2008年05月08日

何故、日本がパラダイムシフトの先端場であり、ポストモダンの実験場なのか。

それは、日本が多神教(汎神論)多元論であることが大きい。西洋文明が一神教的二元論以前に戻るには、時計を2000年ほど元に戻さなければならないが、日本では、150年ほど前の江戸期に戻ればいい。

そう思っていたが、司馬遼太郎氏と山本七平氏の対談を読んでいて、もうひとつの要素があることに気づいた。

それは、日本の地理的条件が日本人の精神に民族性を与えているのだという。山本氏曰く、「盆地気質」だと。

つまり、砂漠や平原では、多民族がやってくる恐怖にいつも晒されているから、国家をつくろう。と考える。そのとき、砂漠や平原の民たちは、まず中心をどこにつくるか。誰にするかを考える。結果、才能ある人物が立地条件のよい場所に国家を建設する。
だが、山本氏は、日本の場合は違うという。
生まれたときから、山に囲まれている。だから、国家という概念がなくとも、自分達の国家は存在している。そして、そのような枠があるから、中心はなるべく空っぽにしておいたほうが融通が利く。

スポンタの勝手な比喩でいえば、西洋は梅干であり、日本は無花果ということである。
そして、山本氏と司馬氏の対話が振るっているのは、日本には中心に空間が必要である。と。天皇は日本の精神的な中心だが、政治機能的には空白である。それが明治期になり、西洋的政治制度を導入するについて混乱がおきた。その混乱の最たるものが天皇の統帥権だという。
そして、日本社会(山本氏は軍隊経験を述べている)では、仔細について指示する上司は「細かい」と人望を失い。上司は、「適当に」を常套句とする上司が人望を集めた。これも中心にある規範を抽象的にしておくことで、臨機応変に現場で対応させるための極めて効果的な作法。それは、トヨタのカイゼンシステムにも通じる日本的なやり方だ。



新約聖書には、神は知者や学者には真理を伝えず、愚かなる者に真理を授ける。という記述があるという。愚者礼賛ということだが、そういう老荘的な文化も西洋にまったくないわけではない。
だが、近代化という潮流をなしとげた西洋の精神には、エリートな人間が中心にいて、社会を引っ張っていく。そういう妄念から逃れることができていないようである。



そして今、霞ヶ関を始めとするエリートたちの腐敗を見るにつけ、そういうエリートたちの牛耳る日本というものが行き詰っていることを感じる。そして、思う。江戸時代の日本はけっしてエリートたちが牛耳る世の中ではなかったのではないか。尊ばれる武士は清貧であり、人生を楽しんだのは町民であったのかも…。



そして、2008年突然現れたインターネットの普及によって起きたパラダイムの条件とは、

1. 平原でも盆地でもない、インターネットという「無限の地平」。
…ここでは椅子取りゲームはない。

2. 複数の個が並存できることから生じる「固有の価値観からの解放」。
…ここには、個のステークホルダー(利害)は存在しない。


また、インターネットによって情報のグローバルが化はすすみ、意味的世界が成立する。結果、固有言語は有職故実でしかなく、意味が問われる。
特に、儒教的ヒエラルキーと感情をにじませた日本語は意味論的に無視されていく。

例:お前は馬鹿=貴兄と私は考え方が違う。

さらに、セマンテックウェブ(意味論的電網)がすすめば、トートロジー(純粋律)が情報でなくなる。(論破は論破でしかない。)そして、矛盾命題を解決していくことに、リアル世界もウェブもリソースを集中できるようになる。

例:世界に平和を。(無意味) 諸国家間の考え方の違い、経済格差をどうやって武力紛争以外の方法で解決するか。(有意味)



これが近未来へのメインストリーム。
だが、その道筋の中で、どのように言論の対立・摩擦がどのように起こり、波動していくか。それは私にも分からない。
ただ、方向はあっち。そんな感じである。

読者諸氏のご批判を待っている。
posted by sponta at 15:12| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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