2019年12月08日

戦後の日本の音楽観を概観する。

私が高校生だったのは、1974年からの3年間である。

この時、吹奏楽顧問の松本成二先生が、

・音楽はすべて1拍子。

と言ったのを印象深く覚えている。

少し前になるが、小澤征爾氏と同じ国際指揮者コンクールで優勝した山田和樹氏も、「メトロノームに合わせたのは、音楽ではない」と民放放送唯一のクラッシック音楽の番組で発言していた。つまりは、音楽を芸術にするのは「テンポルバート(自由にテンポを動かすこと)」。

これは、松本先生の「音楽はすべて一拍子」に同じ。

松本先生は現代国語の高校教師でありながら、「国際コンクールで優勝を勝ち取る指揮者」と同じ音楽理論にたどり着いていた。
だが、西洋人たちの「継続性の高い感覚」については思いも寄らなかったよう。


「人間は皆同じ」と考える人は多いが、実際は異なる。

フランス料理は、一品一品、順番に出される。

その理由は、フランス人の味覚は「残存する」ので、「一緒に食べる」と味が混じって「不味い」から。

「魚料理には、白ワイン」「肉料理には、赤ワイン」というのは、フランス人の味覚が「残存性が高い」からである。


味が混じるフランス人にとって「幕の内弁当」はありえない。

カレーライスでは、福神漬けが「箸休め」となるが、フランス人にはありえない。フランス人には「福神漬けをカレーに混ぜて食べる」ような味がしているに違いない。


音楽においても、
「聴感覚」の残存性が高いと思われる。

つまりは、西洋人において、「拍の概念」の残存性は高いが、日本人は「必ずしも、そうではない」。

結果、「テンポルバートの全面肯定」となる。

そして、「残存したテンポ」を元に、それらから微妙にタイミングをずらすことで「グルーヴ」を成立させる。


さて、コンクールも近づいた頃、中学の吹奏楽部で「チューバがいない」のはダメと言ったものの、その理由を松本先生は言わなかった。
研究熱心な松本先生のことだから、音響理論において、音程は「最低音によって規定される」ことや、「(最低音以外の)正数倍音の豊富さ」が、豊かな音色につながることは知っていただろう。

だが、「和声感覚」の継続性については、自覚していなかったに違いない。

つか、カラヤンの弟子として知られる日本人指揮者は「和音が好き」とラジオ番組で発言していた。だが、彼は、「和音と和声の違い」に頓着しない。

・和音とは、その時鳴っている複数の音。

であり、

・和声とは、その変化。

つまり、G7→C のような和音の解決をイメージしない。

カラヤンは日本公演に際して、コンサート会場の普門館に反響板を要求した。西洋人は、「感覚的に音響が残存する」が、「音響的にも残存させたい」。

つまりは、カラヤンは「和声的な感覚」大切にしたのである。


さて、深夜のFMラジオで、「昭和の歌謡曲」を聞くことがある。先日は、島倉千代子のヒット集。

編曲では、アルペジオなど和音的な伴奏は若干あるが、ベース音はない。あるのは「チョイナ・チョイナ」というような「合いの手」の類。

つまりは、日本の昭和歌謡には、「拍子感覚」も「和声感覚」もない。

そのような日本の音楽環境に接しているなら、松本先生が気づかなかったことも無理からぬことと指摘し、松本先生を弁護したい。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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