2019年09月21日

倉本聰氏のアンチドラマ。

シナリオ界の大御所が、「ドラマを分かっていない」から困ってしまう。


小津安二郎監督の最期の言葉は「映画はアクシデントではない。ドラマだ」である。

放送大学・美学芸術学の青山昌文教授は、第三者が記録した「叙事的」な作品、当事者として演じられる演劇「叙事詩的」なるものを対照として指摘している。


二つの至言を知ってしまえば、

倉本氏が、「昭和15年以降の山梨県の寒村を描いた」ことは、アンチドラマ。「(シナリオライターが創造した)架空の歴史」であって「ドラマ」とはいえぬ。


徴兵令がやってきて、兄は絶望し、自殺する。

兄の死後、兄の恋人が妊娠していることを知った主人公は、赤子の父親になることを申し出て、受け入れられる。主人公は兄の恋人を心密かに愛していたのである。

そして、主人公にも赤紙がくるが、勤労奉仕の作業中に「わざと」大けがをして、徴兵を回避する。



倉本シナリオは、「戦時下で、市民たちに何がおこっていたか」が第一に表現すべきことと考えている。

「戦時下の市民が、いかに生きたか」「いかなる思いで過ごしていたか」は第二である。

否、「お国の為に戦うこと」を許容しないキャラクターしか登場しない。「お国の為に〈すすんで〉戦う」登場人物がいないことは、もはや〈ファンタジー〉といえる。

「市民には抗いようもない時代の波」を描くことで、「市民を正当化」し、反戦・非戦を訴える。


芸術作品は「現実の〈未完成の部分を補った〉模倣・再現」というのが「古代ギリシヤ」のミメーシス理論だが、「非戦の市民」しか登場しない「安らぎの刻」は、左翼者が考えた「現実の未完成な部分」を補ったとしか言いようがない。

そのようなファンタジーな手法で、「わが国の歴史的な過去」が描かれるのは、「韓国の反日教育」と鏡の裏表の関係のようなものといえる。
虚構性こそがドラマの本質だが、「真実を訴えるために、事実をねつ造する」という芸術家の基本的な姿勢がない。


彼がやっていることは、「自説を主張するために、事実をねつ造している」に過ぎぬ。

市民は(単なる)「戦争の被害者」のではない。市民は「被害者」であると同時に「加害者」でもある。それが戦争の現実。

倉本氏は、空虚な左翼者と言わざるを得ない。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | ドラマ・映画・演技 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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