2007年07月13日

「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」ひろゆき本vs「サイバージャーナリズム論」それから本。

昨日は浜松町のお客さんのところで打ち合わせをして、帰りに、浜松町の駅ビルにはいっている本屋を覗いた。

きっと、この本屋のこの場所に「サイバージャーナリズム論」が並ぶのだ。などと空想をはたらかしている。

それは、キネマ旬報社の「日本映画監督名鑑」を見ながら、私がこの本に掲載されるならば、あいうえお順だから、この監督とこの監督の間などという、若い頃の私と同じ習性…。

その後の私は、映画からテレビ、プロモーションへと仕事が映っていき、映画監督として監督名鑑に載る可能性はなくなった。もっとも、デカタンな私は、結婚とともに苗字を変えており、今後、監督名鑑に載ることができたとしても、その場所は、あの頃考えていた場所とは違うものになる。



さて、書棚で見つけたのは、2ちゃんねるの西村博之氏の、「何故、2ちゃんねるは潰れないのか?」(扶桑社新書)である。

アマゾンには腹帯がないが、実物には、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」とあった。

私は、この意見に反対である。

このコピイは、きっと編集者がつけたものだろう。たしかに、そのように2007年を捉えることもできる。

だが、2007年は、「ウェブ進化論」の梅田望夫氏ではないが、「本当の大変革はこれからやってくる」が、実相である。

そして、その立場から、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」の事実誤認を修正するならば、
「ネット者は、もうこれ以上社会を変えない」になる。





いま2007年がどのようなフェイズ(様相)にあるかといえば、キャズムということだろう。

キャズム

一般的にテクノロジーのライフサイクルはベル型の標準偏差のグラフによって示され、その各段階でターゲットとすべき顧客として、イノベーター、アーリー・アドプター、アーリー・マジョリティ、レイト・マジョリティ、ラガードといった顧客セグメントが行なわれます。通常、この顧客セグメントによって、異なるマーケティング施策を行いながら、徐々に新しいテクノロジーの顧客層を広げていくことが推奨されます。しかし、米のマーケティング・コンサルタントであるジェフリー・ムーア氏が、同名の著書によって、明らかにしたのは、イノベーターとアーリー・アドプターで構成される初期市場と、アーリー・マジョリティやレイト・マジョリティによって構成されるメジャー市場のあいだには、容易には越えがたい「キャズム(深いミゾ)」あるということでした。顧客セグメントの違いによって生み出される、このキャズムを超えなくては、新しい商品はメジャー市場でブレイクすることなく、規模の小さな初期市場のなかでやがては消えていく運命となります。同著が、10年間にわたって米国ハイテク業界のバイブルとされたように、特にテクノロジーの進歩の激しい業界においては、強く意識することが重要なマーケティング理論です。

ミツエリンクス提供


キャズムを、お風呂が沸いてもいないのに、冷たいうちに入る人は限られているということになる。と、形容する人がいる。

アルファブロガーやITエバンジェリスト(業界関係者)は、イノベーターであり、その後を、オタクチックな、アーリーアドプターが追っていた。それが今までのフェイズだろう。
だが、その流れは、イノベーションが成熟化すると、あらたなムーブメントは起き難くなり停滞する。
アルファブロガーたちが、「ブログが終わった」と語り、ブログの更新をやめるというのも、このフェイズの特徴である。
そして、アルファブロガーに追随してきた、アーリーアドプターたちも、新しさを感じなくなり、停滞・低迷する。

このあたりは、R-30さんが詳しく語ってくれるかもしれぬ…。

ひろゆき本が指摘する、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」とは、まさにこの状況を形容している。

ひろゆき氏は尊敬に値するリアリストである。そのリアリズムは、インターネットの理想を感じさせるが、その根本は、西村博之氏という個人にとってのリアリズムでしかない。

それは、私が知遇を得ているシステム者たちの気質においても同様なものを感じる。
つまり、彼がリアリズムを基点にした理想を語るとしても、それは、どこまで言っても個の視点から発せられたものでしかない。

*

たとえ話をすればこう…。

個としては、「戦争絶対反対」「死刑絶対廃止」。そこに何の問題もない。

だが、国際社会をみれば、「戦争を想定しないで国家が存続できる世の中でない」のは明らかだ。
同様に、大量殺人事件が断続的に発生する社会において、「一切の死刑を廃止する」ことが絶対律であるはずもない。
殺人が法律で禁止されている。なのに、殺人をする人がいる。という悲しい現実に、どのように対応するか。

そのような問題は、社会・国家が悩み続けるべき問題であって、個が世の中の複雑な状況を勘案せず、「軍備なし」「死刑なし」などという結論を出すことは浅薄な態度なのだ。

世に、母性を喧伝する言論者は多いが、その殆どは個のステークホルダーを主張するに過ぎぬ。個体としての妥当性はあるが、集団の論理としては、著しく不毛な言論を提示しているのだ。

とはいえ、「戦争肯定」「死刑肯定」などはもっての他であることは言うまでもないが…。

*

たとえ話はイメージとして捉えて欲しいのだが、個にとってのリアリズムと、社会・集団・国家としてのリアリズムとはまったく違うものである。

そして、ひろゆき氏は、彼というネット者・イノベーターとしてのインターネットを語るのみであり、それ以上でも、それ以下でもない。

だから、その言論から、「インターネットは、もうこれ以上社会を変えない」というコピイを引き出しても、自然なことであるのだが、それが今を捉えているのかといえば、そうではない。

インターネットは、いまキャズムにある。そして、梅田氏がこれから大変革がはじまるというのは、これからメジャー市場になるということである。



「サイバージャーナリズム論」の見本が送られてきた。

mihon_01.jpg


執筆者は、歌川令三、湯川鶴章、佐々木俊尚、森健、そして、私の5氏である。
高名な学者である公文俊平氏が、対談での参加なため執筆者として加えられていないことからすれば、無名な私が執筆者として名を連ねていることは、感謝しても、感謝し足りない栄誉である。

今回は、6氏がサイバージャーナリズムを語っている。だが、その執筆者たちがネット者なのかといえば、ネット者であるといえるのは、スポンタだけだろう。

佐々木俊尚氏はネットでの言論活動もなすが、主な活躍の舞台は出版界だ。

湯川氏・歌川氏・森氏・公文氏も、研究・取材の対象がインターネットだが、ブログを運営していたり、2ちゃんねるに書き込むようなネットの住人ではない。

つまり、「サイバージャーナリズム論」の著者たちは既存メディアに属しており、ネット者である西村博之氏やスポンタ中村とはまったく違う地平に存在している。



西村氏が、「ネットで傷つく人は、ネットにこなくていいです」と指摘するように、ネット者の間では、インターネットはコップの中でしかない。コップの中の嵐に過ぎぬことを大騒ぎすべきでない。というのが、その言論理由だろうし、多額の訴訟案件を抱える西村氏のステークホルダー(立場・利害)から生まれた言説。

では、2007年に何が起きているか…。

是非とも「サイバージャーナリズム論」を読んで欲しい。

既存メディアの住人たちが、インターネットを敵視したり、インターネットの普及を前に、自分達が属しているメディアの終末を悲観し絶望するような時代が明確に終わったことを、この本で知ることができる。



「ネットは新聞を殺す」と爆弾発言をした湯川氏が、ネットが新聞を殺すのではなく、リファレンスとしての重要性はさらに強まっている。と指摘する。
「新聞のなくなる日」と、新聞の終末を予言した歌川氏が、新聞はなくなりはしないが、いまのビジネスモデルは変化をせざるをえない。と語っている。

既存のメディア人たちの思いは、社会全体の思いに近いとすれば、これからの数年こそ、「インターネットによって、社会が変わる」時代ではないか。

それはマーケットの用語でいえば、イノベーター、アーリーアダプター・キャズムの時代が終わり、メジャー市場であるアーリー・マジョリティやレイト・マジョリティの時代がやってくることを示している。


07sponta


浅田彰の「構造と力」を図書館で借りてきて読んでいる。
あれから四半世紀経っている。あのとき、分からなかったことが、今読めばすこしは歯が立つのかな…。と、思ってもみたが、やはりダメだった。

結局のところ、私はアカデミズムの人でもないし、イノベーターでも、アーリーアダプターでもない。せいぜいはアーリーマジョリティーの住人なのだろう。

とはいえ、四半世紀前の浅田氏も、「サイバージャーナリズム論」の歌川先生も、パノプティコンに言及する。

この25年間、時代はそれほど進んでいないのかもしれぬ。

だが、ブログの普及によって、その概念は、2005年から2007年の3年間で、大きく変わってきた。

何が大きく変わったのか。それを今後とも、明らかにしていくことにする…。

追記:

娘が中学校の先生から、IT技術が進めば、頭にチップを埋め込むだけで、記憶できる時代になる。と、聞かされてきた。
当該教員は、それが恐ろしい時代というニュアンスで語ったという。

だが、それは悪い話ではない。

いままで、試験は記憶力を争うものであった。だが、人間が機械的に記憶ができるようになれば、個の価値が記憶力に依存しなくなる。そして、人間がチップを組み込むことにより、機械的に演算処理を早めることができるようになれば、頭の回転が速いことが、個の特性として誇ることも無価値になる。

つまり、たくさん知っていること。頭の回転が速いこと。それらが無価値になる。

人間の価値の源泉とは何なのか…。

そういう時代こそ、個性の時代であり、人間が人生を謳歌する時代になるはずである。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック
ファン
 メッセージを送る
 このブログの読者になる
 更新情報をチェックする
 ブックマークする
 友達に教える
RDF Site Summary
RSS 2.0