2007年11月10日

コミュニティーの細分化は、個を幸福にしない。

さて、人類の歴史はコミュニティーの細分化の歴史であると、説いている。

コミュニティーを細分化していくと、最終的に個にぶち当たる。だが、個が一切のコミュニティーに属せずに存在などできるはずもない。

時代がすすむにつれてコミュニティーが細分化していくとしても、母集合の存在がなくなるわけではない。否、細分化した部分集合のコミュニティーを母集合が包み込む。そういう包容力が母集合に求められるし、部分集合も、母集合の部分に過ぎぬということに自覚的であることが求められる。
つまり、コミュニティーを語るとき、全体最適化と部分最適化、個最適化を別々に図らなければならぬ。



情報新法において、線分主義で法制を練ることは、全体最適化でしかない。全体最適化が強まれば、部分集合は母集合を離脱しなければならぬ。では、非母集合が生存していいのか。といえば、そうではない。母集合に排他的な非母集合が存在することは、もはや、母集合が母集合として成立していないことを示す。
ならば、線分主義で法制を練ることに妥当性はない。線分主義で法律を作ることは、コミュニティーを細分化するに他ならず、無秩序な母集合を発生させるに過ぎない。

*

だが、もし、コミュニティー論をもとに、全体最適化と部分最適化、個最適化を求めて法制を練るならば、コミュニティーの細分化は起きない。
母集合は母集合のままであり、母集合が分離した無法地帯は発生しないのだ。



黒澤明の「七人の侍」のように、非母集合たる盗賊が突然攻めてきて、村落が台無しにされると、村落の存続の危機に脅かされる。
だが、村内に賭場があり、村という母集合の部分集合として無法者のコミュニティーが秩序立って存在し、無法者のお頭と村落の長との間で取引きがなされるなら、村落は無垢な理想社会ではないにしても、存亡の危険からは逃れることができる。

そんなイメージを浮かべることができるなら、私の論も、すこしはリアルに感じてもらえるかもしれない…。
posted by スポンタ at 20:22| 東京 🌁| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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