2019年05月30日

縄文と弥生は時代区分ではない。



縄文文化の研究家は、皇国史観の登場と同時期に、縄文文化が立ち上がったという。

つまりは、明治維新によって抹殺された「日本人の誇り」が、

・皇国史観(万世一系の天皇家が統治する日本は、世界史上、唯一無二である)

・縄文文化(という世界史上、存在しない時代区分)

によって、回復されたのである。


奈良期、中国伝来の文化が時代を横溢した後、国風文化の時代が訪れる。
漢文の時代につづいて、ひらがなによる文化が注目された。

同様に、西洋文化に蹂躙された明治維新の時代からの転換点として、日本の歴史に「縄文時代」が登場した。

ならば、「国外勢力への対抗意識」「国威昂揚」のために、「縄文時代」がねつ造されたとの憶測も否定できない。


CS番組で、邪馬台国はどこか? 畿内説論者 or 九州説論者を討論させるものだったが、番組の結論は、

・九州の邪馬台国

と、

・奈良県の纏向マキムク遺跡

は両立する。

卑弥呼は個人名ではない。一人とは限らぬ。「巫女的な才能を持ち、地域の人たちに奉られた女性」の一般名称かもしれぬ。

さらにいえば、

日本の広域統治国家が「邪馬台国のひとつだけ」というのが「ありえない設定」である。

として、番組はまとめられていた。


縄文時代と弥生時代も同様である。

つか、モダニズムの進化論的世界観において、

「狩猟・採集・漁労生活の縄文人」の時代の後に、「水田耕作の弥生人」の時代がやってきた。
というのは、マルクス的な唯物的な進化論であり、

レヴィ・ストロース的な文化相対主義に従えば、

「自然との調和」を目指す縄文人と、「自然を支配すること」を目指す弥生人が、日本列島に混在する時代が長く続く。

当時の「人口の少なさ」なら、縄文人と弥生人は「出会わずにも、暮らせた」に違いない。


「人間の欲望は果てしない」から、「自然を支配すること」は、「(家族・一族ではない)他者を支配すること」に通じる。

否、「(家族・一族ではない)他者を支配したい」という欲望が、「自然を支配する欲望」に発展したのかもしれぬ。


現代のアメリカやオーストラリアには、縄文系(自給自足系)ともいえるアボリジニやアメリカ原住民が生活している。

一方、

日本では、明治維新の反動として、縄文文化に価値を求められる。

仄聞では、アメリカ人は「ルーツ」を調べるのが密かに流行していて、自分の祖先に「アメリカ原住民」がいることは、「誇らしいこと」なのだという。初期移民を意味する「メイフラワー号」の乗客名簿に先祖がいるのが誇らしいなら理解できる。

だが、「西部劇の悪役」だったアメリカ原住民の血が混じっていることを「誇らしく感じる」とは、意味不明である。

彼らの中にも、弥生的な「他者を根絶やし」にするのでなく、「他者との共生を尊ぶ」アメリカ原住民の生き方に対するリスペクトが存在するのかもしれない。

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