2007年11月16日

コミュニティー論のまとめ。



コミュニケーション(線分的)→トラフィックの増大→コミュニティー化(集合的)

コミュニケーション(線分的)→無意味コンテンツの増大→コミュニティー化(集合的)

トラフィックの増大にともなうスパムの原因は、集合を単一であると考えているから。



その一方で、「固有名詞がないと価値を成立しない情報はゴシップである」と、私は定義する。

そこで、パブリックとゴシップとプライベートという3つの階層ができる。

*

政治家が私事での不始末で降板させられるのは、パブリックとゴシップの混同である。
そして、芸のない芸能人はゴシップであり、芸能・芸術とは別物。芸能のふりをしているが、彼らに注目されるのは、運動会でわが子の所作に一喜一憂するのと同じである。

パブリックは匿名でも成立する。ゴシップは売名(名を売る事で成立する)であり、プライベートは署名でしか成立しない。

パブリックとゴシップを履き違え・混同し、匿名を糾弾し、売名をなじる。
そんなことが、日本のいたるところで起きている。
posted by スポンタ at 05:40| 東京 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
上武大学のほうがまた若干にぎやかになってますな。
Posted by Death@LUFT2501.com at 2007年11月16日 09:44
コメントありがとう。

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ec0ed69b8abf25fb6e59671cf0c11beb

にいきました。

KYとは、非言語的母集合の構成員でないことを糾弾する言葉ですね。

そして、なぜKYと符丁を使うかといえば、「空気を読め」という言語化が、その評価者をKYに落とし込んでしまうから。

だから根本的にいえば、KYはKYであって、それ以上でも、それ以下でもない。被KY者は非構成員かもしれぬが、KYを指摘する人も、KYを発信した時点で、部分集合の主になっている。

ならば、被KY者とKY発信者は一蓮托生である。

ま、文春と朝日の戦いのようなもので、面白いけど、価値はない…。

な、感じ。

池田先生は、線分的な分析しかできていない。
集合的に分析すれば、有効な分析が出来るのに…。

日本人に対面を気にする文化があるとする、グリーン・スパンの意見は浅薄である。
あの、宮沢氏が個の対面のためだけに動くようなキャラクターでないことぐらい、多くの日本人が知っている。

ありがとうございました。
Posted by at 2007年11月16日 12:49
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