2007年09月25日

サイバージャーナリズム論のそれから:メディア論に過ぎぬとの批判。

本著がメディア論に過ぎぬ。との批判を頂戴している。ジャーナリズムの定義が曖昧である。との指摘もある。

私は、「ジャーナリズムとは、代議制民主主義が連続的な変革を円滑にするためのリファレンス(参照資料)として重要な世論形成に役割をなすもの」と明確に定義している。それは、告発しておしまい。という従来の野党的ジャーナリズムとは立場を異にする。湯川氏の「ブログがジャーナリスムを変える」で言及していただいた、保守的(政権担当能力を持つ)ジャーナリズムである。

つまり、報道・プレスという商業的営みとは無縁の所作である。



さて、メディア論に過ぎぬとの指摘につき、本著における私の立場は、「メディアの時代に続いて、P2Pの時代がやってくる」である。正確にいえば、P2P的言論空間の構成要素のひとつとしてメディアが存在する。という状態を定義している。

P2Pの時代とは、コピイ&ペイストの時代に繋がっている。
ならば、個のP2P的な再発信において、国語力はあまり必要ではなくなる。これにより、ジャーナリストが紡いできた国語力の重要度は低下する。

本作に参加したジャーナリスト氏・ライター氏が一番認めなくなかったのは、この点ではないだろうか。と、私は感じている。



私は映像ディレクターである。その立場でいうならば、正確なフレーミング(被写体を正確に写し取ること)が映像のプロフェショナルとしてプライドの源泉である。
1983年、フィリピン・マルコス政権打倒のために帰国したベニグノ・アキノ大統領が暗殺されたときの映像を憶えているだろうか。帰国直後のタラップを降りる大統領が暗殺されたところをカメラが捉えているのではない。だが、その衝撃度において秀逸であり、あの映像は当時テレビ番組に何度も使われることになった。

職業的に培ってきた技術が、必ずしも作品の品質を決定するのではない。
それは、映像もテキストも同じ。そのことが、ウェブの時代に明確になっている。



新聞界には、クオリティーペイパーなる言葉があるというが、ネット者である私には、「目黒のさんま」的な感想しか持つことができぬ…。

審判員が評価基準を明確にしないクオリティーなど、そもそも成立しない。もし、そのような幻想が成立するならば、その価値観を共有する分衆が成立しているに過ぎない。

新聞の読者が減じているのは、分衆のサイズが小さくなっていることを明確に示している。
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