2008年02月12日

倖田来未の活動休止。羊水検査と優生保護、母体保護。

テレビのワイドショーでは、くーちゃん発言を「根拠のないこと。若いから知らないのね」と。
だが、ネット(教えてgoo)では、「彼女は、デリカシーのない発言をしただけ」だとまとめられる。

http://209.85.175.104/search?q=cache:AOYnSDaE99YJ:www.j-cast.com/2008/02/01016232.html+%E5%80%96%E7%94%B0%E4%BE%86%E6%9C%AA%E3%80%80%E7%BE%8A%E6%B0%B4%E6%A4%9C%E6%9F%BB&hl=ja&ct=clnk&cd=4&gl=jp

これがインターネットのリアリズムである。

優勢保護法は、1996年母体保護法と名称が変わったという。何故、法律の名前が変わったのか。その裏には、法律の名前に差別感を感じ、なんとしても変えようとした勢力がいたに違いない。

関連事項としてTBSが「大好き」という知的障害者の出産をオンエアしていることがあげられる。この番組の企画成立の経緯と今回のくーちゃんバッシングには、同じ思潮が底流に流れていると、私には感じられてならない。



我が妻は、over35で出産している。
世田谷区の私立総合病院の産科医師は、粗忽にも羊水検査(任意)するかどうかを確認するのを忘れた。
なんでも、昭和三十年生まれを三十歳と間違えていた…。(笑)
検査は任意だが、中絶が可能な時期に羊水検査を行い、その結果をもって中絶するか出産に及ぶかの選択を、妊婦とその配偶者は求められる。

なんとも厳しい選択を夫婦は求められる。
確かに、これは極めて現実的なシステムなのだろうが、そこから、結果として障害者の親になった人達が、システム以上の何かを読み取ったとしても、自然な感情の営みだと思われる。そして、それが様々な言論活動に繋がることも、当然・必然だろう。

我々の社会は羊水検査(任意)という厳しいシステム(任意)はつくったが、そういう厳しい選択ののち、障害者を持つに至った親達の対話・心のケアをしてこなったのかもしれぬ。これはシステムの不備である。

彼らとの対話の場所をつくらなければならない。



我が夫婦は不妊治療一歩手前で医師とのコミュニケーションを取ってきた。だから、医師は「中村さんはこどもが欲しいんだから、羊水検査をしなかったけど問題ないですよね」と、私たちに念を押すに止めた。
そして、私たち夫婦は、一定以上のダウン症児が生まれる確率を提示された上で出産に及んだ。何もなければそれでいいし、障害児がうまれたときは、かつてラジオ番組のディレクターをしていたことでコミュニケーションのある宮城まり子氏さんに相談しようと真剣に考えていた。障害があろうとなかろうとそれぞれの人生がある。親はこどもの可能性を信じて東奔西走すればいい…。



出産関連の書類から、高齢出産を示すマルコウの印が無くなったというのを聞いて久しい。
WIKIPEDIAには、次のようにある。

高齢出産(こうれいしゅっさん)とは、統計上または医学上、女性が35歳以上で子どもを産むことを指す。なお、「35歳」という年齢に何か特別な意味があるのかと誤解されがちであるが、高齢出産のリスクは30歳を超えた頃から徐々に高まっていくものであり、35歳を境に「急に」危険性が上昇するわけではない。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BD%A2%E5%87%BA%E7%94%A3


これを総合すれば、くーちゃんは、「何も知らなかった」のではなく、「デリカシーがなく、他者を傷つけた」のである。
ならば、それらを明確に提示しながら、謝罪会見をしなければならなかった。のだと、スポンタは思う。
だが、くーちゃんは自由に発言する権利はなかった。



タレントは門外漢の分野関して発言しなければならないケースは多く存在する。だから、タレントが未確認な知識によって妥当性のない発言をしてしまう可能性は高い。だが、悲しいかな、その事態を収拾する権利が、タレント本人にはない。それがくーちゃんの悲劇。それが、既存メディアの桎梏(檻)というものだろう。

あるべき謝罪会見は、以下だろう。

私が「35歳を越えると、羊水が腐る」という発言は間違いでした。正しくは、女性の出産が何歳から高齢になるかは微妙なことですが、一般的に高齢出産では羊水検査が行なわれて、障害児が生まれる可能性の多寡について診断されるそうです。


私は、上記の文章を書いたが、女性問題、優生保護関連、障害児関連、差別、人権、民族主義、ナチスドイツなど、さまざまな問題に発展しかねない要素を孕んでいるので、批判が起きないように配慮することが極めて難しかった。そして、私が頭をひねった文章にしても、一切の批判から無縁ではない。
ならば、くーちゃんの謝罪会見で、「羊水が腐る」という抽象的な文言を、より医学的に解説することが憚られたに違いない。彼女は反省を口にするだけ。一切の具体的な弁明はできなかった。
そして、もし、くーちゃん陣営が、記者会見に医学の専門家を呼んでコメントさせたなら、それは医学的には正しい解説であったとしても、バッシング勢力の言論をさらにヒートアップさせたに違いない。…ことの次第は、ユーチューブに載せられて、ネット言論が盛り上ったのではない。



だが、それでいいのだろうか…。

私は、くーちゃんの言葉をきっかけに、フェミニスト・優性保護関連・障害児関連言論者が、オープンに議論をすることが重要だと思っている。インターネットならば、簡単にそれができる。(それをさけているのがウィキペディアであり、それを行なっているのが2ちゃんねるだ。)

さまざまな言論が対立軸を明確にし、対照されて世の中に提示される。
それが重要であり、その言論の可否について、世の中が妥当性・有用性について審査すればいい…。

*

そういう試みをしないで、くーちゃんの芸能活動を断ってしまう。それは、既存メディアの傲慢。
彼女の降板は、広告主による圧力を恐れたメディアの対応によるもの。構造的にマルコを追われた花田編集長と同じことだ。スポンタは、くーちゃんの早期の芸能活動復帰を望む。



インターネットが白日の下に提出するものは、多数者・権力者の横暴と、少数者の陰謀である。


今回は、その最たるもの…。そう考えている。
posted by sponta at 07:33| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | メディアウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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