2007年11月04日

ウェブの特性:真偽の勘案と重要度の勘案について。


真偽の勘案と重要度の勘案について考える習慣がない。そのようなことを日々思っている。

2ちゃんねるでは、東アジア言論がホットなカテゴリーとして成立し、古森義久氏は従軍慰安婦問題のロビイスト活動をする人達に反旗を翻している。そして、南京事件に関しても、中国人が映画を作り、日本人がまた映画をつくろうとしている。アンネの日記にしても、アウシュビッツにしても、そこで何が起こったのか。または、何も起こらなかったのか。アンネの日記がボールペンで書かれていることや、空気より軽い毒ガスを使ったガス質の構造がシャワー室と同じであることも、何かを語れるのか。といえば、それさえ覚束ない。



いままでの私は、それらの真偽性の渦中に巻き込まれることを避け、メタ議論に終始していた。
そして、自分自身は議論に加わらず、相反する2つの意見・事実を対照させることで、読者の脳裏に真理・真実が結実することを理想としてきた。

つまり、如何なる発信者も受信者の自由な思考を妨げてはならぬ。ということ。
すべての受信者は自律的でなければならぬ。

そして、発信者は覚醒していなければならぬ。陶酔から隔絶していなければならぬ。誠実でなければならぬ。デマゴーグであってはならぬ。

などと考えていた。

*

そのように考えてきた私だが、それさえもあまり意味のないことであると考えるに至った。



このエントリーのタイトルの通りである。

真偽性を審議するにたる重要度を要していないのならば、真偽性を審議する必要はない。

そして、真偽性を真偽するための重要度を創出するものが、何か別のものだとするならば、それを真偽すべきであって、重要度のないもののために真正性を審議する必要はないのである。

*

ビートたけしの戯言風に言うならば、道端に落ちているウンコは、硬いのか柔らかいのかを確かめる必要はない。

ウンコが落ちいてると思ったら、避けて歩けばいいだけのことだ。
ウンコを避けて歩くにしても、大げさに除ける必要はない。出来るだけ少ない労力で避ければそれでいい。
それが、合理的・妥当な所作である。



そして、考える。

ならば、あそこで起きていることは、「祭り」なのだ。
祭りを楽しむ人達がいて、露天商がいる。そして、泣き売をする人が人だかりを呼ぶ。

だが、祭りは非日常であって、日常の論理で祭りに付き合う必要はない。

そのように考えてくると、ホンダ議員の所作や中国人が作る南京事件の映画は「釣り」である。カラミニケーションのひとつかもしれぬ。
あえて降臨する必要があるのか。慎重に検討すべきだろう。



ウィキペディアの真実性に関して、歌田明弘氏は見当はずれの言論をしている。

http://blog.a-utada.com/

彼の注目点は、1次情報(当事者情報)か2次情報(メディアによる伝聞)か3次情報(百科事典)か。という視点である。
だが、それらはステークホルダーを一切勘案していず、浅薄な論理である。

つまり、当事者情報であってもステークホルダーを逃れていれば真実性は高い。メディア情報であっても、メディアのステークホルダーにまみれていれば真実性は低い。百科事典といえども、保守的な言論という立場を持たざるを得ず、その真正性が確実というわけではない。

*

ウィキペディアの欠点は、真実がひとつだけ存在するという妄念である。

かのアインシュタインは、この世の中は単純ないくつかの法則によって成り立っていると考えていて、その法則を見つけることを人生の目標とした。
だが、21世紀は、極微の世界における法則と、日常の法則が違っていることを知っており、アインシュタインの考えが現実に即していなかったことを知っている。

ウィキペディアもそのような現実に即して、編集されるべきであり、発信主体という部分集合の存在を明確にしつつ、言論を提示しなければ、ウィキペディアの生み出す言論空間は、極めて限定されたものになり、それはユニバースではなく、ひとつのメタバースでしかなくなる。

そして、それがセカンドライフのような分かりやすいメタバースではなく、一見真実のような顔をしているから始末に悪い。

ウィキペディアは部分集合たる言論世界しか提示しない。
そのことを心すべきである。
posted by スポンタ at 00:00| 東京 ☀| Comment(4) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
結局、グルッと回って「重要度の勘案」に行き着く訳ね。
あと過程がどうであれ変わらない枠組みというのはあると思うのよ。ん〜多分それぞれにそういう枠組みがある。例のアルゴリズムと言い換えても良い。
その時々の自分と相手方のと、あと世論の枠組みを掴んだ方がズーッと有益だろうね。
真贋の分からない有利な食材云々よりお互いの好みの調理法を見つけたり食べる順番を決めたりする方が確実だとw
Posted by トリル at 2007年11月04日 05:35
ま、そういうことだ。

つまり、情報新法についても、東アジア言論についても、並存アルゴリズム論を提示しても、もうひとつ別の世界だとして、無視されてしまう。

だが、重要度の勘案ならば、それは起きない。
そんな感じだ。

コメントありがと。
Posted by at 2007年11月05日 04:34
ごぶさたですー。

何もかもメタから突き詰めるよりも、とりあえずどうすっぺ、という日常的なものの見方がネット上の情報と向き合ううえでも案外有用である、と。そんなところでしょうか。
Posted by Death@LUFT2501.com at 2007年11月06日 10:55
どうも、お世話になっております。

そういうこと。仰るとおりです。

*

昨年に続き、今年も「アルファブロガー」のコンテストとは無縁なんだけど、私が世間から相手にされぬのは、メタだからなんだよね。

でも、アウフヘーベンっつーやつは、メタの一種。だから、メタだからといって、選択肢のひとつから外すのは、合理的ではないんだよね。

でもって、M氏関連2ちゃんねるブログのテンプレートによれば、「スポンタ評価不能」。ってことになってる。
これは、M氏関連論者で、私だけが毀誉褒貶から逃れたことで、私としては、ちょっぴり自慢の種。
でも、それって、メタだからね。と、よそ者扱いした。それだけのことなんだな。

http://alphabloggers.com/

今年のアルファブロガー選びのエントリーリストを見ているが、時代は動いている。

FPNが運営を降りたのは、よく分かる。
ま、それについてはエントリーを上げることにする。

ありがとうございました。

Posted by at 2007年11月07日 06:13
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
ファン
 メッセージを送る
 このブログの読者になる
 更新情報をチェックする
 ブックマークする
 友達に教える
RDF Site Summary
RSS 2.0