その理由を説明したい。
☆
まず、科学について。
啓蒙主義の時代といえる殖産興業以降、アインシュタインの物理学〜プラスチックが世の中を変えた化学〜エジソンやベル研究所が世の中を変えた電子工学〜バイオテクノロジーという風に、世の中が注目する学問が変遷してきた。
そして、思想について。
戦前の旧制高校的な「デッカンショ」的な思索は、戦後の「イデオロギッシュ」な思索に替わり、学生運動の虚無化の流れの中で、カルト宗教の侵入を許した。
オウム真理教が蔓延したのが、かつて西田幾多郎が活躍したキャンパスだったことは示唆的である。
*
司馬遼太郎は、空海に関する著述の中で、「宇宙の真理と生命の深遠」を考えることが華厳宗という学問であるという。そして、華厳宗の応えぬこと領野を補完するのが大日経である。と。
奈良南都六宗は存在論しか規定せず、人間が如何に生きるべきかについて関与しなかった。そして、解脱が極めて難しいものであり、ほとんど個人には難しいと説くことに疑問を持っていた。
そこで、空海は誰でも成仏できる。という立場をとった。それは人間は生きながらにして聖なる存在であり、この世界のすべてに聖なるものが宿っているとも。そして、そういう思想のもと、生きる術に落とし込む具体的な方法を持ったのが密教である。密教の中心に護摩がある。火を起点にとらえたのは、ルドルフ・シュタイナーと同じ。
西田幾多郎は、デッカンショな学生時代を過ごしたのだろうが、決して、禅を忘れなかったに違いない。だが、戦後のイギオロギッシュな人達は、禅的な教養を持っていないのだろう。だから、その後、カルト宗教に洗脳されてしまう。
華厳的な存在論だけでは、この世界は理解できぬ。したがって、密教的な肉体をつかって超越した世界を実感することを必要とする。そのもっとも主流たるものが、純密。空海が日本にもたらしたものである。そして、オウム真理教は雑密である。
今回のオウム真理教の陰謀に対して、日本の宗教界(真言宗)が「雑密に過ぎぬ」として、かの教団を批判しなかったのは、いただけないことだと思っている。
そして、雑密でしかないものを評価した中沢新一氏の浅薄さを思う。何故、空海が体系化に専心したか。それは、体系化しなければ、危ういものであることを確信していたからである。
体系化がなければ、日本古来の巫女的なシャーマンな手法と、道教的な手法と同じになってしまう。それはある意味、シャーマン的な特権的を誇ることでしかない。
☆
何故、このようなもったいぶった話をしなければならぬのかといえば、脳化学・動物行動学・経済学など、さまざまな学問を世の中のリファレンスとして用いることが流行してきたが、それらのほとんどが、科学とそうでないものの境界の内側でなんとか非科学的な分野を解説したい。という徒労を行なっているからである。(それはある意味、神秘学さえも)
シンクロニシティーやセレンビティティー・遇有性などの概念は現象にすぎない。
それらは科学と非科学の境界領域があるからこそ、世間から注目される概念なだけであって、そういう境界域でなければ、本来、雑密の類であり、存在価値の低いものである。それらは、科学の側からの雑密であって、宗教の側からの雑密・オウム真理教と同じものである。
結局のところ、境界領域を語るには、純密である空海の思想を学ばなければならぬ。そういう教養があってこそ、境界領域を把握することができる。
☆
比喩的にいえば、板門店の国境を見ているだけでは、ことの本質は見えぬ。ソウルの青瓦台と平壌の将軍の動きを把握しなければ、国境の動きを見ていてもそれは瑣末なことでしかない。かつてのベルリンの壁の西側から望遠鏡で見ているだけで、クレムリンの動きやスターリンの思想が理解できるなどはずなどないのである。
追記:
放送法には、非科学的なものを放送してはならぬという事項があるらしい。この項目なども、雑密を禁じているだけであって、純密を禁じているのではない。そう私は理解したい。でなければ、ホワイトハウスの大統領就任式の宣誓も中継できないことになるのだから…。