2007年08月19日

アルゴの時代79:受信者に広告マージンの入る時代。aglocoって何?

BigBangさんや湯川さんは、セカンドライフに御執心のようだが、私はaglocoに注目している

すでにご存知の方もいるかもしれぬが、aglocoとは、自分のパソコンのディスプレイにツールバーを置くことで、広告枠収入をネットユーザーが受け取るシステムである。

アズワードは、情報発信者が広告収入を得る方法だが、aglocoはそうではない。

受信者が広告枠収入を得るという画期的なもの…。


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ラベル:agloco
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2007年08月18日

アルゴの時代78:インタネットが誘う「フラット幻想」に惑わされるな。ネットがもたらすデモクラシー幻想は不毛である。

トーマス・フリードマンの「フラット化する世界」、佐々木俊尚氏の「フラット革命」、それらが、インターネットの登場により、世の中がフラットになっていくことを言説している…。

だが、インターネットという通信手段・コミュニケーション手段だけで、世の中の構造がフラットになるなど夢想するのは妄想系である。

さらに言うならば、彼らにとっては、それは理想を語ることなのかもしれぬが、フラットな社会が、ポピュリズム(人気のある人の言説が妥当性もなく、一般化する)とクレーマーマーケッティング(クレームがその内容を吟味されることなく、エスタブリッシュメントは過剰反応を余儀なくされる。)という弊害を持つならば、フラット化の理想は、人々を幸福にしない。
※ 興味のある人は、「アルゴの時代」を1から読んで欲しい。



上記を書いたのは、Critical Horizonさんの論文に触発されたからである。

私は、ライブドアPJ、JANJAN、オーマイニュース国際版・日本版、ダンギルモアのバイオスフィアなど、さまざまな市民参加型ジャーナリズムに記事を書いたり、参加したり、コメントしてきた。

その結果思うことは、それらに関わる人達に一定のバイアスがあることである。

*

あまり適当な言葉が見つからないので、乱暴な用語使いを許してもらえば、それらに関わる人達の多くは、左翼であり、改革派であり、革新であり、リベラルである。
彼らは現行の制度を痛烈に批判したがるが、現行されているシステムの妥当性が皆無であることなど、ありえないのではないか。

週刊文春の編集長だった花田氏は、「最近のあたまのいい人は保守だ」という。
保守を、右翼と言い換えれば、ネット批判の代表的な形容になる…。

私は、右左、上下、さらにいえば、前後ろの騒動に巻き込まれるのは嫌だから、一貫してメタ議論をつらぬくが、市民参加型ジャーナリズムの参加者・運営者たちが左翼系であり、2ちゃんねる系が右翼系というのは、おもしろい現象である。
そして、左翼者たちしかいないネット市民新聞は言論としてのバランスを欠いているし、2ちゃんねる言論に対抗できず、リアルな場所から、「ネトウヨ」などと嘯いているのなら、左翼者の立場は危うい。



私がインターネット上のそのような有様を見ていて感じるのは、
「インターネットが日本社会の言論を変えている」のではない。

「日本の言論のすべてを可視化している」ことである。


「憲法第九条を守れ」と論じている人達がいる。だが、世論調査では劣勢である。
隣国が核武装を匂わせ、ミサイルを海に撃ち込んでいるとき、日本が軍備のすべてを捨てることに妥当性はない。そのことは誰もがわかりきっていることなのだが、民主主義の原則である、少数意見を切り捨てないということで、言説は続けられる。そして、さまざまな政治力学によって、彼らの権力が温存されている。
それが、2007年の政治状況である。

*

DJ本にも紹介されている、昨年の夏に起きたオーマイニュース日本版の誕生時における、佐々木俊尚氏と副編集長の論争は、その類例である。


ネット市民新聞の最重要課題は、運営と編集の透明化であり、市民記者同士のコミュニケーションの活性化である。

私は、開店準備ブログにそのことを提案したが、一切の反応はなく、無視されるとともに、私の記事がかのメディアを飾ることもなくなった。


そのとき、佐々木氏と副編集長氏が何をやっていたかといえば、メディアの文脈が右よりか、左よりかということだった。

右か左か、という陽動言論を起こすことにより、最重要課題である、運営と編集の透明性と市民記者同士のコミュニケーションの活性化についての議論は一切なされなかった。

結果、オーマイニュース日本版は先行2メディアと大差なく、ネット言論としての発信力は限定されている。

ネット市民新聞がネット世論をオーソライズすることはいまだ起きていない。

*

もし、新しい野党が、ネット世論を抽出することをマニュフェストに掲げるならば、ある程度の議席数を得ることは確実だろう。だが、そのようなムーブメントを政治の世界の人達は拒むだろう。なぜなら、それこそ、政治における大変革の時代のはじまりであり、いまの与党にとっても野党にとっても、避けたい状態だからだ。
だから、格差社会や憲法第九条などという見かけ上の問題で、国会をやり過ごそうとする…。

そのような状況をネット者たちは把握しているし、ネルソンマンデラの真実和解委員会の法則とでもいうものに従うならば、結論は出ている。

だが、そのことを、ネットを詳しく見る人達には可視化されているが、ネットをテレビと同じように接している人達(リモートタグに関心を示さぬような人達)には見えてこない。
結果、ネット言論の結論・収束点は、情報の海に投げ出されたまま、放置されている。

それを誰かがオーソライズすればいい。問題はそれだけ。
オーソライズは対照性のまま(A意見・B意見を並置する)をオーソライズしてもいいのだから、そこにファシズムは存在しない。

*

私は現行の政治家たちのステークホルダー(利害)が見えている。だから、「インターネットが政治を変える」などということは、要らぬルサンチマン(怨念・憎悪)を呼ぶので、そのように語りたくはない。

ならば、何を声高に述べるのかいえば、「多様なアルゴリズムの並存」であり、その並存するアルゴリズムのひとつとして、インターネットによる言論・世論抽出をしませんか…。という提案である。

現行システムの妥当性が0というのはありえない。ならば、現行の政治家たちもそうなのだから…。

*

そのようにして、日本の言論は、ネットを詳しく見る人達には可視化されているが、ネットをテレビと同じように接している人達(リモートタグに関心を示さぬような人達)には見えてこない。
結果、ネット言論の結論は、情報の海に投げ出されたまま、放置されている。



さて、デモクラシーというものが、そもそも何だったのか。

Critical Horizonさんのブログのコメント欄にも書いたが、明治期のデモクラシーとは、西南戦争に敗れた在野勢力が、武力では勝ち目がないと悟り、言論に頼ったことである。デモクラシーの中心は、政権構想で薩長閥にやぶれた土佐・肥後のひとたち。在野を誇る大隈重信が早稲田大学において言論を誇ったのは分かりやすい。

ネット市民の勝利のひとつとして語られる、オーマイニュース韓国版が大統領選挙の行方に影響したという分析も疑わしい。時事通信社の湯川氏によれば、オーマイニュースの政治関連の記事はほとんどオ・ヨンホ氏本人や、プロ記者によって書かれたものであって、ネット市民が書いたのは、日常身辺雑記だという。
オ・ヨンホ氏は、韓国メジャー紙に対抗するためにオーマイニュースを立ち上げ、「選択と集中」という戦略を立て、猛進していったのであって、ネット市民たちに耳を傾けるなどという地道な作業をおこなって、民意を首長選択にまで結びつけたのではない。
彼は、個人メディアでしかないものを、ネット市民を騙ることによって権威づけ、ネット市民を自らの言論で煽動することによって、政治的な影響力をなしたのである。

それは、明治期の自由民権運動の活動の中心にいた諸氏が政権構想で敗北したものたちだったことと類似している。
勿論、自由民権運動が、その後の民主主義の第一歩を築いたことは確かである。だが、彼らのステークホルダーはもうひとつ別にあったのだ。

とにもかくにも、議会ができてしまえば、可視化できなかった政治・国家運営というものが、可視化される。
農村出身の田中正造氏が足尾鉱毒事件で直訴することもできる…。

この構造も、2007年をめぐるインターネットの諸事情にとって、極めて示唆的である。



結局のところ、リアル属性を離れることができぬ状況で、もがいていた農民。それに言論することで手を差し伸べたのが田中正造である。

インターネットの今、個はリアル属性を離れることができるから、田中正造のような一生を賭すようなことをせずとも、世の中の問題を定義し、解決を模索することができる。

それがインターネットである。

*

そのことをリアルな世界から見ればどうなるのか。

他者の批判によって自己を変えるとなれば、自己の信用・存在は失墜する。だが、自己の判断によって自己を変えるならば、信用は失墜せず、変化に妥当性があれば、存在感は増大する。

そのためのリファレンスとしてインターネットが一定の役割を果すならば、インターネット言論は、リアル者たちにも、違和感なく受け入れられるに違いない。



と、考えるのだ。



今年の5月に開かれた日本新聞労働組合連合の「ネットは新聞に何を突きつけているのか」というシンポジウム。そして、7月に出版された「サイバージャーナリズム論」。

そこでは、ここ数年の既存メディアたちのインターネットへの敵視が大分軽減してきたように思われる。

私と対峙した「ネットは新聞を殺すのか」の著書・湯川氏、「新聞のなくなる日」の歌川氏、そして、「グーグル・アマゾン化する」の著者・森氏。それぞれの言論は様々であるが、そのどれひとつとしても、インターネットが既存メディアにとって代わるなどという類のものは皆無で、既存メディアがインターネットをどのように活用すべきか。というムーブメントだったと思う。

かつて、LPレコードがCDに代わるような危機感を既存メディアの人達は持っていたのかもしれぬ。だが、実際に起きていることは、近くに大型デパートの前に素人の屋台が並ぶようなことなのかもしれぬ。素人の屋台で買い物をする人もいるだろうし、デパートで買い物をする人もいていい。それがネットと既存メディアの関係なのだろう…。



石原都知事は、良いものを残すのが保守であり、悪いものを変えるのが革新である。と、東国原宮崎県知事の発言の浅薄さを指摘した。

同様に、リベラルという語に、妥当性があるかどうかは疑わしい。
そして、リベラルが新自由主義をさしているのか、社会民主主義をさしているのかも、茫漠としている。

そして、デモクラシー。
これは、インドの例。

*

インドでは、出会い系サイトが流行っているという。
その理由は、インドではカースト制度があり、同じ出身階層同士でなければ結婚できぬからだという。

勿論、ロミオとジュリエットよろしく、異分子同士で禁断の恋を紡ぐ恋人たちもいるのだろう。だが、インターネットによる情報コミュニケーションが、依存の民衆のセグメントをより濃くする方向に進めている。

論理的に考えれば、情報格差がなくなることは、人と人を隔てる格差がなくなるわけで、そこで、フラットな関係が生まれ、そこからデモクラシーが成立すると考えるのが、必定だろう。

だが、現実はそうは動いていかない…。


*

勿論、私はテレビ番組の取材シーンを見たに過ぎぬから、インドで起きていることの全貌を知らぬ。
だが、ツールがもたらす多様な変化というものにつき、気付かされることとなった。



では、日本のインターネットでは何が起きているのか…。

ブログもSNS化している。

リモートタグばかりでなく、さまざまなシステムが存在する。

それについては、Mrs.スポンタ氏が詳しいので、今後、ご教授願うことにする。
男性である私に見えているインターネットと、女性である彼女の言論のバイアスはかなりキツイ。

夫婦喧嘩をブログ上ですることもおもしろいのではないかと、私は彼女を煽るのだが、そのような陽動作戦に彼女はなかなか載ろうとしない。

ま、乞うご期待である。

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posted by スポンタ at 09:47| 東京 ☁| Comment(9) | TrackBack(1) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月17日

アルゴの時代77:新聞社がつくる記者ブログの意味。発信者としての多様性は確保されぬが、受信者としての多様性は確保される。



アクセス解析「なかのひと」を使っている。

その中で、継続的に私のブログを閲覧している人のいる組織に毎日新聞社がある。
私のブログには、今年正月のコラム「ネット君臨」に関連するエントリーがあるから、当然のことだろう。

*

そして、もう一つ、ある大手事務機器メーカーにも、私のブログを継続して閲覧してくれている人がいる。

その大手事務機器メーカーは、ソリューション関係のビジネスも行なっている。そこで、私、その会社のホームページに行き、その「お問い合わせ窓口」にメイルを打った。

企業向けのミドルウェアに、私のコンセプトを反映することにより、新しいミドルウェアでできぬか…。というアライアンスの提案である。

すると、1日も待たずして、ウェブマスターから、当社は企業向けであり、あなたとのコラボレーションの可能性はありません。というメイルがやってきた。

ま、当然の反応である。

私のブログを閲覧してくれている人には、たどり着けなかったに違いない。

ルサンチマン(怨念)に思われてしまうので、固有名詞は明らかにしないが、その業界のトップメーカーである。
そのような大組織になると、ホームページのお問い合わせ欄は、クレーマー対応の窓口でしかなく、私は、ファナティックな消費者の一人として、対応されたに違いない。



ざて、最近では新聞社でも、ブログをつくっている。

産経新聞のイザや毎日新聞のまいまいクラブ。そして、その中に新聞記者のブログも設置され、新聞記者たちが、紙面とは別に、ブログを書くようになった。

新聞記者が本紙以外で原稿を書くことは画期的であるとの評価があるが、私はそうは思わない。

新聞記者が、新聞社というステークホルダー(利害)から分離しないで、原稿を書いたとしても、そこに何の目新しさもない。つまり、100字の原稿が1000字の原稿になるだけであって、それは事象を詳らかに描出することはあっても、対照的な言論がそこに現出するのではない。

国語力の源泉は、要約力である。ならば、20字程度で要約される世界で、対照的な言論を紡がれることがないのなら、記者ブログは、本紙の内容を水増ししたものでしかない。



そのように、思っていたのだが、記者ブログが書かれる意義・価値がある。
それは、新聞に対するクレーム処理が、組織レベルを超えて、個のレベルに向かって発せられることになるということ。

イザにおいて、私は副編集長氏との摩擦をおこしたが、その言論のすべてをイザ関係者は見ていたに違いない。
ならば、自分達がやっていることの不毛さを実感しただろう。

*

私が、大手事務機器メーカーにコラボレーションの提案をしたことは、ウェブマスターのところでフィルタリングされ、社内のミドルウェアにはアップされない。
ウェブマスターの仕事は、そのようなゲートの役割であって、情報の内容を吟味することではない。

だが、記者ブログがコメント欄を空けていれば、そのようなことはない。
そこから対話が成立するかは、疑わしいが、少なくとも、何らかの問題や提案が起きていることは、その組織(新聞社)において情報共有される。

もちろん、その情報共有は、インテグレート(重要度のタグが付随する)されるのではないから、きわめて散文的なものである。しかし、そのような状況が現出することが、ネットに関わらず、組織内のコミュニケーションを漸進させるものだと考えるのである。



「なかのひと」では、さまざまな組織人から閲覧していだだいていることが分かる。

私は、そのすべての方々に感謝するし、今回、ふたつの事例に関して言及したのも、その感謝の現れである。

私は、ネットだけを語るのではないし、市民参加型ジャーナリズムを語るだけでもない。

そこには、民主主義の芽もあるだろうし、ビジネスの芽もある。

*

私はプロモーションビデオの実務と、その営業。そして、私の言論が出版できぬか。と、ジタバタし続ける日々が続いている。

私の言論は、時事通信の湯川鶴章氏と毎日新聞OBの歌川令三氏のお力によって、「サイバージャーナリズム論」の中に場を得て、はじめて活字化された。

昨日、あるブロガーさんから、なんとも嬉しい書評をいただいた。

彼がそのように書いたという事実は、同じ思いでいても書かない人がその数倍はいると考えたい。彼は、私が梅田本を批判したときからの閲覧者だという。

*

次回作のタイトルは、「グーグル時代の終焉」。なんとか、その本を活字化したいものである。

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posted by スポンタ at 09:17| 東京 ☁| Comment(4) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月16日

アルゴの時代76:ネット時代の特徴は当事者発信。問題は、リモートタグが寡占されていること。

さて、佐々木俊尚氏の「フラット革命」をトリガーとしていろいろなことを考えさせられている。
最近のネット関連の言論でのトップスターの2トップが佐々木年尚氏と梅田望夫氏であることは誰もが納得することだろう。そして、忘れてはならぬスターとして、西村博之氏がいる。

その三人は確かにインターネットを語っているが、佐々木氏は新聞人OBであり、梅田氏はビジネスコンサルタントであることを忘れてはならぬ。一方の西村氏もネット上のニューメディアの運営者というステークホルダーの上にある。

そのようなバイアスをさっぴいて考えなければ、2007年のインターネットは見えてこない。



「誰でも当事者発信ができる」ことは、2007年のインターネットにおいて、目新しい現象ではない。
「誰でも当事者発信ができる」ことが確認できたブログの普及によって分かったことは、当事者発信にさしたる重要度はなかったということだ。

つまり、当事者発信をしたとしても、それが他者に伝わらなければ独り言と同じであり、さしたる価値はない。そのことを痛切に感じさせるのが、2007年のインターネットだ。

2005年のインターネット。
そこには、ライブドアPJがあり、ホリエモンの知名度によって、無名市民の発信も1日に2万アクセスを集めることができた。当時、私はかなりの数の記事を上げているから、100万以上のアクセスを稼いでいただろう。だが、ホリエモンの凋落とともに、アクセス数は減り、私の記事を読む人もなくなる…。

ホリエモン人気を盛り上げていたのは、マスコミであり、マスコミがホリエモンに重要度のタグをつけていたのだ。そして、ホリエモン関連情報のひとつとしてライブドアPJにも重要度のタグがつき、多数のアクセスが集まった。



倫敦橋さんが、グーグルで「フラット革命」で検索をしてみたが、M氏関連言論がほとんど結果に現れないと嘆いている。

私は、そこにこそ、一切の対話を触発しないグーグルの特徴を見て、一人悦に入るのだが、喜んでばかりもいられない。

問題は、価値の重要度を寡占されていること。
そして、グーグル検索が標準な世の中では、グーグルのリストのトップ5しか存在しないなどと、既存メディアが嘯いていることだ。

…ならば、
対話により価値が創出されるというアルゴリズムをつくるならば、その検索エンジンは画期的になるだろう。

*

すでにある具体例が、2ちゃんねるの書きこみ速度をスレッドの重要度のもとにした2NNである。

だが、それは、言論の内容が反映されていないため、書き込み速度を速めるためのコメントにより、「祭り」が仕組まれる。

これでは、既存のメディア者たちの批判を浴びてしまう。

*

あるべき、重要度のタグ発生エンジンとは、乖離した言論の主どうしが、有効な議論を行なうことである。

それが重要度のタグを発生されるならば、言論世界の姿は大きく変わってくる。



その形は何かといえば、情報と、言論と、エンタテイメントが分離されること。

*

情報とは、知らない状態が知る状態になること。それ自体で価値が発生すること。(ネタ。行列のできる…での磯野貴理子)

エンタテイメントとは、知っていることでも楽しめること。(柳原可奈子のショップ店員の芸)

そして、言論とは、知っていることだが、受信者・読者を迷わせることである。

*

その言論において、純粋律(わかりきっていること:人殺しはいけない。環境はきれいなほうがいい)と、矛盾命題(人を殺した人を死刑にしていいのか。環境と経済的繁栄をいかに両立させるか。)も分離される。



対話の質を問う検索エンジンが登場するならば、「祭り」などいう外野の野次は成立しない。
そして、既存メディア・エスタブリッシュによって重要度のタグ付けが寡占されている現状も少しは変わっていくだろう。

一流出版社が発売することで、すでにヒットする条件の何割かは埋められている。
献本コミュニケーションが、メディアの書評につながっていく。

私は、梅田望夫氏の「ウェブ進化論」のときに、コメントしあった両国さくらさんとひさしぶりにコメントをしあった。

あのときも、そして、いまも、私の、そして、私たちの価値の重要度は低い。

あのときの議論も、そして、今回の議論も、けっして内容の低い議論ではなかった…。

少なくとも、無視されるようなレベルではなかったと考える。

そう考えてくると、個が発信するところに価値はなく、それらが妥当な価値を持って遇せられなければ意味はない。

彼女も、私も、自己確認のためのブログではあるが、何物かを他者に言わんとして記事を書いているのだし、そこから生まれた対話を好ましく思っていたのだから…。

*

そのことを、私や、私のまわりの人達だけでなく、きっと佐々木氏も、梅田氏も気がついているはずだから、そういうリモートタグ発生エンジンが誕生する日は近いのである。



既存メディアはP2P(当事者発信・口コミ)の大海の中で相対的価値を低下させる。

既存メディアとエスタブリッシュは、いままで寡占していた重要度のタグ付けの権利を失うことになる。


それが、2007年にはじったことである。

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posted by スポンタ at 10:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月15日

アルゴの時代75:ネットにおける取材する側・される側。


佐々木氏が出版した「フラット革命」は、大団円において、M氏・グリップブログ関連に章をついやしている。私は、かつて泉氏からの取材依頼を断っている。

その理由は、一切の平行取材をしない泉氏の手法に同意できなかったからである。

当時の私は、ライブドアPJと反目していた。そこで私が必要としていたのは、自分の言論とライブドアPJ運営者との言論の対照であるとともに、他者にとって自分の言論がどのように受け取られるか・解釈されるかであった。

だが、泉氏の取材方針は、現場に行って当事者の話を聞き、それを記事にする。それだけのことだという。
私は、反目先であるライブドアPJの主宰者に取材するのかどうかを確かめたが、彼女は「取材しない」と明確に言う。

これでは、私の国語力を補うために記者が存在するだけ。

私の言説に頷く記者がいて、それが記事になる。メディアが寡占化されているならば、そういう所作も意味があったのかもしれぬが、インターネットでは、そのような所作に価値はない。

インタビュアーが存在しようとしまいと、私が書けばいい。

インタビュワーが独立した視点を持たなければ、煽り・祭りを盛り上げる存在でしかない。これでは、こじれてしまった問題がもっとこじれるだけ…。

そのようなことを考えて、私は、泉氏のインタビューの要請を断った。

2005年、初夏のことである。



インターネットは当事者発信が可能なメディアなのである。

当事者発信が可能になったとき、伝聞者にすぎぬジャーナリストが自らのアイデンティティーをどこに求めるか。それが重要なのである。




さて、「フラット革命」について、私が言及するのは、M氏・I氏関連が気になるからではない。

「フラットという概念が日本社会を幸福に導かない」ということを指摘したいのである。

それは、戦後日本にやってきた「平等」という概念が、日本人を幸福に導かなかったことと同様である。

戦後日本にやってきた「平等」の概念は、人間の幸福を評価する尺度を単一化し、勝ち組と形容される一部の人しか幸福にしなかった。
戦前は、分相応という概念があった。そこでは、金持ちにも貧乏人にもそれぞれの苦労があり、それぞれの身の丈にあった幸福を多くの人達が享受していた。

江戸時代の俗諺に、「籠に乗る人、担ぐ人、そのまたワラジを作る人、捨てたワラジを拾う人」というのがある。この俗諺で、一番幸福なのは、籠に乗る人ではない。捨てたわらじを拾う人である…。



いま、トーマス・フリードマンにつづいて、佐々木氏がフラットという概念を流布させようとしている。

だが、それは、個を無秩序にばら撒いたまま放置することに等しい。

個をフラットにばらまいたままでは、個は発信することはできぬ。そして、そのような状況で発信する個のバイアス(偏向)はきつい。

フラットな状況とは、東京ドームに5万人が集まって会議をやるようなものである。

5万人を前に発言する人は自己顕示欲の強い人であり、5万人を前にすれば、緊張を強いられ発言はままならぬ。それがフラットな状態の現実である。


あるべきは、まずはP2P的な個の対話。

それが集まったクラスター(葡萄の房)状のコミュニティー。

クラスターが多数存在することにより、個の言論が社会全体から可視化される。

可視化された言論を、メディアやエスタブリッシュがオーソライズ(権威化)する。



それが、21世紀の言論世界のあるべき姿であり、その中で、妥当性のないエスタブリッシュは失権するのである。

自らのエスタブリッシュ性を確信してない権威者は、そのムーブメントに反旗を翻すし、自らのエスタブリッシュ性に自信のない権威者は、同業者たちと行動を共にする。そのような事態が起きている。

*

エスタブリッシュに悪性は一切ない。

江戸時代の俗諺における「籠に乗る人」同様、辛いのである。

それは、佐々木氏も例外ではないだろう…。

*

ただし、エスタブリッシュが妥当性を持つのか。

そのことが話題になるのが2007年のインターネットの時代。



そして、エスタブリッシュが妥当性を持つのかどうかは、いつでも確かめることができる。

匿名・HNで発信してみればいい…。

匿名・HNで自らの言論を発することで生まれる対論は、多くのことを教えてくれる。

それらは、自らを律するための重要なリファレンスである。

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2007年08月14日

アルゴの時代74:IT革命が起こすパラダイムシフトに身をゆだねよ。

IT関係者たちは、自己都合な言論を流布させている。
彼らはさまざまな新しいメディアをプロモーションしたがっているが、それらが新規事業としては資金を集めるけれど、それが一般的に普及するかどうかは疑わしい。

たとえば、MIXIはSNSである。ならば、MIXIが最大限に普及したとき、SNS的な価値はなくなる。かつて、私が、いまのMIXIは、「鍵を開けて中に入る」が、普及した後のMIXIは、「鍵を開けて外に出る」と形容したような必然がある。

セカンドライフについても同様で、セカンドライフが限りなく普及すれば、それはグーグルさまざまな機能を盛り込んでいくに違いないグーグルアースと同じものになる。そのとき、中途半端なつくりものでしかないセカンドライフの価値はなくなる。


私が指摘することは、誰もが気づくありふれたことであり、実は多くの人達もすでにそれを勘付いている。

問題は、そのような眉唾物の言論に嫌気をさした多くの人達が、IT革命が必然的にもたらしているパラダイムシフトを感じないばかりか、その潮流に逆行しようとしていることだ。



DJ本によれば、1対9対90の法則があるのだという。
ブログを書くと、9人コメントする人がいて、90人の読者がいるという。
ならば、100人の読者がいるならば、9人はコメントを書く…。
ま、私としては、その半分、1/3ぐらいかと思うが、検討ハズレの数字ではないだろう。

ただし、そこにあるのは、反響の数、読者の数であって、内容に同意した人の数、内容に同意しなかった人の数を一切提示しない。にも、関わらず、それが社会的に認知され、あたかもそれが社会の大多数が同意したことのように、マスコミに扱われる。

*

たとえば、「バカの壁」「国家の品格」「女性の品格」はベストセラーになったが、その内容については、多くの識者たちが批判している。

私は、週刊誌上・ネット上でそのような言論たちに遭遇するが、それらが巷間伝わることは少ないと思う。

なぜなら、リアルな世界では、リモートタグはオリジナルコンテンツと分離されて存在し、リンクされることはないからだ。

だが、ネットでは、オリジナルコンテンツは、リモートタグとリンクされる。
オリジナルコンテンツに興味がある人ほど、リモートタグを手繰りたくなる。

その先にあるのは、オリジナルコンテンツの賞賛ばかりではない。

リモートタグを深層に手繰っていけば行くほど、その内容は批判の度合いを増加させているに違いない。


それがインターネットである。


DJ本ではコメントによって、対話の存在を勘案しているようだが、それはオフィシャルコミュニケーションという一部分でしかない。

公式ホームページのとりつくしまのなさは、多くのネット者が共有しているものである。

それを最近では企業たちも理解している。
だから、2ちゃんねるウォッチングをする役割の人をつくる。

そのような昨今の事情において、ブログのコメント欄とトラックバックだけで、2007年のインターネットを語ることは浅薄である。



ベストセラー本「女性の品格」につき、週刊誌上である作家は、「自分の子育てのほとんどを母堂に任せきりにした官僚出身の女性大学長には、女性の品格を語る資格がない」と切り捨てていた。作者こそ、自分の人生・名誉のために、母堂の人生を犠牲にした非情なる魂の持ち主であると…。

だが、週刊誌上では、そのようなリモートタグもオリジナルコンテンツとはリンクされぬ。
もちろん、週刊誌というのは、深層ではないから、多くの人達の目に触れる。だが、そこから読者とコンテンツメーカーとの対話が生まれることはない。

*

リアルな世界では、解剖学者・有名作家の息子の数学者などのエスタブリッシュが社会を語り、ベストセラーになることが多い。

だが、それらの言論に妥当性があるのかといえば、ほとんどは有名人のゴシップでしかなく、その言論は妥当性を欠く。

つまり、「あの先生はどのように社会を捉えているのか」ということが購買意欲をそそるのであって、その言論内容に妥当性があるかどうかは、疑わしいのである。

これでは、学者の書いた本といえども、タレント本と同じである。

そして、それがタレント本のような、自分と同じような凡庸な精神の持ち主という共感によって受け取られるのではなく、ある種の尊敬や理想を持って受け取られるのだとするならば、それは社会悪といえるのでないだろうか。



インターネットの時代。すべての言論は、インターネットでの対話によって揉まれる。そのことが重要であり、その過程によって言論は鍛えられる。

勿論、基本的に、個の言論の存在理由は社会との乖離である。
だから、個が社会の合意に迎合する必要はない。

だから、丁々発止のやりとりをネット上で展開すればいい。



F革命本、S氏は「インターネット言論がファシズムに繋がる」と警告している。

※イニシアルにしたのは、RSSリーダー検索に掛からぬことを意図してのことです。言論者としての名誉のためには、実名を記したいのですが、お許しを…。

だが、それは間違っている。


インターネットの言論は、けっしてファシズムにはならぬ。


マッキントッシュのCMでは、パソコンの特徴として、エクセルでつくった円グラフが紹介される。

そこで、マックユーザーは円グラフを眺めて、「なかなか臨場感があるね」と感動してみせる。

*

パソコンが提出するのは、そのような非言語的なプレゼンテーションである。

最近のコメントで、国際連盟を脱退する松岡洋右氏を引合にだしたが、あのとき、彼が国内言論を、開戦派51%、非戦派49%などとPPTで円グラフを出しながらプレゼンテーションしていれば、最悪の事態は免れたかもしれぬ。

言語とは、発信者にどんなに内的葛藤があろうとも、100:0の確認があるかのように情報を発信してしまう。

そして、もし、発信者が自分の気持ちに正確になろうと、51:49の気持ちを言葉で表現するならば、受信者たちから、「お前は何をいいたいのか分からない」「一言で言え」などと苦言を呈されてしまう。

そのようにして、発信者としての信頼を失う…。

*

だが、IT革命の現代ではそのようなことは起きない。

自分の気持ちに誠実であろうとする人は、円グラフで気持ちを表現できる。

そして、それはすでに新しいプログラムとしても誕生している

そして、自分の気持ちに誠実であろうとしない人達、自分の気持ちを隠蔽しようとしない人達は、言語に頼るばかりなのだ…。



昨年のことだったろうか。

千葉県の市民動物園で、ベンチの近くにツツジの植え込みがあり、母親が目を話したときに幼児が、ベンチから滑り落ち、冬枯れた小枝が脳にささって、幼児が亡くなったという事故が起きた。
当該母親は、事故の再発を願うためか、管理者の責任を追及するために、多額の損害賠償訴訟を起こした。

これにつき、フジテレビの朝ワイドのメインキャスターは、目を離した母親が悪いのであって、そのようなことで行政が訴えられるのはおかしい。と、当該母親を批判した。

私は、有名芸能人が無名の一視聴者を批判したことが、バッシングにつながることを懸念した。

*

このケースなども、エクセルの円グラフにすれば分かりやすい。

たとえばである…。

事故の原因分析は、90%が母親であり、残りの10%が施設管理者である。

では、事故の責任を誰が負ったかといえば、母親がこどもを失うということで100%担ったのである。
状況からみて、この事故の責任をすべて母親に負わせるというのは不備があるのではないか。

つまり、
原因が、90:10
責任の負担、100:0

であり、この不合理を埋めるのが賠償金である。その多少について、私は論じないが、少なくとも考慮すべき案件であり、訴訟を起こすことが批判されるような事例ではない。



佐々木氏は、「インターネット言論がファシズムに繋がる」というが、インターネットの特徴はログが残ることである。すべての言論が長期にわたって吟味される。

そこでは、リソースを示せと、事実を伴わない言論が批判されるとともに、煽動も陽動も言論の希釈も感情的な発言も、発信者の利益による発言も批判される。

その結果が、2ちゃんねるのテンプレイトに象徴されるような、複数の言論が対照的にフォーカスされることが特徴である。


そして、炎上も、エリザベス・キューブラロスの情報の段階受容説によって、沈静化する。

人の噂も75日というが、それは噂がなくなるのではない。
噂が常識として、定着するのである。



そのようなインターネットが生み出す言論世界において、今後起きてくることは、純粋律(誰もが認める当たり前な理屈:人を殺してはいけない。環境は美しいほうがいい)を操る政治家はアジテータ(扇動者)とみなされること。

そして、矛盾命題(人を殺した人を殺していいの? 環境さえよければ、貧しい生活でもいいの?)の解決策が複数提示され、それをSNS的に個別に実行され、その実効度が計られるという時代だ。

それはあたかも、母性社会は終わり、社会が訪れる。そういうことなのかもしれぬ…。

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2007年08月12日

アルゴの時代72:佐々木俊尚氏「フラット革命」。発信意図、内容と形式。演出。

BigBangさんの裏ブログに、佐々木さんの「フラット革命」の感想が載っていて、私は次のように書いた。

スポンタ 『見当ハズレのコメントだったらごめんなさい。

------------------------

公と個という概念が入り混じっているんだと思う。

私は、BBさんのこの件に関する関わりは、ステークホルダーやルサンチマンを含んでいていいとおもう。そして、BBさんがステークホルダーやルサンチマンを越えていくことをネット上で可視化することが、重要であり、それを通じてBBさんの知性が印象付けられると感じている。

第三者には、それが自己満足や予定調和のノリツッコミにしか見えないのかもしれないけれど、本件につき、裁定人やオーガナイザーがいないのだから、プレイヤー自身がそのようにふるまうしかない。

*

そして、当事者の一人であるBBさんが、ステークホルダーやルサンチマンを越えることと、M氏の手記を通じて印象付けられるパフォーマンスが対照・対比される。
私の予想では、M氏が過去のステークホルダーやルサンチマンを越えることはないと考える。
そして、そのような状況を第三者たちが見ている。それが重要なのだ。

万一、M氏が過去のステークホルダーやルサンチマンを越えることがあれば、私はM氏擁護派に転向する。そして、M氏とともに、カルトによる無差別大量殺人が再発しない日本を構築するための言論を紡いでいく。

*

再度指摘するが、パブリックという概念によって、個の現出が妨げられるならば、パブリックなどという概念に価値はない。
問題は、パブリックをオーソライズをする権力が存在しないインターネットで、その代用品をどのように求めるかということ。

その不備を実は多くの人は気がついていて、手記という形式がオーソライズの役割を果すという考えもあるし、出版して活字にすることにより、オーソライズされるという考え方もある。
かつて、対話ではなく、インタビューという形式でオーソライズを意図した女性もいたっけ。

だが、それらのたくらみも、ブログ空間によって、それらのオーソライズがかりそめなものだったことが、時を経て理解される。なぜなら、インターネットの時代。オーソライズする権利を持っているのは、P2P的な個・読者だからだ。

*

もし、この件の終わりを迎えるならば、それは永遠に継続することによって終わる。つまり、ラストシーンがストップモーションのまま、エンドマークがダブルこともなく、客電も点かない。
それこそ、インターネット時代における言論の終わり・終着点・集束点である。

もし、誰かが強制的にエンドマークを載せ、強引に客電をつけることがあるならば、私はそれが、特定者に仕組まれたエンディングであって、それを観客の誰も望んでいないと指摘することになる。』


上記は、引用に関する感想である。

エンドマークに関する形容の具体的背景は以下。

*

歌川明弘氏のブログでの私の質問は、「名指しで無視された」状態になっている。
オーマイニュース日本版・開店準備ブログに私が載せた「市民参加型ジャーナリズムの成立要件」は、無回答・無反応になり、以後、私の記事がアップされぬ。
そして、陽動言論・言論の希釈をもくろんで、副編集長氏と佐々木氏のイデオロギーな議論が展開される…。

つまり…。

ことのは関連も、オーマイニュース日本版も、私が「何故?」と指摘したタイミングでストップモーションがかかり、エンディングとなっている。

突然、ストップモーションになってしまった映画を見続ける人はいないから、話題にもならぬ。だが、薄暗い観客席の片隅では、ちいさなヒソヒソ話がつづいている。

そんな感じだ。





「フラット革命」。…困ったものであると考えている。

著作の大団円ともいえるパートで、著者は、ことのは事件をエモーショナルに綴る。その意図があまりに分かりすぎる…。

*

歌は語れ。セリフは歌え。という至言がある。
同様に、「主観的にならざるえない内容は客観的に語るべき」であり、「客観的に語らざるをえないものは、詩情を交えて表現すべき」。

それが表現者のダンディズムであり、表現の基本である。

*

当事者のひとりでもある著者が、選ぶべき文体は、客観的に語ることであって、情趣を交えて語ることの妥当性はない。



たとえば、私のプロモーションビデオの現場では次のようなことが起きる。

私:製品に感動するお客さんのシーンを入れましょう。

広告主:そんなものは必要ない。製品の特長が正確に、客観的に表現されるシーンがあればいい。

私:わかりました。事実に魅力があるんだから、感傷的な表現は必要ないですよね。(と自虐してみせる私)




このところ、Critical Horizonさんとグレン・グールドを語っている。

私のグールドの解釈は、喜怒哀楽を表現するためには、観客との対話が重要であり、コンサートというメディアを彼は選んでいた。だが、彼の音楽が、聖なるものを表現することに軸足を移したとき、彼は観客との対話よりも、自分の中に存在する「聖なるもの」との対話を選んだ。その結果が、コンサートをやめて、レコーディングアーチストになることだった。

グーグルと同時代・同郷の思想家にマクルーハンがいる。
マクルーハンは、いわゆる弁証法的な文章作法に捉われた論文を書かなかった。彼は、アフォリズム(箴言集・金言集)という手法で、彼の思想を文章化していった。
彼の活動が散文的であるという指摘もあるかもしれぬが、私に言わせれば、それは「詩的」である。
詩的とは何かといえば、弁証法的な予定調和の奴隷から逃れることである。
たしかに、アウフヘーベン(止揚)というフェイズ(段階)は、予定調和ではないのかもしれぬ。だが、それさえ、アウフヘーベンの立論に関しては予定調和の謗りを免れることはできぬ。


私はしがないビジネスビデオのディレクターでしかないが、小説、シナリオ、ドキュメンタリー、ナレーション原稿、宣伝文、解説文、惹句、スローガンを書いてきた。

あるものは使用され、あるものはボツになる。
大幅に変更され、修正を強制される場合もあった。

無名であるがゆえに、個に依存した発信は許されない。

結果、伝達すべき・訴求すべき内容と、受信相手の特性によって、発信形式・発信文体を勘案する。そのような習慣ができている…。



デジタルジャーナリズム研究会が出版した本と、佐々木俊尚氏が出版した本。

これらの本を読んでいると、マクルーハンが語った「メディアはメッセージである」との語を、哀感を込めて想起せざるをえない。

活字化・書籍化によって、オーソライズが企まれた…。

***

DJ研本では、市民参加型ジャーナリズムがテーマに語られている章がある。
その日、その場のディスカッションで、そのような音声が発せられたことは、それでいい。だが、それが活字化。出版をもとに発せられたものなのかどうか…。

ライブ感といってしまればそれまでだが、日常の発言がそのまま出版物としての妥当性を持つかどうかは疑わしい。

*

たとえば、新しい市民参加型ジャーナリズムをたちあげようとした泉氏が、オーマイニュース日本版の関係者と対話をしている。そこでは、ライブドアPJが槍玉に挙げられている。私は、ライブドアPJの元関係者として、そのような欠席裁判をうける不名誉を痛切に感じる。
ディスカッションの場で、ライブドアPJの関係者がいないのに、それを槍玉に挙げることも問題だが、それに関して誰も、不謹慎であることを指摘しないことも、大人気ないと感じている。

ライブドアPJに対する批判は大きかったし、そのことを揶揄して、おもしろがっている他の市民参加型ジャーナリズムの関係者たちは多かったろう。もちろん、既存メディアに属する人達もライブドアPJを冷ややかに見ていた。
だが、ライブドアPJは市民参加型ジャーナリズムは、金字塔を打ち立てた。
それは、インターネットの性質とは相容れない「個人言論のオーソライズ(メディアによる署名化)」を短期間ではあるが達成したのである。

*

機能的にみれば、インデックスなサイトがあって、個人ブログにリンクを張れば、市民参加型ジャーナリズムと同じことが起きる。(1年以上も経って続いている「ことのは事件」の残り火はその典型的なケース。皮肉にも、いま泉氏が提唱したメディアは、P2P的に実現している…。)
市民記者の記事に責任を取らぬものの、結果として、ライブドアPJが個人ブロガー・市民記者の記事をオーソライズした。

私がブログに書く記事を、立花隆氏が読むことは通常考えられない。だが、ホリエモン騒動の注目度から、2万アクセス/1日を集め、その中で市民記者の記事が読まれる。それが、事実上のオーソライズということ。

そのような社会的なインパクトのある出来事を、かつてのライブドアPJは成し遂げていた。

そして、市民参加型ジャーナリズムのさまざまな問題について、市民記者たちは真剣に考えた。私は、それをまとまった文脈にしている。

それをお読みいただければ、市民参加型ジャーナリズムの成立条件はおろか、ウェブ2.0の成立要件も知ることができる。
だが、悲しいかな、その書籍化はなされていない。

結果、リアルな世界においては、デジタルジャーナリズム研究会、泉あい氏、オーマイニュース日本版にアドバンテージが与えられている。



我々ネット者は、私がライブドアPJでの経験を文章化した「幻想の市民参加型ジャーナリズム」を読めば、市民参加型ジャーナリズムをどうすれば成立すればいいかが理解できるはずだ。

だが、リアル者たちは私の文章を読まぬし、私の経験を知らぬ。だから、似たようなことを世界で一番最初に起きたことのように感動している。

たしかに、ライブドアPJの前にJANJANもあった。だが、私のような多メディア経験者であり、ネット者な人間が参加するものはなかった。だから、JANJANは4流ジャーナリズムではあっても、本当の意味での市民参加型ジャーナリズムではなかった。
そして、小田光康氏がホリエモン氏と切り開いたジャーナリズムは、日本ではじめて、市民記者の記事をオーソライズすることに成功した。

2005年3月。私は38本の記事をライブドアPJにアップしている。

あの時、六本木ヒルズの運営者たちと市民記者の間で起きたことは、今後のインターネットの問題点の殆どを洗い出していた。

あの日、あの頃何が起きたのか…。そして、その後、何がおきたのか…。そのことを、このブログの読者氏においては、考えて欲しい。

・虚無化したイデオギーな思想偏向は、メディアを衰退させるだけで、たいした問題ではない。

・だが、カルト汚染を内包したメディア運営は、メディアばかりでなく、メディアが属する社会さえも汚染する。

・何がカルトかどうかを定義することは難しいし、一個人としてカルト言論の発信までも制限される必然性はない。だが、運営者(エスタブリッシュ)がカルトであることは、禁忌用件とされていい。


M氏の問題は、M氏が新メディアの市民記者(フラット成分)だから問題にされたのではない。M氏が新メディアの運営者(非フラット成分)の一人。それも、1/4だから批判・糾弾されているのである。


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伝えたい内容があり、メディアが選ばれ、形式が選択され、演出方法が決定され、文体が綴られる。

プロフェッショナルはそのすべてを意図的になす。

コンテンツがあり、そこに固有名詞があれば、発信の主体は隠れることはできぬ。



インターネットの基本は自虐である。

他者を思いやることは、美しき風景であるが、それが自他の境界領域の内側の存在する他者に向けて発せられるならば、自画自賛の類である。

インターネットでは、自作自演という形容があるが、類例かもしれぬ。
posted by スポンタ at 09:08| 東京 🌁| Comment(5) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年08月11日

アルゴの時代71:西村氏・佐々木氏への反論。「2007年のインターネットに衆愚は存在しない」

倫敦橋さんの引用について、コメントしてしまった。

記事は以下。

2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? (扶桑社新書 14)での西村博之氏との対談は、おそらく本書の執筆時になされたモノなのだろう。 本書の問題意識の一部が、わりと率直に述べられていて、興味深い。

佐々木 (…)たとえば凄いアジテーターみたいな人が出現してきて、2ちゃんねるとかブログの世界で人気が出てくると誰が止めるのかという話になる。戦前の日本では新聞がみんなで戦争をやろうと大騒ぎして、そこには公共性がなかったんです。それと同じように、今のインターネット上は、戦前の新聞と同じで、ある種の集合知でありつつ、集合愚でもあるわけです。インターネット上のアジテーターの発言にみんなが突っ走っていってしまうと、サイバーカスケード(インターネット上における集団分極化現象)のような状態が起きてしまう。そういったファシズムにも似たものが出現した状況の中で、それを止める能力があるのかどうかということになる。

西村 それは新聞があったときでも止められなかったことを考えると、たとえ公共性があったとしても無駄なんじゃないですか?

佐々木 これまた、身も蓋もない(笑)。西村さんのおっしゃる事は、確かに間違っていないんですけれど、せっかく戦後60年間もがんばってきたんだから、そこですべてを無にして、公共性がなくてもいいと言い切ってしまうのは、寂しい感じがしませんか?

(p122)


佐々木氏の考える「戦前の新聞」の認識、そして「戦後60年」の認識は、まぁ なんちゅうか やはり「元毎日新聞社会部出身記者」そのままなんだなぁ、などと改めて思ったりする。



さて、倫敦橋さんは、佐々木氏の新聞人としての姿勢に感慨を示されている。

だが、私は明確に、西村氏・佐々木氏が同意した内容に、物申す。



【2007年のインターネットに衆愚は存在しない】

・インターネットの特徴はログが残ることである。

・炎上の発生直後は、それがセンセーショナルで感情的な匿名者たちの悪意を印象付ける。だが、1ヶ月もたつと様相は変わってくる。

・時が経つにつれて感情的な言論は陰をひそめ、具体的な解決策を求めたり、過度のバッシングを諌める言論が提出してくる。そのような最終的な着地点が現時点におけるネット言論の終着点である。

・だが、そこに叡智はあるが、おもしろみはないので、その状況にアクセスが集まることはない。


この事実は、最終的な収束点がオーソライズはされないために無視されているが、多くの人達が認識できるネット言論の現在である。

炎上も祭りも、すべてが収まった頃に覗いて見ればいい。

だれが奇怪な言論を展開していたのか、そして、誰が去ったのか。

すべては、ネルソンマンデラの真実和解委員会の法則とでもいうもので、真実が明らかになっている。


その状況を見ずに、初期情報だけで、「ネット君臨」の募金夫婦問題をとりあげた毎日新聞の恣意性は高い…。



たとえば、私の場合。

1.オーマイニュースの開店準備ブログ他において、「オーマイニュース日本版の問題は、言論の偏向の問題ではなく、運営の透明性と編集の透明性(ウェブ2.0の条件であるユーザー主役・オープン性・外部性の実現)をはかることである」と指摘した。

2.当該言論の妥当性は、私がライブドアPJでの経験をつづった幻想の市民参加型ジャーナリズムをブログ上に閲覧することで、追体験できる。


3.オーマイニュース日本版から一切のリプライはなく、佐々木氏と副編集長氏が、言論の偏向問題についての議論が専らであった。

4.一時期、鳥越編集長とのメイルのやりとりはあったが、私とオーマイニュースの編集部との対話はなく、私の記事はオーマイニュースにアップされぬということが起きる。


市民と対話すること、市民を意見にすることを条件とするメディアが、対話を拒絶することは、ひとつの言論の収束点を現出させる。

オーマイニュースは、市民参加型ジャーナリズムが必要な不可欠な条件を満たすことを一切考慮もしない。

それが結論である。

開始ほぼ1年、オーマイニュースは鳴かず飛ばず…。という私の評価はルサンチマンによるものとばかりはいえぬだろう。



だが、このような合理的で妥当性のある言論の終着点に落ち着かぬ場合がある。
それが、特定な組織や、特定の権力によって、意図的な言論操作がなされる場合である。


その例が、パソコン通信におけるオウムの存在であったり、外国人組織だったり、営利を目論む大手広告代理店だったりする。



そのような不正が存在することを証明するために、無名の徒たちは、個人的な正義の名の元に、さまざまなサイトに集結する。

かつて、タイムズ誌のMan of the yearに田代まさし氏を選出させようとしたのも、そうだし、怪我で試合に出ていなかった川崎憲次郎氏をプロ野球ファン投票の第一位に選出させようとしたことも同様である。

システムを専横する特定権力の悪事に対応するために、それらのネット者たちの行動が正当化され、実行される。

特定集団・権力によるネット言論の偏向結果はそのままだが、対抗案件が登場することで、そのメディアそのものの重要度が疑問視されるとともに、偏向さがあぶりだされるのである。



私は市民参加型ジャーナリズムについて言論しているが、その実体は、エスタブリッシュメントたるメディア者たちの専横をいかに減ずるかにある。

プロボクサーだったら、市中で市民を殴り倒すことは許されぬ。
だが、メディア者たちは、さしたる根拠もなく、言論空間で市民を罵倒し、無口でいることを強いている。

そのようなことが起きていることを、多くのネット者か気がついている。

そのことを知らぬふりをするマスコミが、「マスゴミ」と形容されることも無理からぬことかもしれない。


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2007年08月10日

アルゴの時代70:スポンタ言論における「放送と通信の融合のかたち」。

サイバージャーナリズム論」(歌川本)は、立場・考えの違う共著者たちの産物である。
ある書評では、「全部入り」とあった。

ならば、著者同士の言論の乖離をフォーカスすることが読者の理解に資することかもしれぬ。

*

感想の中で特記すべきなのは、歌川氏のアメリカの新聞の利益構造が広告依存型であるのに対して、日本は販売依存型であり、それが日本の新聞社たちのネット移行を阻んでいる。との分析に感じ入る人達が多いことだ。

さて、もうひとつ感嘆する読者が多いのは、佐々木俊尚氏の「今後は、コンテナーの時代からコンテンツの時代になる」というものだ。
テレビとネットが融合すれば、人気番組がメディアを意識されずに視聴者は見ることができる。結果、電波法に守られて寡占状態にあったテレビ局の専横は低められる。テレビ局はメディアであり、デリバリーシステム。つまり、コンテナーということだ。



さて、私はネット者であり、佐々木氏と考え方が異なる。とはいえ、かの本では、市民参加型ジャーナリズムに関連する言論の場しか与えられなかったので、ここに記す。

それは、すでに提示していることがほとんどなので、断定的に、箇条書きで記すことにする。もし、興味があれば、関連キーワードとスポンタでググってくれれば、所望のエントリーにたどり着けることだろう。

【放送と通信の融合に関する重要ポイント】

1. 放送と通信の違いは、可塑的かどうかである。

2. インターネットによって放送局が奪われるのは、コンテンツの重要度を決定する権利(編成権)である。

3. インターネットの時代、ユーザーはコンテンツにリモートタグをつけることができる。(可塑性)→コンテンツをオーソライズするのは受け手。

4. インターネットの時代、ユーザーはコンテンツの価値を独自に発表することができる。(コンテンツと重要度のリモートタグの分離)

5. 上記により、コンテンツメーカーがコンテンツに君臨した時代は追われる。


佐々木氏が提出する論理は、電通総研の元社長氏の論理と同じである。かの著者はE-プラットフォーム構想として、ネットとテレビが合体したメディア空間に、コンテンツが存在する未来像を提出する。

だが、ネットとテレビが合体した未来において、コンテンツ発信者たちの立場がいままでどおりなどということがありえるのだろうか…。

私には元社長の言論が、第三コーナーを周って、すでに馬群になっているのに、先行逃げ切りを信じて、「そのまま、そのまま」と連呼する競馬ファンにしか思えぬ。

*

メディア者・コンテンツメーカーというステークホルダー(利害)によってなされた言論であることを、われわれネット者は気がつかなければならない。

時代は、生産者の時代から消費者の時代へとシフトしている。
そのような時代の必然を逸した言論と私は考える。

*

コンテナーの時代であろうとコンテンツの時代であろうと、テレビ局や広告代理店の時代であることに代わりはない。だから、「コンテナーからコンテンツ」という言論は、テレビ局や広告代理店に都合がよく、口当たりがいい。だが、ネットの現実はどうなのだろうか…。



ニコニコ動画は、オリジナルコンテンツに落書きをすることで、結果、コンテンツの可塑性(プラスチック)を可能にしている。
そこに書き込まれることは、スパム的なもの・誹謗中傷も多いが、そのすべてを否定することは民意を否定することにもなる。

民主党が自らのインタビューをニコニコ動画に晒したのは、スパム・誹謗中傷を恐れずに、民意に耳を傾けるという姿勢を強調したかったからに違いない。そして、それは妥当性を持って受け入れられたし、それがダメージにならぬことを、今回の参議院選挙の結果は提示している。

YouTubeが人気である。

YouTubeは関連著作権に縛られて身動きのとれぬ地上波放送局に取って代わり、オンデマンド放送を実現した。

オンデマンド放送が実現して分かったことは、以下。

【オンデマンド・リリース&マルチキャスト・リリースの特筆点】

1. 放送がログとして残ることの、放送局としてのメリット&デメリット。

2. ユーザーの視聴動向がリストになることで、いままでテレビ局の編成部がおこなってきた番組に対する重要度の格付けに関する独占権を、編成部が失う。

3. ログが残り、ユーザーの動向が可視的になることにより、メディアに対する注目度は増加するとともに、注目期間は長くなり、総合的にみれば、ビジネスの好材料となる。(当のテレビマンたちはそれを認めたがらない)


YouTubeが普及することによって、ネット者・テレビ視聴者には一切のデメリットはない。だが、地上波放送局にとっては、メリットとデメリットが存在するのだ。



もうひとつ。
広告について考えてみる。

YoTubeでは、CMがやりとりされることは少ない。

その理由は、テレビ番組の暗喩としてしかコマーシャルが存在しなかったからである。

だが、これからは違う。



湯川氏によれば、「広告枠をオークションするというシステム」がやってくるという。

これにより実現することは、広告主がコンテンツを陰で操る時代が終わると、私は予想する。

*

たとえば、世界中でリナックスがマイクロソフトを脅かしている。最近は、資金難の自治体が、OSをリナックスに変更しているとも聞く。だが、リナックスに関する報道はことの他少ない。

その理由は、マイクロソフトの広告出稿量が絶大なのに比して、リナックスは広告主としての期待値がゼロだからである。

*

私は昔、土曜ワイド劇場の助監督をしたことがある。あの番組の中ではレギュラーコーヒーを淹れるシーンはご法度である。なぜなら、スポンサーに日本ネスレが入っているからである。勿論、これは日本ネスレがそのように指示したのではない。広告代理店がスポンサーにおもねって、そのようなことを製作現場に強制するのだ。

*

私はいまでも、「俺がこんなに強いのもあたり前田のクラッカー」というセリフを覚えているし、シャボン玉石鹸の広告歌でしかないピーナッツが歌った歌を思い出す。
広告が番組の中にあからさまに入っていたとしても、悪いことじゃない。



いままで、コマーシャルと番組を分離しなければならぬという不文律も、YotTubeによって変化してくる。
それは決して悪いことじゃない。

たとえば、わたしはインターネットで見た映像で印象的に覚えているものがある。

コーラにフリスクを入れた実験の映像だったり、ピタゴラスイッチのような実験をしたホンダのクリップだったり…。
それらが、番組として成立する価値を持っていたのだが、いままで地上波テレビ局はそのような企画を通すことができなかった。だが、これからは、それが可能なのだ。

昔、NHKで仕事をしたときに、NHKのテレビマンたちは、CMがないことと、民間の商品を使いづらいことをとても残念に思っていた。そのような桎梏は、視聴者には見えなかっただけで、実は、民間放送も同様であったといえる。



YouTubeに代表・象徴されるような、コンテンツ・アグリゲート・メディアの頻出は、いかなる抵抗があろうとも、とどまることはない。

いまは、無駄な抵抗を繰り広げている著作権擁護関連のムーブメントも、いつか、ベルリンの壁崩壊的な出来事が起きるに違いない。


その結果起こることは以下。

【スポンタが予想する、コンテンツと広告の関係の今後の変化】

1. 広告とコンテンツの分離が行なわれる。

2. 広告枠のオークションやグーグルのアズワーズのようなシステムの導入によって、広告主がコンテンツに過度の影響を果す時代が終焉する。

3. 広告とコンテンツのコラボレーション・合体とでもいうべき番組制作が実現する。


*

一言でいえば、テレビマン・広告主・視聴者が対等な関係になる。

それが、これからの放送と通信の融合する世界である。

*

そこで広告マン・テレビマンは何をすべきか。

答えは簡単である。

従来のマーケッティングの手法では、従来情報の中に埋もれてしまう。

自らのスタンスを明確にし、従来情報との間の価値ある乖離を提示することである。


私の結論はいつも同じ。

コミュニケーションの時代は去り、確かなるアイデンティティーが求められる時代がやってくるのだ。


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2007年08月08日

アルゴの時代68:グーグルはトップ5ではなく、ボトムから閲覧していけ。

さて、グーグルの隠蔽された単独アルゴリズムの専横の弊害について述べている。

日本では、グーグルよりもヤフーの検索が一般的である。その理由は、グーグルがコアなところに行き過ぎてしまうということだろう。

一方、テクノラティーというのがある。こちらはRSSリーダー的であり、ブログにアップされた情報を知るために便利だ。ここでは、時間に関する重要度が高い。



さて、最近の私が何をしているかといえば、「サイバージャーナリズム論」(ソフトバンク新書)を読んでくださった方・購入してくださった方・書評をのせてくださった方に、感謝のコメントをあげることである。

昨日も、在日タイ人の方のサイトに感謝のコメントをさしあげている。

私が使っているのはgooのRSSリーダーであり、そこでキーワードとして「サイバージャーナリズム論」を登録し、新たにアップされているものを読んでいる。そういう作業を行なっている。

とはいえ、gooのRSSリーダーが万能ではないことも知っているから、時折、Googleでキーワード検索をかけて、「サイバージャーナリズム論」を購入したり、読んだ人達の記事を探している。

そんなことをしていると、Mrs.スポンタ氏が妙なことを言う…。

「グーグルは、まず検索結果のページの一番最後から行くの」


NHK特集のGoogleでは、「トップ5に入らぬ情報は存在しない」との言説が紹介されていた。

だが、だがである。
Mrs.スポンタ氏によれば、「グーグルはボトムから閲覧していけ…」と。

しばし、唖然である。

…何故だ。

だが、少しして、私も合点がいった。

アメリカにおいてのグーグルの使い方は、トップ5に入る情報を辿っていけばいいかもしれぬ。だが、日本では、グーグルはボトムから閲覧すべきなのだ。




Mrs.スポンタ氏は、我妻である。

我妻を改めて紹介する必要もないが、彼女の情報収集に関する情熱は高い。

その理由は、わが娘。Miss.スポンタ嬢が、小学4年生にして、シックスクールに罹患したからだ。

彼女の活動は、ここで見れる。

娘のような症状の患者が一人いるということは、娘が通う小学校には、潜在的な患者が2割存在するというのが、専門医師の見解である。ならば、潜在的な患者の啓蒙と、数多い罹患者のための情報を探すことが、ある時期の彼女の日課になっていた。

彼女は、言語を飛び越えてサイトを縦横無尽に情報を渉猟する。
そして、出した結論が、なんと、「グーグルはボトムから攻めろ」という結論である。

*

つまり、グーグルのトップ5に載っているような情報は、ありふれているものであり、わざわざ知る必要もないことが多いということ。

グーグルで検索しなくても、ヤフーでこと足りる。そのあたりが、ヤフーが日本で一番使われている事情だろう。

そして、ヤフーをすでに見ていれば、グーグルのトップ5、トップ10に掲げられているような情報というのは、ヤフーとの重複が多く、再度グーグルで検索する必要もない。
ならば、トップ項目はヤフーで事足りるし、中途半端なコア情報が混じるグーグルの価値はない。

結果、グーグルの真骨頂はどこにあるかといえば、ボトムあたりのエントリーとなる。

グーグルの素晴らしさは、クローラーが情報をキャッシュする部分である。一端キャッシュされてしまえば、ほかの検索サイトは、それをリファレンスして、リストをつくりあげるのだろう。


そのようにしてクローラーによって突き止められキャッシュされたものさえ、インターネット上の全情報き1パーセントに満たぬ。インターネットとは、そんな途方もない世界であり、1パーセント以下の情報を扱っているにすぎぬグーグルを神などと形容するのは、過大評価もいいところである…。



トップ5あたりの情報はグーグルであろうと、ヤフーであろうと大差ないし、その一方で、最新アップ情報に関しても、テクノラティーであろうとRSSリーダーであろうと大差ない。

以下は、その実際。

【ヤフーでスポンタ中村で検索した結果】

1. Doblog - スポンタ通信。

2. 【児童館の王様】スポンタ中村【暴力PJ】

3. スポンタ通信2.2

4. AnotherB - 深く失望

5. けろやん。メモ - 勧められたお見合いを断った

6.【スポンタ】ライプトアPJを見守るスレ3【アンカーウーマン】

7. 地球人スピリット・ジャーナル - 楽天ブログ(Blog)

8. スポンタ通信2.2: アルゴの時代36:ディベートをやめよ。「消えた年金記録問題」

9. Parsleyの「添え物は添え物らしく」

10.Parsleyの「添え物は添え物らしく」



【グーグルでスポンタ中村で検索した結果】

1. Doblog - スポンタ通信。

2. スポンタ中村のブログコラム

3. 室井佑月さんの「(スポンタ通信私感で)嫌なオフ会」の話を少しだけ

4. スポンタ通信2.2presented by スポンタ中村。

5. スポンタ通信2.2: アルゴの時代61:DJ研が一切指摘しなかったネット

6. 【児童館の王様】スポンタ中村【暴力PJ】

7. Amazon.co.jp: スポンタ 中村: 本

8. スポンタ 中村 の詳細 : Booklog

9. AnotherB - 深く失望

10. サイバージャーナリズム論<5> - 地球人スピリット・ジャーナル ...


こうみてくると、ヤフーもグーグルも、さらにいえば、RSSリーダーも似たようなものに思えてくる。

さらにいえば、検索結果のサイトたちはそれぞれリンクが張られているから、検索エンジンを使わなくても到達できるサイトばかりである。

また、リモートタグ経由、おとなりさんブログ経由で行くことも可能なサイトばかりであり、検索エンジンの重要度は相対的に低くなっている。

そして、グーグルのコアコンテンツは、検索結果ではなく、キャッシュ…。

それが2007年だ。




そして…。である。

たとえば、「スポンタ中村・サイバージャーナリズム論」で検索すると、検索結果は、667件である。
では、「スポンタ中村・湯川鶴章」で検索すると、1080件である。

そもそも何を望んでいるかにもよるが、データー量が多いほうが、所望のものを含んでいる可能性は高い。
それは、指名手配において、モンタージュ写真よりも、手書きの似顔絵のほうが重用されるのと同じ理由だ。

手繰ってみていると、提示される情報はこの3年ほどの情報がことのほか多い。

*

今度は、「スポンタ中村 それから」で検索してみる。検索結果は841件。

そこで御堂岡啓昭のmixiでお勧めした本などというサイトにも出会う。



さて、SEOに詳しい人なら、あえて指摘するまでもないのだろうが、グーグル検索のトップに載るようなサイトは、タイトルにキーワードが載っていたり、エントリー文の最初の方にキーワードが載っている場合が殆どだ。

だが、そのようなものは、どこか利益誘導的・ビジネス的な言論、恣意的な言論だったりする。

化学物質過敏症の関連データを渉猟していたMrs.スポンタ氏はそのあたりを意識しつつ、さまざまな情報に接しながら、メディアリテラシーを追求していったに違いない。

「ほんとうのところどうなの?」その答えを探すとき、グーグルのトップに踊るようなページは眉に唾して眺めなければならぬのである。

*

かくいう私も、シーサーブログで鼻白んでいることがある。

それは、ブログでのエントリーアップ時における、タグの入力である。

タグの入力によって、検索性が上がるのかもしれぬが、私にはそれが、どうしてもセルフブックマークにしかとれず、入力することに躊躇するのである。

同様に、タイトルやリード文が意図的に構成されるのならば、「グーグルはボトムから攻めろ」という手法が、ユーザーたちの間で広まることも容易に予想できるのである。



ここにおいて、もうひとつのグーグルの欠陥が出てくる。

つまり、グーグルは検索ワードに対してポジティブな情報しか接することしかできず、対立概念や否定情報をなかなか検索することはできないのだ。

グーグルがそのようなアイランド的な言論空間を形成していることを、我々は気がつかなければならぬ。

…そこにおいて、WIKIPEDIAの価値がある。すくなくとも、あそこには対照がある。

SEOのオプティマイズは最適化という意味である。
だが、これを楽観化などと揶揄されるようなことが存在するのなら、グーグルはデマゴーグのためのツールとなり、社会を分断していくための原動力にしかならぬ。

そのような構造欠陥があるにも関わらず、「グーグル八分」を行なうグーグルは、なんともはやであり、ここにおいて、眞鍋かおり嬢のかつての発言も悪いもんじゃないと思う。



グーグルはオリジナル情報の可塑性を想定しなことによって、対話を拒絶している。
対話が拒否されれば、民主主義は成立しない。

ならば、我々はグーグルを神様と崇めている場合ではない。

コンテンツの可塑性を否定することで、民主主義を拒む人達と戦っていかなければならないのだ。


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2007年07月31日

アルゴの時代63:参議院選挙の意味。

大臣がさまざまな失言をしたり、金銭問題が明らかになり、批判された。
そのことが、安倍内閣の不支持層を広げ、参議院選挙で自民党惨敗の結果に導いたという憶測があるが、それは間違いだと思う。

野党が大臣の発言を恣意的に抜き出し、問題にし、政権批判につなげることは過去にもあった。だが、そのような批判のレベルではないと思う。



民営化というのは、日本という国家が立ち向かわなければならぬ必然であり、そのための国民投票と化したのが、前回の衆議院選挙だった。

今回の選挙は、年金の不払い問題についての国民の明確な判断だと思われる。

年金を金融商品と呼ぶことに専門家は難を示すかも知れぬ。だが、金融機関に入金したにも関わらず、その記録が抹消され、対価が支払われないというのは、日本という金融機関が機能不全に陥っていることを示している。

今回の参議院選挙は、金融機関としての行政の腐敗を越えた機能不全を改革するために多くが民主党に投票したのだと思われる。
つまり、自民党レベルの改革(内的改革)では事態は解決せず、民主党の関与による外的改革でなければ、事態は払拭されぬという判断を下したといえる。

年金不払い問題は、改革で収まるのレベルの問題ではない。

銀行だったら、取り付け騒ぎが起こる重大問題。だから、これほどまでに自民党が惨敗したのだ。



私は、年金記録の抹消が行なわれた1980年代後半に、情報関連のイベントで映像を作成していた。
その頃、日本の主だった電機メーカー・情報メーカーと仕事をしている。

そこで、感じ取っていた情報処理者の常識は次のようなもの。

・誤入力は必ず起こる。

・データは必ずバックアップをとっておくこと。

・ならば、電子データに誤りの可能性があるならば、紙データが廃棄処分されるはずはない。


霞ヶ関は官僚的な無責任な構図・官僚の意思決定のアルゴリズムに牛耳られている。
ならば、データを捨てるなどという決断・英断がなされるはずはない。

ならば、年金の記録はどこかに残っているはず。
つまり、電子データー化をすすめたいがばかりに、書類は表面上は消えうせているが、どこかにあるはずである。

そして、安倍首相は、どこかの時点で、「いままで通り、オリジナルの書類は廃棄されている」という公式見解を継続することを決断したに違いない。



金融機関が、人柄によって、年金を納付していたかどうかを決める。


こんな施策をする政府の信任が得られるはずがない。

内的改革が無理ならば、外的改革を国民が望むのは無理もないし、マスコミがどのように報道しようと、国民の心の底には、金融機関が大切な帳簿を捨てるはずはない。

最近のパソコンだってクラッシュしてデータが消去されることがある。

そんなクラッシュは20年以上前ならば、日常茶飯事だし、そのためのバックアップが取られている。オリジナル文書がどこかに保存されているに違いない。と感じているのだ。



日本は、ファミリーレストランであり、社員食堂のようなA定食B定食で、顧客が満足するような社会ではない。
だから、二大政党制は、日本に似合わないと言論してきた。

だが、A定食にお金を払っても、料理が出てこないなら話は別だ。
国民たちがB定食に殺到するのは当然のことである。


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2007年07月29日

アルゴの時代61:DJ研が一切指摘しなかったネット言論の本質。スポンタ中村が提出する「バイラルとの決別法」。

カルト汚染を内包して憚らなかったデジタルジャーナリズム研究会。

*

私が、デジタルジャーナリズム研究会について言及するのは、オウム真理教に関わるM氏が民主党のブロガー懇親会に参加したことにより、彼を紹介したグリップブログの運営者が批判されたことに連なる。

当時、グリップブログ運営者はインターネット市民参加型ジャーナリズムを立ち上げようとしており、当該、大量殺人集団関連者も企画に参画していた。

大量殺人集団に連なるも、一切の謝罪も懺悔も反省もしない当該人物。彼が企画に参加したインターネット市民参加型ジャーナリズムが誕生することは、インターネットのカルト汚染につながる…。

話のスタートは、当該人物と関わった人達がカルトに属しているのではないか。との批判から始まった。
その文脈の中で、「日本人は全員、隠れオウム信者」などという暴論も書かれることになった。
湯川氏も、グリップブログ氏をゲストに呼んだことにより批判され、彼のサイトは方向転換を余儀なくされた。
彼は、一切関わらぬことで、自らの潔白を主張した。

だが、佐々木俊尚氏、歌田明弘氏、R30こと川上慎市郎氏、泉あい氏の4氏は違っていた。
「渦中の栗を拾う」と、当該オウム者に鼎談インタビューを試みた

そのインタビューを読んでいただければ分かるだろうが、そこには、死者40人、被害者数百人のことをまったく考慮しない言論が展開されている。

インターネットであろうとも、公器なのだから、日本の社会通念と明らかに逸脱した言論の自由はない。
彼らは「難しい」と言ってお茶を濁すが、大量無差別事件の善悪を判断することが難しいはずはない。

このインタビューはさまざまな反響を呼び、さまざまなネット者たちがグリップブログや関連サイトに、コメントを書き込んだのである。

私は、「健全なる市民参加型ジャーナリズムを日本に成立させるためにはどうすればいいか」の観点から、事象を見ていたから、それらのムーブメントとは一線を隔していたと認じている。そのために、批判もされたこともあった。

*

グリップブログは、M氏の参画によって頓挫した。泉氏はM氏を切り離すことで、グリップブログの存続を望まなかった。結果、泉氏はM氏ともに社会的影響力は極小化した。

一方のデジタルジャーナリズム研究会は、大量殺人集団を非・否定論者である佐々木俊尚氏を企画者のトップに迎えている。
ならば、グリップブログと同じ運命を辿らなければ、カルト汚染が温存されたことになる。

今回の出版において、泉あい氏も執筆者として名をつらねている。
彼女のオウム疑惑はいまだ晴れていない。

たしかにマスコミにも、オウム者・隠れオウム者はいるのだろう。
だが、かれらは自らが属するメディアで、オウム擁護論を展開しない。できない。
一方の四人組は、オウム真理教に言及しつつも、被害者についての憐憫や、集団殺人行為の反社会性・悪性について一切触れない。これは明らかにオウム擁護論である。

今回の書籍の共著者に名を連ねたことで、泉氏の復権が画策されているのかもしれない。
思うに、それは今年になって、佐々木氏が「SNSの研究 あなたはまだ「マイミク」のことが好き?」の共著者にM氏を選んだことと同様な意図のもとになされていることだろう。

*

だが、私はネットを信じている。
インターネットの集合知を信じている。

私が行なったことは、リカレント(思い起こす作業)である。

ことは、炎上などという短期な、集団的言論行動ではない。1年半におよぶ集団的言論行動である。

もし、インターネットがカルト汚染が危惧するようなことが起きれば、私に代わって多くの人達が言論してくれるに違いない。

そして、そのような言論者が多出したとき、私は次のように言う役目を務めさせて欲しい。

「対話こそ重要。もし、対話が望めていないならば、あなたも反省すべきである」と。

あれ、それって、今の自分のことだ…。

(^^;)




☆----------------------------

出版された書籍の内容をイメージするに、会議そのものは活発であり、盛会だったと思われる。

だが、問題は、カルト汚染を払拭し切れなかったことであり、その問題を解決しなければ、先にすすんではならぬ。



泉あい氏がGripBlogを立ち上げたものの、道半ばで頓挫したのも、不特定多数を扱う場合に、カルト汚染を防ぐための対策が重要不可欠であるにもかかわらず、その対策を一切とらなかったからだ。

ネットジャーナリズムの問題は、実はコンテンツそのものにはなく、「発信者の属性と言論の関係」にある。

コンテンツに真正性があっても、それを操る発信者がカルト的な意図を持っていれば、コンテンツの真正性はかりそめな物である。

ヨガ教室もインド文化を研究することも邪悪なことではない。だが、それをカルト的意図に行なうならば、それは社会悪である。



さて、ネットジャーナリズム---。

ネットに関わらず、特定者発信・不特定者発信において重要なことは、バイラル(汚染)の排除である。

バイラルであるかどうかは、特定者・不特定者・実名・匿名に関係がないことは、DJ研のケースで理解できるだろう。

*

そして、そこで実際にバイラル言論が展開されたかも問題ではない。
民主党のブロガー懇談会で、オウム真理教の教義が話題になったはずなどないのだから…。

問題は、発信者の属性である。

*

では、バイラルな要素は何かといえば、次になる。

【言論を汚染するさまざまな要素】

1. 商業的

2. カルト

3. 宗教

4. 思想

5. 民族的異分子

6. ねずみ講


それらが一切否定されるべきものなのか、一定の範囲において許されるべきものなのか。それは、個の主観によるだろう。

そして、いかなる個の多様性も否定できぬ現代社会においては、その主観性の好悪を吟味することは危険である。

*

予防注射の注射液と、病原菌はほとんど同じである。

ならば、やるべきことは、コンテンツを吟味することではなく、コンテンツと発信者の属性を勘案することである。



私が提示する、総表現社会におけるネットジャーナリズムを一切のバイラルから逃れるための施策は、次のようになる。

【いかなるバイラルからも無縁な健全なネットジャーナリズムを成立させる条件】

1. 言論(コンテンツ)と発信者の属性の分離。

2. 匿名による、言論と発信者の分離。

3. 実名+リアル属性の明示による言論の提出。


すでに、指摘しつづけてきたことだが、DJ研において異なる見解が呈されたので、あらためて指摘するが、「受信者たちにメディアリテラシーを求める」ことは間違っている。

情報のリソースに触れることのできぬ受信者たちに、メディアリテラシーが確立できるはずはない。

巷間の議論では、リファレンスをすることによって、メディアリテラシーを確立することが望まれているようだが、そのようなことを主張する発信者は卑怯である。

*

発信者は、自らの立場・潔白性・誠実さを告白しなければ、発言してはならぬ。

発信者が、「その情報が嘘かどうかの判断を受信者に委ねる」などというのは、詐欺師のセリフでしかない。

発信者は自らの潔白をとことん告白しつづけなければならぬ。

*

それは、アメリカのイミグレーションで、「私はアルカイダではない」と、主張するのと同じ。
日本においては、「私はオウム真理教の信者ではない」と主張しつづけなければならない。

泉氏のように、「いくら言っても、納得してもらえないの…」などと、愚痴を言う権利はない。
自分が、カルトと間違われたら、徹底的にカルト批判をすればいい。踏み絵よろしく教祖の写真を踏んでもいいし、教義・経典を批判してもいい。だが、彼女が連なった言論は、「みな隠れオウム」や「オウムの教義はけっこうまとも」。これでは、カルト者として疑われ続けるのは当然のこと。



情報の受け手のメディアリテラシー。

情報の送り手が、リソースに接していないことを理由に情報の受け手を批判することは間違っている。

情報の受け手が取材先に行くことなどほとんど不可能なのだから…。

*

たとえば、佐賀県知事の定例記者会見で、天皇巡幸に関する乱費を指摘する毎日新聞記者がいた。

彼は、天皇の巡幸を県民が望んでなどなく、そのための費用を捻出することは税金の無駄遣いだと指摘する。
県知事は、天皇の来佐賀は県民の願いであり、天皇陛下が県民を勇気付けることに価値がある。と答弁した。

当時、当該毎日新聞記者が、皇室関係者に使うべき用語を使わなかったことが問題視された。

だが、だがである。

少し経って、当該記者が、異民族出身者であることが分かった。

日本民族でなければ、天皇陛下に尊敬の思いがないのは当然のことである。異民族であれば、佐賀県民の天皇に関する思いが理解できぬのは当然のことである。

*

リソースに接触できぬ一般人であれば、日本人の天皇陛下に対する尊敬が軽減していると勘違いするに違いない。だが、異民族の言論が、日本人の言論として提出されているのであって、それに騙される受信者に罪はない。

責められるべきは、日本人を詐称して言論した異民族出身者である。

もちろん、異民族出身の日本在住者としての言論の自由はある。だが、日本人を詐称して言論することは卑怯千万。

これもバイラルのひとつの例といえるだろう。



すべからく、バイラルと無縁にするための施策は、発信者とコンテンツの分離である。

だが、発信者と分離した言論についても、バイラルであることを捨象する方法がある。

そのために、私が言い続けてきた言葉が、「固有名詞はゴシップである」というものである。

*

NHKの募金夫婦の提出した言論は、その情報から固有名詞を取り除いた場合成立しない。

つまり、そこにこそ、カンパと募金の違いがある。

カンパはSNSにとっては妥当性があるが、グローバルコミュニティーにおいて妥当性を持たぬ。

私が、M氏と固有名詞を使わず伏字にしているのは、そういう暗黙の意志もあるのだ。



さまざまな事例をあげつつ、インターネット上におけるデジタルジャーナリズム研究会の意味についてリカレント(思い起こし)してみた。

事実誤認があれば、指摘して欲しいし、関連サイトなどのリンクをコメント欄に張っていただければ幸である。

勿論、私に対する批判・ご意見も歓迎である。

なぜなら、当該案件について、重要度を共有していることの表明だから…。

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2007年07月28日

アルゴの時代60:アルゴリズムとしてのデジタルジャーナリズム研究会

アルゴリズムの時代のシリーズで、何故、デジタルジャーナリズム研究会をとりあげるかといえば、インターネット上で、カルト汚染を内包していると批判され、閉じこもったデジタルジャーナリズム研究会が、出版物をなしたからである。


インターネットの特徴はログが残ることである。

ならば、DJ研のカルト汚染問題は、いつまでたっても、「ほとぼりはさめない」。

かのグリップブログに行けば、トリルさんの質問で終わっているし、歌田氏のサイトにいけば、私の質問が宙ぶらりんのまま、終わっている。

それらに返事をかくことからしか、明日はやってこない。

図らずも、それらが集合知の結果をしめしている。

それがインターネットの言論であり、きびしい世界である。



☆-----------------------------------------------

大量殺人集団の一員だったM氏の表現の自由が制限されると私は指摘し続けている。

だが、M氏の1/1億3千万(日本の総人口)の発言権が失われたとは言っていない。

殺人者であろうと、反社会的な思想の持ち主であろうと、我ら日本というコミュニティーの構成員であるならば、その構成比率の重要度に即した発信は許される。否、許されなければならぬ。

ただし、それ以上の重要度を仮想して発信されることは許されない。
私は、そのことを指摘つづけている。



先のエントリーで指摘したように、コミニケーションの基本は1対1である。

コミュニケーションは相手が決めるという俗諺がある。
ならば、言論は、読者・対話者においてオーソライズされる。

ここにおいて、コミュニケーションの基本は、2/1億3千万。つまり、1/6千5百万ということになる。

コミュニケーションにおいて、反論しないことは、是認・合意となる。ことが、大量無差別殺人となれば、反論しないことの罪は大きい。



マスコミニケーション。

テレビの登場人物は、数百万人という視聴者を相手にするから、1対数百万という形になる。

そういうコミュニケーションは極めて歪なものであるが、それを受け手の側が納得していればいいことなのかもしれぬ。

だが、問題は、受け手が納得していない場合である。
一切の対話をせずして、1対多のコミュニケーションを継続することに妥当性はない。



アルゴの時代の11で指摘しているが、「記事をオーソライズするのは読者である」。

マスディストリビューションによって、一対多のコミュニケーションが成立しているかにみえるが、メディア者が、読者・視聴者に代わって、先行してオーソライズしているに過ぎぬ。

そして、そのオーソライズに妥当性がない場合、視聴率は低迷し、出版物は売れ残る。


売れていないロックバンドは、200名収容のライブハウスでコンサートをやる。
人気があるロックバンドは、東京ドームで5万人を集める。

興行師は集められる人数を予想して会場を決める。
ライブハウスなら十万円程度で借りられるが、東京ドームならば一千万円必要だ。

ロックバンドの社会的重要度を興行師を考える。

メディア者たちは、情報の重要度を考える。

どちらも同じ作業である。



コミュニケーションとは、コンテンツの内容について、コミュニケーションの両端が重要度を共有している場合に成立するものである。

だが、そのような合意のないまま、コミュニケーションが成立しているならば、それは、マスコミニケーションではなく、マスディストリビューションである。

*

テレビの場合は、そうした重要度の勘案を番組制作者や編成局員たちが行なっているし、出版物の場合は出版社が行なっている。その重要度のレイティングによって、週間番組表の中での放映枠が決められるし、出版物の場合は発売部数が決められることになる。

そして、それは視聴率や販売数によって修正が加えられ、テレビ局や出版者が下した重要度の勘案の妥当性が確認されるのである。



だが、だが、である。

今回、デジタルジャーナリズム研究会が出版した書物の場合はどうだったのか。

デジタルを冠した書物であれば、ネット上での重要度がリファレンスされるべきである。だが、そのようなリファレンスは一切なく、突然のように出版がなされた。

*

仮に今回の発売数が5000部であれば、出版社の権力によって、1対5000のコミュニケーションが目論まれたのである。

だが、その程度の重要度がなければ、販売部数は売れ残る。逆に、それ以上の重要度があれば増刷される。

*

実際の販売数がどの程度になのか私は知らない。
ただし、それなりの大学関係者と著名諸氏の名前が並んでいるので、それなりの販売部数が出るのだろう。だが、それがその本の内容の妥当性を保証しない。

彼らが属するSNSのサイズを示しているに過ぎぬ…。

*

著名諸氏と出版社のコミュニケーションがあり、それが出版を実現する。そのようにして既得権者たちが、既存の重要度を温存しつづける。
そのようにして、販売部数に関わらず、彼らの存在感・社会的重要度のタグを温存させる結果を生んでいく。

今回の出版につき、滝本弁護士やトリル氏や私や、その他多くの人達が疑問を呈したことは一切関連づけられていない。

それこそ、デジタルジャーナリズム研究会のメンバー諸氏が目論んだことであり、少なくとも、それはリアルな世界においては成功しているといえる。

勿論、ネットに関心を持つ読者の多くがインターネットで情報に接することを望む。
ならば、そのとき、かの研究会がいかにインターネットに背を向けているか。カルト疑惑を元に、活動報告さえネットにアップできぬ状況にいたった経緯を知るに違いない。

*

かの著作の公式サイトがあるようだ。
TBがあり、好意的な意見・情報はそこからたぐることができる。
だが、それは、本情報との乖離点は少なく、情報としての価値も低い。

つまり、TBされるサイトの切り口は甘く、重複性・ノイズ性の高い情報が多い。

一方、私のサイトのような、リモートタグのようなサイトが存在し、それらを辿っていけば多くを知ることができる。私の情報の妥当性は、私のブログのリモートタグを探ればよい。

公式情報をリファレンスしつつも、リモートタグたる情報をめぐることが、今後のネット者の標準的なやり方になっていくだろう…。



昨年の秋に話題になったNHK職員の募金夫婦のケースがある。

あの事案は、夫婦が募金ではなく、カンパを名乗るならば問題はなかった。だが、彼らは特定個の利益に繋がる金銭収集を、社会的不備を埋める正義と詐称して行なったのである。

*

ことは、ロンドンのナショナルギャラターで、ラファエロの「聖母子像」の海外流出をふせぐための募金とは違うのである。

あのとき、法的整備・制度的不備を補うために、募金が行なわれた。
そして、その不備に気づいたイギリス政府は、特別予算を組むことなった。

募金夫婦の場合は、そのような案件とは決定的に異なる。
彼らが行なった募金は、特定な個に対する不公平な利益誘導である。それを政府が追認することはありえない。

確かに、それは、個の論理としては成立するものの、コミュニティーの論理としては是認されるものではない。

ならば、募金ではなく、カンパなのである。

*

その作業は、同業者たるテレビマンや、マスコミでの著名人を巻き込んで行なわれた。
それは、隣人の情としては、成立するものの、許認可事業である電波法のもとで営まれる放送局の資財をつかって、募金活動が行なわれるような妥当性を持たない。

*

笑点で、メンバーたちが自分達の独演会の情報を提示することは許すとしても、自分達にプレススキルがあるからといって、そのスキルをほしいままにしていいのかといえば、そうではない。

プレススキルがあるものほど、自重すべきなのである。



すべてのマスコミュニケーションの所作というものは、当該コンテンツの重要度にしたがって、行なわれるべきものである。

重要度の評価はメディア者が、不特定のユーザーに代行して、先行して行なうものである。

その妥当性の程度によって、メディア者は経済的享受や経済的損失をうるとともに、毀誉褒貶にもさらされる。

それが、マスコミニケーションの実体である。

*

インターネットの時代であれば、不特定ユーザーの動向はかつての時代よりも、細かく察知することができるはずだ。

アカデミズムな構造をまとっていれば、新新宗教の出版物よろしくある程度の販売部数が予想できるのだろう。

だが、そのことが内容の充実を一切保証しないし、今回の著作が関係者たちの業績・実績として積み上げられていくのだとするのならば、ネット言論もなめられたものである。



ネット言論を一切リファレンスしないデジタルジャーナリズムに価値はないと、私は断言する。

その一方で、笑ってしまうようなネット言論を巻きこんだ会議があったようだ。

世の中は進んでいる・動いている…。

もし、デジタルジャーナリズム研究会のシンポジウムが、同じような構造をつくってくれるならば、私はネット上で参加する。

だが、私がそのような参加表明をするならば、そのようなことは実現しないだろう。

同時ネット中継とTwitterのリンク。

そのようなありふれたツールを使えないような議論の場は、SNS、クローズドサーキット、特定アルゴリズムの専横でしかない。



インターネットにおける理想的なアルゴリズムとは、濫觴・黄河の一滴である。

個の言論が、対話者(P2P)の評価を得、それがクラスター(葡萄の房状)化していく。クラスター同志が対話することにより、有機的な変化が生まれ、それが世論・集合知に繋がっていく。

そういう過程を経て得られる言論こそ、世論であり、ポピュリズムと一線を隠す言論なのである。

*

現時点の私はといえば、クラスター化もままならず、個として孤立している。ポピュリズム以前の存在。

自虐あるのみである。.....ORZ


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2007年07月27日

アルゴの時代59:デジタルジャーナリズム研究会の出版の持つ意味。

アルゴの時代として、デジタルジャーナリズム研究会の営みについて触れるとは思ってもみなかった。



タイムズの職業規範だったかどうかは忘れたが、「新聞人は、時代の半歩先を行き、時代や大衆を先導するものである」というのがあったと思う。

かようなジャーナリストたちのダンディズムが、個の発信が可能になった2007年において、極めて恣意的・主観的であり、傲慢な考えであることに気づかなければならない。

*

時代の半歩先とは、コミュニティーの現状と新聞人である個の乖離である。その乖離を修正するために、個が譲るべきか、コミュニティー全体が譲るべきかは、ケースバイケースであり、その勘案もしないで、新聞人が世の中を引っ張っていけという職業規範を持つことに妥当性はない。

*

反権力を誇り、リベラルが絶対善かのように論じるマスコミ者は多い。
だが、権力がいつも間違っているはずもないし、自由(リベラル)であることは、ときとして社会の秩序を乱す…。

新聞人たちは、市井の意見に耳を傾けることが職務であって、自らの意見を開陳することに専らになれば、それは新聞人ではなく、言論人になる。

新聞人としての強い誇り・矜持を持っている人ほど、言論人になりたがっている。そんな妙な現象が多発している…。

私は今村昌平の映画学校の出身者であり、表現者であろうと、48年の人生を生きてきた。

だが、その先にたどりついたのは、個を表現すること・個を誇ることではなく、ユング的な集団的無意識を、ロゴスとして現出させることであった。

横尾忠則氏は、若き表現者は個を表現するところから芸術に入る。だが、年輪を重ねることにより、個を捨象することをめざすようになる。
自分という個を表現することよりも、人間や自然・存在・運命という普遍的なものを描くことを芸術家が求めるのは当然のことだろう。

芸術家として誇るではないが、私の市民参加型ジャーナリズム確立にむけた言論活動も、横尾氏と同じ文脈にある。


*

ニュースステーションの古館伊知郎氏に許されることは、「2ちゃんねるにこんな意見が載っていました」というふうに、自己の立場を隠蔽して、言論することしかない。

彼が、2ちゃんねるに反旗を翻す権利は、1/1億3千万(日本の人口)しかなく、もし、2ちゃんねるを批判したければ、自分ではない他者(1/1億3千万)の反論を引用すべきである。

彼が、自らの立場で2ちゃんねるに反論すれば、テレビ視聴者の数(数百万?)のレベルで、発信することになる。

※ これはテレビがマスコミュニケーションのひとつであり、コミュニケーションの基本が1対1であるならば、当然紡ぎ出される結論である。

私は、数百万のレベルで2ちゃんねる批判論が成立しているとは感じていない。
2ちゃんねるへの思いが数百万のレベルあるにしても、それは多岐・多様であり、ひとつに収斂するようなものではないのではないか。



アカデミズムも同様である。

現状を分析しているフリをして、自説を語っている。
否、自説を語るだけならいいが、自己のステークホルダーにまみれた言説を繰り返す。

アカデミズムが商業主義から隔絶した客観・中立なものだと思う人がいたら、それは素朴な人と言う他ない。

大学教授は、卒業生の就職を常に気にしている。
ならば、卒業生の就職先になるような大企業を批判する言論を紡ぐ権利はない。大企業は有名大学しか相手にしないから、有名大学の教授ほど企業批判の言論をしないようになる。

もうひとつは、自説の奴隷であること。

著作を持ち、その言論で講義・講座を持つならば、その前提となる過去の自説を覆すことはできぬ。それが一番の問題。

*

たとえば、大学には「コミュニケーション」や「メディア」を冠した学部・学科が多々ある。

だが、2007年に起きていることといえば、日本のコミュニティーを豊にするための最重要要素は、「コミュニケーションスキル・コミュニケーションツールではなく、個のアイデンティティー」である。

*

明治時代であれば、英語が喋れるというコミュニケーションスキルだけで、偉そうな顔をして世の中を渡り歩くことができた。だが、2007年。英語が喋れるだけでは評価されぬ。それだけではない。ワードが使えても、エクセルが使えても、パワーポイントが使えても、一切評価されない。重要なことは、ワープロが使えることではなく、そこで何を書くかである。エクセルで計算することではなく、エクセルの表やグラフで、何を表現するかである。パワーポイントは会議を娯楽的にするためにあるのではなく、訴求点を明確にするためにある。

そのような、2007年の日本をリアルに生きていれば当然のように思い至る言論に、「コミュニケーション学」の先生は到達する自由を持たない。

個のアイデンティティーの確立は重要であるにしても、本講義のタイトルは「コミュニケーション」であり、その重要度を勘案するのは教授会でしかなく、その重要度が低いことを気づいてしまった教授がそのことを白状すれば、自らの仕事を失う。

…ならば、アカデミズムにおける「コミュニケーション」の過大評価は続くのである。

*

メディアも同様である。

私は、「P2Pの大海のなかのひとつの構成子として、メディアが存在する」という言論を呈している。

それは、極めてまっとうな分析なのだが、「メディア」論を講義する教授にとっては、それは耳の痛い話である。

巷間のメディアに対する重要度が低下すれば、講義がなくなる可能性がある。ならば、メディアの重要度を煽動する言論を提示し続けなければならない。

結果、否定的な将来をイメージさせる場合においても、重要度は下がらない言論が提出されることになる。

失礼な言い方で申し訳ないが、「インターネットがテレビを飲み込む」とか、「ネットは新聞を殺すのか」「新聞のなくなる日」などというのは、その類だろう…。

*

あたらめて言うまでもないか゛、2007年に起きていることは、「メディアの衰退」ではない。

いままで見えなかった「口コミ」が社会全体から見えるようになったことである。


そのような立場にとって言えることは、「マスコミが衰退したのではなく、マスコミへの過大評価の時代が終焉した」。ということに他ならない。

たしかに、マスコミ人たちは傲慢だし、偏狭な考えを持っている。
だが、それらは批判・炎上することで、社会的な修正が実行されている。

ならば、社会的な総和としては問題がない。

その一方で、問題でありつづけるのは、アカデミズムである。



メディアの「それから」のメンバーたちは職業人である。その場を提供してくれた東京財団も、競艇事業という実業でえた資金を運用することで営まれている。

一方のデジタルジャーナリズム研究会は、大学教師たちによって運営され、討論の場も大学である。

職業人に活動を強いるには対価を保証しなければならない。だから、「それから」研究会の活動は、濃密ではあったが、きわめて時間的に厳しいものだった。

一方のアカデミズムの世界では、「それから」のメンバーたちが苦しめられたような制約はないだろう。
アカデミズムの人達は、活動そのものが業績として、後のキャリアにつながっていく。

今回、2835円という極めて高価な書物が出版されるとのこと。

この価格設定に、マーケティング的な勘案はあったのだろうか。

私なりの揶揄的・感情的な批評をゆるしていただけるならば、出版さえすれば、ひとつの業績となる。その本が立派な装丁で大学図書館の書棚を飾ればそれでいい。

果たして、2800円の本が出来、数ヵ月後、私は世田谷区の図書館で、その本を手に取るか、ジュンク堂に長逗留するのだろう。



一方の、「それから」研究会はどうだったか。

*

出版者の編集マン氏は、言う。「数千部出したとしても、おもしろくないでしょう」。

仰るとおりである。

*

ソフトバンククリエイティブ出版は、この本の売れ行きについてまったく予想がつかぬ。と言いながらも、1万1千部を初刷した。

そして、私の知る範囲に限れば、池袋のジュンク堂には50冊配本された。
二子玉川の駅中の書店にも、浜松町の駅ビルの中の大型書店にも、平積みではないが、書棚の見やすい位置に表紙が見える形で並んでいた。平らに並べられる数は、書棚で10冊程度だが、きっとストックはあるのだろう。

浜松町の書店では、 西村博之氏の「2ちゃんねるはなぜ潰れないのか? 」と並べられていた。
かの書物の腹帯の「もうこれ以上、インターネットは社会を変えない」などというヘタレ文句に、わがサイバージャーナリズム2007年本は、「メディアが衰退した理由、ネットが不安な理由」と、2007年の今を、語りつくすかのような文言がある。

腹帯だけを印象批評をすれば、ひろゆき本は、自己規制言論にすぎない。

一方のデジタルジャーナリズム研究会の本は、「メディア・イノベーションの衝撃」だそうだ。

メディアは価値は地盤沈下しているし、ITイノベーションは加速度を緩め、あらたなフェイズに入っている。「ブログの時代は終わった」とアルファブロガーたちが言う昨今、「爆発するパーソナル・コンテンツ」との惹句を引き出すことに、何の妥当性があるのだろうか。

*

さらに、コンテンツの時代も終わっている。

最近気づいた「プラスチック論」でも指摘しているように、可塑的であることが、コンテンツの重要度を保証する時代がくる。

ユーザーの可塑願望を触発しないコンテンツは、重要度の低いものとして無視される。

そういう時代が来ている。

*




3冊の本を比較すれば、2007年の日本に起きている問題の多くが理解できるだろう。

対話を拒絶したアカデミズムが、マスコミ(出版)の一矢で失地回復をしようとする。

その一方で、ネット者はつかれきったふりをして、存続を目論む。


そして、私はどうか…。

といえば、卑怯にも、このような場所で、メタ言論を繰り返すのである。

ただし、対話は拒否しないし、可塑性も望んでいる。

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追記:

今回のデジタルジャーナリズム研究会の出版によって、カルト汚染につき、再度考えることができました。

関係者のみなさん、出版者のみなさんに、深く感謝する次第です。

いまはステークホルダーがあるので、対話は難しいのかもしれませんが、いつか対話できることを願っています。
posted by スポンタ at 08:58| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(1) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月21日

アルゴの時代57:インターネットにおける言論の法的規制を阻止しようとする人。そして、2ちゃんねるを廃止するために募金活動をする人。それらは、最終的な解決策ではない。

インターネットは人類4000年の歴史をトレースする。


と、3年前から指摘し続けている。

そして、いまのインターネットの状態は、原始共産主義の時代である。

とも。



そして、2007年…。

このブロガーさんによれば、政府がインターネットにおける言論を規制することに本腰を入れはじめたようだ。

一方で、2ちゃんねるを閉鎖させるための募金活動をするがいる。



つまり、原始共産主義の時代に不都合を感じている人達がいて、その一方で、その時代を守ろうとする人達がいる。

私には、そのどちらも正しいし、どちらも間違っていると感じている。

*

つまり、個の論理としては、「表現の自由」は絶対善。そして、「有害情報の拡散阻止」も絶対善。

だが、集団・コミュニティーの論理としては、「無制限の表現の自由は有害である」。ならば、一定の「表現の自由の制限」も必要悪として是認される。

「有害情報の拡散阻止」その延長線上にある。
だが、有害の定義については、個の多様性によって、多様化する。

*

私はディズニーキャラクターに対して嫌悪感はないが、アメリカニズムの象徴として嫌う人達もいる…。
ハリソン・フォードが主演した映画「刑事ジョンブック」の背景にもなったアーミッシュから見れば、現代文明の殆どは有害と定義されるに違いない。

*


「人を殺すこと」とて、集団・コミュニティーの論理としては絶対悪になることは難しい。

有害の定義を厳密に行なうならば、集団・コミュニティーは細分化していく…。




インターネットは、フラットを報じながら、その一方で、コミュニティーが分断することを嫌っている。

その矛盾をいかに解決するか…。



2007年のインターネットの諸問題の根っこは、「インターネットがフラットなシステム・フラットなコミュニケーションで行なわれていること」。

または、フラットなコミュニティー幻想・妄想の上で、営まれていることである。

*

人間とは多様なものである。

修道女になる女性もいれば、歌舞伎町で働く人もいる。

歌舞伎町で働く女性は修道院での生活に息苦しさを感じるだろうし、修道女は歌舞伎町は賑やか過ぎて落ち着かないのかもしれぬ。

とはいえ、それぞれがそれぞれの生を全うしていれば、他人は批判すべきでない。



インターネットも同様だろう。

正義に支配されたサイトもあるだろうし、劣情に支配されたサイトもある。

そもそも、正義も劣情も、主観的・恣意的な決め付けでしかない。

ことは、インターネットがパノプチコンとでもいうような、ひとつの空間をイメージさせることが問題なのである。

インターネットといえども、さまざまな圏域があり、それらが並存している。

注意深く探っていけば、劣情サイトと、そうでないサイトは分別されている。

そのようなフラットでないインターネットの状況を、インターネットユーザーが自覚すれば、インターネット全体の言論を規制するというような政府のムーブメントは起きないに違いない。



インターネットにおける表現の自由を守るために、何をすべきか。

それは、規制反対の狼煙を上げることではない。

インターネットのフラット性を是正することである。


というのが、私の結論。

*

私は、映画学校の出身者だから、「表現の自由」の対処の仕方といえば、映倫を思い出す。

映倫とは、映画界が、公権力の介入を阻止するためにつくった自主規制システムである。

だが、インターネットでは、そのようなシステムは無為である。




あるべきは、インターネット上のコミュニティー・コミュニケーションを適正なサイズに細分化すること。

そして、ここが一番重要であり、インターネット的なのだが、細分化したコミュニティー・コミュニケーションをインテグレート(統合・関連づけ)することである。

そのためのツールが、多様なアルゴリズムの並存」である。




「規制反対!」「俗悪サイト反対!」…etc.

それだけでは、何も変わっていかない。

多様なアルゴリズム(代表決定・意思決定システム)を内包したインターネットを作り上げることこそ、意味があり、それを達成できれば、「表現の自由」など軽がると達成できるのである。

インターネットの特徴は、リアル属性に縛られない個が、自由に、複数に存在できることである。


その前提を認識しなければ、インターネット上の言論を論じることはできない。


だが、インターネットの論者の多くは、「インターネットが無限の地平」であることさえ理解しようとしないのである。


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インターネットの問題は、

・フラットの弊害

・SNS化の弊害

それらを解決するには、「多様なアルゴリズムを並存させる」ことしかない。



posted by スポンタ at 08:51| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月20日

アルゴの時代56:日本社会におけるフラットなアルゴリズムの弊害。柏崎市役所に、全国からの救援物資を断る資格はない。

地震被害が発生している新潟県柏崎市では、全国からの救援物資を断ったという。なんでも、保管システムが満杯だからだという。

柏崎市が宣言できることは、「救援物資を断る」ことではなく、「救援物資の処理能力が間に合わず、救援物資を受け取ることができません」というところまでのはず…。

そのように一般市民の救援物資などを断っている一方で、企業・団体などの救援だけを受けている。

勿論、特定者からの大量物資は仕分けを必要とせず、扱いやすい。



今回の柏崎市の物言いは、被災地の現状を考えれば仕方ないことかもしれぬ。
だが、その不備をインターネットが補うことができないのは、悲しいことである。

企業の社会貢献によって、被災地の復興がなされることも悪いことではない。だが、その一方で、無名氏たちの善意が拒絶されるというのは悲しい。

そして、多くのボランティアたちが被災地の復興に一役かってきた、最近の日本の風潮をみるにつき、無名氏たちの善意をすくい取ることができないのは、なんとも虚しく感じるのである。



柏崎市は、救援物資の一次保管所である体育館が満杯であるとして、救援物資の受け入れを拒まざるをえなかった。

ならば、一次保管場所の必要がないような情報システムをつくればいい。

それだけのことだ。

・何が必要なのか。

・どこに必要なのか。

・誰が必要なのか。

・誰が配るのか。


それらのことを、掲示板として成立させればいい…。

掲示板が情報を制御して、すべてのデリバリー先を決定する。

*

デジタルデバイドなどといっている場合ではない。
被災者に電源もネットもあるはずはない。

パソコンにつながっている者が、ネットに情報をのせ、被災者たちのデジタルデバイドを補完すればいい。

*

救済を受けたくない被災者は、個人情報をネットに上げなければよい。

それだけのことだ。

*

援助したい人も、個人情報は求められる。それは、商品流通において、トレーサビリティーが求められるのと同じ理由。

それができぬ人達に、援助する資格はない。

*

すべては、「この指とまれ」方式で決する。

文句がある人は掲示板に参入しなければいい。

*

何かが起きたら、参加者全員で話し合えばいい。

すべては情報の透明性の中で行なわれれば、その過程の中で、意見の相違・摩擦・軋轢はあるにしても、参加者たちが経験の中から、学び、収束点を見出すに違いない。

*

そこにおいて起きることは、まさに画期的だ。

被災者救援掲示板は、フラットな構造のままではいられない。

なぜなら、被災者救済という目的を明確に持つとともに、緊急性があるから。

掲示板上の情報は、さまざまにリンクし、相互的・有機的に機能するし、その中で有効因子、有効成分も現れてくるに違いない。




結局のところ、今回、柏崎市役所がした苦渋の選択は、フラットなコミュニケーションの弊害である。

救援物資提供者たちのフラットな構造が負荷になり、柏崎市役所がボトルネックになった。
一方、大口支援者たちの支援物資たちは、フラットな構造でないため、柏崎市役所も扱うことができたのである。

ならば、柏崎市役所に負荷をあたえないかたちで、救援物資提供者の側で、さまざまなアルゴリズムによる救援物資デリバリーシステムを構築すべきだということ。

*

さまざまなアルゴリズムとは、次のようなもの。

・被害救済を訴える人に物資を提供する。

・第三者からみて、援助が必要と推測できる人に物資を提供する。

・対象地域のすべての住民に均等な物資を提供する。


救援物資の分配においては不公平や不公正などさまざまなことが起こるし、そのための危惧が地方自治体の動きを鈍らせるに違いない。

とはいえ、すべての地方自治体の営みに、一切の批判がないことなどありえない。
ならば、そうした批判を批判として受け止めながら、それぞれの現場の状況を公開しながら、対応していく。

それこそが、日本社会がインターネットを使いこなすことによって、社会をより住みやすい世の中にする、手立てだ。

否、住みやすいかどうかは、分からぬが、とりあえず納得がいく社会になる…。



私は、災害救済BBSが試みられる・誕生することを願っている。

私に、技術力・実装力があれば、すぐにやりたいぐらいだ。

どこかに、資金と技術力を提供する企業・団体はないのだろうか…。


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posted by スポンタ at 17:23| 東京 🌁| Comment(1) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月04日

アルゴの時代55:「自律的な個であれ」と中学生たちに要求する理不尽。

娘は中学1年である。

中間試験も終わり、一学期を締めくくる保護者会に行って来た。
娘が通うのは、自宅最寄の区立の中学校である。
わが娘は、中学受験を目指したこともあるが、なかなか受験一辺倒の生活を送ることはできず、志半ばで断念したというのが正直なところだろう。

さて、保護者会で教員たちから語られ続けるのは、学習についてである。勿論、それは高校受験を前提にしてのものである。
そして、宿題や課題を与えてはいるが、自分で考える習慣や自主学習の習慣をつけて欲しいというのが、教員たちの願いであり、目標であるという。

教員たちにとって、自主学習がもっとも尊いものであるから、学習塾や家庭教師はベターではあるかもしれぬが、ベストではない。と主張する。

詰め込み教育批判があり、ゆとり批判もある。
そのような教育に対するさまざまな意見の中で、公立学校の教員たちは、「自主学習こそベスト」という指針を打ち出したのだろう。

だが、だがである。

私が指摘したいのは、こどもに自律性を指導する場合、大人も自律的でなければならぬ。

そして、何よりも、自律的・自立的であることは、個を捨てることと対極にある。

教員たちは、自らが自律的である個として、自らの主張をしているのだろうか。
私には、彼らがメタ議論に逃げているとしか思えない…。

集団生活を尊ぶ中で、協調性が求められる学校生活は、個を捨てること・集団における個の妥協を要求する。

その一方で、自律的な個であれ。という。

メタはメタであり、あくまでもセカンダリー。それだけで生きることはできぬ。



その前日、私はTBSの報道特集で、60周年を迎えた日教組の番組を見ていた。

TBSの報道局はサヨク色が濃いから、肯定的な分脈で日教組を語っていたが、2007年、日教組の偏向は明確である。


1.平和の理想を追い求めるばかり、現実性のない非武装中立論・否戦論をいまだに論じている。(戦争は否定すべきものではなく、避けるべき努力をすべきものである。一切の戦争を否定することは、国際社会から引き篭もることである。拉致問題であきらかなように、主権が実行力を伴わなければ、周辺各国が日本の自立を脅かすことは当然のことである。)

2.社会主義・共産主義が奉じてきたプロレタリア史観。階級闘争的な歴史の見方。被虐史観を払拭できていない。(さらにいえば、ベルリンの壁崩壊により、唯物史観はすでに破綻しており、地球環境問題にさらされている人類は、縄文的な生き方を求めてられている)


労働組合が労働者の待遇改善を求めて結団されたものであるから、労働組合が教員のステークホルダーの奴隷であることは仕方のないことである。

だが、ベルリンの壁が崩壊して、かれこれ20年近く経とうとしているのに、いまだに、マルクス・レーニン主義から抜けきれぬというのも、奇怪なできごとである。

*

さて、番組では、靖国問題を批判するための教員私製の教材が紹介されていた。

曰く、「靖国神社は、国家のために人を殺すための装置」である。それを是認する小泉首相や、それに連なる安倍首相は、極悪人である。

教材は写真を使うことで、教材制作者の主観を排する演出が施されている。
だが、そのストーリーは明確であり、愚劣である。

かつて、チトー大統領は、左に方向指示器を出しながら、右に曲がっていった。と形容された。
日教組は、方向指示器も何も出さずに、左に曲がっていく。だが、時代は左の道が行き止まりであることがすでに明確になっている…。

かの組織の全盛期は、日米安全保障条約があったから、ひどい言い方をすれば、国家がなくてもし、軍備がなくても、他国の侵入は必要なかったに違いない。
だが、戦争で人が死ぬこととはまったく別の次元で、戦争抑止力としての軍備は必要だし、全面戦争の抑止力としての紛争は必要。それが、現実である。

冷戦は、第三次世界大戦の抑止力になった。
そして、冷戦は、いくつかの代理戦争である国際紛争によって、成立していたのである。

冷戦が終わった今、アメリカが、経済大国になった日本に対して国際的な自立を求めるのは当然のことである。

自律的であることは、理想主義を追い求めることではない。

そして、理想と現実と2項対立であることで有効であり、理想とは現実を捨てるこではない。
そのようなアンビバレンツな思いに引き裂かれようになる自分を何とか統合しながら、継続して前進することが、理想を持ち続けることなのだ。

理想のために、現実を見ないことは、生きることをやめることである。


海軍と外交主義者は国内では負ける。と、戦前に言われたという。
明治初期のエリートの時代が終われば、それは当然のことである。

だが、いまはインターネットがある。

2ちゃんねるではソースを示せと指弾される。
そのようにして、現実から遊離した理想主義は必ず批判される。

ならば、私がわざわざ指弾する必要もない。
長老たちの昔話に目くじらを立てることは、私のルサンチマン(怨念)的な所作と反省すべきなのだ。

*

東京都の日教組に加入している教員の割合は1割程度という。
だから、娘の学校で、私の前にいる教員たちが、組合員である可能性は低い。

だが、同じ根っこを持っている

「自律的であれ」などと、メタ議論に逃げてはいけぬのだ。

勿論、お前もな…。ではあるのだけれど。(^^;)



サッカー日本代表のオシム監督は、「走りながら考えろ」と言った。

だが、娘の中学校の校長は、「じっくり立ち止まって考えろ」。そう語っているように思えてならない。

考えてみれば、私が受験戦争からドロップアウトしてしまったのも、「じっくり立ち止まって考えてしまった」からだ。という反省がある。

人間の存在とは…。自分とは…。人生とは…。
と、考えることは、人間にとって重要なこと。

何よりも、日本は、ロダンの考える人が好きな国民性である。

だが、そのようなことのために、立ち止まって考えてしまうと、人生を停滞させてしまう。
20歳前後に停滞した私の人生が再び動き出すまでに、4年ほどかかってしまった。

そして、立ち止まって考えたとき、さまざまな魔が寄ってきた。

それは、サッカーの選手が立ち止まって考えていれば、たちまち敵の選手が集まってきて、身動きがとれなくなるのと同じこと。

*

大学のキャンパスでカルト宗教に勧誘され、人生を虚しくするような人は、きっと、中学・高校で、「自分とは何か」について、考えなさいと教員たちに刷り込まれて成長した人達ではないのか。
と、思えてならない。

「自分とは何か」と、真剣に考えたとき、心理学・思想・哲学・文学としての宗教を超えたものの存在に行き着くのは当然のことである。

そのニーズにカルトたちは応えることで、信者を増やした。のである。

だが、カルトたちは、自分の霊性を捨てることを信者たちに強いた。それが彼らの悪性の本質である。

まっとうな宗教は、個に本性・霊性を捨てることなど要求しない。


*

「自分とは何か」、「自律的であれ」。それ自身は間違ってはいない。

だが、リファレンスをせず、コミュニケーションを排して、自己のアイデンティティーを求めることは難しい。

自分は何がしたいか。自分は何が向いているか。
この人生最大の命題に、一切の他者の意見を排して結論を下すことなどできはしない。

サッカーが好きだから、サッカー選手になれるのではないし、映画が好きだから、映画監督になれるでもない。

イチローや松井を野球選手にしたのは、周囲の彼への評価である。

「自律的であれ」などという刷り込みによって、洗脳されることは、こどもたちに苦痛を強いることでしかない。

「行動しながら考えること」が重要であり、「行動しないで考えたことは、妄念でしかない」のである。




そして、私…。

一昨日、北陸に暮らす伯父が亡くなった。
日々の生活に終われ、葬儀に行くこともできぬ。弔電や香典で体裁を整えればいいのかもしれぬが、親戚同士の摩擦もある。
父が親戚縁者との一切の関わりを否定しているならば、私が何事かをすることは著しくバランスを欠く…。
弔意はある。だが、なす術はない。
そこで、私は、伯父の冥福を願って般若心経を写経することにした。

お悔やみの気持ちを込めて、一心に写経したつもりだったが、何のことはない。自分自身との対話が始まってしまった。

写経することにより、自分を考える。否、何が自分何者であるかなどさっぱり分からぬが、写経していると自分が何者なのか。自律的に考えることの糸口が見えてくる。そんな感覚がある。

写経は念仏と違い、陶酔がない。それが魅力である。

勿論、自分が何物なのか。そんなことに答えは出ない。
写経する自分が自律的な人生を歩んでいるのかといえば、それも覚束ない。
ただただ、目まぐるしく起こる苦境・苦難に、あるものには立ち向かい、あるものはやり過ごす。それだけのことかもしれぬ…。

*

そんなどうしようもなく生きている48歳の自分・私がいる。
私には、たかだか12歳の娘に「自律的であれ」などという言葉を投げつけことは出来ぬ。
そして、乱暴な言葉を投げつける教員たちの無分別が、到底理解できぬ。

ジャニーズのタレントが出ているテレビドラマやバラエティーを見ることが自律的でなく、勉強をすることが自律的であるなどという浅薄な議論はしたくない。
勿論、SよりもMのほうが文化的に高い。などというつもりもない…。

そういう日常ともうひとつのフェイズ・メタな場所で思索がある。それだけのこと。

問題は価値ある陶酔かどうか。

陶酔から価値を引き出せるかどうか。


そいつが厳しいところであり、イチローや松井はそれに成功したのである。

自律的であることで成立するような人生。ゼネラリストであることは、官僚的な環境・組織では重用されるが、それが21世紀の日本で求められる人材ではない。

そう、確信する。



結局のところ、「自律的であれ」というのも、マルクスに端を発する唯物史観・唯物論。人生は自分で切り開くもの。でも、死んじゃったらそれまでよ。という現実認識が発展したものでしかないのだろう。

そして、「自律的であれ」と鼓舞する者たちの心根に、こどもたちに影響を与えることに躊躇する弱弱しい大人たちの姿を見る。

*

あるべきは、宮本武蔵の五輪の書である。

武蔵は、感じたことのすべてを文章にした。
その文章は現代の私たちのアスリートな考えとは異なっている。
たとえば、重心をカカトにおいて、相対せよ。などというのは明確な違い…。

だが、武蔵は、「よくよく吟味するように」との結語を忘れなかった。
それにより、後世の我々は、武蔵の書に過度に縛られずに済む。

*

「自律的であれ」。とは、宮本武蔵がしたためた「よくよく吟味するように」と、等価であるに違いない。

教員たちが、自分達の思想を隠蔽したままこどもたちに接し、「自立的であれ」と鼓舞することは、大いなる矛盾であり、そのような言葉はこどもたちの心を打たない。

結果、「自律的な個」は生まれてこないのである。

よくよく吟味するように。

07sponta

中学時代の私は、両親の影響から左翼的な考え方を当然のことと考えており、政権政党を支持する人達を田舎者や頭の古い人たちだと考えていた。

だが、政権政党はリアリズムを実践しているだけなのだ。
勿論、理想を忘れたリアリズムは尊敬できぬ。
とはいえ、理想だけで現実を捨てた人生よりも、現実に対することで理想を忘れかけているほうが人間らしい。

そう、思っている。
posted by スポンタ at 07:01| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月03日

アルゴの時代54:この国のかたち。一神教、多神教、二元論、多元論。そして、マルクス。

他でもない。

「二大政党制」、「第三者評価機関」…。

アメリカ的スタンダードが必ずしも、日本の精神風土に合致していないことを指摘つづけている。

その根拠は、アメリカは多様性・異質性・変容性の高い国であり、日本は同質性・恒常性の高い国である。

*

さらに言えば、

西欧的スタンダードも日本の精神風土に合致していない。

その根拠は、西欧が一神教の国々であり、日本は多神教の国ということだ。

一神教は、2項対立の言論を生みやすく、その対立から何かを生むという論理思考(アルゴリズム)を育む。

一方、多神教の日本では、対立が何かを生むという思想はない。
二大政党制は、対立に慣れていない日本の精神的風土には馴染まない。
同質性の中で、多様性を温存できてきたコミュニティーの住人たちは、二項対立で事を荒立てることが、よき結果を導き出すにつき、最善の道ではないことを学んできた。

最近の民主党の国会活動が強行採決しか生み出さぬのは、国会で与党が圧倒的多数を得ている。という理由だけではない。
二項対立から有効な何かを生むことに、与党側は勿論、野党の側も慣れていないのだ。



日本は和を尊ぶ国・国民性だと言われている。

日本式は和式であり、聖徳太子は、「和を持って尊しとなし…」と語ったという。

聖徳太子は、万世一系を中断させた蘇我政権を隠蔽するために、模造されたものだという説が主流になりつつあるから、「和を持って尊し」と、日本社会を規定することに合理性はないにしても、7世紀の日本人も21世紀の日本人も、「対立からは何も生まれない」との思いを共有していることは確度が高いのではないだろうか。



思えば、日本という国は、常に大国からの侵略を想定しながら営まれてきた。
古くは中国であり、近くは西欧列強である。

そうした危機感の中で、大国のやり方を踏襲することが、国家を存続させるための妥当性のあるやり方だった。
古代・中古において、中国の制度・文化をとりいれた。大宝律令や平城京や平安京の街づくりはその典型だろう。

そして、明治期以降においては、西欧士気の司法・立法・行政の諸制度を取り入れる。西洋科学を取り入れ、近代化につとめるのである。

だが、だからといって、われわれ日本人は、日本人としての特質を失ったのではない。

万葉から平安の世に、いかに中国文化が入ってこようと、大和ごころは失われなかったと歴史を観ていれば、我々は納得する。
そして、チョンマゲが禁止され、洋装で人々が闊歩するような時代にあっても、武士道の理想は失われはしなかったに違いない。

*

米国に占領されるも、時を経て、経済大国と言われる国家に日本はなった。
ならば、侵略されることを恐れて、大国の制度を取り入れることの妥当性はなくなった。

ならばどうすればいいのか。

この時代だからこそ、日本の現行制度を見直し、今一度精査してみるべきときが来ているのである。



散文的な日本では、二項対立的な西洋的なシステム・思想・概念は意味を持たぬ。

その典型が、資本主義という考え方だろう。
資本によって大量生産がなされることは、疑問の余地がない。
だが、それが、資本家と労働者の対立を必然的に発生されることは疑問である。

いまの日本で、資本家といえる人達がどの程度存在するのだろうか。
ましてや、昨今の消費者主導の世の中の流れである。資本家が専横することが許されるような時代ではない。

*

そして、気づかなければならぬのは、対立構造を微妙にさけるための施策を、我々日本人は姑息に行なってきたこと。

確かに、労使の対立はある。だが、労働組合において、同業種組合は存在しない。
ここにおいて、大手企業の労使は、零細企業の労使に対して優越しつづける。結果、ほんとうの意味での労使交渉は行なわれない。

ジャーナリズムも同様だろう。
権力と対立するはずのジャーナリストたちが記者クラブを形成し、権力と迎合する。記者クラブは零細同業人たちを統制するための自主規制団体でしかない。

教科書的に考えれば、同業種組合でなければ不毛だし、記者クラブは廃止すべきである。
だが、そのような論理性に対抗すべき思想・現実主義が、われわれ日本人の心の中に巣食っている。

「対立からは何も生まれない」。それに尽きる。



池田先生は、自らのブログを採録・修正されたものを「ウェブは資本主義を超える」と名づけ出版された。

finalvent氏は書評で評価される。

その書評を読んだ池田先生は、「マルクスの本を書きたい」などと仰る

池田先生はfinalvent氏と同世代であり、思想の同質性を喜んでいらっしゃる。

池田先生はさらに言う。「サイバースペースに見えてきた世界が、彼(マルクス)のいう「自由の国」に似ているからだ。」

池田先生に私はルサンチマンはない。…たぶん、そう思う。そして、池田先生がアカデミズムの人なので、対論・反論も愛でてくれるとの思いから、あえて指摘する。

マルクスとインターネットを関連づけて論じることに、価値があるのだろうか…。

私は、極東ブログのコメント欄につぎのように書いた。

エンタの神様では、最後に、「自由だ」と叫んで〆るギター芸人がいる。

そのような2007年にあって、資本主義や自由などという旧来の尺度で世の中を語る手法に、私は何の価値も見出しません。

自由は専制の対立概念でしかなく、いまを切り取るならば、「多様性の許容」…。

マルクスの大著は、無精者の私にとっては、未知の領域ですが、彼の言論を根っことして、唯物史観なるものが構築されたことは理解しています。

それは、弥生的営みが世の中のすべてであるかのような、妄信を人類に植えつけたことは、大いなる罪であると考えています。

地球環境問題が囁かれる今、縄文的回帰が望まれる…。

私は、アカデミズムに拒絶された人生を歩んでおり、そのようなイデオロギッシュな言論には、エディプスコンプレックス的な怨念さえ持っております。

そのような偏向な個を持つ私から言えば、資本主義との語を使ったとき、すでに終わっている。そう思えてなりません。

ベルリンの壁が崩壊してから何年たったのか…。

昔話に華を咲かせるのなら、それはそれでいいのかもしれませんが、そのようなもので、インターネットの今を語るのは、百害あって一利なしと思われます。

ま、finalventさんがそこまで言うのなら、読んでみようかな…。という気持ちになりました。

(^o^)

投稿 スポンタ | 2007.07.02 23:56



無限の地平であるインターネットでは、有限の資源・資本を取り合うような議論は不毛である。

そして、マルクスの唯物史観は、地球環境問題という資源の有限性に対峙している人類にとって、マルクスの思想は何らの示唆もあたえてくれぬ…。



インターネットの登場を、「あたらなるメディアの誕生」とか、「もうひとつのコミュニティーの誕生」としか考えぬのは、浅薄である。


インターネットは、人類史上初めて誕生した「言論における、無限の地平である」とともに、「個がリアル属性に縛られぬとともに、多数の個として発言できる」ことを実現した。




マルクスが思索した唯物史観は、弥生時代以降の人類の営みしか表現していない。

そして、ベルリンの壁が崩壊したとき、個の一番重要な属性が「労働」ではないことが実証された。

ベルリンの壁が崩壊した最大の理由は、労働者をもとにして、社会主義を実現しようとしたからである。

あるべきは、消費者をもとにした社会主義を実現すべきことである。

*

そのとき、消費者は、怠け者であり、わがままであり、安いものばかりを欲しがるなどと思ってはいけない。

すべての情報を消費者が獲得すれば、自省的で理知的な行動をするようになる。

私は、それを縄文的な消費者と定義する。


弥生的:自然を征服:唯物史観:マルクス

縄文的:自然と共生:多神教的多元論



「人間と自然」という二項対立は西洋的考えである。

だが、日本人は、「自然との共生」の中で文化を紡いできた。

*

2007年においても、マルクスが気になる人達。
そして、パノプチコン…。

やはり、世代的な問題か…。

さまざまな会議に顔を出す先生は、ガバナンスという言葉から逃れることはできぬステークホルダーを持っている。
ガバナンスとは、固定的・有限な対象をもとに成立する概念であり…。

07sponta

日曜日、ETVで音楽評論家の吉田秀和氏のドキュメンタリーをやっていた。

吉田氏は、晩年のホロビッツの来日演奏を「ヒビの入った骨董品」と形容したことで知られる。
彼は語る。「世の中で誰も指摘していないことを発見し、文章にしたためる。こんな楽しいことはない」。

わが意を得たりである。

池田先生のブログから、このブログにやってくる方も少なからずいらっしゃるようですので、反論などありましたら、コメントを頂戴できればと思っております。
posted by スポンタ at 07:30| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月02日

アルゴの時代53:宮沢喜一氏逝く。第三者評価機関という手法は日本になじまない。


私はすでに、「二大政党制は、多神教の日本にはなじまない」と指摘してきた。

理由は、異質性の高いアメリカでは、2つの選択肢で大衆は満足するが、
同質性の高い日本では、大衆は2つの選択肢に満足しないことにある。

結果、第一党(与党)は政府の実権を握る魅力によって求心性を維持するが、政府の運営に関わるという魅力のない第二党に一切の求心力はない。


そもそも、二大政党制は、国政のバランスシートをとるために意図的につくられた制度であって、イデオロギーやステークホルダーによって、集まった人たちの塊ではない。

そのような集団が、マニュフェストをつくったとしても、総花的になるだけ。

マニュフェストを出さなければ、自らの求心力を生み出せぬという危機感は理解するが、それが機能しないことは自明である。


たとえ話をすれば以下。

食堂にA定食とB定食しかなければ、客はどちらかを選ぶだけだ。(米国)

だが、ファミリーレストランには豊富なメニューが用意されている。客は様々なメニューを選ぶ。(日本)

多様性・異質性の高いアメリカでは、経営者は、客の好みに合ったメニューを出すことはできぬ。
仮に多様なメニューを出せたとしても、販売数は上がらぬ。

本格的なイタリア料理を出しても、注文するのはイタリア人だけ。日本料理を出しても、食べるのは日本人だけ。これでは経営は成り立たぬ。結果、経営者は、ハンバーガーやホットドックという特定のメニューを出すことになる。
これなら、イタリア人も日本人も食べる…。

一方の日本。
蕎麦屋では、蕎麦も、うどんも、カレーライスも、天丼も、カツ丼も、食べられる。
そのようにして、メニューは散文化している。

A定食B定食で経営が成立するのは、社員食堂でしかないだろう。

*

最近の国会が、強行採決を連発させるのも、そういう背景がある。

すべての法案を政権奪取のためのツールとして使っていれば、対話は成立せず、強行採決しかない。

日本に国会ができたとき、政党に集う者たちは「徒党を組む」と、非難されたという。

私は、そのようなことまで持ち出すのは失礼だと思うが、二大政党制という妄念によって、議員が自律性を失うならば、それは批判されていいだろう。



さて、同様に、第三者評価機関もアメリカには都合のよかったシステムかもしれぬが、日本の精神的風土には合致しないと確信している。

流動的な社会では、第三者評価機関は機能するが、固定的な日本社会では機能しない。

ブログスフィアを共有する古森義久氏は、アメリカの首府ワシントンは、街の風景は変わらぬが、5年もすれば、そこに行きかう人の顔ぶれは大きく変わると、その印象を述べている。
30年経っても、その顔ぶれが殆ど変わらない永田町とは、大きな違いである。

*

宮沢喜一氏を詳しく知ったのは、日経新聞の「私の履歴書」を読んでからのことだろう。

彼が、帝大卒業後、大蔵に入るとともに、ワシントン講和会議に吉田茂首相に随行した話は、感動ものである。

吉田首相が、国際的立場を復活させる場において、宣言文を英語ではなく、日本語にしたという行為は、気概に満ちたものである。

それは、ナショナリズムの意味ではなく、インターナショナリズムとして価値があった。

グローバリズムは、ある意味アメリカニズムと混同される。
ここでの吉田の行為を反グローバリズム・反アメリカニズムと誤解する人もいるだろう。
だが、英国紳士であると同時に日本人でもあった吉田が貫こうとしたのは、インターナショナリズムではないだろうか。

*

宮沢喜一氏が細君と出会われたのは、青年の船だという。

青年の船のイベントには、アメリカと日本の若者たちの議論の場があった。
若き日の宮沢氏たち日本の秀才は、敗戦国の日本人として議論でも負けることを潔しとせず、アメリカ政府の政策を論難することを目指すべく準備をしたという。

だが、実際の討論になってみると、アメリカの若者たちの方が、自国の政府を非難しはじめたという。
この事例において、宮沢氏は、アメリカ人は、自らの立場に拘泥せず、客観的な立場に立って、自国さえも冷静に論評する。一方の日本人は、自国の誇りに拘り、なんと度量の小さいことかと、反省したという。

*

宮沢氏の内省的・自省的な態度は、彼の人間的素晴らしさ・深みである。

ただ、ここにも、アメリカと日本のコミュニティーの特質の違いがあると思えてならぬ。

流動性の高いアメリカでは、自国の政府とて、個にとっては他者である。

一方の日本は社会的流動性は低く、自国の政府は、個と等価である。


帝国大学を卒業するようなエリートたちにとって、自分達と日本政府はシームレスに繋がっていたに違いない。
そして、もし、彼らが、アメリカ人たちと同じ思いをいたすならば、帝国大学卒業生としては異端者になり、霞ヶ関の官僚としても失格。在野に下ることを余儀なくされるに違いない。

結局のところ、青年の船も日米親善のための国家的プロジェクトであり、そこに占領下の日本政府の監視があったはず。そのような中で、日本政府を批判することは個の利益に反することは勿論、日本に背を向ける行為。いかなる合理性も妥当性もない。

そして思う。

*

流動性の高いアメリカでは、外圧(個にとって、部分集合たるコミュニティーにとって、社会全体にとって)は当然のことであり、それに対する過剰反応はない。

一方、固定性の高い日本では、外圧(個にとって、部分集合たるコミュニティーにとって、社会全体にとって)はあってはならぬものである。

*

最近の歴史研究では、鎖国はなかったらしい。

だが、日本人の精神的風土の中には鎖国、つまり、心の排他性はあった。
歴史的事実としての鎖国がなかったとても、黒船騒動はあったのである。

そして、2007年においても、黒船・ディア・リゾンが存在するのである。

外圧によって身動きがとれなくなることは恥である。
個は、内省的制御によって、自らをコントロールしなければならぬ。
それが、日本人の美意識である。

思えば、切腹は、死という人間にとって最大な事件が他者にとって決せられるのではなく、自己において決するという、極めて自律的な行為である。
切腹によって、武士・そして、武家は誇りを保つとともに、コミュニティーを維持させてきた。
切腹という奇異な制度を日本の精神的風土が背景として支えているのだ。



第三者評価機関が外圧に過ぎず、黒船に過ぎぬのなら、必ずや過剰反応を起こし、被評価者の精神を荒廃させ、運営における士気の低下や停滞をもたらす。
これでは、被評価機関にとっても、社会全体にとっても有益ではない。

あるべきは、第三者評価機関に頼るでなく、組織・コミュニティーの腐敗・停滞を防ぐことである。

いまスポンタが考える、代案は、二つある。


1. 多様なアルゴリズムを並存させること。

2. 組織の流動性・開放性を高めること。


ふたつとも同時に進めるべき事柄である。

07sponta

アルゴリズムという概念に出会うまでは、第三者評価機関が必要であると考えていた。

そして、第三者評価機関が機能しないのは、その機関の第三者性が疑われるからだと推理していた。

だが、違う。

第三者機関の評価は、ルサンチマン(怨念)から無縁ではないし、第三者期間がルサンチマンを捨象した評価を下したとしても、被評価機関の住人たちは、ルサンチマンを感じ取るに違いない。

そのような摩擦・軋轢は、なければないに越したことはないのである。
posted by スポンタ at 09:12| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(2) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年07月01日

アルゴの時代52:インターネット伝説。「世界が100人の村だったら」と「ソープへ行けと彼女は言った」批判。


昨日、フジテレビで、「世界が100人の村だったら」というドキュメンタリー番組をやっていた。
厳しい状況で生活する世界中のこどもたちを取材し、芸能人たちが涙するという番組だ。
ザッピングの途中で、数分間見るが、辛くて観ていられない…。

*

私は、この番組に「知る」ということの厳しさを感じる。
他者の苦境を知ったときに、思いを寄せる・涙することで、他者としての義務は果されるのだろうか…。

私は、このことにつき、大いな疑問を感じる。
そして、この番組が、知ることを無批判に肯定する浅慮の結果であると、断ずるのである。

15年程前になるが、私は世界紛争の残虐シーンを集めた販売用ビデオのナレーションを書いたことがある。
その映像の中には、チェウシェスクの死体もあったし、法廷で衝動的に自殺を図る映像もあった。
気味が悪くなった編集スタッフたちが夜中の作業ができなくなった…。
私がそのとき悟ったのは、死体の映像には慣れることができるが、いまわの際の映像は何度見ても慣れることはできぬこと。

あのときの嫌な感じと、テレビドキュメンタリー「世界が100人の村だったら」は同じ匂いを持っている。
そこにあるのは、グロと涙の違いだけである。



そもそも、「世界が100人の村だったら」というテキストが、地球での人類の営みを扇情的に表していることに気づかなければならない。

このテキストの忌々しきレトリックは、究極のグローバリズムなところ。

グローバリズムに反旗を翻すような人達が、「世界が100人の村だったら」には、ころっと騙されてしまう。

*

私なら、
多重人格者・ビリーミリガンではないが、「私の中には、100人の個性がいる」というもの。

つまり、個の中にさえ、多様な価値観があるなら、コミュニティーにも多様な価値観があるに決まっている。

ならば、「世界が100人の村だったら」などと、乱暴に仔細を捨象してしまうことは、非情な所作…。


さらに言えば、
部外者にとって、惨憺たる生活にしか見えぬものが、実は他者に献身する愛ある行為・尊い人生である可能性は否定できぬ。

狂気の所作が、本人にとって英雄的行為である可能性は多いに違いない。

何せ、最高裁とやり合うような日本最高の叡智のひとつである弁護士たちが、母子強姦殺人事件の理由に、「魔界転生」と「どらえもん」を引用するなのだから…。



いま、インターネットの時代である。
テレビも、「報じる」ことで完結する時代ではなくなっている。

情報を知らせることが、事態の解決に導かぬならば、それは煽動でしかない。

「事実と真実は違う」を、視覚障害者の群れが象を触った場合で説明する人がいる。

あの番組は、こどもを使うことによって、煽動しているし、その後ろめたさを芸能人の涙で埋めている。
だが、それらは、こどもから見た現実というひとつの事実を切り取っているに過ぎない。

知性が扱うような真実はどこにもない…。



もし、「世界が100人の村だったら」何が起こるか。

それをリアルに考えてみれば理解できるだろう。

100人の個性がいれば、100の生活があり、100の思想がある。

100の個性のすべてが、経済至上主義で人生を捉えるなどということはありえない。
100の個性のすべてが、啓蒙主義で人生を捉えることなどありえない。


確かに、お金はないより、あったほうがいい。
確かに、教育はないより、あったほうがいい。

だが、それだけのために人生を虚しくしていいのかといえば、別の話なのである。



「世界が100人の村だったら」を理想とするのならば、やるべきことは、世界中に偏在する100の思いを多様な価値観インテグレートすること。

してはならぬことは、100の思いを単独な何かに収斂すること。

100の思いは、ローデータとして残す。
そして、もう一つ別のフェイズとして、インテグレートしていく。

そのインテグレートは多様な価値観で運営されるべきであり、それは、多様なアルゴリズムの並存の実践。

そう考えてくると、「世界が100人の村だったら」の根本的な問題は、単一アルゴリズムの専横である。
私が、このテキストに傲慢さを感じるのは、そういう思想の独断なのだ。

この場合の単一アルゴリズムの指標は、経済至上主義と啓蒙主義である。

テレビ番組「世界が100人の村だったら」は、西欧の近代的理想が、世界のスタンダードとは程遠いものであることを、無残にも表現している。



さて、「世界が100人の村だったら」はインターネットが広めたテキストのひとつだろう。

最近でも、「ソープへ行けと、彼女は言った」
というのがあるらしい。

こちらのほうは、他愛もなく、童貞と貞操を等価に語る主人公は微笑ましい。

私も、「ソープへ行け」と、初恋の彼女に言われてみたかった。
だが、悲しいかな、この作者はおかしみばかりを求めており、純愛を理解しないようだ…。

07sponta
posted by スポンタ at 05:43| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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