2007年07月14日

サイバージャーナリズム論00:東京財団「それから」研究会…。私と湯川鶴章氏の出会い。

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「サイバージャーナリズム論」が明日。7/15に発売される。




一昨日、我家に見本が3冊届き、仏壇に供えた。写真でしか知ることのない岳父は、築地小劇場に関わり、慶応の経済を出て、実業の日本社に勤める出版人だったという。
彼の末娘である妻は、今回の本がお盆に発売されることに、父との因縁を感じているという。



さて、今回の本は、東京財団の「それから」研究会によって、出された報告書を出版したものである。

本書は、2007年1月の時点での結論を表したものだ。
だが、この成果物が成立する過程に何があったのか…。そのことを少し紹介したい。



2005年、ライブドアPJに挫折した私は、時事通信社の湯川鶴章と知り合った。
直接的な動機は、ライブドアPJの運営体制に反旗を翻した私に、彼が興味を持ったことだったと思う。

思うに、「市民参加型ジャーナリズム」という語句は、湯川氏が使うが故に一般的になったと思われる。草の根ジャーナリズム、ネット市民記者新聞など、さまざまな用語があるが、湯川氏が「市民参加型ジャーナリズム」という単語を使ったことで、市民参加型ジャーナリズムという新しいジャンルが形成されたといってもいい。

2005年の春から夏にかけて、ライブドアPJは、市民参加型ジャーナリズムのもっともトピックな話題だったと思う。
それは日本中を巻きこんだホリエモン現象と深く関連しており、メディア買収を企むホリエモンの策謀とともに、新たなムーブメントが誕生しつつあることを、多くの人に感じさせていた。

だが、その熱狂は続くことはなく、半年を待たずして、文芸春秋で立花隆氏による痛烈な批判がでるとともに、私も、その不毛な構造について明らかにしつつあった…。湯川氏もライブドアPJの誕生前から一定の情報を得ていたが、知人が運営に加わる話も頓挫し、ライブドアPJに対する否定的な将来を確信していたに違いない。

だが、当時の私も、現在の私もライブドアPJについて、感謝とともに、一定の評価をしている。それは、日本の市民参加型ジャーナリズムにおいて、唯一、「オーソライズ」力を保持していた。

少なくとも、ホリエモン騒動の短い時期、そういうパワーをあのメディアは持っていた…。


*

初対面の私と湯川氏が何を話したか。何を紹介するのが、一番ふさわしいのかといえば、まさに今回の書物のテーマでもある、「ジャーナリズムとは何か」「表現者とは何か」だったのだと思う。

あのとき、私は、「市民参加型ジャーナリズムは、ジャーナリズムやジャーナリストという言葉に魅かれた人達が集まっているに過ぎぬ」と湯川氏に放言したに違いない。

そして、市民参加型ジャーナリズムの根本的な問題について、指摘した。

「被写体との一定の距離を必要とするジャーナリズムは、他人の悲しみさえも自分の悲しみとする庶民の感覚とは相容れない」

湯川氏は、私がライブドアPJで市民記者活動をしたり、ブログを続けることが、自己実現の所作に過ぎぬと批判した。
私は、その批判を完全に否定・払拭することはできなかった。
だが、表現というものが、発信におけるリビドーだけを求めるならば、それは自己実現でしかないが、それが社会的な影響力を行使するならば、自己実現という枠に収まるような行為ではない。と、反論した。

当時、ライブドアPJの主宰者は、「土日に記者をやるような市民に、既存メディアに対抗できるような記事が書けるはずもない」と自嘲し、既存メディアからの批判を逃げていた。
また、マズローの説を引用し、市民記者気質というものを衣食足りたものの遊戯と決め付けていた。

そんな馬鹿なことはない。カラオケボックスのCMではないが、人間とは、「泣きたいときほど、歌いたい」のである。
たしかに、ライブドアPJの研修に集まった人の中には、衣食足りた人達も混じっていただろう。だが、「泣きたいときほど、歌いたい」。そういう内面を抱えた人達がその大部分を占めていたことは確かである。

*

私は、「表現者であることが私の人生のテーマである」「自らを語るのが表現者であり、他者を語るジャーナリストに私は魅力を感じない」と言った。

そして、餓死寸前の少女をハゲタカが狙っている写真を撮ったピュリッツアー賞カメラマンが批判されたことを話題にし、ジャーナリズムの桎梏について、湯川氏に詰問する。

すると、彼は明解に、「私はジャーナリストである前に市民でありたい」と語ったのである。



あのとき、私と湯川氏は、市民参加型ジャーナリズムについて対話したのだが、対話が行き着いた先は、お互いが、「市民」であること。「市民」であろうとすること。についての議論だったのではないか。

誠実な「市民」であること。それは、ポリス(属するコミュニティー)に対して何を成すか・義務と権利を負うか。ということになる。


「サイバージャーナリズム論」は、そのような発信する個(日本人)と、それを取り巻くコミュニティー(日本社会)について書かれている。

この本をIT関連書物やメディア本として読むも大いに結構である。だが、そこから立ち現れてくる2007年は、もうひとつ別のものである。

何故なら、ITとメディアは我々の社会そのものなのだから…。

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ラベル:湯川鶴章
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