2007年07月18日

CJ論04:毎日新聞OB歌川令三先生との出会い。ジャーナリストの反権力精神は、いつの時代にも妥当なのか。

私が「それから」研究会に参加したのは、2006年の夏である。
時事通信社の湯川鶴章氏が、「おもしろい人がいるから…」と、私を歌川先生に紹介してくれたのが、きっかけである。

当時は、まさにオーマイニュース日本版のスタート前夜だった。
オーマイニュースの成功の条件を、オーマイニュース日本版の開店準備ブログに書き込むとともに、編集長の鳥越俊太郎氏とわずかなメイルのやりとりをする。丁度、そんな時期だった。

時は多少前後するかもしれぬが、共著者の佐々木俊尚氏は、オーマイニュースの論調について、左より過ぎぬのではないかと、指摘していたと思う。

*

当時の私は自らを、「書かざる市民記者」として自らを誇っていた。
そんな私が、ネット市民新聞・市民参加型ジャーナリズムをどのように考えていたかといえば、次のようになる。

・彼らがもっとも気にしているのは、既存マスコミであり、そのスタンスは、明らかな敵視であり、ときとしてそれは、屈折した愛情。受け生けられぬものの嫉妬とも思えた。

・市民参加型ジャーナリズムの運営者たちは、市民たちの声をすくい上げることに注力していない。

・彼らは既存マスコミでの修行でえたスキル(国語力)を誇示し、市民記者たちの文章を鑑別する。

・彼らが文章力で、市民記者を援助することはあっても、プロと市民が協力して新しい言論をつくろうという気持ちはまったくない。


そして、ライブドアPJ、JANJAN、オーマイニュースに共通する、既存マスコミ出身の市民参加型ジャーナリズムの運営者たちの思想と行動の根っ子に、次のようなものがあると確信していた。

・ジャーナリストは、反権力たるべし。


ライブドアPJの研修に参加してときに、初めて知った聞きなれぬ言葉は、次のよう。

・ジャーナリストとしての矜持。

・社会の木鐸。

・ウォッチドッグ


矜持とはキョウジと読み、誇りのこと。木鐸とは、社会に警鐘を鳴らす人のこと。ウォッチドッグとは番犬のこと。

さまざまな問題をはらみつつも、民主主義国家である日本において、市民であることが被差別階層であることとは限らない。そして、ウォッチドッグ・番犬などいうが、誰のための番犬なのか。その明確な答えはない。
誇りやプライドをわざわざキョウジなどという難しい言葉を使わなければならぬ韜晦(隠すこと)の念が、私には理解できぬ。
きっと、誇りやプライドという用語にある、ある種「胸を張っている」ニュアンスを払拭したかったのだろう…。

*

当時の私を捉えていたのは、「自由という言葉の不毛」だった。

個にとって、自由という語は価値があるが、コミュニティーにとって自由という概念は不毛である。

つまり、個にとって自由であることは絶対だが、コミュニティーにおいては、自由という概念は、不自由という概念を許容しない。つまり、権利と義務などという概念を援用せずとも、絶対的な自由は存在しない。
自由でいたくない人の自由を、自由という概念は許さないのである。

ならば、コミュニティーにおいて自由を喧伝することに意味はない。そして、それに代わる概念を提出するならば、「多様性の許容」となる。

そのように論理を紡いでくると、自由vs束縛、権力者vs被差別者というような硬直した西洋的二元論が無価値になってくる。

そして、その延長線上に、既存メディアのジャーナリストたちが語ってやまぬ「反権力」の自負もあるのだろう…。



その頃出版された「ブログはジャーナリズムを変える」という本で、湯川鶴章氏は、私の言論に言及してくれている。

いままでは野党的ジャーナリズムの時代だったが、これからは与党的ジャーナリズムの時代である。


かつて週刊文春の編集長だった花田氏は、「昨今、頭の言い人は右翼的言論の保持者である」と言い放つが、私の文言も似たようなものだろう。

いまや、ベルリンの壁が崩壊して以降、右か左かの重要度はなくなっている。結果、自らの求心力を失った左翼者たちが、上か下かをテーマにすることにより復権を目指している。それが「格差社会」というテーマである。格差社会を論じることと、右(新自由主義)であるか左(社会民主主義)であるかは、関係がない。そのことを理解しなければならぬのだ。



民主主義の世の中に、自らをコミュニティーの外において、コミュニティーを批判する。そのようなことの妥当性は失われている。

私が、反権力という矜持をジャーナリストたちが持つことを疑問視する理由はそこにある。

情報格差が大きい専制国家ならまだしも、21世紀である。

すべからく2元的な言論は、単一アルゴリズムの専横に導くものであり、世の中を歪にしていくに違いないのである。

そして、とりあえず、歌川氏を前に講演したのは、以下に連なる言論たちである。

ネットシンポ01

中曽根首相のブレインの役割も果した歌川先生が、盲目的な反権力思想と無縁であることは、いうまでもない。


Cnn_Prix.jpg


追記:
倫敦橋さんのブログで、梅田さんと西村さんの対比があったので、次のように書いた。

民主主義というのは、民意が第一の権力のはず。

三権も、民意が形成されるまでの時間を埋めるだけのものであって、民意が形成されれば、三権も屈服するのは、本村最高裁判断だけではないはず。

インターネット言論を第五権力の誕生といいますが、第0の権力なんですよ。


第四権力を誇るマスコミが、「第五権力として頭角を現すインターネット」を自己権益を疎外すると警戒・敵視することなど、およそ見当違いのことなのです。
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