この記事の主旨は、「日本の映画・ドラマの低迷を解消したい」の意図につきる。
○
日本では、「鬼滅の刃」が大ブレークしている。だが、
・過激なシーン(戦い)が多いので、こどもには見せられない。
や、
・鬼は嫌い・怖い。
との意見もあり、賛否両論である。(私はアニメシリーズを、主人公が養成期間を終え、街に飛び出し、最初の鬼退治をするあたりで、挫折している。その理由は、死体をリスペクトしないゾンビものは嫌いだから。憤死・犬死があるにしても、死者は安らかに彼岸に旅立ってほしい)
○
一方の韓流ドラマ。
「愛の不時着」「梨泰院クラス」が大ブレークした。だが、その批判は少ない。
「愛の不時着」は、いままで北朝鮮批判のドラマが多かったが、北朝鮮の市民は南朝鮮人と同じ。心温まる人たちとの表現。「現実はそれほど甘くない」との批判もあるようだが、お茶の間向けのドラマとして、申し分ない。
「梨泰院クラス」は、父親を殺された主人公が、梨泰院というソウルの一等地の商業地に居酒屋を出して成功する物語。「復讐」は韓流ドラマのありがちなテーマだったが、主人公は「友達を大切にする」。それがたとえ「復讐すべき相手」であっても。そのような「良き人」は貧乏くじを引くのが世の常・ありがちなドラマだが、主人公は成功への道をすすむ。それが新機軸であり、すばらしい。
○
日韓のドラマの差は、制作関係者の芸術観によるものと、私は見ている。
日本の芸術観: 芸術作品は、作家のオリジナルな創作物でなければならぬ。(パクリはご法度)韓国の芸術観: 古代ギリシアのミメーシス芸術観。(過去の傑作を「さらにインパクトを強化」して、模倣・再現する)
結果、韓国では、
・「北朝鮮を扱う作品」「復讐劇」も、時代とともに進化している。
が、日本では、
・(オリジナルにこだわるため、過去の作品に学ばないため)同じ欠点のある作品が制作される。
「逃げるは恥だが、役に立つ」は、独身女性が一人暮らしの男性の家の住み込み家政婦になるという「ありえない設定」。設定は「前提条件として許す」としても、雇い主(独身男性)と家政婦(ヒロイン)が面と向かった食事を共にするのはありえない。(17世紀フランス古典演劇理論の最重要評価項目は「ありえない」。ありえない設定はともかく、その環境の中でヒロインが「ありえない行動」をするなら、ドラマは台無し。だが、ヒロインを演じるガッキーの魅力がそれを隠すから、大半の視聴者は気づかない)
「私の家政夫。ナギサさん」も、独身女性が独身男性の家政婦を雇うという設定。物語がすすむにつれ、雇い主(ヒロイン)は家政夫がいないと暮らせない自分に気づき、最終回では結婚する。
だが、「逃げるは恥だが、役に立つ」を「さらにインパクトを強化して再現した」。つまりは、ミメーシスしたのが「私の家政夫ナギサさん」だとは思えない。