まず、「良い・悪い」「おもしろくない・おもしろい」の定義をしないとね。これを参考に・・・。【sponta中村のOZ理論】映画・ドラマの「客観的で、妥当性のある評価基準」(2020.07.17)・評価の実際 & 例外。(2020.07.17)
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つーことで、第1回の感想・評価。
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第一回は、〈設定〉ばかりで物語が進行し、ドラマは皆無だった。
ドラマ = 対決・対立・摩擦・葛藤・恋情。
その〈設定〉も凡百・ありがち。
・売れない女流小説家の母親。−−−かつて恋愛小説家としてブレーク。
・二次元オタクの娘(大学生)。−−−恋人はいない。
・時代に乗り遅れた鯛焼き屋。
・ご都合主義の編集者と新人の部下
などなど。
ようやくオリジナルドラマ的なものが始まるのが、最後の5分ほど。
・娘は、連載終了で経済的な窮地に陥った家計を助けるため、恋愛小説家たる母のために「恋愛宣言」をする。
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プレバトの夏井いつき・女流俳人は、「形式批評(評価基準を明確にした評価)を行うこと」で、視聴率を獲得している。ある時、大衆演劇・梅沢名人が、兄の運転免許返納を俳句にした。作者は実話であり、高い評価確実と胸を張った。だが、夏井先生は「そういうの、よくあるんですよね」と一蹴。俳句をたしなむメインボリュームである中高年で、「高齢による運転免許返納」は気がかりなテーマ。それを俳句にするのは常套。ならば、評価外。
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「私の娘は彼氏ができない」の第一回の大部分は、凡百の評価外である。
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この作品の脚本家は、北川悦吏子嬢である。
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北川悦吏子
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ベテランであり、業界での評価も高いのだろうが、どうなんだろう。
彼女の過去の作品のラインアップを観ていると、「愛していると言ってくれ」(常盤貴子、豊川悦司)、「ロングバケーション」(木村拓哉、山口智子)が思い出されるが、2021年の今、どうなんだろう・・・。
つか、「恋愛の神様」なる称号が脚本家の評価としてどうよ?
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さて、北川嬢批判はかわいそうなので、「何故、日本のドラマは面白くない」につき「本質的な事情」を提示する。
以下に、韓流ドラマ、ハリウッド娯楽作品、日本のドラマについて、対照するが、その論拠は以下のふたつ。
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17世紀フランス古典演劇理論で、
作品で一番重要なのは、「本物らしさ」
そして、
古代ギリシアのミメーシス芸術論で、
作品は「現実を模倣・再現したもの」。
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つまり、
現実社会の価値観&様相・民族性が「南朝鮮・アメリカ合衆国・日本」で異なるなら、作品も異なる。
たとえば、アメリカでなら、一般人の銃器の所有が認められているから、「拳銃の打ち合い」も違和感がない。だが、日本では銃器の所有は禁止だから、「拳銃の打ち合い」は、警察ドラマor暴力団ドラマに限られる。
勿論、韓流ドラマで記憶喪失ものが多いからといって、日本よりも記憶喪失患者が多いのではないだろうが・・・。
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ミメーシス芸術論芸術理論上の基本的概念の一。芸術における模倣。自然はイデア(事実の本質)の模倣である、とするプラトンの論や、模倣は人間の本来の性情から生ずるものであり、諸芸術は模倣の様式である、とするアリストテレスの説が源にある。上記よりも、放送大学の青山昌文教授の講義(美学芸術学研究、舞台芸術への招待)のほうが「ためになる」。
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南朝鮮作品:
アプリオリ(先天的)に〈意志〉が存在する。(刺激度; 大 )
※ 恨(ハン)=恨みという国民感情がある。
恨(ハン[1])は、朝鮮文化においての思考様式の一つで、感情的なしこりや、痛恨、悲哀、無常観をさす朝鮮語の概念。朝鮮における、文化、思想において全ての根幹となっている。歴史学者古田博司は朝鮮文化における恨を「伝統規範からみて責任を他者に押し付けられない状況のもとで、階層型秩序で下位に置かれた不満の累積とその解消願望」[2]と説明している。朝鮮民族にとっての「恨」は、単なる恨みや辛みだけでなく、無念さや悲哀や無常観、(虐げる側である優越者に対する)あこがれ[3]や妬み、悲惨な境遇からの解放願望など、様々な感情をあらわすものであり、この文化は「恨の文化」とも呼ばれる。
ハリウッド娯楽作品:
逆境により、主人公に〈意志〉が生まれる。(刺激度; 中)
※ 「ダイハード」「ホームアローン」を想起。
日本の作品:
〈意志〉が生まれるまでを描く。(刺激度; 小)
※ 〈意志〉の誕生以前の〈葛藤〉を描くことが主軸。これではダイナミック(動的)なドラマは実現しない。
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日本では、「忖度(相手を思いやること)」が当然だから、主人公が「忖度をやめ」、対立・対決に通じる〈意志〉を現すなら、そのための「説得力が必要」であり、そのためにエピソードが費やされる。
だが、それはドラマ(対決・対立・摩擦・葛藤・恋情)ではない。〈意志〉が誕生することの説明である。
一方、
アメリカ合衆国の人達は「個人主義」をモットー。すべての国民が〈意志〉を持っている。ただし、それを「行動に移す」には、〈逆境〉が必要である。
「ランボー」の主人公は、「片田舎の警官に理不尽な扱い」をされ激怒。行動を開始する。
韓流ドラマでは、当然のように、復讐劇が始まる。なぜ「主人公が復讐する」かは、後から明らかになっても構わない。
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・人は恋をするのではなく、恋に落ちるのだ
という至言があるが、人間の〈動機〉は本来、直観的なもの。
「冬のソナタ」のペ・ヨンジュン演じる主人公も「相手を愛する理由があるなら、それは愛ではない」とのセリフをチェ・ジウに放つ。
〈動機〉の説明・解説は必ずしも必要ない。
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シナリオライターが〈意志〉の理由を気にするのは、実社会との整合性の兼ね合いを気にするから。
シナリオライターの出自(出身地)は変えられないが、他方、観客は日本のドラマばかりを観ているのではない。「韓流ドラマ、ハリウッド娯楽作品」を多く観て、価値観も変化している。
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その意味において、「うちの娘は彼氏が出来ない」の第一回の残り5分までのストーリーは、シナリオラライターの〈言い訳〉でしかなく、視聴者を興ざめさせるものである。
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あるべきは、
手短かに、
・「恋愛経験ゼロ」「恋愛不得手」なヒロイン
を提示し、
・「恋愛体質」の母親
と対照させること。
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つまり、麻布十番商店街とおぼしき街の描写や、母親と編集者(新・旧)とのいきさつ、時代遅れの鯛焼き屋の父と息子、娘とゼミ生たちと関係などは、母・娘の「恋愛体質の違い」において表現されるべきであって、そうでないなら雑音・ノイズである。
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あるべき〈設定〉は、
・イケメンな男の子を、娘(浜辺)に出会わせる。(それでも恋愛しない)
・ダサメンな男性を、母親(菅野)に合わせる。(それでも恋愛する)
・・・だが、第一回を観る限り、娘の大学の同級生、母親の担当編集者のキャスティングに〈(美醜の)メリハリ〉を感じない。
この後、見続けても、浜辺美波嬢のファン以外は楽しめない作品。たぶん、ダメだと思う。