2020年12月18日

「ダンスウィズミー」は失敗作である。

「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」で知られるTBSの演出家・鴨下信一氏は、

「最近のドラマにはアンタゴニスト(対立関係)が足りない」

と、週刊フジテレビで発言した。


2010年にはTBSの競合局であるフジテレビの自己批評番組『新・週刊フジテレビ批評』に出演し、現在のドラマに見受けられる「"前回のあらすじ"がない」、「出演者の"年齢ギャップ"」、「"自閉的"キャスティング」、「"貧弱する"脚本」という4つの問題点を挙げ、「原点に返って、対立がちゃんとあって、テーマがハッキリしているドラマらしいドラマを作らなければダメ。各局だけで考えず、ドラマを作っている人たち全員で考えないといけない。」と語った[6]。



世界的な巨匠・小津安二郎監督の遺言は、

・「映画はアクシデントではない。ドラマだ」

である。


吉田(喜重)は小津の可愛がった女優岡田茉莉子と結婚し、死の床についていた小津のもとを訪ねた。吉田は小津の変わり果てた姿に言葉を失ったが、小津は帰り際の吉田に「映画はドラマだ、アクシデントではない」と口ずさむように言った[41]。



これらの発言が、映画・ドラマの本質を表現しているとしても、それだけではない。つまりは、作家個人のやり方・技法を離れて、「映画・ドラマの総体」を表現していない。

科学では「証明」というプロセスが存在する

相対性理論を掲げたアインシュタインは、数年後、アフリカの離島での日食の観測によって、「重力によって光が曲がること」が観測され、理論が証明された。

だが、文系の学問では、そうはいかない。文系の学問では、「証明ではなく、体系化」が求められる。

かつて、比叡山・最澄は「自らが中国から持ち帰ったものが雑密でしかない」と悟り、本密を持ち帰った空海の教えを仰いだ。


鴨下信一・小津安二郎の言葉は間違いではないが、「映画・ドラマの全体」を網羅していない。つまり、そのための条件があったり、別の視点がある。

落語家・桂枝雀は「笑いとは、緊張と弛緩です」と笑いを定義したが、それは、物語があり、最後に「サゲ」を持ってくる落語に顕著な理論に過ぎぬ。

弛緩している(リラックスしている状態)でも笑いは発生する。たとえば、桂歌丸が嫌悪した「お盆で股間を隠す芸(アキラ100%)」。


残念ながら、私は実作家としてのキャリアを積むことができなかった。だが、それをいいことに、すばらしい作品を生むための「映画・ドラマの定義」を模索している。


「ダンスウィズミー」は、「スウィングガールズ」をヒットさせた矢口史靖監督の作品である。

主演は、三浦春馬氏の早世関連でも噂された三吉彩花嬢。共演は、芦田愛菜のものまねでブレークした女芸人・やしろ優。謎の催眠術師を東宝ミュージカルのスター・宝田明が演じている。

主人公は「音楽を聴くと、踊りだしてしまう」という催眠術が解けない。催眠術が解けないために、失敗・失態を繰り返すので、催眠術師を探す旅に出る。

この映画はロードムービー(東京〜新潟〜弘前〜札幌)であり、「ミュージカルを嫌い」というヒロインを主演にしたミュージカルである。

音楽が耳に入ると踊ってしまうヒロインは、電車での移動ができない。結果、車移動になる。旅の相棒は、かつて催眠術師の助手をつとめていた女の子。ふたりの道行きが始まる。

ロードムービーの定石は抑えている。だが、ミュージカルとしては、決定的な間違いを犯している。

それは、「ヒロインの恋愛」が物語の中心でないこと。「アナと雪の女王」も同様な傾向があるが、ミュージカルではない。「主体性(ありのまま)を確立していく」少女の成長譚である。

致命的なのは、ミュージカルは「主人公の感情が極まって、歌と踊りが始まる」のに、主人公の感情と関係なく、「音楽を聴いた瞬間」踊りが始まること。


小津監督は、「映画はドラマだ。アクシデントではない」と遺言したが、(私の結論によると)

ドラマとは、

・対決

・対立

・摩擦

・葛藤

・恋情

の5つ。

この物語をすすめているのは、上記ではなく、

・窮地(壁・檻・枷)を脱出すること

である。

ミュージカルにおける「歌と踊りのシーン」は魅力的だが、非ドラマ成分である。

つまり、「歌と踊りの背景」に、ヒロインの思いや〈対決・対立・摩擦・葛藤・恋情〉がなければ、空虚なミュージカルシーンになる。

「ウエストサイド・ストーリー」では、ヒロインの恋人への思いで「トゥナイト」が始まるし、「マイフェアレディー」では、ヒギンズ教授の「英国紳士としての矜持とイライザへの恋情の葛藤」が執拗にミュージカルシーンとして繰り返される。


「ダンスウィズミー」は、明るく楽しいお正月の娯楽映画としては、何の不満もない。・・・のかもしれぬ。だが、ドラマではない。

思えば、かつての植木等主演の「東宝・無責任シリーズ」やマイケル・J・フォックス主演の「摩天楼はバラ色に」のような、「痛快に物語がすすんでいく」だけの作品。笑い話でしかない。

別段、「シリアスにする必要がある」とは思わない。「サウンドオブミュージック」はミュージカルなのに、反ナチスという深刻な問題を扱っており、娯楽作品にそぐわない。やはり、ミュージカルは、ヒットラーが愛した「メリーウィドゥ」のような軽さがなければ・・・。

結局のところ、「雨に歌えば」「マイフェアレディー」のようなレベルではない。
ミュージカルシーンはよくできているし、主演・三吉彩花嬢も悪くないだけに、残念な作品だと感じている。


古代ギリシアには、ミメーシス理論(過去の傑作を、今の時代に合うように、さらにインパクトを強化して、模倣・再現する)というのがある。

観客の無意識の中には、ジャンルの伝統が潜んでいる。それを否定する場合も、伝統を知っていなければならぬと思う。(改変は一部分でないと、ジャンルの伝統を汚す)



posted by sponta at 04:32| 東京 ☀| Comment(0) | OZ評価 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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