#百田尚樹 #おぎやはぎ #韓流ドラマ
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第一次韓ドラブームが「冬のソナタ」。
第二次韓ドラブームがチャン・グンソクのブレーク。
第三次韓ドラブームがNETFLIX「愛の不時着」「梨泰院クラス」のヒットである。
お騒がせ放送作家の百田尚樹氏・おぎやはぎの小木氏など、嫌韓を背景に韓ドラに無関心・批判的だった人が、初めて韓ドラを観て、その魅力にはまり、チェーン視聴を繰り返していることを告白している。
私も同様で、「冬のソナタ」がブレークした時、妻は熱狂していたが、私は観ることもなく、数年後の年末年始に「一気観」すると、大いにはまり現在に至る。
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よく言われるのは、韓ドラの魅力は、
・美容整形も恐れない「韓国の国民性」から来るイケメン男女俳優である。
・記憶喪失、交通事故、難病などの刺激の強いワンパターンのドラマ。
というのが一般的である。美男美女はともかく、(冬のソナタの頃に言われた)刺激的なワンパターンは変化・無くなりつつある。
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というか、韓ドラ最大の特徴は、ミメーシスしていること。
ミメーシスとは、古代ギリシアの演劇理論で、「過去の傑作を、いまの時代に合うように、さらにインパクトを強化して模倣・再現する」こと。つまり、韓ドラは、ほとんどの作品が「過去の傑作」をバージョンアップ(ミメーシス)している。
一方の日本は「過去の作品と同レベル。または劣化コピイ」の作品しかつくれない。なぜなら、「パクリはタブー」であり、「過去の作品を話題にすること」すら、やってはならぬから−−−。日本ではいまだに「芸術作品は、芸術家のオリジナルな創作物(近代主観主義)」を妄信している。
それはアメリカ・ハリウッドの娯楽作品も同じよう。
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久しぶりに二子玉川の映画館に「マイ・インターン」(2015年)を観に行くと、予告編で「ラ・ラ・ランド」(2016年)を知った。わくわくしたので、公開したら絶対に観に行くと娘と約束した。だが、卒業旅行のロンドンからの帰りの飛行機で、娘は「ラ・ラ・ランド」を観て、私に酷評した。曰く、・彼氏と別れて後悔するなら、分かれなければいい。そんな女性がヒロインの映画は「つまらない」。ロサンゼルスに夢を求めてやってきた男女。ヒロインは女優をめざし、男性主人公はジャズピアニストを目指している。だが、夢はなかなか叶わない。ふたりの関係もうまくいかなくなり、別離する。ラストシーン。ヒロインは女優として成功し、別の男と結婚していたが、元カレのライブを知り居てもたってもいられず、駆け付ける。
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ハリウッドには、青春期の初恋と別離を描いた「草原の輝き」(1961年、アメリカ、エリア・カザン監督)がある。青春の悲劇としてのリアリティーがあるのかもしれぬ。だが、「ヒロインの後悔・懺悔」の物語の後味は悪い。すべてをハッピーエンドにすべきとはいわないが、(アカデミー作品賞を獲得したにしても)大衆娯楽作品としての欠陥がある。
もし、アメリカ・ハリウッドが「ミメーシス理論」で動いているなら、「青春に挫折する」でなく、「青春を謳歌する」主人公。たとえ、失敗したとしても、「後悔しない」主人公にするべきである。(アメリカにおいても、近代主観主義「パクリはタブー」の価値観が根強いのだろう。
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そういえば、「シェルブールの雨傘」(1964年、フランス映画、ジャック・ドゥミー監督)のラストシーンも、カトリーヌ・ドヌーブ演じるヒロインが、かつての恋人が経営するガソリンスタンドで給油するところでエンドマークになる。この場合、ヒロインは偶然立ち寄ってのであって、自分の意志で訪ねていくのでないから、後悔の度合いは少ない−−−。(まだ、許せる。としても、運命・宿命に負けたヒロインを提示していることは確か)
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だが、「ここに来て抱きしめて」は、高度にミメーシスしている。
「愛の不時着」は、それまでの「北朝鮮の人達は非人間である」という旧作たちを否定する「じゃない系・北朝鮮ドラマ」である。
「梨泰院クラス」は、父親を殺された主人公が居酒屋経営で韓国トップを目指す物語だが、「復讐しない系・復讐ドラマ」。
昨年、ブレークした2作品は、ふたつとも「ミメーシスしている」
※ ミメーシスとは、「過去の傑作」をいまの時代に合うように、さらにインパクトを強化して模倣・再現すること。
留意:
この記述は、「大衆娯楽作品」に限定した考察・理論・言及です。したがって、「芸術作品(人間やこの世界の本質を表現する)」を除外しています。
−−−映画・ドラマには、カンヌ映画祭を目指すような「芸術作品」と、アカデミー賞を目指す「大衆娯楽作品」というふたつのジャンル(評価基準による分類)があります。
私の論理では、ドラマ成分(対決・対立・摩擦・葛藤・恋情)を、料理における「うま味成分・出汁」と同様に定義しています。したがって、料理に、出汁・うま味成分の関わらな料理(お刺身盛り合わせ)や、下手なことが欠点にならない「おふくろの味」があるように、映画・ドラマにも、さまざまな例外があり、多様なことを否定しません。