2008年02月16日

インターネットにおける絶対と相対。

さて、Japan Blog Awardにエントリーされたが、前途多難である。ITのカテゴリーなのか、ジャーナリズムのカテゴリーなのか分からないが、審査員との根本的な立ち位置の違いを感じているからだ。

http://www.japanblogaward.com/judge.html

「たとえ文章が稚拙であったとしても心温まるブログを読みたい。読んで元気になりたい」と、湯川さんは仰る。たとえ文章が稚拙であってもとは、私がプロプレスは市井人を国語力で鑑別してはならぬ。という意見と同じ文脈であり、感服至極である。ただし、私のブログが心温まるか。読んで元気になるかといえば、疑わしい。そして、ITの審査員は佐々木俊尚氏であり、彼との立ち位置が異なることは自明である。

彼と私の違いは「絶対と相対」である。そして、それは、単に佐々木氏と私の乖離だけでなく、広くジャーナリズムや既存のエスタブリッシュと私の乖離にも通じていると思えてならない。

それに関連して、司馬遼太郎の次の言葉に出会う。

絶対と虚構は裏表


既存メディアでは、科学が絶対であると奉じられ、インターネットは虚構となじられる。
だが、絶対を奉じる者こそ、虚構を他者に押し付けるものであり、インターネットは相対化の世界。

佐々木氏が「絶対的正義」という妙な語彙を使ったのは、彼がそのことを理解しているからかもしれない。


司馬遼太郎の「この国のかたち」第二巻、245ページ「GとF」には次のようにある。

私の素人かじりの感じでは、ヨーロッパの哲学者はギリシア以来、絶対という唯一の虚構を中心におき、それをせまっていく営みであるらしい。


「絶対を唯一の虚構として奉じる西洋文化」と断じる司馬氏の勇気を私は讃美したい。彼が唯一の虚構としているのは、西洋哲学であり、その上に乗っかっている西洋文明・科学も同根である。
私は、一神教的二元論の西洋と多神教的多元論の日本は相容れないと論じ続けているが、司馬氏と同じ文脈にいることが分かる。

私は、立花隆氏の「臨死体験」を読んだが、一神教的二元論で割り切れぬ世界を扱いながらも、その枠を越えることがなかった。立花氏は科学というものを越えてしまえば、自分の名声は毀損されるとの恐怖があったに違いない。一神教的二元論を越えることで名声を失った人は多い。ユング(心理学者)やキューブラロス(ターミナルケア)はその典型だが、エジソンやドイルも同じ傾向を持つ。そして、サイエントロジーなどという中途半端なものに関わってしまったトム・クルーズ…。
そして、宗教者たちも彼岸の世界を語らない。密教の世界を体験している瀬戸内寂聴が圧倒的な社会的発言権を持っていたにも関わらず、オウム事件について一切語らなかったのは頂けない。すべては、一神教的二元論で日本社会が営まれており、そこで多神教的多元論の言論を展開すると、自らの名声を毀損する。そういう意識があったに違いない。



放送法には、科学を否定するような言論を許容しない。とある。
ネット者は、放送法にそのような事項がある意味を深く考える必要がある。

問題は、一神教的二元論に科学を否定するカルトが混じってきたとき、そのカルトが絶対を纏うこと。
本来、カルトが異端として存在したとしても、それは異端としてのあるべき場所になり、その危険性は相対化され、希釈される。だが、メディアが絶対を奉じ、一神教的二元論に拘泥するなら、絶対対絶対の戦いになり、カルトの危険性は希釈されない。

思えば、2ちゃんねるのテンプレート(まとめ書き込み)とは、相対化の所作である。まとめは、帰納や演繹といった西洋的な手法を取らない。帰納・演繹・弁証しないことが日本的叡智なのである。

司馬遼太郎の「この国のかたち」が提出するこの国の形とは、メディアを通じて見た日本ではなく、ひとりの文化人・司馬遼太郎が見た日本である。
日本には創造神と救世主を一緒くたにするような雑駁な精神はない。大日如来と阿弥陀如来は両立するのである。

posted by スポンタ at 07:32| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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