2007年11月10日

人類の歴史は、コミュニティーの細分化の歴史である。

浜田マキ子氏のブログに次のようにコメントした。

http://plaza.rakuten.co.jp/hamadamakiko/diary/200711050000/#comment

同様な世界に関心を持っていることを感じています。

*

私は近代化とは、共同体意識が細分化していく過程だったのではないか。と考えています。

自分とは仏教用語で、自然の分身であることを意味するといいます。
近代的自我とは個を痛烈に意識することですが、それが集団や社会を分断することに繋がっていく。

では、それまでの物理的な存在としての個が、どのように集団として繋がっていたのか、といえば、対面的・言語的なコミュニケーションには限界があり、スピリチュアルとしかいいようのないもの。ユングの言うところの集合的無意識に類するもの。もしくは仏教でいうブラフマンでつながっていたとしか考えられぬのではないでしょうか。

*

いま、司馬遼太郎の「菜の花の沖」を読んでいます。船乗りの処世は、現代においてもさまざまな気づきをもたらしています。ご助言ありがとうございました。


何故、私がそのようなコメントをしたかといえば、その背景にあるのは、美輪明宏氏と江原啓之氏のせいで、巷間のスピリチュアル・スピリチュアリズムの評価が低まっているからである。

美輪氏・江原氏の番組がゴールデンに進出したのは、有名占術師の専横に対抗したものだと思われる。

だが、「オーラの泉」のゴールデン進出によって起きたことは、占術とスピリチュアリズムの相対化であり、江原・美輪組と細木組の言論の相対化である。

そして、起きたことは、細木氏が対照化されることで自省的になったこと。
逆に、江原・美輪組は自己肯定感を強めた。フジテレビの特番批判は、その一例だろう。
スピリチュアリズムを過度に主張すれば、細分化されたコミュニティーでの論理でしかなくなってしまう。



新倉イワオ氏は、そういうことをしないことで、スピリチュアリズムの思想を一般化しようと行動していた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%80%89%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%82%AA

新倉先生は、「笑点」の構成作家であるとともに、日本心霊協会を主宰した。私は彼が主宰する「縁の会」という霊能者の集まりに参加し、ハワイで変死を遂げた藤田小乙女氏の講演を聴いたことを懐かしく思い出す。
思えば宜保愛子ブームの真っ最中で、その解説者の一人として先生を覚えていらっしゃる方もいるだろう。
先生は日本テレビの昼ワイドのお盆特集で、「あなたの知らない世界」のメイン解説者を務めていたことで憶えている人も多いだろう。
先生の立場は一貫していて、スピリチュアルな世界は「あなたの知らない世界」に過ぎぬ。ということである。つまり、別の世界があるという事実を示すことができれば、それでよく、それ以上やそれ以下のことを目指さない。
まずは、霊現象を経験して驚いたり・慄いている人達に、その必要はない。もうひとつの世界はあるのだから、安心してください。あなたは幻覚を見るように狂ったのではないと、やさしく説明する。

その立場は、財団法人日本心霊科学協会とは明確に異なります。
科学の力を借りて、自らを肯定しようというスピリチュアリストには何の価値もない…。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BF%83%E9%9C%8A%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8D%94%E4%BC%9A

私は、科学が人類の歴史を切り開いてきたことを理解します。
しかし、科学だけが人間の魂を磨くのではない。という事実を忘れません。

仏教には山の業・里の業というのがありますが、科学がひとつの純粋な世界であることは確かだとしても、それは人間界の一つの領域・部分集合でしかない。

科学は人間社会を細分化していく。それが近代化の歴史だった。
科学の中枢は、学問の府・アカデミズムということになるのでしょうが、そこでは、限りない学問領域の専門化が行なわれており、学問領域が細分化することを学者たちは楽しんでいるかのようです。
しかし、そのように集合を細分化することが、人間の営みの本質から離れていこうとする所作のひとつでもある。



私はコミュニケーションという概念がコミュニティーという概念を放逐して進められていることに憂慮しています。
そして、2007年のコミュニケーションは、コミュニティーとして考えなければならぬ。と、確信しています。

それは、原子核の周りをまわっていると考えられていた粒子たちが、実は漂っているだけであり、人間はその存在を見つけることさえできぬという不確定性理論と、同様な物語である。



スピリチュアリズムを語ることで、自らのコミュニティーを細分化することは百害あって一利なし。そのように考える私は、江原・美輪両氏が彼らの恣意的解釈にすぎぬスピリチュアリズムを語る今、スピリチュアリズムという言葉の使用には、慎重にならざるを得ない。と、考えた。
だから、浜田氏のブログにあのようなコメントをしたのです。

人類の歴史は霊的退化のプロセスであることは、紛れもない事実でしょう。ただ、シュタイナーによれば、それとて意味があることのようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC

霊的とは、まさに「あなたの知らない世界」的である。つまり、不可知の世界である。
今、スピリチュアリズムという言い方に手垢がついてしまったら、もうひとつ別の言葉を見つけなければならぬ。

それは何かと考えたとき、仏教におけるブラフマンやユングにおける集合的無意識の概念が想起されるのです。
そういう集合的無意識をつなぎとめるナープ(神経系)とは何か。と、考えたとき、そういう線分で考えるのではなく、コミュニティーという集合で考える。そのことが重要なのです。

最近の私は、情報新法において、線分的イメージで勘案するから問題がある。それを集合的イメージで捉えれば問題は解決する。
と、説きました。

http://sponta.seesaa.net/article/63371658.html#more

http://sponta.seesaa.net/article/63596063.html#more

http://sponta.seesaa.net/article/63811604.html#more

鳥の群れや蟻の大群などの統一的行動を想起すると、集合的イメージで捉えることができる。
あそこでは、線的なコミュニケーションではなく、非言語系の集合的自己確認作業がおこなわれている。
多くの心霊学の取り組みも、そのあたりをリファレンスすることが多い。
しばしばコンラート・ローレンツが引き合いに出されたりもする。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%84

線分的なコミュニケーションで群れを考えると、線分の数は膨大(NのN乗×定義に関わるパラメーターの数)になり、複雑な理論になるが、集団内構成子の定義と構成子の参照だけで考えれば、極めて単純に把握できる。(Nの数×集団の定義の数)

しかし、科学というものが言語で成り立っている以上、ユングは異端視されたし、ブラフマンも仏教用語でしかない。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3

なんともはや、細分化されたコミュニティーでしか発言することができぬ現状をなんとかしたいものです。
posted by スポンタ at 06:37| 東京 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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