真理とは全体であって、部分を認めない。そして、「例外のない法則はない」などという戯言が成立するのは、個別案件と全体しかイメージできていないことの現れである。☆
思い出そう。
アインシュタインは、「この世の中は単純ないくつかの法則によって成立している」との推論を立て、それを証明するために人生を捧げた。だが、現代物理は、この世界が、そのような単純なことでは成立していないことが明らかになっている。私たちが暮らしている世界は、ニュートンの物理学で成立しているが、原子核の中のような極微の世界では、別の物理法則が成立する…。
☆
私の3ヶ月のサラリーマン生活で同じシマにいた情報処理技術者は、私との議論で、「議論のレイヤーが違うんだよね」と、しきりに不平を述べた。とはいえ、東大出の彼は、私とのレイヤーの違いを楽しんでいたようで、私が退社するときに、最敬礼で送り出してくれた。
私の用語では、「メタ」ということになるのだろうが、それはまさにレイヤーの違いであった。そして、彼と私の間では、それぞれの議論のレベルに上下はない。つまり、相手の議論のレベルを自分の議論のレベルが越えるとは思っていない。そういうフラットな感覚が、彼と私の議論を楽しく・有意義にしていたのだと思う。
考えてみれば、弁証法とはアウフヘーベン(止揚)という、議論の次工程を前工程よりも、高次のものとして捉えていた。その思考方法は2008年に思うと、旧態然に思える。なぜなら、アウフヘーベンでは、過去に逆戻りすることは困難だからだ。
☆
さて、「みんなというのは4〜5人」と言ったのは誰か。
それは、娘が小学校に入学したときの担任のN原先生(女性)である。曰く、「おこさんがみんなと言ったときは、だいたい4〜5人ですから、あまり気にしないでください」というものだ。
みんながそうするから私もしたい。みんながそういっているから私は傷ついた。だが、みんなとは、クラス全員ではなく、4〜5人である。女の子なら、4〜5人の仲良しグループだろうし、男の子なら、一緒にスポーツをする仲間たちだろう。女の子のグループと男の子のグループが一緒になった十人程度というコミュニティーは、学級会のレベルであって、なかなか成立しないに違いない。
そして、そのことは、学会でも、インターネットでも、同様と思えてくる。
☆
さて、東浩紀氏は、「ぼくたちはエリートを育てることでしか公共的価値を涵養(育てる)できないのか、これはなかなか深い問いなのです。」
http://d.hatena.ne.jp/beeswing/20080501
とブログに書き、賛同する声がある。
だが、エリートは個であり部分ではない。ならば、エリートが世の中を成長に導くというのもまた幻想である。
たとえば、優秀な人間がいたとする。
青色発行ダイオードを発明した高橋氏もそうだろう。だが、彼は発明をしただけで、それだけで製品が誕生するのではない。
技術があったとしても、それを価格的に馴らさなければ普及はしない。そこにおいて、エリートとエンジニアとマーケットの調整により、商品が成立する。発明者にとって発明が価値無限大だとするならば、世の中に普及するはずもない。そのことを見逃してはならぬ。
それは、医療も同じだろう。最新技術を持って治療をしたとしても、そのために人間としての機能を失ったなら、患者が「死にたい」といっても仕方がない。外科的手術によって、人間としての形体を留めぬまで切り刻まれることも、当節珍しくはない。
車でもそうだ。エリートが速い車を作る能力があっても、それが日本の交通事情にそぐわなければ無為である。そのように、エリートという視点は、個の視点でしかなく、個によってのみ世の中が成立しているとするのは、短慮である。
そのような妄想が、霞ヶ関の腐敗・傲慢を許した。
勿論、東氏の母校の出身者がエリート幻想を持ちたいのは理解する。だが、そういうステークホルダー(自己利害)、ルサンチマン(感情)を越えることこそ、本当のスマートだと思わずにいられない。
【ウェブメソードの最新記事】
2003年からスポンタ、2007年にスポンタ中村になりました。real nameは中村厚一郎です。



