2007年12月21日

純粋・坂村健批判。産経新聞・正論の愚。「ウェブはオルタナティブメディアではない。新聞はなくならない」。


私の上司が産経新聞の正論を読め。と、私に差し出した。コラムのタイトルは、「新聞界の常識が崩れ去った」というものである。

新聞の世界だけしか知らなければ、坂村氏の意見はしごくまっとうに見える。だが、読者はそのように理解しないだろう。なぜなら、トロンの推進者として坂村氏は高名であり、それは彼がITの専門家として新聞を論じることになるからである。

坂村氏の論は2000年以前の論理であり、それを2007年の今、彼が提出することは、彼の不明ばかりか産経新聞の不明も印象づける。

私のブログの読者であれば、またか…。と、飽きられるのかもしれぬが、本年初夏の日本新聞労働組合連合のシンポジウム以降、私の読者に成られた方もいるだろうから、再度、綴ることにする。



坂村氏は、「新聞界の常識が崩れ去った」とのタイトルを提出する。だが、新聞界の常識は崩れ去ってはいない。新聞という権威がウェブの登場によって相対化されただけであり、新聞界の常識は常識のまま温存されている。そのことは、読売新聞のナベツネ氏がいまだに君臨していることからも実感できるのではないか。

ウェブはオルタナティブメディアではない。ということはどういうことか。
1990年代、ニューヨークタイムズは新聞の時代は終わるとの悲観的未来を予測した。だが、2000年前後だろうか。新聞は終わらないと、修正したのを憶えている人も多いだろう。少なくともアメリカの新聞人は、2000年前後に、ウェブが自分達にとって代わる存在ではないことを理解した。
しかし、日本ではそうではないらしい。

私の恩人の一人である歌川令三氏は、「新聞のなくなる日」を書いたが、彼は日本の新聞の宅配制度について多くを書いた。彼の言うとおり、日本の宅配制度はなくなるのかもしれぬ。だが、新聞そのものがなくなるか。といえば、そうではない。
坂村氏はコラムの冒頭で、朝日・読売・日経の3社が販売店網の提携とネット配信の共同化を発表したことに言及している。ここにおいて新聞というビジネスモデルの常識が崩れているといえるのかもしれぬが、それは銀行の統廃合に比べればたいしたことはない。そんなことで驚いているほうが慶賀である。



坂村氏は、新聞の未来が、記者・会社・レイアウト・広告・販売店・折込み…。など、さまざまな未来に分断していて、ひとくくりにして論じることができぬ。と、指摘する。これなどは、先日のブログで指摘した複雑系とホーリズム(全体論)の話である。頭のいい坂村氏のこと。複雑系として処理されることに疑問を持ち、ホーリズムを排して論じようとしている。

だが、論理のレイヤーを変えれば、複雑系・ホーリズムなどと嘆く必要はない。ことの本質は、「ウェブによって新聞の権威の相対化が起きている」ことである。

「相対化」は対照によって、物の価値が客観的になることだから、本来は悪いことではない。問題は、相対化によって新聞が価値を失っていることである。

*

たとえ話で恐縮だが、洋式便器の登場によって、和式便器は廃れたかに見える。だが、その実相は相対化されたにすぎない。なぜなら、公園の公衆便所では和式便器の方が一般的だからだ。使用者の膝に負担をかけぬ洋式便器は多くの人に支持を得るが、便座が少しでも汚れると使用できない。結果、管理の行き届かない可能性の高い野外公共施設では和式を採用する場合が多い。
もし、便器について相対化ではなく、オルタナティブ(2者択一)な考え方をしたらどうなるか。我々は汚物のついた洋式便器の上に土足で上がり、しゃがんで用を足すことになるだろう。
そして、驚くべきことに、私はロンドンの地下パブのトイレでしゃがんで用を足したことがある。本場イギリスでも、洋式便器は相対的立場しか持たぬのだ。

*

ウェブによって新聞の権威は相対化を余儀なくされている。新聞の権威に妥当性があれば、相対化されることで、いままで以上にビジネスは発展する。だが、妥当性がなければビジネスとして終焉せざるをえない。

だが、新聞社のほとんどは相対化されることを嫌っている。それが2007年。
新聞が生き残る道は、積極的に相対化されることを望み、相対化の中で自分たちのメディアの価値を高めていくことである。
posted by スポンタ at 06:43| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 集合的コミュニケーション論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
時々読ましてもらっているそらっちです。

ココで指す相対化とはどんな意味を指すのでしょうか?
Posted by そらっち at 2007年12月21日 11:58
2ちゃんねるのテンプレートが相対化で、ウィキペディアの係争中が絶対化。

新聞の人達は正誤などと気にするけど、それって意味が無い。
多くの誤報も事実ではなかったにしても、主観的な真実ではあったのだから…。

つまり、表現手法の問題であって、事実との対照は所詮無理なんだ。
Posted by at 2007年12月22日 06:17
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