2019年11月13日

牛田智大君が、浜松国際ピアノコンクールで優勝できなかった理由。

 
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【要旨】

「浜松国際コンクール」。

優勝者のピアノコンチェルトは、ソリストとオーケストラの間に「対話」があった。

だが、2位の牛田君の演奏は、ソリストとオーケストラは「アンサンブル」していた。

NHKの制作者は、音楽の奥義を知らないので、「ありがちなナレーション」で番組を構成した。結果、視聴者は「コンクールで何が競われていたか」が分からない。

審査員たちは、「主観批評」を誇るが、それを「自分以外の誰かに理解させる努力」を怠っている。
結果、若い人たちが「世界的なピアニストになる」ためには、審査員クラスの音楽家に師事することしかない。そのことは、審査員たちの社会的な存在価値を上げるが、このコンクールの究極の目的「世界的なピアニストを輩出する」ことに繋がらない。

いまだ日本人優勝者を出していないこのコンクールの主催者たちは、「この問題を解決すべき」である。


タイム感のなかった故・中村紘子を恩師と仰ぐ限り、牛田君の将来は見えている。美少女ピアニストが世界的なピアニストとして活躍できた時代はすでに遠い。

「クロノス時間とカイロス時間」を独立してコントロールすることが、「世界的なピアニストになるための条件」だと牛田君に伝えたいが、無名の私にはコミュニケーションルートがないので、残念である。

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NHK−BSで再放送をしていたので、「蜜蜂と遠雷」と題されたドキュメント番組を観た。観るのは、今回で3度目だと思う。


「蜜蜂と遠雷」は、このコンクールを題材にした小説。
それなりにヒットした小説ということだが、アマゾンの読者評を読むと「芳しくない」。

元日本代表監督(ヘッドコーチ)で、今回のW杯でイングランド代表監督をつとめたエディー・ジョーンズは、元日本代表の山口良治氏をモデルにした学園ドラマ「スクール・ウォーズ」を観て、「あの先生はラグビーを教えない」と文句を言った。

モデルにされたのは京都の伏見工業高校。ミスターラグビー平尾、ロック大八木、スクラムハーフ田中の母校だ。

エディーのように、ラグビーに期待して「スクールウォーズ」を観るとガッカリする。

同様に、音楽やピアノを期待して「蜜蜂と遠雷」を読むとガッカリするのだろう。


NHKのドキュメンタリー番組も同様。

出場者たちは、無難なコメントに終始し、本当の心内を明かさない。

そして、「ありきたり」なナレーションによる解説。それは、このイベントで、「何が争われた」のかを隠蔽する。

牛田君のファンの少女の「音が美しい」との感想が紹介される。それは否定しないにしても、それはプロフェッショナルなピアニストなら当然のこと。


ナレーションは、

・小さなミスが命取りになる。

と。

だが、このコンクールの設立意図は、「世界的に活躍する新人ピアニストを発掘すること」。

ならば、問われるのは、

・音楽家としてのスケール。

であり、小さなミス(=ミスタッチ)ではない。


間違っているナレーションがもう一つ。
それは優勝したトルコ人の青年の演奏の優勝理由を

・オーケストラとの「一体感」が評価された。

と形容したこと。

実際は、その逆で、

・オーケストラとソリストの対話が成立していたから。

オーケストラとソリストが「一体」になると、ソリストは埋没する。そんな演奏が評価されるはずはない。
「一体」という単語の持つ「好ましい語感」が視聴者を騙している。

明らかに間違っている「ありがちなナレーション」の結果、凡庸な視聴者は、何故、牛田少年が準優勝になり、トルコの青年が優勝したのが分からない。


バイオリニストの千住真理子嬢は、「オーケストラの弦楽合奏の音」の中に埋没しないように、自分のピッチを「わずかに下げる」という。

音程に細工できないピアノでできることは、「音だしのタイミングをわずかにずらすこと」。それは、「ピアノとオーケストラ」の対話であり、「グルーヴ」である。


審査委員長嬢が「徹子の部屋」にゲスト出演していたのを覚えているが、彼女は「審査基準」を明かさず、審査員(の主観批評)によって優勝者が決定する。そこには話し合いは一切ない(談合・政治的な判断はない)と胸を張る。

「主観批評であること」に胸をはる審査委員長嬢は、古めかしいモダニスト。これでは、若い人たちは「どうすればいいのか?」が分からない。
結論、「いい先生にレッスンを受ける」ことしか世界的な演奏家になる道はない。審査委員長嬢は「自己利益を守った発言」に終始する。


総括すると、

優勝したジャン・チャクムル君のリストの協奏曲1番の演奏は、

・オーケストラと「対話(コール&レスポンス)」していた。

だが、

2位になった牛田智大君のラフマニノフの協奏曲第2番の演奏は、

・オーケストラと「アンサンブル(一体化といえば聞こえがいいが・・・)」していた。


「ピアノとオーケストラの掛け合い」だから分かりにくいが、
演劇の言葉でいえば「段取りセリフ」。
ひとつのセリフを二人で続けて読むような「割りセリフ」の類。


番組のラストで牛田君は、
今回の経験で「どういう音楽家になっていきたいか」を学べたと発言している。

だが、本当に彼は「学べた」のか、私には疑問。
何故なら、彼が恩師と仰ぐ中村紘子こそ「(タイム感を欠落した)昭和のピアニスト」に過ぎぬから。

因みに、N響にボイコットされた小澤征爾氏の師匠・斉藤秀雄氏もN響から拒絶された過去を持っている。その理由はタイム感の欠如。
小澤征爾をN響がボイコットした理由は、新人指揮者への嫉妬や朝寝坊ではない。小沢氏が師匠・斉藤氏と同様にタイム感が欠落していたから。

私の高校の吹奏楽部の椎野先輩は、一浪して東京芸大に入学すると「テンポキープの練習なので驚いた」と松本先生に報告している。私は、高校一年の妙義山・菱屋旅館での合宿を忘れていない。

東京芸術大学のピアノ科には「タイム感が重要である」との暗黙知が存在する。だが、桐朋学園の音楽教室では「タイム感」は置き去りにされている。


西洋人にとっても「タイム感」が暗黙知になっている。

自由な演奏を尊ぶフランスでは「タイム感」が希薄。ローザンヌ国際指揮者コンクールで小沢氏が優勝できたのも、そのせいである。

佐渡裕氏を見いだしたレナード・バーンスタインにも、タイム感は希薄。
バーンスタイン作曲の「ウェストサイドストーリー」がジャズ的なクラシックであり、クラッシック的なジャズでないのは、「タイム感が欠如している」から。

ベルリンフィルに客演した佐渡氏は、再演を希望しているが、望みは叶っていない。ならば、ベルリンフィルは、「タイム感が重要」とみているに違いない。


「君は歌っていない時もグルーヴしているね」と娘を絶賛した片岡雄三先生(父君がニューハードのトロンボーン奏者で、彼も高校時代にニューハードでデビューしたトロンボーン奏者)は、

・ビートをバックバンドに預けると、グルーヴできない。

と、ビッグバンドのソリストたちを指導している。

片岡先生の師匠でもある日野御大は、グルーヴする数少ない日本のジャズプレイヤーだが、バックバンドのビートが安定する迄、決して演奏に参加しない。

タイムがあるからこそのグルーヴ(スウィング)なのだ。


私が思うところ、それはクラッシックの協奏曲も同じ。

牛田君が目指すべきは、

・オーケストラとピアニストの左手をシンクロ(同期)させる。一方、旋律を弾く右手は、独立させる。

つまりは、

・左手は堅調なパルス(拍)を維持し、右手は(左手と独立して)自由に演奏できなければならぬ。

クラッシック音楽でも、グルーヴしなければダメ。


伝説のピアニスト・グレン・グールドの演奏の特徴は、一人で演奏しているのに、連弾のように聴こえること。

つまり、彼には、感覚の底に「メトロノーム(タイム感)」があり、それと独立して、「右手のグルーヴ」と「左手のグルーヴ」を独立して操ることが出来た。

これが出来ていると私が確認しているのは、

・スヴャストラフ・リヒテル

・ヴァレンティーナ・リシッツァ

そして、

ヴァイオリンの五島龍君である。

勿論、
・日野皓正

・片岡雄三

両氏など、

ポピュラー界、特に、ギタリストはストロークを刻むので、タイム感のある演奏家は少なくない。

つか、ギタリストの必達事項である。


私は、彼がショタコン(美少年愛好者の対象)でマスコミに登場した時、ウェブで「タイム感の重要性」を指摘しているが、彼に届かなかった。

今回も、彼にポストできないかと思い、検索をかけ探してみたが、見当たらない。


「商業的な活動をしている人」の演奏の欠点を指摘しているのだから、無視されて当然。

彼がタイム感を獲得すれば、浜松はおろか、世界的に活躍することも可能なのに、残念である。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☁| Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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