2020年12月09日

「共演NG」最終回に思う。

ドラマ・映画の形式批評を行っている。その成果はOZ理論としてまとめている。

ドラマとは広義であって、狭義のドラマ。つまり、ドラマ成分とは、

・対立

・対決

・摩擦

・葛藤

・恋情

の5つである。

だが、それらを含まぬものを多く含むドラマ・映画も多い。

たとえば、

公共放送の大河ドラマ。
歴史もの・戦記ものなため、対決・対立・摩擦はある。
だが、「歴史をトレースする」ことが重要であり、ドラマ的な誇張は「史実を忠実に守る」ことによってのみ許される。
つまり、主人公の行動原理が明確でなくても、表面的な対立・対決があれば企画は進行する。

結果、韓流ドラマの傑作「奇皇后」のような作品は生まれない。奇皇后は、貢物として中国に移送されたヒロインが、中国後宮に入り込み、皇后の座までのし上がる物語。母国の為政者が自国民を冷遇し、中国の属国に甘んじていることに憤り、祖国のために巨大国家・元の皇后にまで上り詰める。

ドラマ成分をふんだんに取り込めるのは、史実が残っていない歴史上の人物。たとえば、卑弥呼などだろう。

日本の大河ドラマは、歴史をトレースしていれば、「ドラマ成分がなくても、成立する」。つまりは、プロデューサー・ディレクターは企画を進行し、決定稿となる。

そして、従順な日本国民たちは、公共放送がオンエアしている・採用した作品ならば、間違いはないと、受容する。




本来、歴史を忠実に再現しただけでは、ドラマにはならぬ。

原因と結果。思想と行動・・・。

有機的に各エピソードが絡んでいなければならぬ。そうでないものを、業界的には「団子の串刺し」という。

「Aの出来事の結果、Bの出来事が起きる」なら良い。だが、AとBの出来事に因果関係がなければ、それが連続されるとAの団子・Bの団子であって、おもしろくないということ。

だが、「群像劇」、グランドホテル形式などといって、「団子の串刺し」なのに許容されている作品も少なくないから、事態は複雑である。

たとえば、

黒澤明監督の「七人の侍」。志村喬演じる老武士は、街道に赴き侍を集める。一人、二人と集めていくが、一人目の獲得が二人目の展開につながる要素がない。これは「団子の串刺し」である。

たとえば、

黒澤明監督の「生きる」。志村喬演じる老人は、市役所に赴き、不満を訴える。いくつかの部署をたらいまわしになる。結局もとの部署に戻るところで、エピソードが終了するが、これも一つ目の部署と二つ目の部署に有機的なつながりはない。窓口の担当者がそういったから、別の部署に赴いたのであって、そこにドラマはない。設定であり「団子の串刺し」。その証拠に、窓口の担当者に「喜怒哀楽」はない。ならば、セリフがあるにしても、シナリオ的には、小道具と同じである。


世界的な映画監督の傑作の欠点を指摘したので、これから先を読まぬ人は多いかもしれぬ。

私は、国民的な放送作家といえる秋元康氏のドラマも、非ドラマ成分が気になる。

最終回が示すのは、

・このドラマの「本筋は何だったか?」である。

最終回で、ドラマ的な展開がないなら、そのエピソードは「(ドラマの純度を下げる)かさ上げのためのエピソード」であって、脇筋でさえない。


「共演NG」の最終回から読み取れるのは、

・若手俳優の不倫(とってつけたような、男優が離婚したという事実紹介)

・師弟関係の確執(回想シーンで登場するだけ)

は、嵩上げのためのエピソードだったということ。

そして、とってつけたようなどんでん返しのような

・シナリオライターは、車椅子生活を余儀なくされており、「撮影現場を嫌悪している」のではなかったという〈設定〉。

物語が、「シナリオライターの撮影現場への複雑な思い」を起点に生まれているなら、そのあたりをもう少し丁寧に、伏線を張っておくべきだった。



posted by sponta at 07:02| 東京 ☁| Comment(0) | OZ評価 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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