2020年03月30日

昨日の「麒麟がくる」評。

回も進んで、前回には、「ようやく話が見えだした」とのことか、好評もあるようだ。

だが、主人公・光秀が「お使い」ばかりという「主体性のなさ」という欠点は修正されていない。

クライシスの元として、ラブリン演じる今川義元の「尾張攻め」の意欲が表現され、ようやく戦国ものとして、形をなしてきたかのようにも見える。

だが、主君の命令で「お使い」ばかりしているのが主人公では、オボツカナイ。


スポンタが考える「ドラマの本質」は、以下。

・デュエル・オブ・パッション

・ロス・オブ・エモーション

である。

だが、主人公から、パッションも、エモーションも感じられない。

悪評さくさくだった「お駒のシーン」がなかったことが、今回をまともにした原因だが、早くも登場しなくなるキャラクターを何故、今まで引っ張ってきたのか? と理解に苦しむ。


さらにいうと、今川と織田の和議工作を将軍・足利家に頼みこむ主人公だが、今川義元は、足利家にとって代わって「天下をとる」ために東進(京都をめざす)のではなかったのか・・・。

ルネ・ブレイの17世紀フランス古典演劇理論でいうところの「内的整合性(キャラクターの思想と行動の関係)」的には、今川義元の大志が見えない。


形式批評しなければ、作品の疵が見えにくくなった。

つか、先行きの見えない「新型コロナウィルス」の世相の中で、「なんとなく、ほっこり観れる」。そんな作品。

それは、それで、いいのだろうが、ドラマとして成立していない。

posted by sponta at 02:27| 東京 ☁| Comment(0) | ドラマ・映画・演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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