2019年07月20日

久米宏さんのラジオに投稿した。


先日のNHK「あさいち」へのご出演を楽しく拝見しました。

NHKは国営放送をやめて、民間放送になるべきとの久米さんの意見に、

NHKの女子アナの近江友里恵さんが「NHKは国営放送ではなく、公共放送」と主張しながら、タジタジになるところ。おもしろかったです。

そして、刑事コロンボが一番大切なことを最後に付け加えるがごとく、「ザ・ベストテンで林檎殺人事件をナンバーワンと紹介した同 じ時期に、北朝鮮による拉致事件が実行されていたこと」が慚愧に耐えないとのこと。

私はブログ活動を続けてきましたが、パソコン通信でオウム真理教が問題を起こした時、きちんと対応していれば、サリン事件は起きなかったのではないかと後悔しています。

今後とも、ラジオ&テレビでのご活躍を期待しています。

スポンタ中村


さて、TBSラジオ「ラジオなんですけど」への投稿は上記。

番組で紹介されるために柔らかに表現した。

だが、久米宏さんには、次のように公開メールしたい。


ご活躍をいつも楽しく拝見しています。

「ぴったしカンカン」、その後の「ザ・ベストテン」でのエンターテインメントな才能の開花。さらに、「ニュース・ステーション」でのジャーナリスティックな活動。
いつも、仰ぎ見ておりました。

先日のNHK「あさいち」のご出演で、「今後のメディアについて」と問われ、「NHKは民間放送になるべき。予算と人事を政府に握られていたのでは、報道の自由はありえない。先進国の中で日本は異常である」と答えていらっしゃいました。

その発言は、「ジャーナリズムは、国家権力の見張り番でなけれはならぬ」という左翼的な立場を表明しています。

私は、「サイバージャーナリズム論」という共著本において、毎日新聞の編集主幹の方と何度かお話をさせていただきましたが、ジャーナリストとしての自らを「権力のゲートキーパー(番人)」と誇っていらっしゃいました。

ジャーナリストが「権力の見張り番」だとしても、その「雇い主・主人」は誰なんでしょうか? 
結局のところ、「雇い主は存在せず、自らのイデオロギーが主人」ということではないのでしょうか。

テレビが誕生した頃、カナダの思想家マクルーハンは、「メディアはメッセージである」と発言しました。それを、日本の評論家・竹村健一氏は「メディアには価値がある」と曲解し、テレビ界に重宝されました。

しかし、マクルーハンが暗示したのは、「コンテンツが伝えるメッセージではなく、メディアこそメッセージ」という意味。

比喩的に表現するなら、「先輩たちから、体育館の裏に呼ばれる(メッセージ)」ことが、すでにメッセージである。
体育館の裏で行われること、「殴られる・説教を食らう」(コンテンツ)は、分かり切っている。

テレビに話を戻すと、

視聴者を「娯楽番組や音楽番組、ドラマなどで楽しませる」にしても、
「この世界を操りたい人たち」が「世相誘導」や「思想洗脳」を行うためにテレビを作ったことに変わりがない。

ということ。

戦後の日本を「親米」にしたのは、テレビで放映された「アメリカのドラマ」の影響が強い。私の父は、私が「わんぱくフリッパー」を観ていると、「アメリカンヒューマニズムか」と、吐き捨てるようにつぶやいていました。
占領下に「仇討ち・復讐もの」である「忠臣蔵」の上演は禁止されました。講和条約が結ばれた後、禁止は解かれましたが、「アメリカ的な思想」を喧伝するドラマが大量に放映された。私が小学生の頃は、「好戦的である」として、テレビドラマ「コンバット」がPTAで批判されましたが、現在は、「すでに洗脳されている」ので、批判は起きません。

戦後の日本を、「日本政府が主導している」と考えるのは、単純化が過ぎます。占領軍が去り、日本が独立国家となっても、「アメリカ(軍事力・外資)の支配下」になっていることを、私たちは否定できません。

個人商店は壊滅的な打撃を受け、コンビニが全国に溢れている。ユニクロは「(中国の)人民服」のようなもの。農業は、(企業が参入することは禁止され)農協の存在によって「農民が守られている」が、それ以外の分野では「外資・外国勢」の侵攻・侵略を免れない。それが、全国にシャッター通り商店街が多発している理由です。

そのような現状認識であったなら、放送人は「どのように振る舞う」べきだろう。

民主主義で選ばれた「多数決の結果」である政府や政党を、全否定することは、野蛮であるとともに、論理矛盾。

民主主義の観点からいえば、「権力者vs.庶民」という構図で、上位者を非難してかかるのは、どういうものか。

久米さんがニュースステーションをやっている時期、テレビ朝日の六本木センターの駐車場に緑色のジャガーが駐車していて、「あれ、久米さんの車」と誰かが噂したのを覚えている。当時、久米さんは「私たち庶民は・・・」と、番組で連呼していたような。

久米さんは尊敬&羨望の対象であって、「お互いに庶民どうしだなぁ〜」と肩を組み合うような間柄ではない。
いつも「遠くから仰ぎ見ている」。


くだんのNHKの女子アナウンサーは、「ブラタモリ」の二代目のアシスタントだったと記憶する。初代は、夜のニュースワイドを担当しているから、彼女はNHKの看板アナウンサーということだろう。

「アドバイスをください」との彼女の問いかけに、久米さんは、

・アナウンサーである前に、「人として真っ当であること」。

と説いた。

ま、それはそう。なんだけど、「人として真っ当であること」と、「放送界でサバイバルすること」が、必ずしも直結しない。

「卑怯 or 悪行」でも、それを「さらりとやり過ごす」。そんなことも必要であると明言しないのは、久米さんが卑怯なところだともいえる。

たとえば、「スポンサー能力のある企業の情報」がニュース番組で取り上げる場合、「取材協力費」が放送局に対して支払われている場合がある。または、放送局の営業部門と兼ね合いもある。

つまりは、報道のふりをした広報宣伝という場合も少なからず発生するが、「(不誠実だとしても)その不正を暴いてはいけない」のである。


巧みな言語力で、「泳いできた」「サバイバルしてきた」久米さんは素晴らしい。

ただ一つ残念なのは、「(モダニズムの)イデオロギー幻想」に囚われていることだけ。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☀| Comment(0) | 公開メール | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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