2007年11月28日

ウィキペディアと2ちゃんねるの違い。

週刊アスキーの12/11号を買ってきた。歌田明弘氏の仮想報道を読んでいる。またしても、歌田氏はウィキペディアを考察しているが、その論は一向に変わっていない。何故、同様の論を紡ぎつづけるのか、私には理解できぬ。

今日、著名人ならば自分の名前でRSSリーダーで自分の名前を登録しておくことは、ネットに詳しい人ならば当然やることだろう。
つまり、名前を明確にしてブログ書く事は、当人にメッセージを送ることである。なのに、そのリファレンスを一切言論に反映・影響させないことは、明確に反論していることになる。

今回も、リード文に歌田氏の名前を書いたから、このエントリーも彼へのメッセージの類である。



ウィキペディアで論争中な事項がある。論争中だと閲覧ができぬ。もちろん、論争を辿ることもできるのだろうが、私は面倒なので、わざわざ辿ろうとは思わない。というか、一向に方針を変えないウィキペディアが不思議である。世の中のさまざまな事項につき、ひとつの結論が出る場合など少ない。世の中の事象のほとんどにおいて一つの結論になることなど殆ど皆無に等しいのに、一つの結論、一つのオーソライズを目指していることの不合理を誰も問わぬのは何故だろうか。

私には、そのような運営方針を変えぬウィキペディアのコンセプトの底に、線分的なコミュニケーション論があるような気がする。ウィキペディアでは複数の論争者がコミュニケーションを続けるだけであり、コミュニケーションは断続的に行なわれるだけである。そこには、ロゴスの応酬しかない。



一方の2ちゃんねるは、論争になると、コメントが1000件を越えるたびにテンプレートが作られ、対論が相対化されて提示される。ここにおいて提示されるのは、複数のコミュニティーの論理である。
複数のコミュニティーの存在があり、それが絶望的に交わらない。そこでは勝ち負けはない。否、当事者同士では勝ち負けは決定しない。そこにはロゴスの塊が複数に存在して断絶している。

ウィキペディアは線分コミュニケーションだが、ここでも当事者同士で勝ち負けは決定しない。ウィキペディアで言論が決定するのは、更新頻度が下がった場合である。ならば、ウィキペディアは真正性を争っているのではなく、根競べだ。

第三者の評価において、ウィキペディアは線分的であり、過去に辿らなければ論争状況を把握し、優劣を評価することに手間がかかる。
一方、2ちゃんねるのテンプレイトは集合的であり、部分集合の対立を見るだけで、論争の状況が把握でき、勝敗を評価することが容易である。

ウィキペディアが2ちゃんねる的な展開をしないのは、線分に固執する西欧の文化的な背景があるではないか。



西欧は線分的文化であり、日本は集合的文化である。
西欧は複数の線分をイメージし、日本は複数の部分集合をイメージする。

ウェブはいままで線分的なコミュニケーションをイメージしてきた。
だが、コミュニケーションは流動的であり、固定的な経路でないならば、ノード(端末・個)とノードの関係は線分的ではなく、集合的関係で考えるべきである。


つまり、ノードとノードが結びつくことでコミュニケーションを考えるのではなく、交わらないノードを想定することで外部コミュニティーをイメージすることが実用的だと思うのだ。

日本的な考え方が、ウェブに寄与する時代が来ているのだと確信する。
posted by スポンタ at 07:43| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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