2019年05月29日

明確な「定義」が不可欠。歌舞伎&落語のサバイバルとジャズの低迷。


・「芸術とは何か」を追求することが、芸術家の営みである。


と、教養番組での指摘があった。


少年時代のspontaも、青年時代のspontaも、そのようなことが「芸術の本質」であると理解していた。


だが、30代も過ぎた頃、


・この世界の本質を表現することが、芸術の目的である。


と結論する。


そう結論・達観してしまえば、「芸術論」はひとつ先に進む。




そもそも、「語句の定義」をせぬまま、「議論を進める」ことは無為である。




たとえばジャズ。


中川ヨウ嬢は、「一時期のニューオリンズを起源にした音楽」とジャズを定義する。


だが、こんなバカな定義はない。何故なら、「ニューオリンズジャズ」と地続きであるかどうかが、常に「ジャズかどうか」の吟味ポイントだなんて。


シャープス&フラッツのバンドマスターの原信夫氏は、浅草ジャズコンテストの審査委員長として、

・「ジャズは挑戦です」と発言。

ジャズを定義した。彼の言葉は「ロックは抵抗・反逆」に呼応する。

審査委員長として、新人たちの演奏を吟味するとき、「新しいことに挑戦しているか」どうかが評価基準であると、公表している。

原氏は、「新しい」といっても、「独りよがり」ではダメと付け加えている。「人間的な深さ」が求められると・・・。


spontaのジャズの定義は、もっと具体的で、明確。


ジャズとは、


・協演者&観客との、「テンポ・和声・メロディーの共有」を基盤に、「自由に」演奏すること。


である。


ジャズの定義が明確になれば、新人たちが、どんな演奏を目指せばいいかも簡単だ。




だが、今は「ジャズの定義」が明確でないため、「良質でないジャズ」が流通し、ジャズは衰退している。


中川ヨウ嬢の師匠は、油井庄一氏だというが、彼の世代が「定義をないがしろ」にしてきたことの弊害が起きている。




歌舞伎界では、歌舞伎の定義・本質を「傾(かぶ)くこと」。つまりは、「変質させること」であって、「歌舞伎の伝統を守ること」ではないと役者たちが口々に言う。

演目のうちには、「俳優個人の私感・私生活に関する発言」を俳優がすることもある。この手法は、「地の芝居の間に、観客への語り掛けを混ぜる」という、サミュエル・ベケットの「三文芝居」的な技法。


「お客さんを楽しませる」ためには「何でもあり」と、俳優たちが「言い続けること」によって、歌舞伎界は「停滞」を無縁のものとした。




落語界−−−。


かつて名人・名落語家が存在し、芸の精進が求められる世界。

だが、このような俗諺がある。


・落語家に下手も上手もなかりけり、行く先々の水に合わねば。


これなども、「お客様を楽しませること」が落語の本意であることを、落語家たちに忘れさせない。


圓生、志ん朝などの名人系の落語家もいれば、三平などの爆笑系の落語家もいて良い。




しかして、ジャズ・・・。


−−−ん、ん。




追記:

ジャズで「きちんと定義しなければならないこと」は、もう一つあった、それは「グルーヴ」。


・グルーヴとは、拍からの微妙な乖離である。


拍と「音だしのタイミング」が同期しているなら、ノングルーヴ。


拍よりも「音だしのタイミング」が若干早いなら、ノリ。


拍よりも「音だしのタイミング」が遅れているなら、タメである。


この定義がないために、ソリストの作り出したグルーヴを「タイミングの狂い」と感覚して、バックバンドが「グルーヴを消す」という珍現象が起きている。


spontaが確認しているのは、ヤマノビッグバンドジャズコンクールの優勝バンドの慶應義塾・ライトミュージックソサエティー。アマチュアバンドばかりではない。かつてタモリ氏を発掘した山下洋輔グループにも在籍していた中村誠一のコンボバンド・・・。


日本のジャズシーンには、根本的な欠陥がある。

posted by sponta at 00:00| 東京 ☔| Comment(0) | 芸術論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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