳っていた不二屋の挫折。
それらが、すべてを物語っている。

今回のコムスンやNOVAにしても、監督官庁が動くことによって、経営は壊滅的な打撃を得るだろう。
これをして、監督官庁の権力を過大視するのは間違いである。
問題は消費者の動向であり、監督官庁が指摘しなくても、遅かれ早かれ、社会悪のひとつとして糾弾される。それが、インターネットの時代である。

そして、今回の問題で重要なのは、それらが、スポンサー担当能力を持つ企業たちだったことである。
メディアたちは、自分達の収入をもたらす広告主を批判することはできぬ。そのことが、メディアの信頼性を低めている。

いまや、企業の信頼性を確かめるために、公式ホームページを閲覧する人はいないだろう。

グーグルや2ちゃんねるで検索をかけてみて、その会社に関連して、どんな情報が出回っているのかを調べる。それの真実性は定かではないにしても、重要なリファレンスである。

*

問題は、グーグルや2ちゃんねるで知ることができる情報・ネタを信じるかどうかである。
そこにこそ、情報を使う人たちの叡智の見せ所だ。

*

何度も紹介するが、グーグルで「アンネの日記」と検索する。

すると、第二検索語の候補として、「捏造」や「ボールペン」という単語が記載されている。
ここで、「アンネの日記」「捏造」や、「アンネの日記」「ボールペン」という二つの単語で検索をかける。

すると、第二次世界大戦中には、ボールペンは普及していなかったか、とてつもなく高級品だったにも関わらず、「アンネの日記」の後半部分はボールペンで書かれているとの情報に出会うことになる。

実際に、アンネの日記の原本の映像まで突き止めるかはともかくも、そのような情報の真正性につき、信じるかどうかの判断は、概ね決まっているだろう。

つまり、ボールペンで書かれたのでないならば、誰も、ボールペンで書かれているとの批判はできぬだろう。ならば…。

ということである。

*

私が住んでいる世田谷一家惨殺事件についても同様である。

インターネットの未確認情報では、警察は現場から採取した指紋を韓国に問い合わせたという。

ニュース報道からすれば、警察がそのような行動をすることは自然な成り行きである。

韓国では、北朝鮮のスパイ対策から、全国民の指紋が記録・保存されている。
だが、韓国からは、「ノーコメント」という返事が来た。…らしい。

何故、「ノーコメント」。なのか。

ないならない。というべきだし、あるならあるというべき。

ここにおいて、韓国には、「あるともないとも言えない」という事情がある。…と、憶測できる。

何か、国家が返答できぬような大掛かりな事案が背後に隠れている。などと、ネット者は思索をめぐらせる。

そして、世田谷区民である私は、変質者が行きづりに犯行に及んだのではないことを察知して安堵するのである。

もちろん、そのすべてに確証はない。

しかし、極めて明快な論理・ストーリーがあれば、情報の受け手が信じるか・信じぬかについて、決定的な要因を与えるのである。



類例を挙げればキリがないが、既存メディアにおける言論というのが、「建前」に終始するようになって、「本音」から乖離することになった。

エンタテイメントとしての言論では、それでいいのかもしれぬが、ビジネスや社会の運営に直結する言論の場では、そのような言論たちは無価値であり、それを提出する者たちは社会悪に連なっているとさえ言えるのである。

finalvent氏も、ビジネスコンサルタントとしての梅田氏は、別の文脈を持っていて、諸般の事情から、その多くを著作では語っていないと感じているらしい。

処世のあり方として、それはそれで仕方の無いことかもしれぬが、10代の後半から表現のことを考え続けてきた私としては、彼に絶望するのである。


07sponta

追記:
…ということで、是非とも、私に既存メディアでの発言権をいただけぬものでしょうか。
日本新聞労働組合でお知り合いになった地方紙の方々、いかがでしょうか?
(^o^)

私の申し出をお受けくださった方には、私はまず次のように問いかけることでしょう。

「で、このメディアの建前は何ですか?」

どのようなメディアにも建前はあっていい。私は、それを否定するのではない…。

つまり、多様な本音と建前が並存すれば、社会の健全性は保たれる。
そして、個は単一な文脈と心中する必要はないのである。

posted by スポンタ at 08:15| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月14日

アルゴの時代40:2ちゃんねるが「ネット右翼」、はてなは「ネットイナゴ」…。そして、2ちゃんねる西村氏への提案

池田信夫先生は、2ちゃんねるには「ネット右翼」が集まり、はてなには、「ネットイナゴ」が集まってくると言明している

ITやインターネットに詳しい池田先生だが、その思想の根っこはアカデミズムでしかないし、その視点はエスタブリッシュの上にあることを忘れてはならぬ。

閲覧者が、自分をエスタブリッシュに同化したいならば、彼の言論は気持ちのいいものだろう…。

だが、エスタブリッシュな視点は、先生のステークホルダー(利害)から発生しているものだから、言説を盲従していくと、いつか壁にぶち当たることを忘れてはならぬ。



「アウシュビッツはなかった」の記事で文芸春秋社から追われた花田氏は、最近の頭のいい人たちは、右翼的な言論を纏っている。と言って憚らない。

既存マスコミは、その多くが左翼的な言論を文脈にしているから、マスコミ批判をすれば、それは右翼的な文脈の上に乗ることになる。

東国原宮崎県知事に「保守」と批判された石原都知事は、「いいものを残すのが保守で、わるいところを直すのが改革である」と言い、保守・革新という粗放な二元論を諌めた。

インターネットにおける無名者たちの言説を「ネット右翼」と形容する人達の心積もりは、推して知るべしである。



池田先生は、右左を勘案し「ネット右翼」という形容に妥当性はなく、「ネットイナゴ」こそがふさわしい形容であると断ずる。そして、ネットイナゴが集うのが、「はてなブックマーク」であり、そこで自分のブログに対する無理解な批判が多出していることを批判している。

私は思う。

個の言論にとって、批判・反論こそ、一番明確な乖離があるものであり、重要なリファレンスである。

ならば、その批判・反論に応えることにより、自らの言論を、より明確化(要約・焦点・対照)することができる。


池田氏は、ウィキペディアにおいても、自分の経歴に関する誤記につき、不平を述べられていたが、インターネットの本質・コミュニケーションの本質を見ていない。

アメリカの俗諺には、「コミュニケーションは相手が決める」というのがある。
発信者の意図や文言によって、伝達されるコミュニケーションが決定されるのではなく、受け手によってコミュニケーションが決まるのである。

*

ジュビロ磐田の選手が、女子高生を強姦したという。

選手の誘いに女子高生は車に乗り込み、病院に直行するような暴行はなく・ごくありふれた行為をし、1万円が渡され、受け取られた。というふうに、私はイメージしている。

とはいえ、当該選手は「合意のうえでのこと」と主張するが、当該選手に、「被害者が合意していた」と主張する権利はない。

何故なら、コミュニケーションは相手が決めるからだ。
そして、相手が女子高生だったのである…。

さらに言えば、事件当夜は合意だったのかもしれなかったが、その後、被害女性の心の中で、合意ではなくなったのかもしれぬ。

その原因が何なのか…。愛を一切感じさせない行為だったのか。1万円という援助交際の相場を下回る金額なのか。

私は、さまざまな意味において拘置されている選手を卑劣だと思ってやまない。

*

インターネットは、事実を積み上げていくストレージ(貯蔵庫)ではない。
さまざまな思いを載せていくストレージである。

そして、その場所が民主主義によって運営されていくならば、「一片の思い」とて、を抹殺してはならぬ。
たとえ、それが誤解であろうとも、今後の誤解を呼ばぬためには、それはリファレンスとして極めて重要なのである。

インターネットは無限の地平である。無限の空間での掟は、リアル社会のものとは異なる。

ならば、一片の思い・間違い・怒り・劣情・勘違い・その他もろもろも、その妥当性はともかくも、どこかに落ち着くべき場所を確保されるべき。

それこそがインターネットであり、その性質がリアルな世界に対してのオルタナティブ(相互補完性)ともいえる…。

脱線と本質論はさておき、本論に戻そう。



「はてなブックマーク」での発言者をネットイナゴと形容するという。

イナゴの大群をイメージしての形容だろう。
イナゴの大群が来襲した後の農地が丸裸になってしまうことも暗喩しているに違いない。

だが、「はてな」での発言者は、匿名ではなく、HNを持っている人達だ。
HNが固有の属性とリンクしていないにしても、それを十把一からげにして、「ネットイナゴ」と形容することの是非論はあっていい。

*

私は、昨年秋に提出した「ネットシンポ」という一連のエントリーにおいて、言論の3要素に「主体・文体(意味)・意志」があることを指摘している。

その言論の主旨は、「主体と文体と意志の三拍子揃った個だけに発言が許されるシステムは、民主主義にそぐわない」というものである。

小泉首相は、金銭問題を抱えていず、親分子分の関係も薄く、さしたる女性関係もなかった。
そのような「主体」だからこそ、彼の持論「郵政民営化」という「文体(意味)」を提出することが許された。

「文体(意味)」を提出することを可能にしたのは、彼の決断力・勇気という「意志」である。

*

たとえば、政府の税調会長の座を、新地のお姉さんを原宿の官舎に住まわせていたことで、奪われた人がいる。
「主体」の瑕によって、価値ある「文体(意味)」の発信が拒絶されたのである。

新地のお姉さんを原宿に住まわせることの経済的な費用と、税調会長として彼が辣腕を振るうことによって社会にもたらされる利益を比べれば、「主体」としての発信者の瑕は黙殺されていいのに、そのようなことは起きぬ。

それが、現行制度の欠点であり、愚である。

*

あるべきは、言論の「主体」と言論の「文体(意味)」と「意志」を切り離すことである。

たとえば、雪印の西宮冷蔵社長の悪行のリーク。
誰も西宮冷蔵社長の「主体」としての瑕をとりあげるではなかった。
このケースにおいて、言論の「文体(意味)」だけが重要であり、社長が提出した「文体」をトリガーにして、国語力・検証力・総合力を駆使したのはマスコミだった…。

そのようなことが、あるべき姿である。

ただし、この場合、西宮冷蔵は匿名者の発信者ではなかったために、社長の発言は大阪商人道徳にもとるということで批判され、同社の事業は行き詰った。
匿名を禁じるという美名のもと、マスコミは当該社長を見殺しにしたのである…。

*

そして、「ネットイナゴ」である。

この現象を捉えるに、「主体」が多いにも関わらず、「文体(意味)」「意志」は単純・明解だということだろう。
それらの中には、確たる「文体」は、存在せず、「意志」だけのものもあるに違いない。

そういう吟味をせずして、「ネットイナゴが発生しているようだが、リファレンスする価値はない」などと断ずることに妥当性を見出さない。



俳句の合評会であれば、同巧多数に類するものたちである。
確かに、天地人の位からいえば、人に類するものかもしれぬ。だが、人から学ぶものは多いし、同巧といえども、巧みの一つであることは間違いはない。

「ネット右翼」・「ネットイナゴ」と見下してしまう前に、それらから読み取れるものは何かを冷静に考えるというのが、あるべきネット者の姿といえるだろう。



何故、「ネット右翼」「ネットイナゴ」が多出しているかといえば、ネット言論を統合(インテグレート)するシステムがないのである。

2ちゃんねるであれば、テンプレート(雛形)があり、罵詈雑言に直接触れないでも、言論の行方を知ることができる。
だが、「はてなブックマーク」には、そのようなシステムはないし、対話性も2ちゃんねるに比べれば薄いのではないだろうか。

そして、2ちゃんねるといえども、テンプレートは用意されているが、それをオーソライズされるメディアがない。

私は、是非とも、「テンプレートをストレージするメディア」をつくることを、西村博之氏に提案したい。

それにより、2ちゃんねるの叡智が是認されることが期待できるのではないか。

いま、時間を経た2ちゃんねるのコメントたちは、モリタポ(有償閲覧制度)の向こうに行ってしまって、見ることができない。

それは、発信者たちに冷静さを導く素晴らしい制度であるが、最終的に落ち着いた結論たる、テンプレートも見ることができなくなってしまうのは、惜しいと思う。

瞬間発言速度により運営される2NNとともに、「テンプレート天国」とでもいうものを、作っていただけないだろうか…。

勿論、天国には、パラダイスという意味もあるし、逝っちゃった先という含意もある。


私は、2ちゃんねるは、インターネット最大の叡智であると思う。

それは、IT技術に牛耳られるではなく、無名のネット者たちが形成した文化がある。

匿名という民主主義の基盤が、検索を逃れるために符丁を他出させ、独自の言論空間を形成するとともに、「悪意のダンディズム」により、不用意に存在するものたちを避けてもいる。

その根源的な叡智に気づかぬ者は、暗愚としか言いようが無い…。


07sponta

追記:

言論発信の3要素「主体・文体・意志の中」の、意志は感情でもある。

感情情報に操られるコミュニケーションは不毛であるということにつき、次のエントリーで述べたいと思う。

それらは、罵倒・礼儀・本村氏の最高裁差し戻し事案についてである。
posted by スポンタ at 09:11| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月12日

アルゴの時代38:インターネットに禁句はない。

さて、私がブログにこだわりつづけているのは、実は、ブログこそが、探し求めていた「ネット言論の自由」の場かもしれぬ。という思いである。

マスコミは、確証がとれた情報しか発信できぬ。広告主に利害が及ぶ情報には慎重になることを強いられる。
だが、ブログであれば、そのようなものに捉われぬ「言論の自由」が確保できる。

そして、コメント欄において、読者と対話できる。対話により、自己の言論の欠点を修正できるし、読者との交流の中から、あたらしい気づきをもたらすことができる。

だが、現実はそうではないらしい。

先のエントリーでは、古森義久氏のブログのコメント欄で、「誹謗中傷による訴訟」を匂わすことで、言論を制限しようとする企みがあった。

確固たる魂である古森氏は、そのようなもので揺らぐことはないが、通常であれば、恐れおののき、情報発信をやめるのかもしれぬ…。



もうひとつの問題は、宗教関連である。

私は、池田信夫氏の「神は妄想である」という本の書評エントリーにコメントした。

その思いは、霊性を考慮せず宗教を語れば、M氏擁護4人組と同じ轍を踏む…。
である。

採録は、以下。


シャーマンな能力 (スポンタ)

2007-05-27 09:01:43

神の定義は、存在神、絶対神、多神教の神、救世主、人格神など多様にあり、それらを勘案せずして議論することは、不毛と考えています。

世の中では「オーラの泉」が、話題になっていますが、江原氏のような霊的な能力を持つ人間は、必ずしも特異的な存在ではないと感じています。

イギリスのある調査では、ホモセクシュアルの存在率は、3.5%であり、レスビアンは、その半分だといいます。

同様に、霊的な能力を持つものも、似たような比率で世の中に存在しているのではないかと感じています。

私はまったく霊感を持っていませんが、女性の方には霊感を持つ人が多い。

勿論、江原氏のような強烈な人は少ないのかもしれないが、そういう人たちの割合は、数パーセントあるだろうし、その人たちを理解する人たちは数10パーセント存在するだろう。

というのが、私の理解です。

近代発祥の科学がいかに発展していったとしても、そのようなシャーマンな人たちが数パーセント存在する限り、現世を超越したものたちは語られ続けるでしょうし、それに反駁するものたちも言論しつづける。

そのようなことを思っています。



彼岸、盆に墓参りに行き、ご飯を炊くたび、お茶を飲むたびに仏壇に供えることを習慣とする私は仏教関連書籍をたしなみます。

中学1年の娘は仏典とは無縁の生活をしているが、仏壇に対して私と同じ習慣を行なっている。
果たして彼女は、宗教者でないと言えるのでしょうか。

当然のことのように毎日、仏壇にお茶・ご飯をそなえる。それは、日曜日だけ教会に行くことよりも、宗教的なことだと私には思えています。

自説開陳失礼しました。

そして、ありがとうございました。


これにつき、池田先生から、「ここはコメント欄です。持論は、自分のブログで書いてください。それに、1行あけて書くのはスペースの無駄だからやめてください。」とのコメントがついた。

減らず口の私は、次のようにコメントした。


コメントが持論でないことが可能なのか。 (スポンタ)

2007-05-27 19:33:53

私は、誰しも持論以外の言論を発信することはできぬと考えます。スレ違いを感じれば、掲載しなければいいだけのことです。
それとも、私がコメントの語尾を「超越的存在を感じることのできぬ人が神をテーマに本を書く事が無意味だと思いませんか?」などと、疑問形にすれば持論を披露することでなくなるのですか…。


何名かの方が、私には、国語力が欠如しており、言論が意味不明。空気が読めていない。無作法である。との指摘があった。

繰り返すが、何故、池田氏の「神は妄想である」のエントリーにコメントしたかといえば、それは、M氏ことのは・中沢氏に連なる欠点を、池田氏の言説は持っていたからである。

知性は感性に勝てるはずもないのに、知性によって、感性を征服しようという企みがそこにはあった。

霊的な真実を持たぬカルトが、社会悪を世の中に撒き散らしたのも、もとはといえば、「かりそめな知性(教義・経典)が個の感性を麻痺させた」からである。


私は、池田信夫先生のブログでのコミュニケーションは諦めて、finakventさんのブログに愚痴った。

それは以下。


sponta 『ま、わたしにみたいに、「うちのカミサンはシャーマンだ」などと言えば、池田信夫先生に反発される…。
とはいえ、それは、単に私のお行儀が悪いだけなんだよね。

神を語るに、霊性が抜け落ちているなんて、馬鹿な話はないんだから…。
そして、そういうアカデミックな言論態度が、カルトの蔓延を許してしまった。
中沢氏たちの悪性に、池田先生も連なっていることを否定できぬ。…そんな感じ。

カミサンは、WOWOWでやっているドラマ「ミディアム」の主人公程度のありふれた能力らしい…。

ドラマだったら、それが許されるけど、バラエティだったら、偶有性なんでしょうね。
オカルト番組だったら、センセーショナルに煽ればいいんだけど…。

では、ネットの文脈は何なんだろう。

どっちにしても、私はM氏関連において、オカルトを語らざるをえない。そんな立場…。

*

類語辞典では、諦めのとなりに悟りが記載されている。
悟りなんてできないけど、諦めることはできるかもしれない。
一切の霊的能力を持たぬ私、経典を詳らかにする勤勉さのない私は、そんな感じっす。

…では。』


すると、finalvent氏は次のように、コメントされた。

『spontaさん、ども。実体的なオカルトとかではなく、我々の無意識の神話的な構造なんだろうと思いますよ。』

finalvent氏のコメントで、ようやく気づくことができたので、次のようにコメントした。

sponta 『ども。

いやいや、有意識・無意識を超えた、超存在ってものが、存在を超えた形で存在する。ってこと。
ああ…。言語化できない。(^^;)

昔、図に書いたんだけど…。

E.gif

無意識の神話的な構造を人文的に捉えていることに限界がある。
そんな感じ。
それって、「オウムの教義がまとも…」って言説して憚らない4人組の人達と同じことなんですが…。

ということで、お邪魔しました。

このブログの空気を私は読みきれておりませんので、ご不快であれば、謝罪もうしあげます。』


結局のところ、何故、私がスピリチュアルな世界を語らねばならぬかといえば、それは唯一、カルト宗教によるネット汚染を避けるためである。

私は、霊的な世界をプロモートしようなどとはまったく思っていない。だが、いくつかのカルト教団が世間にさまざまな問題をもたらすことについては、私なりの立場で誠実に対応すべきだ。
ということ…。

何故、京都大学などの一流のアカデミズムの場がカルトに無力だったかといえば、アカデミズムが霊的な世界(スピリチュアリズムを含む)を語ることをタブーとしたからである。

その隙間に彼らはつけこんだのである。



商業的なバイラル。イデオロギー的なバイラル。カルト的なバイラル。

さまざまなものがある。

それらを抹殺することもまた、「言論の自由」を毀損することになるが、それらを無視して「言論の自由の場」が成立するはずもない。

新聞・雑誌では、本文・広告・広報とページの属性を明確にすることで、メディアの健全性を保っている。

インターネットにおいても同様であり、リモートタグがつくことで、健全性が保たれるのではないか。

そして、実は、上祐氏のような「あからさまなカルト」の危険性は実は低くて、中沢氏や、アカデミズム、エスタブリッシュな人達が語るニュー・サイエンスのほうがバイラルである危険性が高いのである。



私は、葬式仏教として臨済宗と付き合っている檀家信徒の一人でしかない。
鎌倉期にはカルトだったのかもしれぬが、2007年の今は極めて伝統的な宗教者でしかないと信じている。

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2007年06月11日

アルゴの時代37:ブログのコメント欄の不備。

古森義久氏のブログに次のようにコメントした。

コメントした理由は、あるコメント者が、ブログでの言論を通じて、誹謗中傷による訴訟を匂わせているからである。

私は、「誹謗中傷を根拠に、他者の言論を封じるやり方」を卑怯だと思う。

「ネット言論の自由」を確立することにおいて、誹謗中傷という概念を、ムーディー勝山よろしく「右から左にやり過ごす」ことは、重要な条件である。と、考えている。


訴訟をにおわせる人がいらっしゃるようですね。

*

私は、2005年のライブドアの市民参加型ジャーナリズムへの参加以来、インターネット上の言論について、考え続けていますが、ネット言論は、リアルな場のルールとはまったく違う常識で動いていることを忘れてはなりません。

リアルな場の既存概念を持ち出したとしても、それは不毛であり、何らかの成果を得たとしても、それがネット者たちの合意(言論としての収まりどころ)に至るような妥当性はないと、感じています。

そのような乖離を持つものは、最終的にはネット上に存在できず、SNSの中に引き篭もると予感します。



インターネットの特徴は、ネット上の言論に影響を与えています。

*

ネット言論とは…、

---------------------------------------------------
【ネット言論の特徴】

1. インターネットはログ(記録)が残ることが特徴です。
ならば、削除は実効上意味をなさない。

2. 誹謗中傷かどうかは、事実との参照が不可欠であり、事実の検証が検証者の主観性によって、影響されるならば、誹謗中傷の立証は不可能(検証者の主観の反映)なはずです。(これはリアル世界でも同様なはず…。)

3. インターネットは、プルのメディアなので、有害情報・毀損情報に接したことは、情報受信者の責任でもある。

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私も、イザの体制・運営につき、違和感を感じています。

とはいえ、既存の概念でネット言論を指弾することは、意味がないと感じています。

そして、言論対立の内容の是非はともかくも、言論は言論で…。というのが、最低限のルールであり、言論の自由の最後の砦だと感じています。

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【ネット言論で説得力を持つためには】

1. ステークホルダー(個の利害)を越えること。

2. ルサンチマン(怨念)を越えること。

3. 反論のための反論をしないこと。(解決策・アウフヘーベンをめざす)

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インターネットの長所はそこにこそある…。

巷間、インターネットの欠点としてあげられる、炎上や誹謗中傷の等は、インターネットにおける言論をセンセーショナルに取り上げているだけで、言論の収束点を見ていない。

さまざまな炎上案件を一ヵ月後ぐらいに見ていれば、合理的な結論を見出しているはずです。

*

もし、そうでないものがあるとすれば、イデオロギー・ビジネス・ステークホルダー・洗脳により身動きのとれなくなっている発言者たちが存在する場合です。

そのような強制力だけが、人間の精神の悟性を狂わせ、対話を拒否した言論発信の継続を可能にするのです。

ネット言論といえども、極めて自然な人間の生理的な精神の営みを反映したものでしかないのです。



メタ議論になってしまいましたが、ここに集う方々がインターネットにあまり親しんでいないと感じられたので、言説することにしました。

私の言論は、メタ議論であり、当該の摩擦議論の内容につき、一切関連しないことをご理解いただければ幸いです。


「ネット言論の自由」の最大の敵が司法であることは、2ちゃんねるの西村博之氏が多数の訴訟案件を抱えていることでも明らかである。

日本の司法制度は明治期にヨーロッパから移植したものであり、それが日本の精神風土に根付いたものでないことは、自明である。



さて、コメント者の方で、「分からない」と仰る方がいる。
そして、その方は、「メタ議論」という単語の意味が分からぬと不満を述べるとともに、このコメント欄でのやりとりに価値を感じるかどうかを尋ねてきた。
そこで、私は次のようにコメントした。

否、しようと思ったが、やめることにした。

私のコメントが、反論のための反論として、他者に受け取られるならば、本意ではない。
ならば、この場所の閲覧者の方々に読んでもらい、理解を深めてもらいたい。


言及ありがとうございます。

Q1、文中のメタ議論とは何ですか。?

グーグルなどで、「メタ議論」と検索をかけてみる。それがネットでの常識であり、それをしないで、質問をするのは、「教えて君」として、批判されます。

勿論、検索をかけた上で、質問をすることも、あるえるわけですが、残念ながら、私には、ネット上での「メタ議論」以上の説明はできません。


Q2、貴方はこのネットでの議論に関して、リアル議論(顔をつきあわせた口頭議論と察しますが)に比べての、信憑性とか発展性というものについて、肯定的ですか?それとも、懐疑的ですか?。

先のエントリーで書いたように、肯定的or懐疑的という視点について、私は興味を持ちません。
ならば、どうするということ。
過去や現在起きていることに拘泥するよりも、過去に縛られぬ明日を作っていくことを目指せ。というもの。

ネットにはログが残るということはそういうことです。

否定しても、謝罪しても、過去を検証しても、新しい明日を模索することとは関係ない。過去のルサンチマン(怨念)を解消するだけで、非生産的なのです。

したがって、ここの議論に限らず、ネット議論で価値が創出されるためには、いくつかの条件があり、それは参加者たちの努力によって生まれる。と、確信しています。

私の言論を「分からない」と仰る方がいる。その批判をかわすために、すでに1000件以上のエントリーを上げてきた。

そのエントリーたちに対し、「示唆的だった」と言う人がいる一方で、「分からない」という感想が減ることもない。私には、「分からない」という感想の中に、古めかしい価値観を捨てたくない個がいるのではないかと考えています。


追記:
今回の私のコメントは、ブログのコメント欄にインテグレート機能がないため、古森氏が不愉快な場面に遭遇しているのではないか。という危惧です。
古森氏がコメント欄において読者との対話を継続するための阻害因子を特定のコメント者がつくっていくならば、それは、コメント欄のすべてのユーザーにとって不利益であり、そのようなものの放逐をコメント者の同意において模索すべきではないか。というのが主旨でございます。


既存の議論のアルゴリズムの上に載っていたのでは、何も解決しない。

ということで、このブログにエントリーをあげている。

もし、このブログを読んでみて、私の言論が「分からない」と、感じたら、旧タイプの価値観に捉われているのではないかと、自分の価値観をふりかえってみることも、有効かもしれません。

私の言論を「分からない」と断ずる前に、私の言論と自らの言論の乖離を確認する。

そのことが重要であり、私が「旧タイプの価値観」と形容したものが、実は、旧タイプではなく、普遍的なタイプなのかもしれません。

私は、その結論とは立場を異にしていますが、その結論を全否定する権利はありません。ですから、やるべきことは、「分からない」と不平を言う人達と継続した対話を続ける。
ということ。

私は、古森さんのブログにコメントすることをやめましたが、対話を諦めたわけではない。
それが、ここで私が言説しつづける理由でもあるのです。

07sponta

まとめ:

ブログのコメント欄の不備は、フラットなアルゴリズムであること。

「自由なネット言論」を妨げるもうひとつは、嵐である。
嵐は、言論の希釈を許さないアルゴリズムを併設することによって、容易に解決できる。

嵐など、句会の合評会であれば、天地人の人であり、同巧多数の一言で済んでしまうのだ。
posted by スポンタ at 08:53| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月08日

アルゴの時代33:すべてのコミュニケーションを活性化する、クラスター技術。

ギートステイトなるサイトがあることを、週刊アスキーで知り、少し覗いてみたが、彼らがイメージしている2045年の単純さには、目を覆うばかりだ。

彼らが描く2045年の日本には、フラットなシステムとヒエラルキルなシステムしか存在しないかのようだ。

2045年の世界では、カネの動きも複雑である。市場は匿名性を失い、現金取引は例外的なものとなり、商品の購入はしばしば個人情報の提供と一体になっている。消費と選挙の区別は溶解し、特定の商品の購入はそのまま政治的な立場の表明と見なされるが、グローバルな資本のなか、どの商品がどの企業のどのような態度を支援するものなのか、判断はきわめて難しく、ほとんどの人々は携帯デバイスの助言にしたがっている。人々の資産は、もはや帰属国家の通貨で測られるのではなく、複数の通貨と無数の金融商品、それに世界中の企業が20世紀末より無秩序に発行してきた電子的擬似通貨(マイレージ・ポイント)のポートフォリオで測られ、その管理もまたコンピュータにしかできなくなっている。
(ギートステイトのサイトより)


日本人が勤勉な人ばかりなら、そのようになるかもしれぬ。だが、世の中には少なからずの愚図がいて、悪党がいて、自堕落がいる。その中でシステムはシステムとしての意味しかもたず、システムが人間の本性まで変えるような事態にはけっしてならぬ。

彼らのそもそもの欠点は、IT技術を基点に未来をみていることである。
それは、マルクスの唯物史観が描いた未来が瓦解した現代において、有効なのだろうか。
彼らが目論んでいることは、手塚治虫氏が真鍋宏氏が描いた未来と同じようなもの…。

確かに、我々は様々な視点で世の中を見てきた。

・イデオロギーで世の中を見る。
・動物行動学で世の中の現象を解釈する。
・行動心理学で集団の行動を解釈する。
・経済人類学で社会を見る。

さまざまな視点で世の中を見ることが可能であり、いま極めて主流なのは、社会学の手法で世の中を見ることが重要かもしれぬ。

また、アナロジー(類推・文脈としての比喩)として諸学問を取り入れることでもあった。

コンラート・ローレンツに限らず、原子物理学、天文学、細胞学、生物学から類推できる社会現象は多い物…。



そして思う。
戦後60年に日本の地域社会で起こった堕落の原因は、アメリカが日本に植えつけた平等(フラット)の思想である。と。

占領直後の大人たちが、平等と書かれたのを見て、「へいら」と読んだという笑い話がある。

戦前の日本には、平等という概念はなかった。あったのは、分相応という概念だった。
思えば、福澤諭吉の「学問のすすめ」で語ったのは、平等の概念ではなく、「学問をすることによって、身分を上げろ」という立身出世主義である。

現代において、平等を批判するときに、悪平等などという言葉を使う人があるが、それは間違っている。

平等などという概念は妄想であり、分相応こそが、あるべき社会の有様なのだ。

悪人は悪を持って遇せられ、善人は善を持って遇せられる。
富者には富者の悩みがあり、貧者には貧者の辛さがある。

*

江戸時代の箱根越えを語った俗諺に次のようなものがある。

籠に乗る人、担ぐ人、そのまた、ワラジをつくる人、捨てたワラジを拾う人。

江戸時代の俗諺である。
ここで庶民感情として語られるのは、「籠に乗る人になりたい」ではない。
宮使いで辛い思いをしながら、籠に乗るくらいならば、捨てられたワラジを拾う人生のほうが楽珍でいいや。
という達観である。

その思いには一切のやせがまんはない。
まさに、分相応でいいじゃないかということ。

*

そのようにして、妄想でしかない平等の概念が市井に流布したときに、どのような現象が現れたかといえば、ポピュリズムとクレーマーマーケティング…。出る杭は打たれ、出すぎた杭は打たれぬのである。

そして、そのような悪弊があるとするならば、それをいかに克服するかと考えれば、有機化学でいうところの個のクラスター(葡萄の房状)化をアナロジーとすることが重要ではないかと考える。

*

大豆ペプチドの飲料である。

アミノ酸をペプチド状態(クラスター化・葡萄の房状態)にすることにより、体内に消化吸収されやすくする。

個においても同様で、個の発言がそのままでは、世の中に影響力を行使できぬならば、クラスター化することにより、発信力を増せばいいのである。

*

私が映画学校にいたとき、今村昌平は、「徒党を組めッ!」と私たち生徒に発破をかけた。

個の力では突破できぬ壁も、徒党を組めば何とかなるということだろう。
それは、ただただ書け。とか、良い作品をつくれば、必ず認められる。などという気休めではなく、極めて、具体的なアドバイスだったに違いない。

とはいえ、私が尊敬するクラスメートも寡黙なタイプであり、徒党を組むようなことはなかった。

ふと彼(小島正道君)のことが気になり、ググってみたら、「佐賀のがばいばあちゃん」の助監督をやっている。
あの頃、仲間との不毛な映画論争の中で、ただ一人有意義な議論が出来た彼。
ルイス・ブニュイエルやロベール・ブレッソン、カール・テホ・ドライヤー。そして、溝口や小津を語ったことが懐かしく思い出される…。

*

クラスター化とは、徒党であり、向こう三軒両隣である。

だが、リアル属性に縛られることはないので、個は異なるクラスターに同時に存在することもできるし、クラスターも並存する。
ならば、新撰組のような血の粛清が行なわれることもないし、ゲシュタポが陰で操るような密告組織となって、個を縛ることもない。



私は、そのようなクラスター化した個が、多様なアルゴリズムの基盤として重要な役割をしめすのではないかと考えている。

そして、そのようなクラスターのひとつとして、はてなのソーシャル・ブックマークというツールがある。

一方、単独・独立した個は、セルフブックマークしか持たぬという欠点を持っており、社会的な影響力を行使できぬばかりか、その真正性さえも疑われてしまうのである。

07sponta
posted by スポンタ at 07:38| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月07日

アルゴの時代32:次世代グーグルのタイムスケジュール。

グーグルの欠点は、クローズド・単一アルゴリズム・ロボット検索エンジンであると指摘している。

ならば、グーグルが欠点を克服できぬ限り、オープン・複数アルゴリズムヒューマン検索エンジンに凌駕されるときがやってくること。と、私は予言している。



MIXIでのできごと…。
そんなことは、「黄泉の国の出来事だろう」と発言するR**氏に対し、パセリ氏は、「タイムスケジュールの不備」を指摘してくださった。

MIXIがこのブログのリモートタグとして機能している。
そのことの感謝をMIXIに捧げたら、そのコミュニケーションは解消してしまったかに思える…。

私とR**氏との乖離は深く、いまだ一切の対話は望めないようだ。

だが、それはR**氏が悪いのではない。

リモートタグがリモートでなくなったのだから、そのメディアの価値はなくなる。
それだけのこと。

2ちゃんねるのように、降臨することが燃料大量投下とばかりに、盛り上るものではない。

それが2ちゃんねるとはてなの明確な違いである。

したがって、
私は、「はてな」ブックマークの自分関連ページを覗くことがあるが、コメント欄での対話はしていない。

それが暗黙のルールである。と、感じている。

※ 是非とも、heavyなはてなユーザーの方々のご感想をいただきたいものです。



そこで、遅ればせながら、私のタイムスケジュールを提出してみる。

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1980年は汎用機の時代だった。私は当時、大手広告代理店の孫受けプロダクションにいて、UNIXなどをつかったFactory AutomationやOffice Autonmationのプロモーションビデオなどを作っていた。
ビジネスショウやコミニケーション東京…。展示会場はまだ晴海だったっけ。

だが、1990年代に入ると、DOS-Vなどという言葉も一般的になる。マックはハンバーガーだけではなくなる。
それがパソコンの時代だろう。
ウインドウズ95が発売されるや、マックとDOS-Vの形勢は決定的。パソコンの時代は決定的なものとなる。
その、パソコンの時代がどれほどの期間あったかといえば、5年もない。

パソコンの時代は、IBMやコンパックの時代だった。ソーテックなんてのもありました。だが、彼らもすぐに色あせた…。

パソコンの次に訪れたのは、OSの時代。マイクロソフトが企業収益でダントツになり、ビル・ゲイツが億万長者となった頃だ。
しかし、それと平行して、ヤフーに象徴されるポータルサイトの時代があり、それは、グーグルの時代へと移行した。

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これらのムーブメントの盛衰はだいたい5年ほどではないかというのが、私の認識である。

ならば、現在のグーグル一人勝ち時代も、5年ほどで、変わってくるのではないかと考えている。

私がオウム真理教M氏関連で一定の距離を保つことを矜持としている「はてな」は、極めて単純な形のヒューマン検索エンジンである。

価格ドットコムも、みんなの就職活動日記も、ヒューマン検索エンジンである。

だが、オーマイニュース日本版、JANJAN、ライブドアPJなどは、ヒューマン検索エンジンとはいえない。
それらの市民参加型ジャーナリズムに集まった人達は、市井の人達とはいえぬバイアスを纏っている。
営利的なバイラル性は低いのかもしれぬが、思想的なバイラル性はきわめて高い…。

*

M氏関連言論騒動に興味を持ち続けることは、パソコン通信時代にオウム真理教の嵐を見過ごすことで、サリン事件に連なる一連の事件を阻止できなかった自分に対する反省を現出することである。

M氏関連事案に注視しつづける限り、カルト宗教がネットで蔓延することのリトマス試験紙となる。

これは、竹島で揉めている限り、韓国が壱岐・対馬の領有権を主張しないことと等価である。

何故、いま沖縄が日本の固有の領土なのかといえば、当時、中国と領有権を争っていたのは沖縄ではなく、台湾だった。そして、当時、ロシアが占領しようとしていたのは、北海道である。

結果、北方諸島はロシアに渡るも北海道は死守され、台湾を日本の領土にすることはできなかったが、沖縄諸島は日本の領土となった…。

ならば、竹島・先閣諸島・北方領土でもめ続ければ、それ以上の侵食はない。それは、対外的にも、国内的にも…。である。

同様に考えれば、M氏関連騒動はそのままでいいし、その擁護者も擁護者のままでかまわない。

M氏関連事案は、リトマス試験紙として重要な役割を果している。

それが私の解釈であり、明確な立場である。

*

脱線した。論を戻そう。

*

「はてな」にアルゴリズムシステムを加えることで、オープンアルゴリズムヒューマン検索エンジンが誕生することは、突飛なことではない。

また、グーグルのインフラを活用して、アルゴリズムを構成することも可能なはずだから、それらとニュースサイトなどを組み合わせれば、さまざまなアルゴリズムを構築することができるに違いない。

そして、そのようなアルゴリズムが構築されていくによってはじめて、フラットなアルゴリズムの弊害を削ぐことができるのだ。

もちろん、そのようなアルゴリズムを現在のはてなユーザーが受け入れるとは限らないし、現在のユーザーのそのようなバイアスがはてなの限界をつくってもいる…。



だが愚かなことに、世の中の殆どの論調は、フラットなアルゴリズムの弊害どころか、世の中がフラットなアルゴリズムであることすら、認識していないようだ。


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posted by スポンタ at 06:48| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月05日

アルゴの時代30:匿名批判。この払拭しなければならぬ課題。

日本の代議制民主主義が、選挙という匿名な個を基盤にして行なわれているにも関わらず、既存マスコミを中心とした「匿名批判」は強い。

郵政民営化において、小泉首相が国政選挙に訴えなければならなかったのは、「国会での記名投票では、代議制の代議員が、選挙民の意見を反映することができぬ」という国会にシステム的な欠点があったからだ。

*

実名が言論の場にどのような変化を与えるかといえば、その影響は覚束ない。

「発言者のトレーサビリティーが確保されれば、粗暴な言論発信はなくなる」との論調がもっぱらだが、時事通信の湯川氏は、国民総番号制が導入されている韓国において、ネット言論で傷つき自殺するアイドルが数人でていることを考えれば、トレーサビリティー・実名が確保されることが、粗暴な言論を抑止することにはならぬ。と、指摘する。



さて、このブログの読者に、実名と思しきコメント者がいらっしゃる。

氏は、「…を経験したことがありますか?」と、コメント欄に書き込まれた。
氏の意図を想像するに、「○○を経験したことがなければ、○○を語る資格はない」というものだろう。

私は、そのような粗暴な論理につきあうつもりはまったくない。
それは、私の演劇修行・演出修行の場において、そのような命題は嫌という程、つきあってきたからだ。

「表現力を豊かにするには、恋をしなさい」などと、誠しやかに語られる。
だが、その論理を展開していけば、「殺人犯を演じるには、殺人を犯すしかない」に行き着く。このような論理がまかり通れば、「殺人を犯したことがない裁判官に、殺人者を裁く資格はない」となる…。


あるべきは、自分の限られた体験から、体験できぬこと・体験していないことをいかに想像・イメージできるかである。





「多様なアルゴリズムが並存」できた場合に、それを活性化させるための課題は何かといえば、それはこう。


「言論主体」と「言論そのもの」を切り離せ。



である。

*

私は、スポンタというHNを使っているが、それは、言論主体と言論そのものを結びつけるために使っているのではない。スポンタという固有の文脈を感じることが読者の理解に資すると期待しているからだ。

それが達成されているかどうかはともかくとして、ネット・リアルに関わらず、わたしたちは、「言論主体の不在に違和感を感じる」という既成概念を乗り越えなければならない。

*

誰が言おうと、正しいことは正しいし、間違っていることは間違っている。

誰(情報発信者)とは、ステークホルダー(利害)の象徴だし、ルサンチマン(怨念)の源泉である。

ならば、まず、「誰が発信したか」に拘っていても仕方が無いということ…。

*

年金記録紛失事案に関連して、当時の厚生大臣が菅氏か小泉氏かという議論があった。
自民党か民主党の政争としては、意味もあるのだろうが、問題解決には、まったく関係のない話。議論の無駄である。

社会保険庁・年金問題の根っこは、金融と福祉のの混同である。

社会保険庁が税務署のような金融関連の機関であれば、あのような杜撰な事務処理が行なわれるはずはなかった。
そもそも年金が、金融と福祉の折衷商品であることに、気がつかなければならなかったのだ。
見方を変えれば、我々国民は、税金という年金を少なからず払っている。
そして、生活保護という年金を受け取る人達もいる。

そろそろ年金支給がはじまるというご年配のご婦人は、85歳まで生きなければ、年金支給額が振込み額を越えぬと知り、愕然とされている。
加入が義務ならば税金と同じだし、金融商品であれば魅力的な商品でなければ成立しない。

年金制度が矛盾に満ちたことが分かった以上、根本的な対策を行なうべきだろう…。



昔、スネークマンショーというラジオ番組があったのを憶えているだろうか。

その逆の中で、今でも憶えているものがある。
うろ覚えなので、採録ではなく、再現してみる。オリジナルがどっかにあれば、教えて欲しい。

*

どうやら、ロックファン同士の対話というか、自説の張り合いのようだ…。出演者は、小林克也氏・伊武雅刀氏と記憶する。

A:「私は、数万枚のレコードを聴いてきたんですけど、その結論は、いいロックもある、だけど、だめなロックもあるってことなんですよ」。

B:「ボクは、ロンドンのライブハウスに何百回も通って、ほとんどのロックスターを無名時代から知っている。だけど、その結論は、いいロックもある。だけど、だめなロックもある」

C:「つーかさ。俺は、小学校時代からステージにあがって、いろんなロッカーとセッションをしてきたけど、その結論は、いいロックもある。だけど、だめなロックもあるってことなんだッ」

D:「分かってないなぁ…。ボクは、ラジオでロックの専門番組を担当して、何万曲も紹介してきたけど、その結論は、いいロックもある。だけど、だめなロックもあるってこと」

E:「おいおい、素人たちが何をいっているんだ。俺は、ビッグなロックスターだ。その栄光の歴史でえた結論は、いいロックもある。だけど、だめなロックもあるってことだッ」

....と、議論はヒートアップして続いていく。



30年前のスネークマンショーの企画者の桑原茂一氏が伝えたかったことは、きっと私と同じこと。
つまり、

主体の経験は、言論の真実性に関連しない。


である。

ならば、実名をいたずらに操ることは、憚られるべきである。

読売新聞の渡辺恒雄氏とのコンタクトがないので、あえて言うが、もし、オーナー会議で彼が、
「俺はナベツネだ」と、言ったら、議論は終わってしまう。

*

そういえば、ブログのコメント欄、2ちゃんねるでは、自分が大学教授であることを明かしながら発言する人が、バッシングを受けていた。
市井・巷間の議論に、大学教授という肩書きはまったく意味をなさない。
実名を明かそうが、隠そうが、当該教授の言論の浅薄さは明確であったし、当然のようにスルーされるコメントだったことを記憶している。

結果、アカデミズムがネットに背を向ける時代が訪れている。
デジタルジャーナリズム研究会などは、その例かもしれない。

*

「2006年において、デジタルワールドは、リアルワールドのオルタナティブ(相互補完物)でない」という、私の指摘は無視されたようだが、反論されることがなかったのも事実…。

*

大学教授は教員ではあっても、最先端の学者であるかどうかを必ずしも意味しないのである。

07sponta

追記・まとめ:

有効なアルゴリズムを成立させるためには、「情報発信者を情報に君臨させぬ」ことが重要である。

ならば、「匿名」という手法は、極めて有効である。

情報発信者が匿名であっても、情報ディラーが記名・実名であればいいのである。
posted by スポンタ at 06:46| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(2) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月02日

アルゴの時代27:次世代国産グーグルをつくろう。

一昨日、企画書を書いた。そのタイトルは、「次世代国産グーグル」を作ろう。というものだ。

企画の必要性を以下のように書いた。

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【企画の背景】

・ 郵政民営化のために国政選挙を行なわなければならなかったことは、日本の民意抽出システムの不備である。

・ 2ちゃんねるが事実上、市井人の言論を抽出しているが、その信頼性は低く、代替物の登場が必要とされている。

・ いまや検索エンジンは単なるツールではなく、人気や社会動向を探る重要なメディアとなっており、そのランキングがマスコミで紹介されることも多い。だが、その結果は、ポピュリズム&センセーショナリズムでしかない。これでは、成熟した社会は望めない。

・ 政府は、日の丸検索エンジンをつくろうとしているが、基本的なデザインはポータルであり、その実効性は低い。

・ 新聞・テレビなど、既存メディアの荒廃が囁かれているが、その構造を払拭するシステムが社会に存在しない。


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私が考える「次世代グーグル」は、日本型ヒューマン検索エンジンである。
ならば、いままでインターネットに誕生してきたIT技術やメディア・ツールとは大きく異なる。

2ちゃんねるがスマートなシステムをつくり、2ちゃんねる文化を形成しているように、日本型ヒューマン検索エンジンも、システムとともに、文化の醸成が必要である。

いままでは、その種のものが「草の根」的な市民活動によって形作られてきた。だが、日本型ヒューマン検索エンジンは、草の根的な使命感によって成立するようなものではないと感じている。

その成立過程についてのイメージについて、次のように書いた。


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【企画の論理】

・ グーグルの特徴はアルゴリズム(ランキングを決定するシステム)である。国産グーグルをつくるならば、「アルゴリズムをどうするか」がきわめて重要である。

・ 日本社会の部分集合であるさまざまなコミュニティーのアルゴリズム(集団の意思決定・代表決定システム)を分析することにより、それぞれの恣意性を明確にする。

・ 特に、民主主義の根幹をなす世論形成に影響を与える組織のアルゴリズムの恣意性を明確にする。

・ そして、それらを統合する母集団の意志を決定するアルゴリズムが、いかなるものであるかを模索する。

・ 暫定的な結論は、「多様な並存するアルゴリズム」が理想的な社会の情報インフラとなる。

・その理想的な情報インフラこそが、「日本型ヒューマン検索エンジン(次世代グーグル)」である。


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次世代グーグル・日本型ヒューマン検索エンジンができあがったら、日本社会がどうなるかについて、
3点を指摘した。


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【社会的な効果】

・ インターネットによる情報の混乱状態を鎮める。

・ 永田町の論理や霞ヶ関の論理、財界の論理に、過度に影響されない民主主義を実現する。

・ 民意が反映される世の中をつくることにより、抑制的な消費者層(縄文的消費者)を現出させる。



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具体的にすべきことは、以下であると思っている。



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【日本型ヒューマン検索エンジンの実行策】

1. プロトタイプの作成・ベータ版のリリース。

2. ベータ版の協力者(ヒューマン検索者)の募集。

3. プロトタイプのシェイクダウン(試行調整)。

4. プロトタイプ普及のためのプロモーション活動。




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この企画書を見れば、スポンタが何故、アルゴリズムを語ってきたかが、理解できると思っている。

半年前の私は、コミュケーション論・コミュニティー論を書いていた。

その概要は、「差分のない個の間のコミュニケーションに価値はない」というものと、「コミュニティー異分子のコミュニケーションは、コミュニティーの崩壊を目論むものであり、不毛である」というものだった。

だが、どちらも、コミュニティーにおける、個の価値を過大評価していると反省せざるをえない。

個(構成員)がコミュニティー全体の意思決定・代表決定に影響を与える過程を明確にし、そのバイアス(関数)を勘案しなければ、乱暴な議論となる…。

今後論じていくと思うが、大豆ペプチド同様に、「個のクラスター化」が必要になる。

*

分かりやすいリファレンスなので、引用してしまうが、公文俊平氏のようなスマートな市民がインターネットを引っ張っていくような時代はこない。

さまざまなアルゴリズムたちをインテグレート(統合)するスマートな「統合アルゴリズム」がインターネットを引っ張っていく。

もちろん、過渡期的には、アルゴリズムのスマートさは足りないから、現在のSEO対策のような言論誘導・煽動も行なわれるだろう。だが、それを克服していくことが、スマートな統合アルゴリズムが次第に成立していくに違いない。



かつて…。

検索エンジンにひっかかるための最大のやり方は、ページの内容に関わらず、タグに広末涼子と記入することだった。
彼女は、大学に入学し、退学し、子を産んだ…。

その時の流れの中で、検索エンジンのアルゴリズムも進化を遂げてきた…。

最近では、アイドル関連のブログを書いている人が文句を言っている。確信的にアイドルのタグを書き、アイドルの内容を書いているのに、グーグルに検索されぬものがあると…。

*

すべては、「コンテンツを完全パッケージとみる」アメリカの数学者たちの思索の成果物の欠点である。

奨学金を得るような明晰な頭脳なら、伝言ゲームでもコンテンツの劣化は起こさないのかもしれぬ。

そして、自分達とは違う市井人たちの間で発生する、伝言ゲームでのコンテンツの劣化を、人間頭脳の機能不全と断じているのかもしれぬ。

だが、私はそうは思わない。

伝言ゲームによるコンテンツの変容は、要約・焦点化・対照という、個がコンテンツに関わる最大の理由であり、もしそれがないのだとしたら、個などネットに必要ない。


ネットにおいて、個が閲覧者でありつづける時代が終わる…。

それが、日本型ヒューマン検索エンジンが登場する必然。

そう、思っている。


07sponta
posted by スポンタ at 07:37| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年06月01日

アルゴの時代25:社会悪としてのグーグル。〜グーグルをとりまく社会のアルゴリズム。

ある企画書に、次のように書いた。


いまや検索エンジンは単なるツールではなく、人気や社会動向を探る重要なメディアとなっており、そのランキングがマスコミで紹介されることも多い。

だが、その結果は、ポピュリズム&センセーショナリズムでしかない。
これでは成熟した社会は望めない。


それが、社会悪としてのグーグルである。

「検索ちゃん」という番組がある。

*

文部大臣賞を貰った爆笑問題は、デマゴーグすることで、注目と笑いを得ようとしているようだ。

その存在の便利さを左翼的メディア者たちが利用して、「憲法第九条を世界遺産に」などという書籍をなし、そのコミュニケーションから、オウムでの一切を自己批判しないことで教団の解散を妨げている中沢新一氏のマスコミにおける発言権の維持に一役かっている。

私は、お笑い芸人には、ポピュリズムとセンセーショナリズムが必要不可欠なものだから、太田氏を批判はしない。
彼がアバンギャルド性をもっていないことは、彼の芸術の趣味が如実に語っている。
黒澤明・向田邦子…。
私は、黒澤や向田の魅力を語る太田氏を、微笑ましく見る。

*

「検索ちゃん」ばかりではない。

その他のテレビ局でも、新聞でも、雑誌でも、CD売上げランキング同様に、検索ワードランキングが発表され、それが社会のムーブメントを描出しているかの表現で提示される。

だが、ほんとうにそうなのだろうか。



・最近では、無名に近い落語家の名前がランクインしたという。急上昇の理由は、彼が物故となったからである。

・また、人気タレントの恋愛が発覚し、その相手である知名度の低い女優氏の名前がランクインした。

このような現象が何故起こるかと、私なりに分析すれば、テレビ・新聞・雑誌が断片的に情報を伝えることで、多くの市井人が「ちゅうぶらりん」な気持ちになり、その思いを検索エンジンにぶつけたということである。

たとえば、CMまたぎのまま、チャンネルを変えてしまい、チャンネルを戻したら、すでに次のテーマに移っていることがある。私は、そのようなとき、ネットで検索をかける…。

ドラマノートというサイトがある。
これも、連続ドラマを見逃してしまったとき、重宝する。



さきの日本新聞労働組合連合のパネルディスカッションで、時事通信社の湯川氏は、「テレビが視聴者のニーズに答えていない」との発言をされていた。

通信社として、マスメディアのシステムの一員でもある彼の勇気を私は讃えたい。

いまだ、日本のテレビたちは、視聴者たちがYouTubeにアップロードする自局の番組を削除することにやっきである。そして、著作権違反を指摘し、全面対決の雰囲気である。
だが、池田信夫先生によれば、現行の著作権法を履行すれば、検索エンジンもホスティング・サービスも違法になるとのこと…。

湯川氏によれば、YouTubeに番組がアップロードされることは、放送局が視聴者のために、本来行なわなければならないサービスを代行してくれていることだ。という。

たとえば、極楽とんぼの山本氏が淫行で警察の厄介になり、相方が朝のワイドショーで号泣しながらコメントした映像などは、朝の忙しい時間に見る人が限られていたことを考えれば、再放送があってしかるべきである。
だが、出演者・業界関係者にとって、恥に類する出来事であり、それを再放送することはできぬという判断だろう。

同様に、TBSの報道番組の特集で、オープニングの映像に、安倍首相の選挙ポスターが何の脈絡もなく提示されて、問題になるという事件がおきた。この映像を私はYouTubeで見たが、自局が社会的に糾弾されている映像を再放送することなど、今後もありえないだろう。

そのようなテレビ視聴者の不備をYouTubeが補っているに過ぎぬものを、「社会的な動向」や「社会的注目度」として取り上げることに、何らの妥当性もない。




たしかにグーグルは便利なツールである。

だが、それをめぐる社会のアルゴリズムがおかしなことになっている。

グーグルを変えることが不可能ならば、社会の側がアルゴリズムを変えればいいのである。

とはいえ、ネット者たちは、人気検索ワードが持つ、ポピュリズムとセンセーショナリズムを自覚している。
問題は、テレビ視聴者など、ネットを知らぬ人たちの誤解である。

テレビが、そのような誤解を広げていくならば、グーグル以上に社会悪であることは言うまでもない。
posted by スポンタ at 08:06| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月30日

アルゴの時代24:グーグルを使ったインターフェイスを目指せ。

インターネットが只見のメディアだと思っている時代は、すでに終わっている。

そのことを理解しないと、インターネットの今後は予測できない。

そして、インターネットで対話が成立していない。などと、嘆いてはならぬ。極めて屈折した形で、対話は成立している。




NHK・クローズアップ現代によれば、電子マネーは便利なメディアだが、それを使うと履歴が残り、消費者動向がマーケッティングに利用されるのだという。キャスター嬢は、それが不気味な世の中だという。
将来、店員から、自分の購買履歴を指摘されるのが、恐ろしい感じがする。…と。

だが、そうなのだろうか…。

私は、日本新聞労働組合連合のイベントで、幻想の市民参加型ジャーナリズムを「ネットは個を抹殺する」と改題したプリントを5冊用意した。そのうち、3部が売れたのだが、誰が購入したかは分からない。
それをして、不気味などという必要があるのだろうか。私は、購入してくれたことに感謝するとともに、彼らの個人情報を知りたいと思う自分を傲慢だと感じる。

※ 会場で、購入していただいた方、ほんとうにありがとうございました。プリント機の調子が悪く、ローラーの汚れがでている部分か数箇所ありますが、読むことに支障はないとの判断でそのままにしました。ご容赦ください。


*

電子マネーの利用者は、マーケットのアンケートに無料で協力している。
電子マネーの利用規約は知らぬが、個人情報を利用することが無限に許されているのだとしたら大問題だろう。
集団情報であればいいという解釈も、妥当性を持たぬだろう。
個人情報でなくても、地域という集団情報の特性がデーター的に明示されることは、「差別社会」の始まりともいえるからだ。
たとえば、インスタント食品の消費量が高い地域があるとしたら、それは、何らかの階層と関連付けてデータ処理されるに違いない。

*

私は、そのような構造を批判しているのではない。
使用者は、電子マネーの利便性の対価として、購買データーを提供していることを認識しなければならない。
それをこそ、指摘したい。



では、インターネットは…?

インターネットの利用者であることも、只見ではない。
それは利用者の集団がマスになればなるほど、マーケット情報の商品価値が上がる。
つまり、検索結果とはマーケティング情報と等価。
マーケッティング情報をネタに大きな商売をしているのが、グーグルである。

インターネット利用者がクリックすると、ページビューに影響し、そのページの重要度判定の要素となる。
ページ作成者はリンクを巡らすことで、ページ相互のヒエラルキルを提示する。

そのような作業が無償でグーグルのために行なわれているともいえるのである。

勿論、利便性という対価を閲覧者・ページ制作者は得ている。だが、それが妥当な報酬かどうかは個の判断によるだろう。


ラルフ・ネーダー氏は、「情報は民主主義の通貨である」といったが、カード時代になり、通貨が情報になっている。

その情報は、金額というコンテンツに購買履歴というメタタグがついてやり取りをされている。

その通貨コンテンツたちが循環する世界も、ひとつのアルゴリズムといえる。





それだけではない。

最近、私がシーサーブログに移動した理由は、その自由度を評価したものである。

プリセットなアクセス解析は次のようなものである。

----------------------------------------------------------------------------

・ページ別
・時間別
・リンク元
・検索エンジン
・検索ワード
・OS
・ブラウザ

----------------------------------------------------------------------------

そして、昨日、「なかのひと」に登録した。

その分析によれば、以下のドメインから、私のブログへのアクセスがあったという。

-----------------------------------------------------------------------------

早稲田大学(3) 毎日新聞社(1) 大塚商会(2) 類ネットワーク(2) ライブドア(1) 東京農工大学(1) 協同広告(1) 新潟ドメイン(1) 九州大学(1)

-----------------------------------------------------------------------------

さて、このデータを公開していいのか、それとも、個人が秘匿すべきなのか。
極めて、判断に迷う。
とはいえ、そういうことも分かる時代なのだということは、ネット者が知っておくべきとのことで、今回は公開することにした。

勿論、東京農工大学からアクセスがあったとしても、生協の白石さんからのアクセスではないし、協同広告からのアクセスでも、時事通信の湯川さんが出向いていて、私のブログにアクセスしたのかもしれないのである…。

因みに、私は我家からアクセスしているが、我家が検索結果にあるのではない。
ドメインを突き詰めて聞けば、それも結果に反映できるのだろうが、それをしないという倫理が働いたのだろう。



真正性・確度は分からぬが、ページビュー(ページ閲覧)数とユニークユーザー(訪問者)数しか知ることができなかった時代とは、大違いである。

ページ別分析では、過去記事で興味を持たれた物が分かる。
時間別では、どういう人たちが見ているかが、予想できる。12時にページビューが上がれば、会社員が会社で閲覧していることになるだろう。15時以降に閲覧している人たちが多ければ、比較的自由な職場かもしれない。
23時以降に見る人は、プライベートで見たい人。

リンク元分析は、リンクが貼られたページが記載されている。

その多くは各種検索サイトのページだったりするが、中には個人サイトのリンクもある。
そして、昨日は、MIXI上に、リンクを張っている方がいらっしゃった。

MIXI上の日記には、「分からない」との苦言と、タイムテーブルがないという指摘。
私は、その日記に書き込んだのだが、すると、ご当人から、次のような返答があった。

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「情報のインターフェースをどうするかといった議論は今年末から来年にかけて様々な形で表出するのでしょうが、そのゲームにメディアの中のひとが参加するのかは見物だと思っています。」(Pさんのコメント)
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す、するどい…。

私はかねてから、「メディアの時代が終わり、P2Pの時代がくる」と、提言し続けてきたが、それは、つまるところ、「言論メディアのインターフェイス化に過ぎぬ」。

私は、「個の発言はユング的な集合的無意識の言語化である」とも言ってきたが、「発言とは、コミュニティーの外部とのインターフェイスとして、自らを位置づけることである」。



そして、その気づきは、「グーグルはインターフェイスに過ぎぬ」という分析に直結する。

その事実は、グーグルの膨大なサーバー群にも関わらず、グーグルが評価されるのは、インターフェイスに過ぎぬ。という事実も見せてくれる。

ならば、私が推論している「日本型ヒューマン検索エンジン」は、グーグルの膨大なサーバー群に対抗する必要はないのである。

「日本型ヒューマン検索エンジン」は、グーグルの検索結果をリファレンスすればいい。グーグルの精神は、それを拒むことは許されない。



先のエントリーで、「日本型ヒューマン検索エンジン」のための重要なリファレンスはすでに、ネット上に誕生していると、指摘している。それらの長所をいかし、それを統合することで、新しいツールは生まれる。

MIXI上のP氏は、「インターフェイスに関する議論は、年末頃には始まる」と、推測されている。
私も同感である。

そして、メディアではなく、インターフェイスを整えるに過ぎぬ作業だと悟ってしまえば、3年〜5年で、日本型ヒューマン検索エンジンが登場すると確信する。



グーグルインタフェイス論で、この項は終わりにしよう。

積み残しは、以下。

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【日本型ヒューマン検索エンジンの重要なリファレンスたち】

・ソシアルブックマーク
・リモートタグ
・セルフブックマーク
・オールアバウト
・ウィキペディア
・ニューシング
・アレクサ
・なかのひと
-------------------------------------------------------------------------------------------

そして、今後語っていくのは、

・「対話を継続するために何が必要か(クラスター論)」
・「屈折した形とはいえ、すでに成立しているネット上の対話」。

私がこれから何を語り、何を指摘するかは、大概のネット者ではあれば、この項目を見ただけで理解するだろう。
ま、私が発言する前に、ブログなどで語ってくれれば、私がキーボードを打つ手間も省けるし、その言論をもとに、対話が始まる…。

そのようなことを期待して、予告編的なものごとを書いてみたりする。

07sponta
posted by スポンタ at 08:29| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月27日

アルゴリズムの時代21:渡辺恒雄氏に会いたい…。「敵はグーグルにあり」。

2007.5.25に、日本新聞労働組合連合のシンポジウムにパネラーとして参加した。

出席者は、歌川令三先生(毎日新聞OB)、湯川鶴章氏(時事通信社)、森健氏(フリージャーナリスト)、そして、私・スポンタ中村である。

このメンバーは、歌川先生が東京財団で行なった「それから研究会」の構成員たちである。
メンバーには、他に佐々木俊尚氏がいるが、今回は不参加となっている。

この研究の成果は、7月に出版される予定で動いている。


さて、今回のパネルディスカッションのために、新聞・ジャーナリズムを考える過程でさまざまな「気づき」があった。

その最大なものが、アルゴリズムである。

アルゴリズムを簡単にいえば、意思決定・代表選出の仕組みである。

何故、アルゴリズムに注目するかといえば、アルゴリズムはネットの覇者・グーグルの特徴だからである。



【三段論法】

インターネットに対抗する最善の道は、インターネットの覇者に対抗することである。

ならば、新聞・新聞人は、グーグルを最大の敵として、対策を立てるべきである。

敵を知り、己を知れば百戦百勝は、孫子の兵法である。

グーグルの欠点は、2つある。

ならば、その2つの弱点を、新聞・新聞人が克服すればいい。

ただし、その2つの弱点は、新聞・新聞人も無縁ではない。そこが難しいところである。


さらに言う。



グーグルの欠点は、「非公開単一アルゴリズム」「情報の非加工性」である。

新聞・新聞人のグーグルに対する優位点は、「情報をサマライズ・フォーカス・対照すること」である。


ならば、グーグルを追いかけるのではなく、グーグルと戦うべきなのだ。

勝算は少なからずある…。



上記が、私がパネルディスカッションのために、1カ月かけてブログで論考してきたことの結論である。

論考の中で、アルゴリズムと出会い、最後にメディアジャムを知った。
だが、そのようなものは単なる分析にすぎぬ。

シンポジウムの参加者たちである新聞人が、グーグルに対抗する。

それこそ、問題を孕みつつすすんでいるロボット検索の時代を終焉させることになるのだ。


たしかに人間が情報を扱うことにも弊害が予想される。

しかし、隠蔽された問題よりも、顕在化された問題の方がまし。
…誤読と指摘される問題は、実は誤読されていないのと、同じ論理である。


*

昨夜も、「アイロボット」というロボットたちが人間に反乱するSF映画がオンエアされていた。

ロボットの群れをグーグル。
それらに果敢に立ち向かうヒーローのウィル・スミスを新聞人とイメージすることもできる…。



さて、インターネットは、Yahooに象徴されるポータルサイトの時代から、Googleに代表される検索エンジンの時代に移ったといえよう。
その一方で、MIXIというコミュニティーサイトがある。

だが、それらにメディアがあるのかといえば、極めて疑わしい。ほとんどはリンクやエンベット(引用)である。

ならば、インターネットを代表するビジネスモデルたちも、ネットを使った情報ハブに過ぎぬと、看破することができる。

ハブは所詮、ハブに過ぎぬ。

オランダにはスキポール空港というハブ空港があるが、そこは通過点に過ぎぬ。スキポール空港が旅客を集めようとも、彼らの目的地が、パリであり、ロンドンであり、ローマことに変わりはない。

*

メディアとは、媒体であり、ある意味、料理を盛るお皿に形容できる。

情報ハブとは、料理が皿の上に盛られた状態でやりとりをされる場所だろう。

レストランのように、ウェイターが料理を運んでくるか。

ビュッフェスタイルのように、コーナーに取りに行くか。

中華料理の円卓の回転台(レジースーザン)のように、ぐるぐるまわすか。

回転寿司のように、ぐるぐるやってくるか。

*

いま、インターネットは、量の時代である。と指摘し続けている。

それを上記で形容するならば、

お客の満足度に一番直結する料理の味を一切勘案せず、

レストランスタイルか、回転寿司スタイルか等というシステムばかり気にしている…。

寿司が廻っていることで喜ぶのは、寿司の味を吟味できぬ、こどもだけである。

そんな、料理人の腕を勘案しない。異常な状況…。

それが、インターネットが量の時代であるということである。

*

システムよりもコンテンツ…。

それがこれからのインターネットに求められる時代になっていく。

そして、コンテンツの特質にしたがって、システムが設計される時代になる。

いまのインターネットは、システムの設計に牛耳られてコンテンツの品質が無視されている状況なのである。

*

私は、巷間アルファブロガーと言われる人たちの殆どにコメントを挑んできた。

だが、一切の対話は成立していない。

その状況をして、湯川氏は、「スポンタさんは、悪役ブロガーだから…」と言う。

だが、ほんとうに悪役なのだろうか。

私には、システムを語るアルファブロガーたちと、コンテンツを語る私との乖離があるに過ぎぬと感じている…。



そして、システムの時代が去り、コンテンツの時代がやってきたとき、一番必要とされる人材は、システム屋という理系人間ではなく、コンテンツ屋という文科系人間に違いない。


人類の歴史上、数学は数字しか扱うことが出来なかった。

だが、現代のハイテクノロジーは、数学を、人類最高最大の記号である言語を扱えるようにした。

そんな時代に求められる人材の質というものも変わってくる。

必要とされるのは、理系的精妙さを持った文系人間である。


そして、そのような人員が、いま、どこに多量に存在するかといえば、それは、新聞業界以外ない。

「情報の料理人たる技能習得者が新聞人たち」であることは、誰も依存はないだろう。



さて、基調講演に先立って挨拶をされた主催者の方は、読売新聞の渡辺恒雄氏が、「新聞がネットを従属・吸収させる」との意志を新人研修の会合で挨拶されたというエピソードを紹介された。

紹介された方は、新聞経営陣の不理解と傲慢を印象付けようとしたのかもしれぬ。

だが、読売新聞のトップであるナベツネ氏の意志に、私は大賛成である。

そして、大いに宣言したい。

もし、今回の参加者の中で、渡辺氏とコネクションがある方がいるならば、私が考える「新聞がネットを従属・吸収させる」ための計画を披露したいと、御大に伝えて欲しい。

渡辺氏がブログを持っていれば、私は直接コメント欄で要望するが、難しいのかもしれぬ。

是非とも、私の大いなる要望が渡辺氏のお耳にはいることを祈っている。

いまこそ、新聞労働者と新聞経営陣が手に手を取り合って、ネットの欠点を凌駕する新しい情報システム(メディア・ツール)を構築しよう。

労働組合が、新聞社のヒエラルキーに並存する有効なアルゴリズムだとするならば、それが、今回のパネルディスカッションの結論である。

それは、そんなに難しいことじゃない。

何故なら、インターネットは固定のパイを争う競争ではない。

無限の地平を開拓することなのだから…。


07sponta

追記:

私は、渡辺恒雄氏のような言論者を悪いと思っていない。セリーグのオーナー会議にしても、他のオーナーが、彼の存在に気おされて自説を主張しないことが問題だと思っている。

それはオーナー会議の運営システム・アルゴリズムの欠陥であり、自説を強説することは悪くない。
彼のような確固たる個の存在が、21世紀のすべての個に求められている。

一切の利害関係を持たぬ無名・ネット者である私と、新聞界の大立者の会談・企画・プロジェクトが始まるならば、新聞の未来もまったく新しいものになると期待してやまない。


リソースは彼。戦略は私。

敵は、グーグルである。


少なくとも、敵が明確ならば、敵の弱点を流布することに価値はある…。

インターネットの時代は、個が傍観者であることを許さない。

新聞労働者諸氏のコミュニケーション力に期待するとともに、吉報を待つ。

よろしくお願いもうしあげます。
posted by スポンタ at 06:33| 東京 ☀| Comment(9) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月26日

アルゴリズムの時代20:特権的発言者が自戒するナニサマ感…。そして、シンポジウムというフラットなアルゴリズム。

昨日は、日本新聞労働組合連合のシンポジウムにパネラーとして参加した。

出席者は、歌川令三先生(毎日新聞OB)、湯川鶴章氏(時事通信社)、森健氏(フリージャーナリスト)、そして、私・スポンタ中村である。

このメンバーは、歌川先生が東京財団で行なった「それから研究会」の構成員たちである。
メンバーには、他に佐々木俊尚氏がいるが、今回は不参加となっている。

この研究の成果は、7月に出版される予定で動いている。



さて、私はいままで、一般参加で、市民参加型ジャーナリズムや、ネット、IT系のシンポジウムなどで質問してきた。

私のような知名度なものでも、会場からの質問の場面で、自己紹介をしてから質問をすると、会場がザワザワとする…。いつも、その雰囲気に自分の肉体に沸き起こる屈折した優越感を楽しんでいたものだった。

*

だが、今回は違う。

発言は複数回与えられ、参加者たちも、私の出自を予め知っている。

そのような状況で、私がまず、発言する自分をどう感じていたかといえば、一言。

「何様?」

である。

会場で私の前にいるのは、北海道から沖縄までの新聞各社から少なからぬ交通・宿泊費をかけて集まった人たちである。

そのような人たちの貴重な時間を費やすために、私の言論の価値があるのだろうか…。

この気持ちは、私の心をずっと占領し続けていた。

「ネットは新聞を殺すのか」の湯川さんを見たよ。会ったよ。毎日新聞のOBの歌川さんに会ったよ。「グーグル・アマゾン化する社会」を書いた森健さんの話を聞いたよ。なら、参加者たちは、疑問の余地もなく、満足して会場を後にするだろう。

だが、私の場合は、「スポンタ中村って誰?」 「知らないよ」 「ブロガー? そんなの誰でも書いてるじゃない」
で、終わりである。

そこに何も価値はない。

だが、だからこそ…。

なのだ。

*

私は、「固有名詞がないと、価値を得ない情報はゴシップである」と定義している。


ならば、言論に言論主体の属性は関係ない。

言論において重要なことは、言論の中身であり、それは、個の属性の程度によって、評価が左右されるものではない。

*

そして、「差分のない個どうしのコミュニケーションに価値はない」と指摘しつづけている。


つまり、相手が知っていることを知らせることで、相手に安心を与えることに価値はない。

相手が、非言語レベルで感じていたり、具体的な事象を知るばかりで、それを統合し、ひとつの文脈にまとめ切れていないことを、相手の思考の中で、まとめさせる。そのキッカケとなる言論を提示することをすべきだと思う。

だが、その「寸止め」的な言論提示の按配はきわめて難しいのである。



今回のシンポジウムのテーマは、「ネットは新聞に何を突きつけているか」である。

パネラーの構成を見ても、ネットの専門家はいるが、ネット者は私だけ。ならば、自分こそ、ネットが新聞人の人たちに突きつけなければならぬ。と、その点にのみ、スポンタ中村の存在理由をみつけて、会場に存在することにした。

*

シンポジウムの言論については次回以降に譲るとして、シンポジウムというアルゴリズムを考えてみよう。

まず、講演者が壇上を飾る。

これは、ブログでいえば、記事・エントリーということになるだろう。
講演中は、参加者は質問があったとしても、質問することができない。講演者がマイクを持っているということは、そういうこと。参加者が、否定意見・反論・重要度の誤認の指摘をしたくても、講演が終わるまで、その言説を強制的に聴かされることになる。

ブログだったら、読まないでもいい。斜め読みしても、反駁することはできる。無視してウインドウを切り替えることができる。だが、講演はできない。

これは、情報発信者にとって、かなりきつい状況である。

*

特権的発言者になったとき、思っていることが自由に発言できるなどと、勘違いしてはならぬ。


皇后陛下は、海外訪問前のインタビューで、「もし、できることなら、神田の古本屋さんで立ち読みをしてみたい」と仰られた。だが、本当にしたいことはもっと沢山あるに違いない。自らが経験した、結婚式にアルコールでの洗髪を強いられた皇室の伝統を、自分の嫁たちにはけっしてさせてはならぬと決意した皇后陛下である。東宮家との関係修復のために、やりたいことは沢山ある。だが、それを口に出せば、思わぬ憶測を呼ぶので、語ることができぬのである。

私は、皇后陛下が一番したいことが本屋での立ち読みなど。などという戯言は信じない。彼女が切に望むのは、家族たちの安寧・安逸である。それを言えないのは、特権的発言者の立場だからだ。

でも、皇后陛下が天皇陛下とおふたりで対話される場合は、特権的発言者ではない。
たしかに、おふたりで、神田の古本屋で立ち読みをしたいなぁ…。などと嘆きあうこともあるのかもしれぬが、真剣に対話される題材は、雅子妃殿下の健康であり、東宮家の心配に違いないと推察する。



考えてみれば、この特権的発言者という立場こそ、インターネットの洗礼を受けている最たるものなのだ。

巷間論じられる言論の多くは、「インターネットの時代に、特権的発言者はその優越性を失う。炎上はその現象例である」というもの。

だが、その論理は浅薄である。

*

ことの本質は、特権的発言者の権力が細分化される。それが、これからの時代である。
つまり、特権を与えられている項目以外のことを論じると批判・炎上する。


・ボクシングの亀田擁護論を展開した、モーグルの上村愛子氏。
・皇子継承問題に言及した、五体不満足の乙武氏

たしかに、専門家も不用意な発言をすればバッシングを浴びる。

だが、バッシングも丁寧対応しつづけるならば、対話に変わるのである。



今回のパネルディスカッションでの私も「カテゴリー限定付特権的発言者」である。
それは、新聞とネットに限定される。

では、私が何を話さなかったか。

それは、当日、午前中に日本テレビで見た「ラジカル」に出演していた国分太一氏の「オーラの泉」の江原氏評である。

(嫌いな人、興味がない人は、次の■まですすんでください。)
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曰く、
「江原さんは、ぼくの家の冷蔵庫の中身が見えるようなんです。冷蔵庫の奥の野菜が腐りそうだから、なんとかしなさい。といわれるですよ」

国分氏は、「江原氏・美輪氏を妖怪である」との前置きをしてはいたが、MCを筆頭として、それって凄いですねという感想で番組は進行していった。

私は、このエピソードを知り、「なぁんだ…」と、落胆した。そして、「オーラの泉」がけっして語らぬことを、社会悪の一つだと認識した。

たしかにかの番組は、スピリチュアリズムの普及には一定の役割を果しているが、誤解・批判されても仕方ない構造を持っている。

*

日本テレビのお盆特集「あなたの知らない世界」の新倉イワオ氏(笑点のシナリオ作家)は、霊能者には得意分野・専門分野があるのです。と、明言されていた。

私は、新倉氏の主催する「縁の会」で、藤田小乙女氏の講演に参加したこともある。また、新倉氏が推薦する霊能者の霊視も受けた。我妻は、その霊能者から、一目置かれる能力を持っている。

その影響もあって、宜保愛子に始まり、シャーリー・マクレーン、コナンドイル、シルバーバーチ、ユング、シュタイナー、チャネリング、般若心教、禅、鈴木大拙などを読んできた。

そのような思索の末に感じるのは、霊的能力は誰もが持っており、その霊的能力には霊格とでもいうようなヒエラルキーがあるということだ。

今生の問題は今生の問題でしかないが、輪廻転生の大いなる道(タオ)の中で、どのように意味づけされているかこそ、重要なのだ。

そのような視点・視座に立ったとき、冷蔵庫の中身を見るための能力が与えられている者に、価値を見出すことはできぬ…。

相手にとって重要な何かを言うことを目的に特殊な能力が与えられている。江原氏のカルマ(宿業)はそういうことだと思う。

しかし、それを冷蔵庫の中を見るために使ったとすれば、特権的能力の濫費。もしくは、限定的特権のレベルを示しているのである。

*

脱線してしまったが、「オーラの泉」につき、感情的な批判ばかりで、スピリチュアリズムの根本的な問題に言及する人がいないので、指摘することにした。

差分のある言論は、提出すべし。という、モットーにしたがったまでである。

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さて、当日のパネルディスカッションの進行は、極めて明確だった。
それは、パネラーの言論と立場が明確だったことによる。

それは、歌川先生と湯川氏のスタンスが「新聞が先細りになる」であり、

それに対して、森健氏は、「ネット上の新たなるシステムを構築すべき」というもの。

そして、私は、「グーグルの次の時代は、新聞人の時代である」と発言した。

そして、パネルディスカッションは、森健氏の、「ネットはそれほど怖がる必要はない」の言葉で締めくくられた。


私も、森健氏の意見に大賛成である。

彼の言葉は、私の思考の中で、「インターネットの不備。構築しなければならないシステム。醸成しなければならぬ文化は、数え切れぬほど存在する」というものに変質した。

とはいえ、新聞・新聞人が、恐怖する必要がないというだけのこと。

そして、グーグルの時代の次に新聞の時代がやってくるためには、いくつかの条件がある。

それについては、次回、「グーグルの次の時代は、新聞人の時代」として、エントリーをあげることにする。


07sponta
posted by スポンタ at 09:30| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月25日

アルゴリズムの時代19:対話のアルゴリズム


本日は、日本新聞労働組合連合のイベントに参加する。

いままで、「多様なアルゴリズムの並存」が必要であると説いてきた。

そして、「対話の必要性」を強調してきた。

だが、対話について定義していないことに気がついた。



私はすでに、「差分のない個のコミュニケーションに価値はない」と指摘している。




他人の中に、コピイ&ペイストが専らなインターネットの時代において、「自分の言論を見つけて喜ぶ行為は自己満足でしかない」とも…。


つまり、どちらも、情報共有が可能な時代において、価値はないことを示している。


その意味でも、グーグルが、情報を生データ(Raw Data)としてしか扱わないこと。
つまり、発信された言論に一切の加工(サマライズ・フォーカス・対照)せずに扱うグーグルの限界も見えてくる。




*

ならば、グーグルが扱えないものを新聞・新聞人が担っていけばいい。

いままで同様に、新聞・新聞人が、中立・公正・原典主義のもとに情報を扱い続けるならば、グーグルの圧倒的な優勢は衰えることはない。

だが、新聞人たちが「グーグルがやり残している作業」に気づき、その作業のエキスパートになれば、グーグルの大攻勢に一矢を報いるどころか、形成は逆転する。

「グーグルは、知っていることしか検索することはできない」が、「新聞は、知らないことを知ること」ができるのである。




対話とは、コミュニケーションの中で、自らの言論・他者の言論がサマライズ・フォーカス・対照されることである。

それをアルゴリズムとして捉えるならばつぎのようになる…。

差分のある個の間で、少なくとも数十回以上のコミュニケーションがあり、その結果、差分のある個どうしの言論がひとつに集約する。

それが対話だろう。

勿論、結論を導き出すにおいて、対話に参加していた個が離脱してもかまわない。
どちらにしても、変化することにおいて情報に価値を生むアルゴリズムである。



ネルソン・マンデラ氏の真実和解委員会の持っているアルゴリズムは、そういうことだと思う。

過去の出来事の真実性を追究するにおいて、かならずしも過去に戻る必要はない。

対話が健全に続けられるかどうかで、過去の真実性の確度というものが計られる。


かように、人間とはどうしようもなく、弱いものなのである。
posted by スポンタ at 08:30| 東京 ☔| Comment(6) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月24日

アルゴリズムの時代18:情報発信者が情報に君臨する時代は終わる。

さて、明日は、日本新聞労働組合連合のシンポジウムである。

先のエントリーで、新聞人に求められているものは、「自らの提出したものがベータ版(未完成版)であることを認めること」と、「対話を継続すること」と指摘した。

昨日、お話をさせていただいたビジネスマンの方は、「仕事を楽しむこと」「自分の仕事に誇りを持つこと」が大切だと仰っていた。

では、新聞人の矜持が何かといえば、誰もが「事実、真実を伝えること」と胸を張るに違いない。


だが、この矜持のもと、映画ダイハードでは、記者は、「事実・真実を伝える」により、主人公の刑事を窮地に陥れる。
それだけではない。身近では、がん告知の問題。未成年に情報を与えるかどうかもそう。

戦時中の大本営発表にしても、自軍の劣勢情報が伝われば士気は落ち、戦死者が増加するに違いない。
そのようにして大本営発表は社会に是認されていたに違いない。

*

何故、日本・日本軍が戦争に負けたかといえば、官僚的なアルゴリズムが専横し、並存するアルゴリズムがなかったためである。それは、現在の霞ヶ関も同様であると、池田信夫先生も述べられている。

衆愚などという言葉があるが、優秀な人たちも衆愚な状態に陥ることがあり、それは個としての愚かさではなく、集団の愚かさであることを気がつかなければならない。


つまり、個の優秀さは、集団の優秀さを保証しないのである。

ここにおいて、私は公文俊平氏の智民論と明確な距離を持つ。



古い話であるが、田原俊彦が主演していた「サラリーマンびんびん物語」の萩原流行のセリフに次のようなものがあったのを憶えている。

駄目な会社には、二つのパターンがある。
ひとつは、馬鹿が仲良しごっこをしている会社。
もうひとつは、りこうが喧嘩ばかりしている会社。


仲良くするアルゴリズムと、喧嘩するアルゴリズム。それらを並存しないコミュニティーに未来はないのである。

*

今もって、「新聞人の矜持は、事実・真実を伝えること」と言って憚らぬ人は多い。

だが、人間は神ではないのだから、密室での出来事を知る術はない。

司法の判断が事実を保証しないことは、ロス疑惑氏の一連の出来事で、社会的な暗黙の了解事項になっているはずである。

なのに、「事実や真実を伝える」ことを職業人としてのプライドとして持つことを強いられてきた人たちがいる。

私は、新聞人の辛さを思ってやまない。

そんな辛さを解放してくれるのが、インターネットなのである。




さて、昨日11時からのニュース番組をザッピングしていたら、TBSでも、CXでもネットの話題だった。

NEWS23では、グーグルの経営者に筑紫氏がインタビューしていた。
番組では、天安門事件の画像検索ができぬことをとりあげ、検索結果に中国政府の介入を許していることを指弾していた。
グーグルの経営者は、これは仕方のないことであり、これからは透明性を高めていく。と言明していた。

スタジオのコメンターは、「グーグルは、アルゴリズムなのだから、アルゴリズムを追っかけていけばいい」と、指摘する。

筑紫の代役であるアンカーマンの膳場嬢は、「アルゴリズムはよく分かりませんが…」と、前置きをしながら、コーナーを〆た。

*

私は、アンカーマンたる人間が、番組の中で「分からない」と言う言葉を使う自由があるとは思わない。

また、番組の準備・打ち合わせ段階において、グーグルの最重要単語である「アルゴリズム」について理解できぬままに本番に臨むことが、許されていないことを理解している。

もし、彼女がほんとうに理解しないで、「アルゴリズムは分からない」と言うような知性の持ち主であれば、彼女の降板は必至であり、もしほんとうに理解できないでいるならば、それを「分からない」などと明確にするのは愚かだ…。

コーナーを最初から見ていないので分からないが、アンカーマンが「分からない」と言った以上、番組の中でアルゴリズムの詳しい説明があったはずもない。

何故、アルゴリズムについて詳しい説明がなかったかといえば、それを説明することが、グーグルの致命的な欠陥を指摘することになるからである。

あらためて指摘するが、グーグルはアルゴリズムという単語で、恣意的なランキング決定方法を隠蔽したのである。

グーグルは全数検査をしていない。その事実を「アルゴリズム」の一語は隠蔽し、肯定するのだ。




さて、もし、グーグルの経営者が言うように、「透明性が高められて」アルゴリズムの仔細が明らかになっていくのだろうか。

私は、そのようなことが起こるとも思っていない。

問題は、天安門事件のような、「誰でも知っている・合理性のある情報隠蔽」ではない。

問題は、「少数しか知らない、隠蔽に合理性のない情報」である。

*

対話の継続を示唆してきたが、それは、対話拒絶・拒否の合理性を追求することも、ひとつの対話であるとの含意もある。つまり、がん告知・青少年への有害情報・コカコーラのレシピなどは、情報を非公開にすることに合理性がある。つまり、パンドラの箱は、中身が分からなかったから開けられてしまったのである。中身について十分に対話すればパンドラの箱は開けられずにすむ。いまもって、核兵器を主兵器とした全面戦争は発生していない。これは、世界が、パンドラの箱を開けてはならぬという対話の成果である。

*

「少数しか知らない、隠蔽に合理性のない情報」…。

そのような案件が中国政府との交渉の中で続出しているはずである。ならば、透明性を確保することなどできぬ。



それはともかくとして、
仮に、グーグルがオープンアルゴリズムを確立したら、どうなるか。と、考えてみる。

その場合に明確になることは、先のエントリーでも述べたように、グーグルには、「オリジナル情報をそのままに扱う」という欠点がある。

P2Pがコミュニケーションの基本だとするならば、情報が伝播する中で、サマライズ(要約)されたり、フォーカス(焦点)されるのは当然のことである。

それを伝言ゲームと揶揄する向きもあるが、アメリカの俗諺「コミュニケーションは相手が決める」からいえば、必ずしも悪いことではない。


そして、そのような情報伝播の構造に背を向けることこそ、「コンテンツ発信者がコンテンツに君臨する」というアンシャンレジームなビジネスモデルにグーグルが属していることの証明でもある。



CXでは、アメリカのYouTube現象を取り上げていた。

イギリス首相は、アメリカへのメッセージにYoutubeを使った。大統領選挙のキャンペーンでは、各候補者がトレーサーという人たちを動員して、対立候補の揚げ足取りを行なっている。
世の中の如何なる不正もYouTubeに載ることによって、社会的な制裁を受ける。
そして、ネット者は「他者を嘲笑すること」を目的にYouTubeを覗いている。と、アメリカのメディア者は告発する。

だが、それは、フラットなYouTubeというリストで起きている結果に過ぎない。

YouTubeに起こっている負の側面は、フラットなリストの欠点であって、それがアメリカ社会の負の側面ではない。


YouTubeの構造は、フラットな場と極めて微小なクローズドなコミュニティーでできあがっている。

映像にはコメント欄があり、対話が成立する場合もあるが、ほとんどのクリップの寿命は数日なので、対話が成熟していく猶予はない。

唯一の例外は、Lonelygirl15のようなシリーズかもしれない。言及ブログ…

たしかにドラマではあった。
だが、作り物であったことが明らかになった今も、作品そのものに対する評価がなくなったわけではない。

情報を受け取った瞬間のネット者たちの感情・衝撃は、次第に変化する。
単なる怒りや義憤は、疑問・発信者の立場の理解・対話・考察・検証・対照などに向かっていく。

ネット君臨という特集記事で、毎日新聞がとりあげた、NHK職員がネット上でカンパをし、批判された事例などはそうだ。

2ちゃんねるのスレッドのコメントはすぐに1000を越え、スレッドは続いていく。
その中で、テンプレートという「まとめサイト」が作られ、粗放な言葉たちは体裁を整えられるとともに、発言者たちの言論は、サマライズされ、フォーカスされ、対照される。

そのようなスマートなシステムをYoutubeもブログも持ち合わせていないだけである。

*

2ちゃんねるのアルゴリズムとは、

1.スレッドを立てること。

2.スレッドにコメントを書き込むこと。

3.コメントの書きこみが1000を越えると、スレッドは有料閲覧になること。

4.新スレッドでは、見えなくなった旧スレッドを補完するために、継続スレッドにはテンプレート(雛形)という、いままでのスレッドの言論の経緯・要約を載せる。

5.スレッドの書きこみスピードで、スレッドの注目度・ヒートアップ度を図り抽出する2NNというサイトがある。


*

2ちゃんねるのテンプレートでは、冷静な分析が尊ばれ、テンプレートを肴に対話が起こりながら、ブラッシュアップされることも、珍しいことではない。

逆に、2ちゃんねるのテンプレートでは、特定のコメント者に利することは批判される。
ここにおいて、情報発信者が情報に君臨していないことが理解できる。

これは極めてスマートなシステムである。

*

大概の2ちゃんねる批判者は、テンプレイトを読まずに、スレッドの書きこみを読んで義憤に駆られるのだと思う。

それは、2ちゃんねるのアルゴリズムを理解しない浅薄な所作である。



CXの番組では、アメリカのメディア者が、これから何が流行るかは分からぬし、それが分かれば億万長者であると発言する。

そして、日本のスタジオは、「早く、多く、価値ある情報を提供すること」が、これからの成功の秘訣であると番組を終える。

*

だが、私は言う。

次に何が起こるかは、誰も言わぬだけで、分かっている。

それは、オープンアルゴリズムの時代であり、コンテンツメイカーがコンテンツに君臨しする時代の終焉である。

ただ、それが起こればと、現在のマス消費のマージンの高い利益構造が崩れ、薄利なビジネスモデルになるため、誰も黙して語らぬのである。

だが、アサヒスーパードライをあげるまでもなく、小ロット多品種生産の時代にあっても、ヒットは存在するのである。

posted by スポンタ at 11:25| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(1) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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