2020年05月31日

「エビデンスはあるのか?」と、誇るバカ。(新コロ検査より、先にすべきこと)



ドロステン氏は、日本はほかのアジア諸国と比べれば厳格な「ロックダウン」なしに感染を押さえ込んでいると指摘。

ひとたびクラスターが見つかれば、検査よりも先に関係者全員を隔離することが戦略の「核心」になっていると説明した。

もともとドイツは、多くの検査で新型コロナを封じ込めた韓国を対策の参考にしてきた。

日本の対策は分かりにくいとの声が強かったが、英語での情報発信が最近増え始めたこともあり、注目が高まりつつある。

ドイツは検査数や病床などの医療体制で日本を上回り、ほかの欧州諸国と比べれば死者数も低く抑えている。ただ、感染の第2波を避けながらいかに正常化を進めるかが課題で、日本のクラスター対策やスマホアプリを使った追跡など、新たな対策を取り入れようとしている。


だそうな。

・ドイツ人め。ようやく気付いたか。

な、感じ。

つまりは、

・熱が出ているなら、体温計で図るよりも、まず、スベキことがある。

つーこと。


実は、「医療施設」でないなら、そんなことは誰でもやっている。

・「寒そう」なら、身体を温める。

・「暑そう」なら、身体を冷やす。

・ 必要以外の人は、近づけない。

おでこに手を当てて熱ければ、状況を察して、家族が行う。


いまだに「野党」を中心に「全検査の徹底」のプロバガンダが行われており、「野党対策の一環」で賛同する人も多い。

それか、「女子プロレスラーを自死させたような匿名者」ではなく、山里亮太氏のような「(ギャラのためなら無節操に)テレビマンたちの指示で、自分の意見を曲げる」ことを厭(いと)わない、「(ギャンブルの原資を稼ぐためにテレビに露出しづづける坂上忍氏とはいわないが)タレントたち・コメンターたちによって、プロバガンダされている。


「エビデンスを示せ」とは、要素還元論。

つまり、当該文脈での「証明」に限定された論理法である。

この作業によって、「当該文脈が、絶対化される」という弊害を持っている。


「ヘーゲルの弁証法は詐術である」とspontaは指摘している。

たとえば、

カレーにしようか、かつ丼にしようか、悩んでいたとする。
(テーゼ:カレー、アンチテーゼ:かつ丼)

そこで、カツカレーにしようと決定(止揚)する。
(ジンテーゼ:カツカレー)

カレーとかつ丼をハイブリッド(2種混合)させたのが、カツカレーであり、至高である。

と。

だが、この作業は、

・何も食べない。

・ざるそばを食べる。

・カレーライスとかつ丼の両方を食べる。

という「(その他の)選択肢を隠ぺいする」という機能を果たしている。

→ メタ論を拒否・否定している。

まどろっこしく言うと以下。


【Wikipediaより】


ヘーゲルの場合、こうした

・「人間の主観(意識・理性)によって掴まれないものは認めない」という姿勢

は、ヘーゲルの『法の哲学』の序文における、

・「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」

の一文に象徴的に表現されている。

「ミネルヴァの梟(ふくろう)」の例えで有名な、この序文でも端的に述べられているように、ヘーゲルに言わせれば、哲学は、常に現実を後追いしているに過ぎない。現実の歴史がその形成過程を終えてから、ようやくそれを反映するように観念的な知的王国としての哲学が築かれる(「ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ」)のであって、「哲学の到来はいつも遅すぎる」し、決して「あるべき世界」を教えてくれるようなものでもない。哲学は現実を越えた「彼岸的なもの」を打ち立てることができないし、そんなものは「一面的で空虚な思惟の誤謬の中」にしかない。

つまり、カント等に見られるように、その時々で、

・あらかじめ、ある形式や真理を先決して、体系を構築したとしても、その真理はその形式・体系の中における限りでの真理であるに過ぎず、現実の将来的見通しをもたらす普遍的真理になるわけでもない

し、

・条件が変わり、その形式・体系が変わるに伴い、雲散霧消して、また別に新たに生み出されるような、仮初の真理に他ならない。

したがって、

・本物の普遍的真理に到達するためには、そうした先決や、時々の形式・体系への固執は、むしろ不要・邪魔

であり、避けられなくてはならない。

そのため、彼にとっては、哲学がなすべきことは、あくまでも「時間的に過ぎ去りゆくものの中に、内在的・現在的かつ永遠なものを (外的な形態化されたものの内にも脈打つ、内的な脈動を)概念的に認識する」ことであり、「実体的なものの中にいながら、主体的な自由を保持しようとし、それでいながら、特殊的・偶然的なものの内にではなく、即自かつ対自的に存在するもの(自覚・認識と充足の一体性、形式と内容の一体性)の内にいようとする内的な欲求に従った、現実との熱い和解・平和」である、ということになる。

つまり、哲学は、人間の主観・認識が、己の性質・欲求に従いつつ、主体的かつ漸進的に、試行錯誤を経ながら、

・現実と調和していく形で、真理・絶対知に到達していく

過程・道程として、また、その最終的な結実として、捉えられなくてはならない。



K国・賛美主義者たちの論理に身を委(ゆだ)ねてはならない。

私たち・日本人は、

・メタ論な人たち

なのだから・・・。

この記事へのコメント
ちなみに、「日本語は論理的でない」と近代主観主義で批判されてきたが、「日本語はメタな現実を把握するため」に〈決定論〉を排している。というリアリズム。

古代の日本語には「動詞がなかった」という説があるが、それは、鎌倉時代に「終止形(言い切り)」が嫌悪され、「連用形で代用される」のと同根である。
Posted by spt at 2020年05月31日 08:45
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