2007年11月03日

ウェブ時代の本質:対話・訂正されることで、オーソライズされる時代。


対話とはオーソライズのプロセスである。

対話されぬものはオーソライズされぬ。
対話を触発しないものは、純粋律であり、言葉にして発することに価値はない。

そのように考えている。

ならば、対話を拒絶する既存のメディアには何の価値もない。



既存メディアが価値を創出するには、ピン芸人のような「のりつっこみ」をしなければならぬ。
のりつっこみをしないなら、日本人にとってのスタンダップコメディアンは成立しない。

外界の出来事を批判すべきときは、自分自身がナンセンスな立場にいることを印象付けてからでないと、日本では、批判は開始できない。
「どうでもいいですよ」のだいたひかるはその代表だろう。「あたしだよ」というにしおかすみこもその類。
「まちがいない」の長井秀和は、その意味ではアメリカ的。だから、彼がアメリカを目指してのは理解できる。
そして、ギター侍のように相手を痛烈に批判しても、最後に「切腹」と自虐でバランスをとって〆るというとこが行なわれる。

世の中の出来事や有名人を批判・嘲笑するだけでは、日本人の感性にはそぐわない。
批判したあとは、「なんでやねん」。「んな、あほな」が必要だ。
つっこまれぬギャクは、すべっていることになる。



だが、既存メディアのほとんどは、アメリカのスタンダップコメディアンのようだ。

週刊文春と朝日新聞のような漫才をする場合もあるが、ほとんどはアメリカのスタンダップコメディアン。
他社や権威を批判するが、自分を批判する・自虐することはほとんどない。
そのようなマスコミの所作が欧米では支持を得ても、日本では人気が得られぬのは当然のことだ。



ウェブ言論が登場したのは、ブログの普及によってだから、この1.2年のことだろう。
ウェブ言論とは、メディアによって、観客席の様子が、メディアにとっても観客によっても分かるようになった。
これにより、既存メディアのパフォーマンスがすべっているのか、賛辞を得ているのかが、よく分かる。
それがウェブ時代の本質である。

もっとも、文春と朝日新聞の漫才にしても、まったくおもしろくない。まるで、プロ野球で監督が手を後ろに組んだままでやる抗議のような感じ。漫才としても成立していないのである。



訂正されることで、オーソライズされる。
それがウェブの時代である。

賛辞を受けた場合、言論の主体は発信者だが、訂正を受けた場合、言論の主体は対話者に移る。これにより、決定的にコミュニティーは拡大する。

訂正されることで、オーソライズされ、コミュニティーが広がっていく。
そのことを既存メディアの職業観は許容できぬ。

ならば、既存メディアはシュリンク(収縮)していかざるをえないのだ。
posted by スポンタ at 20:18| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | アルゴリズムの時代 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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