2020年05月31日

「麒麟が来る」(20回)の改題。

※ お急ぎの方は、色字のみ、お読みください。


池端俊策氏は、spontaの先生である。今村昌平の映画学校で担任教師だった。

夏休みの「2時間シナリオ」の個人面談で、

・シナリオで一番大切にしているものは何ですか?

との私の問いに先生は、

・「情熱の挫折」

と答えられたのを印象的に覚えている。


この問いは、私の常套手段で、約20年後、娘のドラムの先生(日野皓正バンドの元メンバー)に、

・ドラム演奏で大切にしていることは何ですか?

と訊ね、

・みんなの為を思って叩く。すると、結果として、一番目立つ。

と。


池端先生は「情熱の挫折」と言われたが、今回の「麒麟が来る」。主人公の光秀は、「(道三の)おつかい」ばかり。

明智光秀は壮年期まで「歴史資料がない」ので、創作できるはずなのに、主人公の情熱ばかりか、主体性もない。
制作の背景に何があるのか。

倉本聰氏が北海道に逃げたような状況に巻き込まれているのかもしれない。


spontaは主観批評をしない。
行うのは形式批評。

つまりは、評価基準を明確にして吟味すること。フィギュアスケートやオリンピックの体操競技で行われている方法である。

評価基準は、

・アリストテレスのミメーシス理論

と、

・ルネ・ブレイの17世紀フランス古典演劇理論

である。

興味がある人は、拙ブログで解説しているので、検索していただきたい。


第20回。

冒頭に、駿府にいるお駒(医師に同行して当地に滞在)から、越前にいる光秀のところに「反物と薬草が届く」。

・宅急便のない戦国時代に、小荷物が届くはずがない。

というか、時代考証的に「成立する」としても、レアケースなはず。ならば、受け取った光秀の奥方が「(もっと)驚いてよい」。

17世紀フランス古典演劇理論的にいえば、

・ありえない。

である。
この疵は今回ばかりではない。

・美濃から京都への女の一人旅。

そして、まるで

・東海道新幹線があるかのような、京都・美濃・尾張・三河・駿河の行き来


作品冒頭の宅急便のシーンが気になって、ストーリーが入ってこない。

つか、宅急便が「重要な役割を果たす」なら、意味もある。だが、禁則を侵してまでの必然性はない。
経済的な苦境が、光秀の「士官必要性」を導くにしても、

・「届いた薬草」をお金に換えましょうか?

と夫婦の会話に落とし込む必要はない。
(ライターではない)制作マンの提案を「受け入れざるえない」状況だったのかもしれぬ。


何度も指摘しているが、17世紀フランス古典演劇理論的には、

・内的整合性 : 行動原理の表明 → 行動

が重要。

spontaとしては、それが「十分条件(ポジティブチェック項目・それがあるともっとよい)」ではなく「必要条件(ネガティブチェック項目・それがないとダメ)」と思っている。


信長を描くにあたっては、

在来型の武士 = 封建主義者。(土地が大切)

信長 = 貨幣経済主義者。(お金が大切)

な、基本的な対立構造を描くべき。

その対立の構図があってこそ、光秀が活きる。

「油売りから、戦国武将になった」斉藤道三が、信長を娘婿にしたのは、自分と同じものを信長に感じたのであり、信長が楽市楽座をつくったのだから・・・。


結局のところ、人間関係的な「人物関係の構図」はあっても、「行動原理的な対照」はない。

・・・これでは、叙事的なストーリーしか展開していかないし、今後も、

・17世紀フランス古典演劇の第二項(内的整合性)が満たされることはない。
posted by sponta at 19:45| 東京 ☁| Comment(0) | ドラマ・映画・演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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