2020年12月25日

M-1グランプリは改革が必要。(M-3000その2)

若い頃、演劇活動で同じ時を過ごしたことがある江戸はるみさんは、「オーディションによって、有名人になる」ことが期待できる「お笑い」の道にすすみ、NSCを経て、NTV「エンタの花道」でブレークした。
女優になりたかったが、父親の反対にされ、明治大学演劇学部に進学した。だが、そこは演技を勉強する学部ではなく、研究者として演劇を学ぶ学部だった。
卒業後の彼女は、文学座の研修所で学び、フリーランスで活動していた。私が出会ったのは、その頃である。

お笑いなら、オーディションを経て、有名になれる。一本立ち出来る。だが、それも、漫才に限っている。 (すばらしい)

今、実力でのし上がれるのは、文科系なら将棋ぐらい。歌のオーディションも、バンドのオーディションも有名無実。

・テレビ番組のオーディションも、Nizi-Uを除けば、ブレークしない。

その理由は、オーディションとは名ばかりの、プロダクションの新人プロモーションの場だったり、つか、何よりも、JYパークレベルの審査員がいないから。アメリカンアイドルのサイモン・コーウェルのような審査員(審美眼があり、プロモーション能力も高い)はいない。

かつてのつんく氏がそうで、モーニング娘。誕生させた。だが、秋元康氏は、歌ダンスの専門家ではない。


落語は、誰かに弟子入りし、気に入られないと、真打ちにはなれぬ。さらにいうと、テレビ芸能人への道は、「笑点」のみ。

その座は、先達によって寡占されている。プロ野球なら、体力が落ちれば引退になり、空席ができる。だが、「笑点」では、それもない。

吉本新喜劇では、先輩たちは後列に控え、若手たちを前に出す伝統・シキタリがあるという。だが、東のお笑い界では、そんなことも起きない。

つか、塙氏が役員をつとめる漫才協会では、「面白くもない先達」がごろごろいて、常設館のステージを埋めている。面白くない芸人が20年以上居座り続ける現状を塙氏は改革できず、いじり・笑いにすることでなんとか成立させている。


つまり、まだ売れていない若手芸人にとって、「唯一の希望」が「M-1グランプリ」なのである。


決勝にすすめなかった芸人が動画サイトで審査委員(上沼)批判をして、騒動になった。

そのせいか最近の審査員は「優しさに満ちている」。そのせいか、審査員たちの「本当の気持ち」が分からないので困ってしまう。
「ポストモダンから見たこの世界」を書いている私からいうと、問題は、

・審査員が評価基準を明確にして、審査すべき

の一言につきる。


今回、審査員が、

・前に見たときよりもよくなった。

と発言するのが目立った。だが、それは、

・努力を評価する

ってこと。それは、

・落語の実力ではなく、親孝行だからと「真打ち」を多産した柳家小さんに同じ。

これが原因に、三遊亭円生は、協会を脱退。円楽以下は路頭に迷う。


2020年の本選を見たが、決勝の3組を、私は笑えなかった。

私の寸評は以下。

・見取り図 = 〈ありがち〉な「ふるさと(大阪vs.田舎)自慢」の漫才。

・おいでやすこが = (〈ありもしない〉=設定)「自作の歌詞」をえんえんと聴かされる。

・マジカルラブリー = (吊革につかまったり、フランス料理店での)大げさなパントマイムが売りだが、なぜパントマイムが始まるのか理解できない〈ありもしない〉。


面白いと思ったのは、予選の幕開けに登場したインディアンス。

アンタッチャブルの山崎を思わせるようなボケ役のキレがよかった。つまり、ボケた後に自然体に戻る。不動点を感じさせた。


映画&ドラマの「客観的で妥当性のある評価基準」を策定してきた私としては、M-1グランプリも「審査員の主観にたよる」審査方法を改善すべきだと思う。

それは、

大会前に、

・審査員は、審査基準を明確にすること。

これにより、

・新人たちは、努力・向上につとめる

から、お笑い界は「画期的にイノベーションする・できる」はず。


【お笑いの重要要素】

☆ コンテンツの内容(ネタの力)

・・構成・構図。新奇性があるか。意外・ナンセンスか。
・・予定調和(先行きが見え透いている)はダメ。
※ ありえない・あるあるなど、いくつかのパターンがあり、その評価は微妙になる。 

☆ 演技力

・・段取り芝居(演技にみずみずしさがない)はダメ。
・・自然体が基本。場面転換で、漫才師本人からキャラクターに瞬時に変われること・戻れること。

☆ スピード、迫力、パワー

・・これを求めるあまり、ありえない大ボケにハマる場合も多い。


3つの視点を取り上げたが、「三つ目のスピード・迫力・パワー」を強化するのは簡単なので、多くの新人たちがそれに走る。松本審査員が「やかましい」と苦言を言ったのは、そのタイプである。


審査員の多様性を確保するために、江戸前落語の噺家を起用するのも理解できる。

志らく氏が優勝者を「漫才ではなく、喜劇」と形容したのは、漫才経験者の審査員たちよりも「漫才の範囲」が狭いことの現れだろう。
ウェブには「にゃんこスターみたい」との評価もあったから、頷かざるをえない。

亡き桂枝雀は、「お笑いとは、緊張と緩和」と言ったが、それは「饅頭怖い」で、最後に「お茶が怖い」というようなもの。サゲひとつで成立するのが落語であり、爆笑を連発しなければならない漫才では、枝雀氏の理論は成立しない。


今回の審査員のキャスティングにつき、上沼嬢・巨人氏の起用に制作者たちは固執したという。あくの強い審査員の存在は、M-1の根幹に関わる。

2020年の大会につき、おもしろかったのは、審査員たちの応酬というウェブ評価あったが、同感である。


今回の大会は、出場順に従って、順位が決まり、決勝にすすんだ3組で妥当な優勝者が選ばれた。文句はない。

ただし、優勝者が「大会の制度」によって決定するのでは、情けない。ナイツ塙氏が「オズワルドは、出番が悪かった」との指摘は、その類。

まずは、登場順の影響を最低限にする努力が必要だろう。さらに、審査員の偏向を是正する制度。

スキージャンプ競技にならって、

・審査員のうち、最高点と最低点をカットする。

・予選の下位から、決勝をスタートする。

などが求められる。

どちらにしても、一番重要なのは、

・審査員が、「評価基準を明確にした評価(形式批評)」を実現することである。


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