2019年05月29日

川崎登戸19人殺傷事件に思う。(社会的な取り組み)



総合すると、容疑者は、「中学を卒業した後、家出し、謎の30年を過ごした後、最近になって、高齢の伯父夫婦の家に戻ってきた」とか。
奇行・粗暴な行動は子供の頃からで、中学の同級生は「(彼の今回の行動を)不思議だと思わない」と証言する。

・つまり、彼の行動は「一貫」していた。

ならば、彼の周囲は、

ひいては、「私たちの社会は、なぜ、抑止できなかったか」がテーマになってよい。


テレビのワイドショーには、危機管理の専門家の顔をして、女性コメンターが「近所の人たちが、こどもたちにもっと関心を持っていれば、防げたかもしれない」と、訳の分からぬことを言う。

『「刃物を持った犯人」と「こどもたち」の間に存在する』という偶然がなければ、「事故を防ぐこと」などできぬ。

「亡くなられた外務省職員氏」は、その状況にあったのだろうが、刺殺されている。

自らが、そのような状況に巻き込まれた時、何ができるか?

「自分の子」が横にいるなら、咄嗟に「犯人に抵抗する」ことができるだろう。だが、「自分の子」でない「他人の子」しかいない場合、咄嗟に「刺身包丁を持った犯人」に向かっていく動作ができるだろうか・・・。

棍棒など「刺身包丁に対抗できる武器」を、まず探すだろう。だが、探している間に、「犯行は実行されていく」なら、私の行動は「逃げていること」に等しい。

冬場であれば、上着を緩衝材にして「包丁を持った犯人」に対処することもできるが、この季節では無理だ。

護身術などを身に着けても、丸腰の相手ならまだしも、包丁を持った犯人には無為だろう。


そのような考察をした結果は、せめてAED(心臓蘇生装置)の使い方を、もう一度、おさらいしておく。

そんなことしか、できぬ。


「対処療法的に、自分は何もできぬ」と、自らを諦観するなら、

「長期療法的に、何かをすべき」。

このような、「家庭から放逐され、社会からも拒絶された人たち」を、「如何に遇する」か。

そのことを真剣に考えるべきである。


だか、世の中の現実は、「家庭教育」から、「体罰を取り上げる」法案を成立させるとか。

それが、「臭いものには蓋」な、「現実とは乖離した、理想主義」でしかないことを、誰も否定しない。

もし、「自分の子供が、将来、凶行を起こすかもしれぬ性向がある」なら、「体罰であるか・ないか」など考慮せず、子供に向かい、矯正すべきである。

国は、「体罰は禁止したから、国(立法府)に責任はありません」と宣言しているだけ。

根本的な問題は、解決しないばかりか、複雑にするだけ・・・。


この立法により「こどもにしつけのできない親」が増えるし、「体罰を含みながらも、こどもたちを愛してきた指導者たち」を壊滅させる。

立法にかかわった人たちは、「鉄拳制裁しつつも、選手たちを愛した」故・星野監督を全否定できるのだろうか・・・。


1億3千万人いるのだから、19人が死傷しても、「最大人数の最大幸福」は守られているのかもしれぬ。


spontaが感傷的になっているだけかもしれぬ。

だが、事件の背景となったファミリーマートは、多摩川の橋からつづく陸橋の上から日常的に眺めていた風景。けっして他人事ではない。



少し経って、騒がしくなくなったら、明け方にでも行って、般若心経を唱え、清め塩などしたいと思う。

そんなことしか出来ぬ。




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