【主旨】
「ここに来て抱きしめて」(2020年、全20話)は、「私のベストワン(主観)」ではなく、「客観的な評価」でベストワンな娯楽恋愛ドラマである。
・
「ここに来て抱きしめて」は、
〈古代ギリシアのミメーシス理論〉、〈17世紀フランス古典演劇理論〉を高いレベルで満たしている。
最大の品質は、主人公男女に限らず、主要キャラクターたち(主人公男女は勿論、男性のサイコパスな父親と、犯罪者気質を受け継いだ兄。女性の兄、父親の犯行自叙伝を出版した女性記者など)の「行動指針が明確」&「積極で行動する」。
「主体性」を貫くキャラクターは、最大の魅力である。
・
物語は、「犯罪加害者の家族(男性主人公)」と「犯罪被害者の家族(女性主人公)」の恋(初恋)であり、ありふれている。それらの多くは悪縁に押し流され、別れ別れになる。
だが、この作品の主人公たちは違う。
・
「砂の器」(1974年、野村芳太郎)は、不朽の名作(かつてのマイベスト作品のひとつ)である。
だが、致命的な欠陥(ミメーシスにより改善すべき点)がある。
それは、「(ハンセン氏病の祖父を持った新進指揮者が)運命・宿命に負ける」主人公の悲劇の物語であること。
そして、主人公の恋愛は、「物語の本丸(祖父がハンセン氏病だった宿命)」に絡まない。
そして、主人公の恋愛は、「物語の本丸(祖父がハンセン氏病だった宿命)」に絡まない。
一方、韓ドラ「ここに来て、抱きしめて」は、
「(サイコパス連続殺人犯の父親を持った警察官の男性主人公と、サイコパスの犠牲になった両親を持つ女優が)」は、運命・宿命に敢然と立ち向かい・勝利する。
そして、主人公の恋愛は、「物語の本丸(父親がサイコパスキラー・両親が連続殺人の被害者)」に深く絡まっている。
・
戯曲「ロミオとジュリエット」(1595年?英国)シェイクスピアの人気作品であり、ブロードウェイで「ウエストサイド物語」(1957年米国)として翻案(ミメーシス)されている。物語の基本構造は、「属するコミュニティーが敵対する」ために禁じられた恋(初恋)である。
この作品にも致命的な欠陥(ミメーシスによる改善すべき点)がある。
それは、「敵対の構造の解消」に、主人公たちが努力しないこと。
彼らは「根本的な問題を解消しよう」と戦うこともなく、「折り合いをつける」ことに終始し、最終的には「馬鹿げた死」にいたる。
一方、韓ドラ「ここに来て、抱きしめて」は、
「運命・宿命に敢然と立ち向かう」。そして、勝利する。「世の中に押し流される」ありがちな生き方を否定して、清々しいドラマになっている。
※
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
・
・「守ってあげる、君を。必ず」【希代のサイコパスを父に持つ警察官と被害者の娘、お互いに初恋である二人の男女が、ある事件をきっかけに再会し、お互いの痛みと傷を抱いていく感性ロマンス!】韓国人なら誰もが知っている残酷なサイコパス連続殺人鬼ユン・ヒジェ。その息子ユン・ナム(チェ・ドジン)は善良で賢明な性格の少年だった。ソウルからコウォン市へ引っ越してきた国民的女優の娘キル・ナグォン(ハン・ジェイ)と同級生だった二人は、初めての出会いから自然に惹かれあい恋に落ち、忘れられない日々を過ごしていた。しかし、ナムを偏愛していた父ヒジェは、自分からナムを奪おうとしたナグォンの家族が目障りだった。衝動性が強く、実行すると決めたことはやらないと気が済まない性格のため、ナグォンの両親を殺害し、その後ナグォンまで殺害しようとした時、ナムは自ら自分の父親を警察に通報し、刑務所へ送ることになる。一瞬にして、惹かれあっていた二人が、‘殺人者の息子’、‘被害者の娘’という境遇になってしまったのだ。月日が経ち、ナムはチェ・ドジンという名前で生活し警察官に、ナグォンはハン・ジェイという名前で母と同じ女優に成長する。
トップ女優となったナグォンにある日、ストーカーテロ事件が起こる。新人賞を受賞した授賞式が終わった明け方、ドレス姿で運ばれた病院でナムと再会し、その後警察に警護を頼みやってきたナグォンとナムは2度目の再会を果たす。果たして、ナムとナグォンは何もかも忘れて幸せになる日が来るのだろうか。二人の若い男女がついにその境界を壊し、正々堂々と己の道を歩いて行く成長を綴った物語。
・
【sponta中村のOZ理論】
映画・ドラマの「客観的で、妥当性のある評価基準」(2020.07.17)
・
評価の実際 & 例外。(2020.07.17)