2008年05月02日

日本がポストモダンの実験室な訳。複数の個により漂う主観。

フランスの社会学者、M・マフェゾリ氏は、ヨーロッパは一時期「近代及び個の実験室」だったというように、現代の日本は、「ポストモダンの実験室」として重要だ。と述べている。
ポストモダンとは、文字通り「近代の後」であり、脱構築とはギリシャ・ローマまで戻って、社会構造を脱することを言う。そう考えれば、何故、日本がポストモダンの実験室なのか。分かりやすい。


ギリシャとは「思索する個」の故郷であり、ローマとは「一神教」の起源である。
一方、日本が現代を脱構築して帰るべき故郷は、江戸時代以前である。明治以降、西欧思想・文化が日本にやってきたが、多神教的多元論を崩すには至らなかった。そして、日本は先進国では唯一の多神教的文化を有する。ここにおいて、日本が「ポストモダンの実験室」たりうる条件を圧倒的に持っている。



パリの日本文化に関するシンポジウムでは、「情報社会における自己の新しい構築」とか、「弁証法的に形成された西洋型の人間像ではない新たな人間」などをテーマにディスカッションが行なわれたというが、ポストモダンの実験室である日本が提出するのは、「個」という概念が、属する肉体という単位を元にできあがっているのではないということである。そして、その対立概念である全体でもない。

思索する個をもとに、西洋文明が発展し、それがポストモダンにおいて、脱構築を迫られた。そこにおいて、脱すべきは、個という単位において思索することである。それは同時に、全体というもうひとつの個をイメージすることでさえない。
西田幾多郎が世界的に認められたのは、彼の禅の思想だったが、絶対矛盾的自己同一という、個と全体を対照させるものだった。個と全体という思想が西洋思想との間に親和性があり、かれは評価されたに違いない。

だが、いま2008年の日本人が対峙させられているのは、統一された全体など空想でしかないことだ。
つまり、認識界も、非認識界も、超認識界も、此岸も、彼岸も、また、それをひっくるめたブラフマン、ユングの集合的無意識さえも、全体である保証はない。ならば、ミクロコスモスとマクロコスモスの統合さえも、仮想に過ぎぬ。



池田信夫先生は、インターネットにガバナンスを。インターネットに実名を。と、主張しつづけるが、それは、インターネットをそのようなモラル・規範でセグメント(細分化)することでしかない。

もし、全体というものを唯一イメージできる手法があるとするならば、全体に対してレイヤーで分割するというイメージである。
レイヤーをイメージできれば、全体の細分化は防ぐことができる。だが、これは、細分化した部分集合の行き来を自由にすることと、等価である。

固定的な個という概念は、インターネットの時代において空虚である。(ウェブメソード)


つまり、ポストモダンで言うところのノマド(流浪の民)であり、個が固定されているならば、リゾーム(地下茎)でつながっているということになるだろう。
そして、ノマドもリゾームも個と全体しか存在しない。そこにこそポストモダンの限界があり、日本がポストモダンの実験室として、新たなる理論を誕生させるとすれば、個の単独主観からの拡張(超主観)である。

「自他の境界領域があいまいになった人が殺人を犯す」。小6児童の学校内での殺人事件でも、そのような解釈が行なわれた。臨床では、個の境界領域があいまいになっていることが頻繁に話題になる。だが、アカデミズムの世界では主観は、あくまで単独知の結果物でしかない。

主観のあり方に疑問を持つことから、日本のポストモダンについて考えるべきときが来ている。

だが、主観を誇る学者たちによって、複数知は存在すら認められようとはしない。(ウェブメソード)


実名による言論は、実名というクビキを逃れたからといって、全体にはならぬ。なるのは部分である。そして、実名であることはトレーサビリティー以外の何物も保証しない。
それはまるで、飼い主の首輪を放たれた犬が自由になったからといって、世界漫遊の旅に出ないのと、同じことである。
posted by sponta at 07:04| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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