2007年09月23日

純粋コメント者・トリル氏の「サイバージャーナリズム論」の感想。


浜田マキ子氏とメイルのやりとりをしている。直近の彼女のメイルには次のようにあった。
「言葉にするではなく行動で示せ」「男子三日会わざれば恰目してみるべし」。

ブログに書くことが心情の吐露にすぎず、行動として成立していない。過去の自分を誇るでなく、いまを生きろ。厳しい言葉である。



「サイバージャーナリズム論」が出版されて2ヶ月が経った。そろそろ、この本と私の距離・乖離を紹介していい頃かもしれぬ。
まず、私の原稿に対する純粋コメント者・トリル氏の感想を紹介することにしよう。

【純粋コメント者・トリル氏の感想。(ネット未発表の私信)】

今まで封書や葉書でなされていた通信がeメールの普及で劇的簡易迅速になり、コミニケーションの質・量を変えた事は間違いない。
これは電話の小型携帯化にも言える。
コミニケーションの質・量が変わるという事が、社会やその発信者の有り様や意味を変えつつあるのが今日の状況だ。
遂には受信者の意識さえ変えてしまうだろう。

さて、あらゆる意味でのメディア上で、作品もしくはトピックスとして提供される形式の在り方が、此処で問われている。
個人ブログといえども、非力かもしれないがメディアである。

対話する事で形式を崩す事を恐れる人たちが居るし対話さえも作品に組み込もうとする野心家も居る。
対話を拒絶する事で自我や権益を守ろうとする意思も働くだろう。
これらの人にとって作品は自我そのものであったり生活の糧である可能性は高いと思われる。

「P2P」を認めない未来というものが有り得るだろうか?
暗号や監視が無い世界が有り得ないのと同じように、トラフィックの質・量の監視とセットで「P2P」も普及するだろう。
厳密には匿名であることは有り得ない。そうあるように振舞えるだけである。

1対多、1対1の関係についての考察。
多が特定である場合・不特定である場合。特定の定義。スパムは特定者に配信されているか?

βの定義。
データ監視においても、何処からは新しいβであり何処までは単なる新しいベータに見せ掛けた偽装であると定義されるだろう。電子透かしの有無はまた別の話。
偽装品は駆除され両方向に追跡されマーキングされる。

「完成された作品」を望むニーズはこれからも残る。
が、既存メディアは以前ほどの権威は持たないし、ネットでアップされるということは同時に「永遠のβ」化し好事家にネタ化されるということです。
それを厭うても、時の進み具合は不可逆的に電子配信や利便性を求めています。

検索にはフィルターが付きものになります。
送信に当たってフィルターに当てることで違法性検査を受ける事ができるようになり、フィルター自体をいじらなければ通信の違法性は問われなくなるようなルールができるのではないでしょうか?
検索エンジンは人工頭脳やルーチンの違いで何種類かが並存するだろう。

既存メディアはその巨体構造を維持できなく、よりスリムで機動的な同業他社にその地位を譲り渡すことになる。

SNSの限界は人間がどれほど肉体を捨てられるかに掛かっている。
完全に肉体を省みる必要がなくなればバーチャルな世界に24時間住むことは理解できないことではない。
で、完全に肉体を捨てられないとすれば、その程度において色々な階層化があり得るだろう。

誰もがジャーナリストになれるかと問われれば、ジャーナリストとは何か?を解決しなければ続ける事はできない。
私はある種の生き方のスタイルだと思う。
そういう意味では、泉ぁぃさんに原初的ジャーナリストを見る思いは拭い難い。
社会(学)的な探究心とそれを社会に還元する訴求力が一体になったものではないだろうか、とか思う。

>ファクトをゲットしない奴、その機会も能力もない奴は、ジヤーナリストではない。

人にはそれぞれ現場や経験や生活のファクトがあります。メディアがあれば俎上に載せること自体は可能ですし、中には十分ジャーナステックな価値があるものもあると思います。素養はともかく、それ以外は習作・訓練はすれば良い。
興味のままに手弁当で始められて二進も三進も行かなくなるような方も出てくるでしょう。
アゴ足付きでなければ動かない方と比べるならば、どちらが切実かは一目瞭然だと思います。
ただ職業的ジャーナリストが、同じ土俵に素人が上がることに苛付いてるのなら、それは杞憂ですよ。
職業的ジャーナリストが簡単には代用できないプロフェッショナルな仕事であるなら、自由化した長距離バスの運転手みたいな事にはなりません。
難を言えば、そんなプロフェッショナルを必要とする現場をメディアが欲しがるかどうかですね。

>市民記者が、いかなる公益を胸に現場に駆けつけようと、それは第三者から見て、やじ馬でしかない。

「結果としてのレポート」というのはあるべきだと思う。この場合は始めに市民記者ありきじゃない。市民が結果として記者になるのだ。

市民記者には市民記者としての節度がギャラリーから求められるだろう。
もちろんそれは訓練を受けたプロのような厳しいものではない。
その範疇である限り、責任や瑕疵は免責される。
節度を越えた場合はその限りではない。


完成品として提供される形式
永遠のβとして提供される形式

「永遠のβ」では暫定的な解答しか存在しない、パラレルな兄弟β1β2等が同時に共存する事を受け入れなければならない。
送り手の権利・義務は、自分の所で加えられた差異の部分とバトンリレーに加わった栄誉である。

メディアから提供される「完成品として提供される形式」の意味や有り様は、他の存在の仕様選択肢があることで今後は変わるだろう。
しかしそういう形式が無くなりはしないだろうし、「P2P」に置き換えられるとは考えていない。
むしろそのように置き換えられた世界は、社会変化の歪さからコミニケーションが地下化した結果ではないだろうか?と考える。
つまり分化したβを認めない社会では、「P2P」ような方法が残されていれば、必ず其処で同人的改良が行われるだろう。
送り手以外の何者の手も加えない状態で、受け手に十分に評価理解され味わい尽くされたと送り手が思わない限り、そこから二次作品が生まれる事を快く思うのは最初の送り手には難しいのではないだろうか?
オリジナルを凌駕するカバー曲ヒットに、本家を尻目に繁盛する分家に、ルーツの尊厳は求められると思う。

※ 当原稿の扱いは、トリル氏(関西在住)から一任されております。


トリル氏の言説に背中を押されて、「サイバージャーナリズム論」に対する私の批評を開始したいと思う。

あの本は、出版というフレームの中に存在したウェブであった。
私が論じるのは、ウェブというフレームの中にあるジャーナリズムである。
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