2007年07月10日

アルゴの時代56:選挙とはアルゴリズムである。

KNNの神田敏晶氏が参議院選挙に立候補するという。

とは、3度ほど会っているのだろうか…。

インプレスTVのときはすれ違い、ライブドアPJのときは、研修と市民記者の懇親会で…。
そういえば、湯川氏が挨拶をされたダン・ギルモアの来日講演でも挨拶をした記憶がある。

ま、テンガロンハットに赤い服を着た神田氏は歩くランドマークである。
私は無名氏のままだから、彼が私のことを固体識別しているとは限らぬが…。

*

神田氏の言論は、「現行制度の中でインターネットを活用せよ」ということになるかもしれぬ。

一方、スポンタ中村の言論は、「インターネットが登場により、すべての現行制度は再考の余地がある」というものだ。


神田氏と私の意見の乖離はある。
とはいえ、「日本社会がインターネットを十分に活用していない」という問題意識は共有している。



それは、先の日本新聞労働組合連合がイベントのタイトルとした「ネットは新聞に何をつきつけているか」と同じ分脈にある。

ネットは、21世紀の日本社会に何をつきつけているか…。

それに尽きる。

では、ネットが日本社会に何を突きつけているのかといえば、次のようになる。

1. すべての現行組織の意思決定システムはアルゴリズムに過ぎない。


この場合のアルゴリズムとは、やり方の組み合わせという意味ではない。
思考回路という意味でもない。

全数検査・全数確認をせずに、すませてしまうこと。

アルゴリズムに合理性はあるものの、それが民主主義をカタるならば、妥当性を欠く。


2. 民主主義は「量の時代」から「質の時代」に変化する。


インターネットの登場により、365日24時間の会議・議論・対話が可能になる。

フランスの社会思想家のジャック・エリュールは、「対話が終わったときに、プロバガンダが始まる」と言ったという。
対話を拒むものはプロパガンダの主でしかない。

対話の条件とは、1.情報共有 2.ステークホルダー(立場・利害)を越えること 3.ルサンチマン(感情・怨念)を越えること。である。…実名では、対話の条件を越えることができぬ。


*

インターネットの登場により、リアル属性に縛られぬ言論活動が実現されている。

巷間、ネット言論は、IPアドレスで縛られているとか、実名によって縛られているなどと喧伝されているが、それは本質ではない。

時事通信の湯川氏も指摘しているように、国民総番号制を敷いている韓国でも、さまざまなネットバッシングが起きていることを見ると、インターネットの本質は、リアル属性を感じずに発言できることである。

では、リアル属性から離れた言論活動が可能になると、どうなるかといえば、民主主義が人の数に殉じるのではなく、合理的な言論に殉じるようになる。ということ。

*

ネットの時代、衆愚はありえぬのである。

もし、そこに衆愚が成立しているならば、システムの不備を表現しているに過ぎない。



つまり、365日24時間の会議・議論・対話が行なわれるならば、その結果はゲームの理論に従う。

そして、そうした永遠の言論の場が、リアル属性に縛られぬ発信者によって営まれるならば、言論は発信者の数ではなく、意見の数になる。

それはどういうことかといえば、リアルな個の中の思考回路(個の思考アルゴリズム)が、コミュニティー・集団の思考回路に移植されることである。

もとより、会議・議論・対話が結論(妥協・合意点・コンセンサス)を見出すならば、情報共有・超ステークホルダー・超ルサンチマンが前提であり、その結果、提出される言論の合理性は高いに違いない。



インターネットの時代が、21世紀の日本に何を突きつけているか。といえば、それは消費者の時代ということである。

日本の政治が選挙で成り立っていることは疑いようがない。
では、選挙が何の影響をもっとも受けるのかといえば、生産者(業界団体・労働団体)の利害である。

だが、生産者と消費者の割合を考えてみれば、ほとんどの業界の場合、生産者は消費者の1%ほどの占有率を持たない。そのような、数々の1%たちの意見が集まって日本という国家・制度ができあがっている…。

そういう民主主義と呼ぶには、あまりに不可思議な制度が実行されていることが、インターネットで明らかになっているのである。

07sponta

消費者は享楽的であり、感情的であり、攻撃的であり、無責任と指摘する人もいるだろう。

だが、そういう人達は、現象の表面しか見ていない。

ネットにおける炎上などにおいても、炎上開始時の数日間は、不用意な発言が多出し盛り上るが、1カ月も経てば、言論は収まるところに収まる。

*

消費者という匿名の個たちは、対話の条件である「情報共有、超ステークホルダー、超ルサンチマン」を満たしているので、「対話する時間」されあれば、有効な結論を紡ぎ出す。

一方の生産者は、なかなか対話の条件を満たすことができぬから、「対話する時間」があろうとなかろうと、有効な言論を提出することはできない…。
生産者たちのトップはエリート集団でもあるから、自分達の後ろめたさを感じている。だから、一切の自己批判はせず、ただただネット言論を批判し続けるのである。

…だが、そのような時代が永遠につづくとも思えない。



一国の首相が永田町や国会ではなく、自民党神奈川県連で決まる。
小泉首相が誕生したような出来事は当然起こりうる。

つまり、権威は権威のまま温存され、実行部隊は他に存在するやり方。
これは、日本歴史の伝統。朝廷と幕府の関係。主君と家老の関係である。

そして、すでに既存のマスコミにとって、2ちゃんねるやネット言論は、重要なリファレンスとなっている。

テレビも新聞も、その権威を残したまま、番組・紙面の内容にネット情報が溢れている。
その割合たるや、少なく見積もっても10%を越えているに違いない。

それが2007年であり、ネットの時代なのだ。

テレビはテレビのオーソライズ力を温存したまま、生き延びる。…のかもしれない。
posted by スポンタ at 07:17| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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