2021年01月19日

「ここに来て抱きしめて」(2018年、韓国)は、史上最高ドラマ(大衆娯楽作品)である。(その3)

【主旨】

「ここに来て抱きしめて」(2018年、全20話)は、「私のベストワン(主観)」ではなく、「客観的な評価」でベストワンな娯楽恋愛ドラマである。

私の鑑賞の基本は、まず、まっさらな気持ちで観ること。もし、作品に満足がいかなかったら、その理由を分析すること。満足が言ったら、それでよいし、同様な作品が増えるように、すばらしさの理由を明確にすべきと思っている。

この作品の場合は、さまざまなインスピレーションを与えてくれるので、そんな直観的に感じたことを書き留めておく。


【主観批評の時代から、客観批評(形式批評)の時代へ】

2018年制作の「ここに来て抱きしめて」が、「冬のソナタ」「梨泰院クラス」「愛の不時着」のような大ブレークに陥らなかったのは、配給媒体・宣伝力のせいだろう。日本にはかつて「映画評論家」と呼ばれる人たちが存在したが、いつの間にか彼らは「映画宣伝マン」でしかないことが暴露され、そのような人種はいなくなった。

今村昌平の学校時代、日本映画論を佐藤忠男氏に、海外映画論を淀川長治氏の授業を受講していた。毎週1本の映画を観て、その後に講義をうけた。だが、両氏の講義から、作品の巧拙についての指摘は一切なかったと記憶する。淀川氏は、ジョン・フォード、チャップリン、ベルイマンなどを愛でたが、他の作家の悪口を言わなかった。佐藤忠男氏の講義は、自らの知識を披露するばかりで、(評論家をめざすならまだしも)作家をめざすものたちにとって有意義なものはなかった。

どんな業界にも、「他人のシノギにケチをつけない」という不文律があり、映画業界も同様である。師匠&弟子の関係なら、オフレコで「他人の悪口」を言うのかもしれぬが、全学を前にした講義では、そうもいかない。

松竹大船の人達は、黒沢映画の雨降りを観て、「あんな豪雨は不自然である」と口にしていたようだが、外には漏れてこない。私は、黒澤明の降らせる雨も、飛び散る血しぶきも〈過剰演出〉だと感じている。

「誠実(嘘をつかないこと)は、最良のポリシー」ということわざがあるが、制作関係者はもちろん、宣伝関係者も、そして、観客も、「悪口を言わぬ」ことで誠実を貫いている。だが、それでは、作品は進化していかないし、観客は愚作と付き合わされることになる。

結論をいえば、

・「被評価者」は、評価を嫌悪する。 = 自らの主観を誇る。

そして、

・「評価者」は、客観的な評価をめざさない。= 自らの主観を誇る。

それが、近代主観主義・モダニズムの精神である。


話は娘が高校2年の時にさかのぼる。

鳳凰杯で知り合いになった広島県の女の子が、高校生になり、中国代表になって全国大会に出場するという。一方、娘は高校で英語部に属しており、代々木の元オリンピック選手村で行われた全国大会のお手伝いに駆り出された。娘は出場しなかったが、「評価の問題」に関する興味もあったので、大会当日に出かけた。

参加規約はしらないが、出場者の3/4程度は「帰国子女」であった。前乗りをした広島の女の子によると、帰国子女たちは、自分たちだけで盛り上がり、(帰国子女が、日本人のコミュニティーから暗黙の迫害を受けていることへの)ストレスを発散していたという。


さて、本選を、私なりの英語ヒアリングの能力で、なんとか聞き終えた。

私の一等賞は、秋田県からのフィリピンハーフの女の子。

貧困・治安が悪いと母の祖国を批判していた祖母。だが、生まれて初めてフィリピンを訪れてみると、初めて会った親戚たちなのに、暖かい歓迎をしてくれた。経済的に裕福な国・日本の祖母は、母に冷たい。だが、貧しい国であっても、フィリピンの人達は暖かい。経済的な繁栄は、人間の暖かさとは関係がないと実感した。

というもの。

だが、優勝スピーチは、IT社会をテーマにしたもの。

フィリピンハーフの女の子は無冠に終った。


もし、審査委員たちが、明確な評価基準を持っていれば、こんな審査結果にはならない。

つか、IT社会のスピーチは、「3次情報(マスコミの伝聞」という欠陥がある。
一方のフィリピンハーフの女の子のスピーチは「1次情報(自分の体験)」である。

ちなみに、2次情報は「人から聞いたこと」。

ラジオやテレビ番組のリスナーの投稿でも、「ネタ(つくり話)はダメ」は勿論、人の話もダメ。自分の体験談でなければ・・・。というルールが一般的だ。

だが、審査員たちは、そんな基本的なこともご存じなく、時間を延長して、受賞者の選別に取り組んだと自負していた。つまりは、自らの主観に従う・それを、真剣に戦わせることが「良心」であると信じている。

だが、そんな時代は終わっている。

つか、そんな審査基準では、英語スピーチコンテストは、ビューティーコンテストと変わりがない。



「ここに来て抱きしめて」を史上最高のドラマと評価するための〈評価基準〉は、「主体性」である。

わが師・首藤剛志氏は、「人情噺なんて書きたくない」と言って、「大江戸捜査網」を降板した。私が思う、人情噺の欠点とは、

・主人公が「主体的」に行動しない

ことである。よく

・ヒロインが跳ねていないと、おもしろくない

と言う人があるが、主人公に〈主体性〉があるということ。

ドキュメンタリー番組で、スタジオジブリの制作風景を観たが、宮崎駿氏は新人のアニメーターに、
「爆発に際して、穴倉に閉じこもるキャラクター」にダメ出しをした。

・爆発があったら、穴倉から頭を出して、爆風を浴びるようなキャラクターでなければ

と説教した。

・危ないから、避難する

のは当然だが、ドラマではない。因果律である。


経営学のピーター・ドラッカーは、

・論理的帰結を下すことを、決断とは言わない

との至言を残しているが、「因果律とは、論理的帰結」であって、そこにドラマはない。


「ここに来て抱きしめて」の主人公の男女は、犯罪加害者の息子、犯罪被害氏の娘でありながら、

・運命に負けない。立ち向かう。

つまりは、〈主体性〉がある。因果律に組しない。


韓流ドラマの初期の傑作は「冬のソナタ」である。

だが、チェ・ジウ演じる主人公・ユジンは、「初恋の呪縛」を越えられない。幼馴染みのサンヒョク(バク・ヨンハ)を恋することができないにしても、もっと自由に世の中を見渡すべきだ。

同じくチェ・ジウが主演した「スターの恋人」は違う。物語は、初恋の男性の消息を追って明日香村を訪れるが、物語が進むにつれて、初恋を克服して、小説家志望の大学講師との恋愛に踏み込む。

つまり、ヒロインの〈主体性〉という〈評価基準〉においては、

・「冬のソナタ」よりも、「スターの恋人」のほうが品質が上

つーことになる。

つまり、「冬のソナタ」は、ヒロインの〈主体性〉に劣っている。初恋を乗り越えられない「バカな女」の悲劇である。だが、その欠点こそ、大きな魅力。

つまりは、「やみつきな魅力」がある。料理でいえば「おふくろ(習慣性)の味」とでもいうべきものだろう。




「ここに来て抱きしめて」を史上最高の傑作と言ったが、それは、大衆娯楽作品に限定される。

・向田邦子作「阿修羅のごとくに」

・今村昌平監督「日本昆虫記」

などは傑作中の傑作、名作中の名作といえるが、それは「芸術(人間の本質を描く)作品」としてである。

・松本清張・野村芳太郎「砂の器」は、主人公が「運命・宿命に負けて、犯罪を犯す」ので、〈評価基準〉的には欠陥がある。


「前略おふくろ様」が良いと言ったら、娘から「マザコン男が主人公(ショーケン)なんて、ありえない」と一蹴された。板前の世界・鳶の世界の上下関係という舞台に憧れたのであって、主人公の魅力としてはイマイチなのだろう。
つか、「カスミ(坂口良子)」との不完全燃焼な恋愛など、おふくろの味的(人情噺に慣らされた)である。



・大衆娯楽作品には、理想形が存在する。

というのが、私の仮説である。

たとえば、同じ、梶原一騎の原作、「巨人の星」「あしたのジョー」はともに人気アニメだった。だが、主人公の星飛雄馬が「よいこ」過ぎて嫌い。矢吹丈の「アウトローな感じ」がいいとのファンにもいるだろう。

だが、「読売巨人軍のエースになる」というゆるぎない〈意志〉がある「巨人の星」と、宿敵・力石徹との出会いからボクシングに目覚める矢
吹丈の物語の優劣は明らか。

「巨人の星」は、土曜日のアニメ。「あしたのジョー」は、フジテレビの水曜日のアニメ。その差でもあるか。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | OZ評価 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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