2008年03月12日

ウェブメソードは、民主主義のツールである。

有体にいえば、ウェブメソードは「インターネットなやり方」である。

ウェブメソードは、インターネットでのコミュニケーションの掟ではない。リアルな場での意思決定・代表決定に関わる方法論である。

ウェブメソードの理想・目標は、究極の民主主義である。
朝鮮民主主義人民共和国など、民主主義を国名に掲げる国が全体主義になっている場合がある。では、この国では、民主主義が一切成立していないのかといえばそうではない。
少なくとも、将軍様一人にとっては民主主義なのだ。つまり、彼にとって北朝鮮は民主主義の国ということになる。つまり、ローマもギリシアも民主主義だったが、そこにおける国民は限られたものだった。そして、そこで何が起こるかといえば、民主主義というものは、コミュニティーのサイズによって多層に成立するものだということ。

たとえば、ヒエラルキルな階層がコミュニティー内にあったとしても、横の階層では民主主義・フラットである。ヒエラルキルなコミュニティーにあってもフラットは存在する。そして、一方、もっと問題なのは、フラットなコミュニティーにヒエラルキルな階層ができあがることである。これは、トートロジー(絶対律)を錦の御旗にして、相手の言論を封鎖するものであり、フラットなコミュニティーといえども、その構成子たちは、全体主義的な束縛を受ける。そして、この場合どういう解決法があるかといえば、コミュニティーの出入りを自由にすることである。

価値観が多様なのは個が多様なのだから当然のことである。そこで、全体主義的なムーブメントを排除するには、そういう移動的な個の属性を重視する他ない。
コミュニティーと個の関係が固定的になれば、そこには必ずモラルの固着があり、それはいつしか教条主義的になり、コミュニティーは孤立・腐敗する。ここにおいて、フラットであるか、ヒエラルキルかは第一原因ではない。

ただし、リアルな場では個が単一の属性に縛られてしまう。そこにおいて、国家も会社も寿命があり、いつしか新しいものと交代をする。だが、個が複数に存在でき、コミュニティーに縛られることがなければ、コミュニティーは永続できる。

これこそがウェブメソードである。

ウェブメソードにおける民主主義は永遠の理想であり、達成できる目標ではない。
目標が達成されたと思うならば、ウェブメソードは挫折している。それが厳しいところなのだ。
posted by スポンタ at 05:33| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | ウェブメソード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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