そして、日曜日には、「男が女を求めるのは自然の摂理ね」という手紙のやりとりは、手紙の中の衝撃的な部分だけを意図的に抽出したものにすぎない。センセーショナリズムであると形容するドキュメンタリー番組があった。
☆
マスコミの言論も揺れているのか…。私は、そうは思わない。批判と擁護のふたつ通りの馬券を買って、判決に臨みたい。それだけだ。そして、それらの番組を通じて得られた殺人者の反省の弁を持ってしても、彼に究極の反省がないことが判る。
殺人者は、反省という手法を使っているだけであって、本当に反省していない。
何故なら、彼は、「死を持って、罪を償う」という一言を言わないからだ。
「自死を持って、罪を償いたい」と発言する法廷の殺人者は珍しくない。死刑を希望する殺人者もこれまで多く存在してきた。だが、今回の殺人者は、そうではない。
そして、死刑廃止論者の弁護団は唯物論者だから、印象操作に一番効果的なこの言葉を殺人者に吐かせるという手法を使えなかった。
一方の本村氏は、反省しているかしていないかは評決とは関係ないと指摘する。印象評価は印象評価に過ぎぬということであろう。
☆
結局のところ、この事件は、唯物論者が引き起こした事件であり、唯物論者の弁護団が裁判所を混乱に陥れている事案である。被告は、「死んだらおしまい」と考えているから死姦できたし、弁護団も「死んだらおしまい」と信じているから死刑を究極の刑と判じる。
裁判が再発生の防止のために営まれているとしても、「死んだらおしまい」という考えがある限り、この手の犯罪はなくならない。唯物論がある限り、自暴自棄になった人が、関係のない他者を殺したり、自殺することを防げない。そして、唯物論がある限り、孔子の説法も組織を上手にやりこなすための処世に過ぎず、人間の精神を向上させることではない。そして、そのようなものだから、江戸時代の封建時代に重用された。日本において儒学は宗教ではない。
☆
昔、テレビのドキュメンタリー番組で、孤児施設で絶望する少年が登場していた。小学校高学年の彼は、友達もできず、孤立無援、八方ふさがりの状況だった。彼に、ディレクターが語りかける。「自殺しちゃいけないよ」
担当ディレクターは彼の状況に、彼が自殺しても仕方がないと思ったのだろう。だが、少年は次のように応えた。
「自殺したら、地獄に行くって知っているから、自殺はしないよ」。か細い声で少年は答えた。
八方ふさがりの人生に対峙している少年に、自殺や逆ギレを抑止する言葉を私はそれ以外知らない。
唯物論者ならば、「君の周りの人達が傷つくから、自殺はやめなさい」というのかもしれぬが、そのような人が一人としていない彼には、そんなオタメゴカシを吐くことはできぬ。
☆
弁護団は、死体とのセックスが蘇生させる儀式だというトンデモ論を提出しているが、私には、死体とセックスをするという行為の意味を見出せない。
死体とは魂が去ってしまった物体に過ぎない。ならば、それと交わったところで、祭りの終わった後に、一人踊るようなものであろう。
その行為において、自慰以上の何かを見出せぬならば、そのために量刑を受けるまでして行なうことは無為である。だが、思考は脳内現象に過ぎず、魂は存在せず、この世しかないと考えるならば、セックスの擬似行為として死姦が成立する。
弁護団は、唯物論者だから、死刑を処された後には何もないと考えているのだろう。だから、死刑は量刑の範囲を越えていて、あってはならぬから、死刑廃止を主張する。
唯物論者ならば、当然の論理だ。
彼らが何故、死刑廃止を主張するか。その理由の本質は、ヒューマニズムではない。唯物論である。
そして、橋下弁護士が指摘したのは、「弁護士はディベイトをしていいのか?」という問題である。弁護士は被告を無罪にするためには、何を言ってもいいのか…。ドラえもん、死姦蘇生幻想。…なんともはや。
☆
さて、本当の反省はどうあるべきか。
私は、1963年に発生した吉展ちゃん事件の犯人の反省のあり方を紹介したい。
小原の処刑間際の言葉として、「今度、生まれてくるときは真人間に生まれてきますからと、どうか、平塚さんに伝えてください」と言い残した事が知られている。(ウィキペディア)
吉展ちゃん事件の犯人は、死刑執行直前の聖職者の祈祷において、自分に祈祷するのなら、それを被害者のために捧げて欲しいと頼んだ。殺人者の反省とは、かくあるべきものだろう。
☆
そもそも唯物論者に、生死に関わる物事に関わる資格はないのである。
本日午前中の結審を持って、どのような言論が紡がれるかは判らない。
殺人者が死刑を宣告されることになり、感情的な死刑廃止論があふれ出し、本村氏にバッシングの波が来るやもしれぬ。と、スポンタは危惧する。
だから、このエントリーを書いた。
我がブログの読者においては、これまでの本村氏の行動が提出している現代的な意味を汲み取るべきだし、この期におよんで、1963年の吉展ちゃん事件の犯人の心の系譜を辿ることも価値がある。このような厳しい現実に、無作為で選ばれた裁判員の精神が平衡を保てるとは、スポンタはとうてい思えない。
追記:
余談だが、刑事ドラマでの取調べ室で、カツどんが登場するのも、この事件における鬼刑事・平塚八兵衛のイメージによるものという…。半世紀近い時の流れの中で、刑事事件のあり様も変わってきたのだろう。
平塚刑事は、つかこうへいの熱海殺人事件におけるくわえタバコ伝兵衛のモチーフとなった。1963年は東京オリンピックの前年。私は保育園児であり、記憶に残る一番ふるいテレビ報道が吉展ちゃん事件である。
2003年からスポンタ、2007年にスポンタ中村になりました。real nameは中村厚一郎です。



