2007年07月09日

何故、小沢一郎氏は、議員辞職を賭けて参議院選挙に臨むのか。…マニュフェストの不毛。

民主党党首の小沢氏が、参議院選挙で敗北したら、党首をやめるだけでなく、国会議員もやめると発言したのは、とても納得のいくことである。

頭脳明晰で、立場(ステークホルダー)も感情(ルサンチマン)もある小沢氏は、私のようにあけすけに物を語らぬが、同じ思いにとらわれていると思う。

議員生活を終えてもかまわない。決意した裏には、現状の冷静な分析と、党首になって感じた絶望がある。

彼が絶望したものは、次の3つである。


1. 二大政党制は日本には似合わない。

2. マニュフェストは、政治を変えてしまった。




すでに、異質性の高いアメリカでは2大政党制は機能するが、同質性の高い日本では機能しないと指摘している。

そして、一神教の西欧では「対立の中から新しいものを生む」弁証法的なやり方が機能するが、多神教の日本では、「対立は摩擦しか呼ばない」とも。

日本では、内省的・自律的・自省的に動機によって、みずからを変化していくことが尊ばれる。
いかなる状況においても、他律的な行為は敗北として批判される。

外圧に押し流される個は、それが合理的な判断であっても、日本では批判の対象でしかない。

外圧につるんだ個も、利己的であると判断され、変化の途上で抹殺される。

*

日本精神の象徴として、切腹がある。

浅薄な西欧思想は、切腹を野蛮な風習・奇怪な行為として蔑むが、日本人にとっては、崇高な行為である。

洋の東西を問わず、自殺はタブーである。

だが、日本では、自律的な死である切腹は、尊敬の対象である。

勿論、お家のために自らの命を絶つのは自律的ではないのかもしれぬ。だが、その行為においての自律性は明確である。

絶望的な状況に陥った武士を、自ら命を絶つことで、その名誉を回復させる。
そのような自律的な個を尊ぶ儀式は、日本ならではのものだろう。

死刑執行官が手を汚すことを嫌うために、切腹の制度があるのではない。
介錯人は死刑執行官ではなく、切腹者の栄誉を讃える存在である。


※映画「SAYURI」をWOWOWで観たが、10分と待たずに鑑賞を諦めた。ハリウッドが作り上げたストーリーは、被差別者としての芸者である。非差別的なコミュニティーの中でのし上がって行くのが、主人公のモチーフかもしれぬ。だが、遊郭は、芸者を被差別者にするような客を許容しない。
遊郭とはプロセミアムアーチ(劇場のフレーム)のない劇場であり、花魁は花形スターである。思うに、遊郭は茶道のように、にじり口を必要とせずに、大門をはいったとたん、観客にメタモルフォーゼ(個の日常との決別)を求める気高い文化である。
主演女優が中国人であったことは、せめてもの慰めであり、そのような加虐者・被虐者の構図を日本人の文化が許容しないことを暗黙のうちに監督・制作者は悟り、日本女優のキャスティングを行なえなかったに違いない。



*

それが「日本人の品格」である。

そのような自律的な精神が、明治以降の西欧的な制度の中で揺らぎ、戦後のアメリカニズムの圧倒的な攻勢の前で絶滅しかけている。
それをこそ嘆くべきである。

私が幼少時代だった昭和30年代には少なからず存在した「明治の男」とは、そんな自律的な人達だった…。



マニュフェストは不毛である。

誰もそれを言わぬのは、マスコミの分脈として仕方がないのかもしれぬ。

だが、ネット者である私は、明確に宣言する。


選挙とは、人間を選ぶのであって、政策を選ぶのではない。

インターネットの時代、コミュニケーションの費用は限りなくゼロに近づいているから、国民投票を行なうこともできる。そのような時代で、選挙を国民投票の代理物とすることに妥当性はない。

マニュフェストの存在により、代議員は「マニュフェストの実現」という義務を負う。
ここにおいて、政治家は自律的な個ではなくなり、マニュフェストの奴隷と化す。

では、マニュフェストとは何かといえば、「ニュースで知ることができる程度の叡智」でしかない。




「マニュフェストがニュースで知ることができる程度の叡智」と、形容したのには次のエピソードがある。

ブログでの発言だったろうか。

「ニュースで知った知識程度で、訴えてもらっては困る」というのがあった。

この発言は、極めて示唆的なものである。

そ、そうなんだよ。

インターネットの時代は、そんな時代なんだ。



司法制度において、第三者は裁判に関与することはできぬ。

それは被害者の家族にとっても同様であり、光市の母子殺害事件では、本村氏が司法制度の不備を訴え続けている。

その一方で、市井人ではありえぬことだが、芸能人が刑事事件を犯した場合などは、「すでに被告人は社会的制裁を受けている」と、情状酌量される。

このような司法制度を否定するような社会的私刑を、裁判官が暗黙のうちに認めていることに私は驚く他ないが、それが現実である。

そして、世に言う炎上などというものも、不穏当な発言に対する社会的制裁でもある。

私は、炎上の対象となったブログを数々見ているが、不穏当な発言でないものを知らぬ。
量刑が妥当かはともかくも、その多くは合理性・妥当性のある私刑である。

*

私は女性小説家のブログで名指しで避難され、炎上めいた状況に陥りつつあったが、徹底的に対話することで、私は炎上の被害者にはならなかった。

今後、リアルな場で当該女性小説家に逢うことがあるかもしれぬ。
その時、私は愛想笑いをするかもしれぬ。だが、ブロガーたち(共同執筆者)を無視したオフ会の不備を指摘したことを自己批判するつもりはない。唯一、謝罪すべきことは、彼女の感情を乱したこと。だが、それとて、彼女の自己責任の範囲のことだろう。

トラックバックの繋がりでしかないところに、コミュニケーションを見出すのは、個の責任。
インターネットは、PUSHメディアではなく、PULLメディアなのである。

*

もちろん、ネット上の私刑を擁護・擁護するつもりはない。

私の立場は、裁判官が無責任に発する「被告人は社会的制裁をすでに受けており…」と、同じようなものである。

そして、そのような状況において、気づかなければならぬことは、ネット者たちが「ニュースで知る程度のことで判断している」こと。

だが、それが批判できるのだろうか。

それが問題なのだ。

マキャベリズムか衆愚か…。

などという、テーゼの立て方は、インターネットの登場によって、無価値になっている。

インターネットの登場によって、個は微分される。

ならば、個のアルゴリズムの専横であるマキャベリズムも、集団のアルゴリズムの専横である衆愚も、一切の妥当性を持たない。

*

ネットが提示する解決すべき視点とは、「グローバルとローカルの桎梏をいかに埋めるか」につきる。

それは、スペシャリストとグローバリストの間に合理性・妥当性のあるインターフェイスを構築することである。

スペシャリズムとはアカデミズムであり、グローバリズムとはニュースである。

そして、ジャーナリストとはスペシャリストでありながら、グローバリズムをていきょうするインターフェイスである。




司法者たちは、ニュースで知る程度のことで判断を左右されぬ。そこにおいて、司法制度の存在意義がある。

だが、ニュースによる世論の影響も受ける。
それが、本村氏関連が痛烈に指摘する事柄である。



問題は、司法制度ばかりではない。

立法制度も、行政も、実は、「ニュースで知る程度のこと」で動いている・動かされている。のだ。

マニュフェストはそういう民主主義の実体を加速させるもの。
マニュフェストはアカデミズムではなく、グローバリズムによって書かれている。

そして、政治家は本来、ジャーナリストと同じように、アカデミズムとグローバリズムのインターフェイスでなければならなかった。



「ニュースで知る程度のこと」とは、一切の専門知識を必要としないレベルの叡智。ということ。

具体的にいえば、高等学校卒業程度の叡智ということになる。

*

私は、毎日新聞OBの歌川先生から、「君は難しい用語を使いすぎる」と重ねて指摘された。

毎日新聞の編集局長をつとめた先生だから、私が使う用語が理解できないと不平を言っているのではない。先生は、難解な用語は私の国語力の欠如から来るものであって、それらの存在は読者の理解を妨げる。ならば、もっと平易な単語・言い方を用いるべきである。との主旨だろう。

時事通信社の湯川氏も、私の言論を難しいと不平を言い。自ら翻訳者を演じてくれている。
湯川氏も、私の言説が理解していないのではない。私の言論を理解しつつも、その社会的な影響力の低さを嘆いてくれている…。

*

ニュースとは、そのように、高校卒業程度の知識・叡智によって営まれている。

だが、21世紀の日本は、高校卒業程度の知識・叡智で世の中が運営できるような現実ではない。
アカデミズムなSNS的世界によって成立するモジュール(最小単位)によって成り立っている。

そして、そのモジュールの中身は、外からはブラックボックスであってかまわない。
逆に、モジュールの中身を外から知る必要がでてきたとき、そのモジュールは機能していない。故障している。そういうことだ。

*

マニュフェストは、市井人の理解を求めるものだから、「ニュースで知る程度の知識」で綴られているのである。

だから、クローバリストの自己都合による勝手な解釈で成立するのが、マニュフェストである。

その不備を埋めるのが、実行者である行政官であり・政策実行者である自律的な政治家の存在である。

政治家はアカデミズムの徒でありながらも、グローバリズムとの間のインターフェイスの役割もなす。

だが、マニュフェストの存在は、政治家のアカデミックな部分。自律的な政治家の活動を、現実との妥協と断罪する…。



インターネットの時代。
コミュニケーションにかかるコストは、国家予算に比する経費は殆どゼロ。
ならば、国民投票も、直接民主主義も可能である。

そのような状況において、選挙は、政治家を選ぶという本質に近づかなければならない。

比例代表制などという奇怪な制度もあるが、それとて、政治集団を選ぶということであって、マニュフェストを選ぶということではない。

そもそも、中東派兵の問題や北朝鮮への対応にしても、「賛成・反対」の2文字で決することなどできぬ。

さらに言えば、選挙というひとつの時点の限られた情報での有権者の結論が、その後の情勢・その後に付加された情報に対応している可能性など低いのだから…。



かつて右よりの政治家が、第二党党首となることで、左寄りの言論を強いられている…。
第二党の党首となった小沢一郎氏は、形式的にはかろうじて成立した日本の二大政党制の出口のなさを痛切に感じているに違いない。

日本の二大政党制の不備を解決するための打開策は、政権奪回しかない。

ならば、小沢氏が不退転の決意をすることも納得するのである。

小沢一郎氏は、国会を政権奪回のためのツールにしている昨今の自らの党の状況を反省し、自らの政治生命をかけることで償おうとしたのである。




サッカーでは、オシム監督が、ブラジルスタイルではない、ヨーロッパスタイルでもない、俊敏さと運動量を生かした日本式サッカーを構築しようとしている。

ラグビーでは、カーワン監督が、ジャパンラグビーを目指すと言っている。

我々日本人にとって日本は夢の国ではないが、かつても、そして、いまも日本は世界にとって夢の国・ジパングなのである。

*

世界中から愛でられている漫画・アニメーション文化を見ればいい。

諸外国から様々な漫画・アニメーションが入ってこようとも、日本的なアニメーションは揺ぎ無い。たしした影響は受けぬ。

かように、我ら日本人のアイデンティティーは強固であり、一朝一夕にすげ替えることなどできぬのである。

07sponta
posted by sponta at 09:14| 東京 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | ネットウォッチ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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