今村昌平の映画学校時代の恩師・池端俊策先生・脚本の「麒麟がくる」が終わった。
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私の結論は、
・「麒麟がくる」は、日本の映画・ドラマの低迷を象徴する作品である。
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その理由はふたつ。
・日本の映画・ドラマが、「近代主観主義」を乗り越えられずにいる。(作品は作家のオリジナルとの考えをやめる。あるべきは、古代ギリシアのミメーシス理論)
・日本の映画・ドラマ界の、シナリオライター養成法が間違っている。(出自・環境による作劇をやめる。あるべきは、対極・対照による作劇)
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さらにいうと、日本の映画・ドラマ界の企画の伝統は、
・コンストラクション(あらすじ・できごとの設定)
だが、それでは、「何が起きたか(設定の提示)」になってしまう。
あるべきは、
・コンポジション(人物関係の設定)
ドラマとは、登場人物の「主体的な意志」のぶつかり合いである。(葛藤・恋情も含む)
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韓ドラの名作たる「奇皇后」(全51回、2013年)では、貢女として元に献上されたヒロインが、「自国民をないがしろにする母国」を正そうと、元と母国の間に立って奔走し、元帝国の皇后にまで上り詰める。韓ドラの名作「馬医」(全50話、2012年)では、卑しい身分とされた獣医が、「患者の身分で医療が差別されてはならぬ」との矜持を持ち、皇帝の獣の命も人間の命も等しい」皇帝の主治医にまで上り詰めた。
一方、池端俊策先生は、「情熱の挫折」をシナリオ創作のモットーとしたが、
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」(全44話、2020年)は、「大きな国をつくる」と信長に仕えた主人公・光秀は、私憤(宴会で叱られた・領地没収)で謀反に至る。
壮大な歴史ものには、壮大な夢が必要。
「麒麟がくる」は、歴史的な事実に沿うことでNHK制作陣を喜ばせても、ドラマとしての大義が希薄なら視聴者を落胆させる。
−−−そして、そうなった。
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昭和の巨匠、倉本聰氏の作劇法を否定する人たちがいないなら、日本の映画・ドラマの低迷は今後も続くに違いない。
それは、小澤征爾氏の「タイム感のない音楽」を否定する人がいない音楽界に同じである。
そして、日本の芸術界は、1980年代に終ったはずのモダニズムの時代を、まるでシーラカンスのように継承し続ける・・・。